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2007年08月27日

水稲赤毛種見本田

 島松の旧駅逓所横に「寒地稲作この地に始まる」と刻まれた碑がある。これは北海道の稲作事始に関わった中山久蔵を顕彰する碑である。駅逓所そのものが久蔵の家で、駅逓所経営にも貢献している。この駅逓所はクラーク先生訣別の地であり、明治天皇の北海道行幸の宿泊所も重なって、この三人の縁の地となっている。

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 久蔵の元の姓は松村であり、後に中山となっている。1869年41歳で白老に渡り、苫小牧の地での開墾の着手と断念、1871年に松島に移り稲の栽培を始めている。寒地に強い稲の赤毛種を選び、島松川から引いた川水を人工的に温め、水田の水温の調節を行いながら稲の栽培に成功している。この暖水路跡が残っている。

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 この赤毛種は今でも寒地稲作の碑の近くの見本田に育成されているのを目にすることができる。見本田で実を付け出した稲を見るとやや赤っぽいか、とは感じられるけれど、日頃稲を見ていない身(目)には稲の種類の差はピンと来ない。それにしても風呂の温水を苗代のために用いたとは、北海道の稲作事始の苦労のエピソードの一つである。

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 今や北海道は日本における米の一大産地である。米の味も本州のものにひけをとらない。いや、地球温暖化に伴って、良質の米の産地は北へ移動してくる傾向にさえある。北海道の米作の品種改良が進み、北海道米の人気が出てきて、さらに寒地の気象条件が米作にむしろ味方するようになって来ているなどとは、久蔵には思いもつかないことであったろう。

 この見本田の横に蓮池があり、蓮の花が咲いていた。久蔵は蓮の栽培も手がけている。現在咲いている蓮は久蔵の栽培した蓮とつながっているのだろう。その他養鯉や果樹園、牧場経営にも手を出している。久蔵の多角経営者ぶりが表れている。

 保存されている旧駅逓所の建物内には拡大された久蔵の写真のコピーが壁に貼られていた。この自宅の建物で久蔵が駅逓所の経営に乗り出したのが56歳の時である。昔の人の年では退職して現役から退く歳であると思われるのに、事業への意欲は旺盛だったようである。1919年91歳で亡くなっているから、普通の人なら人生の後半に事業を起こしたにもかかわらず、事業が成功したのは長命もその理由の一つに挙げられるだろう。


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