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2009年08月02日

同じ郵便局舎の二つの窓口

 風景印を押印してもらうには郵便局の窓口で頼むとよい。ある郵便局の窓口で風景印をもらったらこの郵便局は仕事済みと思っていたら、これが違っていた。郵政民営化後は、郵便局には異なる会社の窓口がある郵便局があって、それぞれの窓口で風景印を用意している。

 例えば札幌西郵便局の異なる窓口で押印してもらった風景印を並べてみる。まったく同じではないかといわれそうであるけれど、異なる会社(郵便局会社と郵便事業会社)で異なる風景印にしておかなければならないので、ある部分が異なっている。さて、それはどこか。わかりますか。

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comments

 このような問いかけにはすぐに反応したくなります。
 さて、肝心の回答ですがデザイン的な違いだとお手上げです。この手のクイズにはまったく弱いものですから・・・。言葉を変えると注意力散漫ということですかねぇ…。
 ただ、二つの印では明らかに製造年が違っているように見えます。下の印の方がずっと新しく製造されたものですね。
 解答を期待しています。

  • 田舎おじさん
  • 2009年08月02日 07:10

 田舎おじさんは相変わらずフットワークが軽く、拙ブログに反応していただいたことに感謝です。田舎おじさんの観察力をもってすれば、二つの風景印違いはそれほど困難無く見つけることができます。

 このブログのアクセス数は、平均すれば日に70前後で、多分同じ人が二度、三度とアクセスするのを考慮すれば(ブログのシステムが古いようで、アクセス解析のような芸当ができない。というより、他人のブログに寄生しているようなところがあって、自分でブログの設定はしていない。写真のアップもかなり原始的な方法で行っています)日に20~30人かな、と思っています。

 少なく見積もっても20人くらいは今回の設問を見ていると考えて、反応するのが田舎おじさんお一人では、二十分の一か、という数字について考えさせられました。

 ブログを書き続けるのは、別の目的(本の出版)があって、それはそれで無駄ではないのですが、本の原稿書きならそれに集中して、ブログといった余分なことをするまでもないか、と思うようになっています。

 田舎おじさんは毎日よくあれだけの材料を揃えてブログを書き続けるものだと感心しているのは事実です。人は何故ブログを書き続けるのか、という考察ならすぐにでも書けそうです。

 ああ、解答の方は出版予定の著作に「風景印とは何か」の解説を載せるつもりですので、そちらを本屋の店先で立ち読みしてください。まだ先のことにはなりますが・・・

  • 都市秘境作家
  • 2009年08月02日 16:59

 コメントの返信に、さらにコメントというのは「あり」なんでしょうか?
 まあ、お伝えしたいとこがあるのでそうさせていただきます。

 私がブログを書き続ける理由は何なんだろうと考えてみました。
 私の場合は粗くいって三つくらいありそうです。
 一つは長年住み慣れたオホーツク地方から札幌に出てきて、昔の仲間に私の札幌の様子を伝えたいという思いです。これの思いはもはや達成されたようにも思っています。
 次に、自分自身の存在証明というか、自分が生きていることを自分自身で実感できるアイテムとしてブログがあったということです。
私の性格からして絶好の手段が存在したという思いです。
 三つ目はブログを書き続けることが私自身を能動的にする手段となっていることです。
ブログを書き続けなければ、これほど能動的に札幌生活を送ることはなかったのではと思っています。
 いつまで続くか分かりませんが、私の場合は連日投稿することが大きなモチベーションになっていることは間違いありません。
 その際の大きな目標が探検隊長(都市秘境作家)の先生なのです。
 これからもどうぞよろしくお願いします。

  • 田舎おじさん
  • 2009年08月03日 21:24

 あっ、それから問いに対する私の答えです。
 もしかしたら、日付のところの年の下線がある、なしでしょうか?
 それくらいしか気付きませんでした。

  • 田舎おじさん
  • 2009年08月03日 21:27

 解答は正解です。郵便局会社の窓口(ほとんどの郵便局がこの会社です)の風景印は年号の下に線が入ります。郵便事業会社の窓口のものはこのアンダーバーがありません。何か姑息な手段で、同じ仕事を二つに分けてやっているようで、アンダーバー一つで民営化の実態見たり、の感がなくもないといったところです。

 まだ先生稼業を引きずっているようで、学生に質問して無反応だったり、誰も正解者が居なかったりすると、質問を出した先生の方が滅入ってきます。何か馬鹿馬鹿しい事をしているのではないかと思ってしまいす。どうしてそう思うのかと自問すると、また複雑で、この話は置いておきます。

 田舎おじさんのブログを書く動機は、同じくブログを書く身として重なる部分があり、多分他のブログを書く人達(ブロガー)も最大公約数的に同じ理由を持っていると思います。

 ブログは、おしゃべり型と文章型に分けることもできると思います。ブログは文章で書かれているので、おしゃべりとは?と思われるかもしれませんが、例えば、そのブログを本にして不特定多数に読ませることができるかどうか、に線引きがあるような気がします。

 単なる身辺のおしゃべりなら、まあ本にしてしまうと関係のない第三者が読む気にはならない。だからといって、このおしゃべり型が面白くないということはなく、ブログの知り合いの閉じた空間では結構面白いのも事実です。おしゃべりの本質は理屈抜きに面白いところにあります。

 文章型は作品に近いところにあります。この型の文章はおしゃべりをしているのではなく、表現したい(=何かを残したい)という目的がありますから、意識的にも構えて書いているところがあります。もし、ブログそのものが作品と考えると、素材(いわゆるブログネタ)を用意したりします。

 文章は人を縛ります。事実を文章化するというより、書きたいように、あるいは書いたように事実を構成します。事実が先にあり、文章が後にくるのは記録を残す場合です。しかし、読者を想定しての文章は(つまり作品は)こう書けば、こういう反応といった意識の下にあります。

 そこで書いた文章に自分の行動を追い込んで行くことは当然あります。文は人なり、とは文章にはその人柄が出ている、といより文章はその人を縛っている、と考えた方がよさそうです。

 まあ、文章で仮装することもできますが、そんな文章はどこかで破綻します。文章読本の第一章にくるものは、考えたことをありのまま書きなさい、つまり考えていることと書くことを乖離させないこと、だろうと思っています。

 話が文章読本にゆきそうなのでブログに戻しますと、ブログを書き続けることが一つの作品を残すことと考えたブロガーが、こう書きたいと思って、それに合わせて行動を起こすのは理屈の合うところで、ブログを続ける強力な動機です。

 コメント欄なので、この文章はおしゃべりに近く、思いつくまま書いているので、長くなると文章の構成がしっかりしていないので、この辺で切りますが、田舎おじさんのコメントありがとうございます。私はブログを書く行為を少し考えてから(自問してから)、再開するかどうか決めたいと思っています。

  • 都市秘境作家
  • 2009年08月04日 02:58
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