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2006年12月30日

水天宮

 小樽観光の代表の一つであるこの神社を秘境と呼ぶには無理がある。しかし、秘境の匂いのする史跡なんかもあり、秘境に組み込めないかと取材する。

 閉校になった旧堺小学校の玄関を見ながら坂を登り、旧寿原邸の横から水天宮の境内に入る。丁度神社の本殿の横から境内に入ったことになり、正面の階段を登り本殿を見るのは後回しとなった。雪で覆われた境内には人影が無い。本殿の横には稲荷神社があり、赤い鳥居が雪景色に映えている。

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 境内は高台にあるので、ここからの小樽の街や港の眺望は抜群である。境内には小樽市重要眺望地点の案内板がある。市の景観条例により一九九六年に指定されたと記されている。小樽市に住んでいれば、ここからの眺めながら、あの建物は何に、この道路は何通りと同定できるところ、小樽外に居住する著者にはその知識がない。町並みの向こうに小樽港を眺め、小樽は坂と港の町の感想を再確認する。

 境内には「経度天測標と旧樺太日露国境中間標石」の表題の看板がある。看板の説明によると、一八九三年(明治二十六年)旧海軍水路部が水天宮山上での天文測器により設置した石柱が境内に置かれている。

 一九〇五年(明治三十八年)日露戦争の後始末のポーツマス条約で、両国の国境が両国の国境が樺太の北緯五十度に定められた。翌年に国境の画定作業が開始され、経度天測標が海馬島などの付属島しょの正確な経度を測定するための基準点として使われた。

 この石柱は柵の内にあると注釈があったので、入ることができない本殿を囲む柵の内を覗くと確かにそれらしい石柱が認められた。柵の隙間からどうにかこの石柱を写してみた。旧樺太日露国境画定作業の記念として、国境中間標石のレプリカもここに移されて置かれていると書かれているので、写真に写っている石柱の手前の石碑であろう。

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 水天宮の境内の隅に、石川啄木の歌碑がある。この歌碑には
 悲しきは 小樽の町よ 歌うことのなき人人の 聲の荒さよ
の歌が刻まれている。啄木にとって小樽は居辛い町であったようである。でも、小樽の人の心には荒っぽく響くこの歌が、歌碑として建てられるのを見ると、商業都市である一方で、文学的縁を大切にしようとする小樽の人の姿勢が垣間見える。

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