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2015年12月14日

HPFhito100・修士修了でも「ドクター国本」と呼ばれるヤマハ(株)主席技師の国本利文氏

 研究室の成果をまとめた論文集に、黄ばみかけた論文別刷りが綴じられている。その中の一編に1983年1月号の電子通信学会論文誌(A)に載った「ARMA群遅延フィルタの統計的設計法」の論文がある。筆頭著者は国本利文君で筆者との共著論文である。論文には同君の所属が日本楽器製造(株)と記載されていて、修士課程の研究が学会誌に論文で掲載されたのは修士修了後であった。
 前記会社は1987年にヤマハ(株)に社名を変更していて、社名は創業者山葉寅楠から採っている。山葉は1889年浜松でオルガン製作の山葉風琴製造所を設立した。そのヤマハ(株)の研究開発統括部戦略担当主席技師国本利文氏の講演会の案内が、講演当日メールで届く。同氏が修士課程修了後30年以上も経っていて、懐かしさも手伝って北海道総合研究プラザで行われた講演を聞きに行く。
 国本氏は1957年札幌で生まれている。札幌旭丘高校卒業後北大に進学、1982年北大工学部電気工学科修士課程を修了している。当時の筆者の研究テーマはホログラム信号処理であったので、それに関わる研究テーマを与えていたはずである。しかし、実際の修士論文の研究成果は前述の論文にあるもので、独自に研究テーマを見つけて成果を出している。
 講演は国本氏の略歴から始まり、ヤマハの音楽教室に通う子ども時代があったそうで、それがヤマハへ就職する伏線であったのをこの講演会で初めて知る。就職担当の教官に当たっていないと、学生の就職先選択の動機など込み入った話を聞く機会はほとんどない。
 講演会資料の講師プロフィールに「在学中に立東社の「だれにもわかるエフェクター自作&操作術」のライターとして業界デビュー」とある。この立東社も初めて聞く会社名で、「Jazz Life」という音楽雑誌を出していて、前記の原稿はこの雑誌への寄稿のようである。音楽よりは、音を作り出す電子機器に興味があったと講演での自己紹介であった。なお、立東社は2001年に倒産している。
 入社後はヤマハの主力製品のシンセサイザーの音源部分の研究開発を手掛けている。講演会でも、時代を追って開発された音源のモデル音をパソコンでデモしていた。楽器の物理モデルに関して入門的な話をしていたけれど、専門外の聴講者には理解が及んだかどうか。FM音源と古典的ピアノの電子音の差ぐらいは音(音楽)に強くはない筆者にも分かった。それにしても、この分野は電子機器とデジタル信号処理技術で長足の発展を遂げている。
 国本氏は2010年から3年間ヤマハ(株)研究開発センター長として同社の研究開発の陣頭指揮を執っている。56才を過ぎて役職定年になり、現在は同社研究開発統括部戦略担当主席技師として後進の研究者や技術者の指導に当たっている。自身もより現場近くの研究に戻る機会を得たようで、研究者、技術者としてのやり甲斐があると言っていた。
 講演の冒頭に初音ミクのイラストが出てきて、これがヤマハのボーカロイド製品を応用している事をこの場で初めて聞いた人が多かったのではないだろうか。講演後、今回の講演会をメールで教えてくれた国本君と同期の中本伸一君が筆者にマイクを手渡して何か質問するようにとのことで、ヤマハのボーカロイド技術と初音ミクの技術の境目がどこにあるのか、といった事を聞いてみる。大雑把に言えばボーカロイドの基本技術はヤマハ、その利用技術を初音ミクを生み出した札幌のクリプトン・フューチャー・メディア(株)で開発したといったところか。国本氏の講演の演題が「楽器のヤマハ、音のヤマハの音楽へのこだわり」に対してクリプトン社のコンセプトが「音で発想するチーム」であることが、両企業の性格の違いを表しているともいえる。
 講演会の橋渡しをした北大の山本強教授も講演会に来ていた。国本君が修士の学生の頃、山本先生は同じ研究室の博士課程の学生だった。博士課程を卒業していなくても、会社ではその研究開発の実績から「ドクター国本」と呼ばれていると聞いたのは山本先生からだったと記憶している。現在、社会人入学で北大の博士課程の学生になり、博士号取得の過程にあると聞いているので、近い将来名実共に「ドクター国本」が誕生することになるのだろう。


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(北海道総合研究プラザの国本利文氏 2015年12月10日)

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