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2006年12月27日

小林多喜二文学碑

 秘境のテーマに小林多喜二を採り上げるのは荷が重い。しかし、小樽を代表する二大作家の一人伊藤整の文学碑を採り上げたからには、もう一人の、二十九歳で拷問を受けて死んだこのプロレタリア作家の文学碑も並べて書いておきたい。

 文学碑は「樺太記念碑」のテーマで触れているように、旭展望台にある。大きな文学碑で、全国からのカンパで、一九六五年に建立されている。写真の文学碑の制作に当たったのは彫刻家本郷新であり、碑の右側上部には多喜二の顔のブロンズ像があり、左側中央に見える人間の頭部のブロンズ像はプロレタリア労働者を模していると言われている。

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 この碑には、豊多摩刑務所に捕らえられていた多喜二の救援活動をしていた村山籌子氏に送った書簡のレリーフが嵌め込まれている。その文面は縦書き改行を/で表して次のようになる。

 冬が近くなると/ぼくはそのなつかし/い国のことを考えて/深い感動に捉えら/れている そこには/運河と倉庫と税関と/桟橋がある そこで/は人は重っ苦しい/空の下を どれも背/をまげて歩いている/ぼくは何処を歩いて/いようが どの人を/も知っている 赤い/断層を処々に見せて/いる階段のように山/にせり上がっている街/を ぼくはどんなに/愛しているか分からな/い

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 多喜二は一九〇三年秋田に生まれ、四歳の時に小樽に移り住み、小樽商業(小樽商業高校)、小樽高商(現・小樽商大)に学び、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務している。一九三〇年上京し、一九三一年には日本共産党に入党している。「蟹工船」や「不在地主」等の代表作を世に出し、一九三三年築地警察署に逮捕され拷問を受けて死亡した。

 多喜二の故郷は小樽であり、創作に影響を与えたのは小樽の港湾労働者である。多喜二は小樽を抜きにしては語れない。多喜二と過去の小樽の関係は、時代を背景にして抜き差しならない重いものである。それが多喜二の文学の芯にある。

 一方、現在の観光都市小樽でも多喜二の名前は出てくる。こちらの多喜二と小樽の街は軽い関係であるとでも表現したい。なにせ、寿司屋の店名が「多喜二」なので。この寿司屋は写真のような年季の入った二階建てで、店先に多喜二の文章が彫られた碑があった。小樽の雪の描写が碑文となっている。

 この碑のある場所は堺町通に面していて良く知られた店のようで、秘境ではない。ただ、秘境は無料で見れる場所の原則を守って、店内には入らなかった。

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