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2009年01月21日

パソコンと死

 朝起きて仕事(と言えるかどうか)をしようとして、仕事とは別の事に思考が囚われることがある。立ち上げたパソコンは、今は順調に動いているけれど、いずれかは動かなくなるだろう。これは確定的にそうなるだろう。

 今、パソコンを操っている自分も、いずれかは死ぬだろう。これも確定的である。しかし、パソコンはいつ壊れるかはわからない。今動いているので、永久的に動く気もしてくる。自分の方も死ぬとはわかっていても、それがいつかはわからない。今、生きていると、これからも永久に生きていくような錯覚から逃れられない。

 しかし、パソコンが確定的に壊れると言えるのは、過去の経験から学んでいるからである。これまでに何台もパソコンは壊れて(壊して)きた。どんなに性能が良くなっても、作られたものはいずれ壊れる。人が死ぬのも経験から学んでいる。遠い過去から現在まで生き延びてきた人は居ないからである。不老不死の薬もなければ、医学が高度に発達しても、生まれたものはやがては死ぬだろう。

 現時点で不確定で考えても仕方のない事は考えない、という対処方法がある。考えなければその対象は存在しない。パソコンが壊れる事実については目をつぶる。すると、パソコンは壊れることにない物になる。人の死も考えること止めると、人は生き続ける存在となる。これは馬鹿げているように思えるけれど、かなり効果的な対処法である。ボケるというのは、死の恐怖を回避する生理的な対処法という話も聞いたことがある。

 それにしても、こんなに沢山のデーを詰め込んだパソコンが壊れたらどうしよう、と心配が嵩じてパソコンを開くことに不安を感じる今なのである。で、その対処法をふと考えることになる。一つ、前述のその事実について考えない。二つ、と書いていくと切りがないので止める。自分が死ぬと、このパソコンで何かしていることを含め、日常の諸々の行為そのもののに疑問も湧くし、その生の停止の恐ろしさもある。その対処法の一つは、死について考えない。二つ、と考えを進めると、これも際限がなくなりそうである。

 だから、ここまで書いて、この無意味な考察は打ち切ることにする。さて、パソコンで本来しようとしていた事をすることにしよう。いや、もうしているか。

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