2010年12月22日
開拓者名のついた山本稲荷神社
函館本線厚別駅の西側に、南北に走る道には山本通の名前がついている。この通りに面して、やはり山本のついた稲荷神社がある。この山本は、この地に入植した開拓者とその子孫の姓である。開拓当初この辺りは「本田」と呼ばれていたものが、開拓の祖山本久右衛門の子孫の山本厚三氏の姓をとって、1934(昭和9)年山本地区に改称されている。
稲荷社は1909(明治42)年の山本農場開拓当初に祀られた小祠が始まりで、現在の社殿は大正9)年に再建されたものである。神社の始まりの小祠は境内の一画に保存されていて、小さな鳥居と賽銭箱の後ろに配置されている。
稲荷は稲生や稲成に通じ、稲の神様である。稲荷神社のシンボルは朱塗りの鳥居と神獣に格上げされた狐である。定石通り神社の鳥居は朱塗りである。社名が刻まれた軟石の柱が鳥居の傍にあり、鳥居だけなら新しそうに見える神社の、古さの証明書を表に出しているかのようである。朱塗りの鳥居に合わせたのか、社殿の屋根も鮮やかな赤である。
山本稲荷神社社名柱と鳥居
稲荷神社なので境内には狛犬ではなく、狐の像が置かれている。稲荷像の台座部分に昭和7(1932)年と彫り込まれているので、この年に作られ奉納されたものであろう。社殿前に置かれた一対の狐は、それぞれ口に物を咥えている。一方は稲穂の束で、他方は稲作に使う道具のようである。この道具を農作業でどのようにして使うのかは想像しても適当な答えがみつからない。稲荷像には稲穂が一束添えて置かれていた。
信心は 稲荷に添えた 稲穂束
稲荷像 咥えた道具 判じ物
狛犬のような架空の動物に比べ、狐は実物が存在するため、造形の多様性の幅が狛犬に比べて狭い。この点、狛犬は職人や流派で様々なものが見られ、変わった狛犬に遭遇する面白さがある。
境内には「謝恩碑」がある。これは前述の山本氏がこの地の開拓を進め、1944(昭和19)年には低廉な価格で農地を小作人に開放し、山本用水組合を設立してこの地を美田に変えた。札幌市の都市化に従って、土地区画整理事業にも貢献している。これらのことから、同氏に対する感謝を表す「謝恩碑」が境内に建立されている。
- by 秘境探検隊長
- at 10:53
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稲荷像 咥えた道具 判じ物
最近の秘境記事は、年末にも拘わらず、プログ子先生から感嘆の天体ショーをはじめ、選り抜きの多くのテーマを矢継ぎ早にご提供戴いており、これに対し、秘境フアン側は読むのが精一杯で、一方的に攻め立てられている有様です。
そんな訳で気になっていたのが、この判じ物のような道具です。
開拓当時にはそれほど高価な道具が必要とは思われませんので、はるか遠い戦前の追憶の中からですが、私は小さい頃から正真正銘の釣りキチで、釣竿師の仕事を飽かず眺めていたとき、大抵は曲がっており癖の有る原料篠竹を見事に真っ直ぐで高価な継ぎ竿に仕上げる工程のなかでこんな道具を見かけていたように思います。
爪句の判じ物も当時一般的に使われていた何かの矯正道具と思います。
まだ、グラスフアイバー製の高性能の竿が出現する前は名工の竿は憧れの象徴でした。
こんな懐かしい思い出を認知症もどきの超高齢期になってからでも引き寄せて戴けるのが秘境シリーズの有難いメリットと思っております。
私も狐のくわえている道具は見たことがありません。実際にこの形をした道具なのだろうかと疑いを持っています。道具か何かを、デザインの都合上でこの形にしたとも考えられます。稲荷ですから農作業に深く関係していて、稲を刈り取る鎌を、そのままデザインすると歯の部分が危ないので、四角形にしたとか、などと考えてみてもこれといった確証があるわけではありません。それにしても、稲荷の狐がくわえているものは様々です。