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2006年12月12日

樺太記念碑

 小林多喜二の文学碑を見ようと出かけた小樽旭展望台で最初に目にしたものがこの樺太記念碑である。樺太記念碑の上部にある石のレプリカは、大日本帝国の国境に置かれた礎石を模している。当時の日本帝国に対峙したプロレタリア文学を代表する小林多喜二の文学碑の近くに、この帝国国境の礎石の碑があるのを見ると、互いに居心地が悪そうである、と感じるのはよそ者の著者の思い過ごしか。

 緑青で文字が遠目にははっきりしない碑文には、「樺太を偲ぶ」の表題で、望郷の地樺太に寄せる思いが記されていて、碑の建立された年が一九七三年(昭和四十八年)であるのを碑面から知ることができる。碑文に記載されているように、故郷であった樺太から引き上げてから二十年以上が過ぎ、さらに碑が建立されてから三十余年が経過していて、樺太は歴史に呑み込まれた名前になっている。

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 樺太記念碑の国境の礎石は菊の御紋に「日本国」と刻印されている。この礎石の模造品は他のところでも目にしている。札幌の赤レンガ庁舎の北海道庁旧本庁舎二階の樺太関係資料館にも国境礎石のレプリカが、礎石を設置している様子の写真と一緒に展示されている。このレプリカの表面には「大日本帝國」の文字が刻まれていて、旭展望台の記念碑にあるものは「大」と「帝國」の文字が消えている。七十年代では未だ何かを慮ってこれらの文字を消したのかな、と思っている。

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 札幌の円山公園内の開拓神社の隣に、やはりこの樺太の国境の礎石の模造品が置かれてある。写真でははっきりしないけれど、こちらも「大日本帝國」の文字があるのを認めることができる。旭展望台の樺太記念碑の碑文は望郷の思いが綴られているだけで、史実にほとんど触れていないのは、「大日本帝國」を「日本国」にしている事情と符号しているのかと思ったりしている。

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 余談になるけれど、著者は以前「中国パソコンの旅」(エム・アイ・エー、一九八七年)を上梓したことがある。名もない出版社がこの本の表紙裏の挿絵として日本と中国の国土の簡単な地図を載せた。印刷された本のその地図には樺太(現在のサハリン)の中央に国境線が目立つように描かれていたのを見た時には仰天した。幸いというべきか、この本は重版もなく初版で終わり、どこからもクレームは来なかったけれど、何かの時に思い出す自分のなかの歴史の一こまではある。

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