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2007年09月08日

島松軟石の名残

 島松はアイヌ語の「シュマ・オ・マップ」が語源といわれ、これは「岩石のあるところ」の意味である。島松は島松軟石といわれる石材が採れたところで、軟石の岩が地表に露出していたといわれている。この軟石の切り出し場の跡を見ることができる。

 現在の国道36号線が島松川を越える辺りは高架橋になっていて、高架橋下の道路に下りて見ると、石切り場の跡を見ることができる。軟石の岩がいかにも橋を支えているような格好になっていて、大きなコンクリート製の橋脚と協力しているようである。かつての建築物の建材の軟石と現代のコンクリートの対比の妙が感じられる。

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 島松の軟石はかなり古くから採石が行われていて、1960年頃まで続いていたとのことである。軟石は火砕流の堆積物が岩となったもので、加工のし易さから良く利用された時代があった。札幌軟石、小樽軟石もよく用いられた。しかし、ブロック建材が現れてコスト競争となると軟石は分が悪く、建材から姿を消している。現在目にする軟石はかつての建築物の名残である。

 そのような名残の一つをこの採石場跡の近くで見ることができる。この高架橋の近くには島松駅逓所の史跡がある。その史跡の裏山に石で出来た門が残されている。この門は島松軟石で出来ている。この門は駅逓所の敷地に入るための門のようで、門の内側には明治天皇行幸在所の石碑があるので、その当時は整備された庭園だったのかも知れない。

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 この明治天皇の行幸は1881年に行われていて、天皇一行は船で小樽に着き、SL義経号で札幌に入っている。札幌からは島松、苫小牧、室蘭を経由して函館に行き、ここから船で帰京している。このとき島松の駅逓所で休息した折に天皇が飲んだ水に因んで「御膳水」の碑が駅逓所の建屋の横にある。

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 この時駅逓所を経営していた中山久蔵は北海道の稲作の祖でもあり、北海道の稲作について天皇に説明しているはずである。その際建材としての島松軟石に話が出たのか出なかったのかについては知る術もない。

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