2015年06月17日
道新文化センター講座第9回目
本日の都市秘境探索は小樽でした。JR南小樽駅に集合で、歩いてメルヘン広場を通り、小樽聖公会を訪問です。女性牧師の石坂みゑ子さんが出迎えてくれ、聖公会の歴史、特色、日本との関係などについて教会内で説明してもらいました。
NHKの朝ドラで「マッサン」が人気を博しましたが、マッサンことニッカウヰスキの創業者の竹鶴政孝の妻のスコットランド出身のリタ夫人が良く通った教会ということで、朝ドラ関連で取材があったそうです。マッサンと聖公会との関係にも説明が及び、マッサンは聖公会の信徒になった話しが紹介されました。ウィスキーを熟成させるために使われる樽から十字架を沢山作って、イベントがあれば他の信徒に配ったそうです。かなりの数の木製十字架が作られたはずなのが、現存するものはほとんどなく、本州から一時的に借りて来たこの十字架がある、ということで見せていただきました。
教会の塔部分には鐘があり、見上げても見えませんが、紐があってこれを引くことで鐘を鳴らすことができます。参加者が実際に鐘をならし、鐘の音を聞きました。
聖公会の建物は小樽市の歴史的建築物に指定されていますが、建物を維持する費用が市から補助されることはなく、信者の細々とした献金のみでは後何年建物が維持されるか心もとない状況が説明されました。教会維持の経費も随分切り詰めているようでした。ポストカードを配って献金の促進の紹介があり、参加者は思い思いの額で献金していました。教会内で記念撮影となりました。以前にこの教会を取材した記事が載っている、拙著「小樽・石狩秘境100選」(共同文化社、2007年)を寄贈して来ました。
聖公会から少し登ると水天宮の境内になります。境内で石川啄木の歌碑を見て小樽港の眺望を楽しみました。境内に通じる石段を上から見下ろして、その急な事に驚きます。この石段に外人坂がつながっています。
水天宮には測量に関する史跡があります。旧海軍水路部が1893(明治26)年水天宮山上で天文測量を行ったときの標石が拝殿の裏手に置かれていて、柵の中に見えます。標石に水路部の文字が刻まれているのが確かめられます。
水天宮から閉校になった旧堺小学校の校庭に行き、閉校記念碑、二宮金次郎像等を見ました。かつての校舎内には堺小学校の記念室があり、ここも見学です。
旧堺小学校からは手宮線跡などを通って途中札幌狸小路から移転した「ぱんじゅう」店でぱんじゅうを買って小樽駅に行き、ここで解散です。一部は小樽見物に流れたようでした。
- by 秘境探検隊長
- at 20:57
comments
私は、手宮線をたどりここに着きました。ぱんじゅう食べましたが、アーケード街(サンモール街)ではない店のを食べました。
このアーケード街、巨大長靴のほか榎本武揚の幕などがここかしこ、あやかり武揚石像もあり、石像のいろんなところを、なでてきました。(なですぎてご利益がないかも)
石川啄木の「かなしきは小樽の町よ」ですが、解釈としては「悲しき」ではなく「愛しき」としている本もあり、啄木自身も小樽を好意的に評していたようです。
「ぱんじゅう」はいつも駅前通りの店で買います。アーケード街の店は以前行った時売り切れていて、その後は行くことがありません。巨大な長靴は目に留まりますが、武揚の石像には出合っていません。
「悲しき」か「愛しき」かですか。小樽駅の三角市場にある歌碑の「われ見送りし妻の眉かな」の眉が「つり上がって」いたか「つり下って」いたか、どちらかで啄木の歌の背景が正反対になるな、と思ったことがありました。
奥さん、あっちに行ったりこっちに行ったり、札幌に移るのかと思えば小樽にもどり、子供連れで大変だったと思います。
大通の啄木像ですが、東京時代の写真の髪形に似ており、札幌滞在中とは異なるかもしれません。野口雨情の札幌時代の回想録では「一分の丸刈」「坊さん」。函館時代の写真も刈り上げであり、当地や釧路の銅像(いずれも本郷新)はかなり短髪。札幌下宿跡にある啄木像の方が、札幌時代の啄木に近いと思います。
啄木に関しては随分色々な事が調査されているのですね。札幌の下宿跡の啄木像が当時の啄木の面影に一番近いですか。函館や釧路の啄木像は写真に撮っていないので、今度機会があれば撮っておこうと思います。
野口雨情の歌碑が山鼻小学校に建立された新聞記事を目にしました。そのうち写真を撮りに行こうと思っています。
偕楽園緑地の啄木歌碑に、当時もあった清華亭も含め、訪問してみました。啄木が札幌に足を踏み入れたのは明治40年9月の約2週間の滞在とその後の+α。短い期間ですが、札幌には歌碑や銅像など啄木記念物が数か所あり、文学作家として、その数の点で最上位だと思います。
2週間の滞在で歌碑や彫刻とは、啄木ファンの多いことの証左です。