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2008年06月01日

爪句とは何か―その3

 造語の「爪句(つめく)」が、パソコン(PC)を利用した写真データの整理法の用語“thumbnail”から採られていることを北海道豆本シリーズの1,2で解説している。それらの解説に続けて、爪句のレゾンデートル(raison d'être)としての意味を少し考えてみる。

 デジタルカメラ(デジカメ)時代の到来で、膨大な写真データの整理の問題に直面してみると、テーマ性(仕分けの項目)の設定が大切であることに気がつく。写真が一枚であれば、その写真の整理のためのテーマは考える必要がない。というより、無限のテーマが一枚の写真に凝縮されていて、テーマが定まらない。

 これが複数枚の写真になると、それらに共通のテーマが出てくる。もしテーマを考えないと、森羅万象を膨大な枚数の写真(あるいは動画)で記録したからといって、ガラクタ箱に写真として固定化した無数の状況を投げ入れるだけである。整理という観点からもこの状況では手の施しようがない。

 相対性理論(例えが大袈裟であるけれど)のように、事象の世界線が、時空間の一瞬の記録である写真を貫く状況を考えると、無数のテーマの世界線が一枚の写真を貫いている。それぞれの世界線の方向は一枚の写真からだけなら推測するより他にない。それが複数の写真になると、テーマ性が出てきて、写真データの整理のためのファイル名の爪句に、そのテーマ性を反映させることができる。

 写真例に示すように、狸小路で托鉢僧が立っている。一枚の写真からはこれだけで、そのファイル名としての爪句をつけても、テーマ性の表現は説得力を欠く。もし写真データの整理のため、修行、僧、繁華街、狸小路の一日、天蓋、照明、衣装、etcと世界線(テーマ)を設定して、その枠組みの中での写真が提示されている、ということであれば、一枚の写真は他の写真(あるいは文章)との関わりで生きてくる。そうでなければ、托鉢僧の写真は何ということもないただの情景の写真である。

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天蓋の 下に僧居て 修行の場

 本文の建物のデザインの章に載せた托鉢僧の別の写真と、この解説文に載せた托鉢僧の写真を共通のテーマとして整理するとすれば、爪句「天蓋の 下に僧居て 修行の場」と本文にある写真の爪句「僧娘(むすめ) 天蓋の下 声交わし」は、例えば建物のデザインの「天蓋」というテーマで整理された写真としてもよい。あるいは、爪句の別のカテゴリーとして「修行」といったものを設定してもテーマは生きてくるだろう。

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僧娘(むすめ) 天蓋の下 声交わし

 五・七・五の並びの句なぞいくらでも作れるのに、これは俳句ではないといった漠然とした基準がどこにあるかといえば、テーマ性を感じとれるかどうかにあるのかもしれない。俳句では五・七・五の文字だけの世界であるので、その背後にある、広く創作活動(文芸)であるというテーマ性が、俳句であるかそうでないかを決める基準であるとも言える。

 爪句は本(爪句集)の出版を強く意識した創作活動である。出版のためには編集が必要で、その最初のステップは整理である。爪句は作句した時点で役目が終わるのではなく、本にして写真と爪句が相補って前述のテーマ性が表現できているかどうかで、役目が完遂される。もし、最終的な出版で表現したもの(テーマ性)を読者が感じ取ってくれれば、表現者(写真と爪句の撮影者ならびに作者)として成功しているし、そうでなければ失敗していることになる。ただ、成功か失費かという前に、爪句とは面白い創作作業であるのを著者としては感じている。