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2007年04月30日

開拓之碑と伊達邦直主従北海道移住の地碑

 日本海に沿って北上する国道231号線で石狩河口橋を渡り、八幡から厚田町が石狩市と合併したことにより石狩市となっている聚富(しっぷ)に入ると、直ぐに道路脇に「伊達邦直主従北海道移住の地碑」の案内板が目に入ってくる。案内に従って左折すると、「開拓之碑」と彫られた碑や馬頭観音像が道路脇にある。

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 開拓之碑の碑文には、第二次大戦後国の農地改革の方針に従って、聚富の地の排水・灌漑施設を作り客土を行い農道整備しながら開墾が進められ、その完成をみたのを記念して、聚富開拓農業協同組合が建立したものであると記されている。題字の揮毫は北海道知事町村金吾となっている。

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 この碑に書かれているように、聚富の地は元々砂地で農業には適さなかった。開拓のため上陸した亘理伊達家にとってこれは誤算であった。そこでこの地を捨てて内陸の当別に向かうことになり、聚富から当別への道を拓くことから新移植事業を行っている。この時伊達開拓団を率いたのが岩手山領主の伊達邦直で、邦直は当別開拓の祖となる。この史実を記念してこの碑が1996年に建立されている。

 碑の題字は邦直の子孫に当たる当時の当別町長によって揮毫されている。碑文には「シップ開拓場の記」と題して、簡単な入植に関しての記述がある。邦直始め51戸180名が聚富に入植して、当別に移る経緯が記されている。碑文に引用されている本庄睦男の小説「石狩川」は、当別における伊達家臣団の開拓の苦闘の物語である。生憎西向きの碑に朝日は逆光の関係になって、碑の正面の写真を明るく撮ることが出来なかった。碑は午後から湯方にかけて訪れると映えて見えるのだろう。

 春先で碑の周りは枯れ草色一色で、彼方に石狩浜の灯台と思える、赤白の縞のある円柱の建物が見える。石狩の浜は目の前にある。それであれば確かにここは砂地で農業には適していなかったのだろう。

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