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2008年06月18日

世田豊平川と江別古墳群

 川筋としては厚別川から石狩川につながる世田豊平川がある。流れているというより、遊水地に水が留まっているような川である。この川の名前に豊平がつくのは、かつては豊平川であったものが、河川の改修工事で残された部分を意味していて、それに世田がつくのは、川の流域の角山地区に東京世田谷区から入植者がやって来たことに由来する。

 石狩川と並行して走る国道337号線に樋門があり、世田豊平川は石狩川とこの樋門でつながっている。石狩川への水路の出口辺りにはヤツメウナギ漁の船着場がある。また樋門の近くには石狩川河川敷緑地や榎本公園がある。

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 この川に沿って、懸崖上の平坦部で発掘された西暦七世紀頃からの古墳群があり、史跡に指定されている。道道110号線が道道128号線にぶつかる交差点の丘陵地にある発掘された古墳群は、予想していたより狭い場所である。史跡の標柱を見落として、これが古墳であると教えられないとただの、土盛が並んでいるぐらいにしか見えない。

 これらの古墳群からは土器や装身具の出土があり、出土品は江別市の郷土資料館に展示されている。刀や勾玉は本州からもたらされてものであると推定されていて、当時の律令体制下に関わっていた人々が被埋葬者ではなかったかと考えられている。

 今は雑木林と笹薮に囲まれたこの丘陵地が、かつては北海道でも最も文明の進んでいた場所であったとは、想像を逞しくしても実感が湧かない。ただ、文明が川の周囲から始まるのは北海道の場合も例外ではなく、大河石狩川とその支流の豊平川の周辺に人々が住み着いたのは必然の成り行きである。

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 古墳群の史跡の場所に鳥獣保護の看板が立っていた。読んでみるとアオサキのコロニーが世田豊平川にあるようで、史跡見学では大声や音を発しないようにとの注意書きである。ただ、この場所にそれほど見学者が来るとは思えず、差し迫った注意書きでもなさそうである。アオサギの方は見てみたいものだと思ったけれど、笹薮の中に入って行く気にはならなかった。

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