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2007年06月16日

南線小学校の門柱と奉安殿

 戦前の教育勅語を捨てて、1947年に民主主義国家への移行に合わせて設けられた教育基本法は、昨年(2007年)の国会でさらに改定され、施行されている。前の教育基本法で教育を受けた世代の筆者には教育勅語と聞いても、それがどんなものであったのかの体験的記憶がない。当然教育勅語の謄本も見たことがない。

 札幌市北区屯田町から石狩市に少し入った花川南3条5丁目にある了恵寺(りょうえいじ)の境内に南線(みなみせん)小学校の表札のはめ込まれた門柱が建っているのが目についた。最初これを目にした時、どうしてこの門柱がここにあって、門柱の奥にある小屋が何であるのか分からなかった。

 後日同寺を再訪問した時、たまたま居合わせた了恵寺四代目住職から、南線小学校が移転する際に、その門柱と奉安殿の行き場がなくなり、この寺の境内に引き取った話を聞いた。門柱には石狩町立南線小学校と書かれていて、石狩市がまだ町であった頃のものである。

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 ここで奉安殿は筆者の年代以下では見たことも聞いたこともない建物であろう。戦前に天皇と皇后の写真(ご真影)と教育勅語の謄本が納められていた建物である。一般に、奉安殿は殿がつくくらいの建物であるから、コンクリートや石で出来ていたそうであるけれど、南線小学校のものは貧乏であったせいか、木造である。建国記念日(紀元節)や天皇誕生日(天長節)にここから教育勅語謄本が取り出されて、校長先生が生徒の前で読み上げる。映画か何かで聞いたことのある「チンオモウニ ワガコウソ コウソウ クニヲハジムルコト・・・」という言い回しから始まるものである。

 この奉安殿にあったという教育勅語の謄本が保管されているというので、見せてもらった。塗り物の木箱に入った謄本が取り出される。時が時であれば真新しい白手袋でうやうやしく開かれたであろう謄本が無造作に敷物の上に広げられる。教育勅語が発布された明治二十三年十月三十日の日付や御名御璽の文字を確かめる。この類のものは戦後に回収されたと思われるのに、よく残っていたものである。

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 名前の出て来た南線小学校は、現在は道道44号線沿いにあり、古い面影は微塵もない。現在の小学校の生徒はいうにおよばず、先生ですら教育勅語の謄本を目にすることはないだろう。秘境探検なので教育勅語の謄本を取り上げているけれど、これは日本の教育史の秘境に静かにしていてもらうに越したことはない。

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