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2018年09月15日

今日(9月15日・その2)の一枚

アナログの 遺影に代わり ディスプレイ

 服部裕之君の葬儀では、写真にプリントされた故人の遺影が無い。代りに遺影はディスプレイに表示されている。IT企業の経営者の片鱗を垣間見る。緑の背景はモエレ山だろう。公園内には服部君により寄贈されたイサム・ノグチの作品がある。

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弔辞

 服部裕之君、と学生時代からの君づけで呼ばさせていただきます。服部君のご逝去は、早すぎるという思いを、拭っても、拭っても拭いきれません。お亡くなりになる前日の午後、お見舞いの病室で、それまで眠っておられて、奥様睦子様のお声で目を見開き、酸素吸入器を外して「ありがとうございます」との言葉を残され、その後は痛み止めの薬で眠りに入られました。その時、ご家族の「後10年続けてもらえたら」とのお言葉は、私の思いと重なります。そしてそれから10時間程の後に息を引き取られたとの伝言に接し、驚きを禁じえません。札幌の、否北海道のIT産業の黎明期の旗手であった服部君が逝かれ、地方で花開き全国に波及したこの分野の一時代が、歴史として確定した事を強く感じています。
 1970年代の中ごろにマイクロコンピュータ、略してマイコンと呼ばれる技術が出現しました。服部君やその仲間たちがいち早くこの新しいコンピュータ技術を取り入れて、新しい応用分野を開拓して行き、大学外で会社ごっこを始めました。これが札幌におけるITベンチャー・ビジネスの事始めになりました。世界的にみてもマイクロソフト社やアップル社が企業を興した時期と重なります。服部君は同期の北大生3名と「ビー・ユー・ジー」社を立ち上げ、札幌のベンチャー・ビジネスのサクセスストリーが、サッポロバレーの言葉と共に語りつがれていきます。
 地元のIT企業を集積したサッポロテクノパークが下野幌に造成され、ここにビー・ユー・ジ―社の社屋を建てたのが服部君達のサクセスストリーの頂点でした。最初は資金や人脈の無い所から出発して、ここまでになったのは、リーダーとしての服部君の力量によるところが大きいと言えます。
 服部君の人脈の作り方の特に優れた例は、世界的彫刻家イサム・ノグチ氏と知り合いとなり、イサム・ノグチ氏を札幌市と引き合わせ、これがモエレ沼公園造成に発展していきます。ビー・ユー・ジ―の社屋にイサム・ノグチ氏制作のつくばいが長い間置かれてありました。この作品は服部君より寄贈され、現在は同公園のガラスのピラミッドの中にあります。
 私は北大在職中に服部君には色々な面でお世話になっています。私の専門がホログラフィー技術で、札幌で行われたコンピュータグラフィックスの国際学会に、この分野での世界的研究者であるMITのベントン教授を札幌まで招待したのも服部君の働きです。
 服部君は海外でのビジネス展開にも積極的で、札幌の姉妹都市の瀋陽市にある大学を、自社の技術で支援したこともあります。インドネシアでのマイコンビジネスの機会を求めての旅行でもご一緒しました。タイ・バンコクや中国大連でビジネスを展開していて、これらの地で、私の妻も含めて、服部君のお世話になりました。成都市のパンダの繁育研究施設にビー・ユー・ジ―の社員を派遣し、そのついでに3600メートルの黄龍まで一緒に登山した思い出もあります。思い出すと次々と当時の場面が脳裏を駆け巡ります。
 ビー・ユー・ジ―社から現在のカスケード社に移られてからも色々アイデアを温められていて、それらの端緒に関わり、大きく発展させる前にお亡くなりになり、さぞ心残りだったと思います。しかし、ご子息の長男浩也君がカスケード勤務、次男哲也君が札幌市水道局勤務で、服部君の夢を違った形で実現していくことになると思います。
 服部君の亡き後に、札幌や北海道のIT産業を少しでも前に前進させるのが、服部君と関係があった我々の仕事であると思っています。この残された者の思いを聞き、服部君、どうか安らかにお眠りください。

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