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2007年09月18日

天徳寺の屯田兵木像

 この浄土宗のお寺は江別市のJR野幌駅を降りてすぐのところにある。境内には地蔵が並んでいて太子堂もある。お寺の内に誰か居るかと探すのだけれど誰も見つからない。事前に見学の電話をかけておいたこともあるので、そのまま本堂に行き、お目当ての屯田兵の木像とご対面である。

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 本堂の左側の仏間に仏さんを中心にして左右に16体ずつ計32体の木像が安置されている。これらの木像は江別・野幌の屯田兵村から日露戦争に出征して戦死した32名の屯田兵を供養するためのものである。当時の天徳寺の住職や村の有志が、名古屋のからくり人形師玉屋庄兵衛に依頼して作り、1907年(明治40年)にこの場所に安置された。

 木像は制服・制帽を着用して、銃を下げて整列している。立像の台の部分に軍人としての階級と氏名が書かれていて、木像が似ていても、戦死したそれぞれの屯田兵に対応している。中に一体水兵姿のものがあり、他の像には陸軍と書かれているところ、この軍人は海軍となっている。屯田兵の時代に既に陸軍、海軍の組織分けが出来ていたようである。これらの屯田兵の中で階級が一番上だったのは陸軍歩兵中尉のようである。

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 屯田兵は北海道の守りと開拓を行う半軍人、半農民で、北海道に留まっていると思っていたら、海外まで行って戦争に加わったとは知らなかった。確かに国家が給料に相当したものを与えている将兵であれば、外国との戦争となれば海外の戦場に駆り出されても不思議ではない。

 境内にあった太子堂は文字通り聖徳太子をお奉りしている。聖徳太子は職人の神様でもあるらしく、江別や野幌でレンガ産業に携わって来た職人の守り神としてこの境内に堂がある。浄土宗の寺の境内に太子堂とはちょっと違和感があるけれど、聖徳太子は仏教を広めていて、日本では神仏は敵味方という訳でもないので、特に変でもないのかも知れない。

 むしろ気になったのは境内にあった地蔵の方で、大きな地蔵2体をのぞけば32体が並んでいる。これは屯田兵の木像の32と同数なので、あるいは屯田兵の地蔵なのかも知れない。しかし、寺には誰も居なかったのでこの点を確かめる術はなかった。

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comments

隊長、ごぶさたしております。
江別方面も着々と、進んでいるのですね(^^ゞ

 着々と進んでいます。でも江別と北広島を合わせて本にするのは1年後と予定しています。小樽・石狩編は地図データの挿入のところで足踏み状態です。これは私があせってもどうにもなりません(*^*)。

  • 探検隊長
  • 2007年09月18日 20:38