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2011年06月18日
赤い実を 蕾も真似て ベニシタン
庭のベニシタンの赤い実は目に入っているのに、花の記憶がない。花の時季に注意して見ると、小さな赤い実のような蕾が綻び始めている。この蕾はもっと開いてくるのだろうか、と蕾の先の白い花弁を指で開いて見ると、蘂が丸まっている。
コメントを入力してください 春の花の蕾と秋の実とが秋に同じような大きさと赤い色合いを呈することは珍しく,通常は秋の実が春の花を真似て、と表現するのが定型と思うのですが,冬を越し、前年の秋の実の赤い色を知らない筈の蕾が「蕾も真似て」との爪句表現は、その花の意志の存在を確信し尊重しており、これは人間の側が一方的に創造する「擬人化」とか「比喩」よりも遥かにストーリー性と共感を覚えます。 最近急速に進展している脳科学やミクロの生物界の解明において、生物細胞に「意志」の存在を認めざるを得ないことは、既に世界共通の定説を形成していると思います。 日常の言語表現に於ける優れた「比喩」は究極の言語表現であり、偶然の所産でないことは云うまでもありませんが、爪句Seriesの中に登場する花や樹に心が有ると教えられることが屡あります。 花や樹に人と同様な心や気持ちの存在を立証して楽しませているのが、一般的短歌や俳句や川柳と一線を画している決定的な要因と思います。
ベニシタンの実しか記憶に無かったのは、花(蕾)の時も遠目には赤い実のように見えていたせいかな、と思っています。毎年庭で見ている木なのに、花が目に入っていなかったとは、我ながら不思議です。
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春の花の蕾と秋の実とが秋に同じような大きさと赤い色合いを呈することは珍しく,通常は秋の実が春の花を真似て、と表現するのが定型と思うのですが,冬を越し、前年の秋の実の赤い色を知らない筈の蕾が「蕾も真似て」との爪句表現は、その花の意志の存在を確信し尊重しており、これは人間の側が一方的に創造する「擬人化」とか「比喩」よりも遥かにストーリー性と共感を覚えます。
最近急速に進展している脳科学やミクロの生物界の解明において、生物細胞に「意志」の存在を認めざるを得ないことは、既に世界共通の定説を形成していると思います。
日常の言語表現に於ける優れた「比喩」は究極の言語表現であり、偶然の所産でないことは云うまでもありませんが、爪句Seriesの中に登場する花や樹に心が有ると教えられることが屡あります。
花や樹に人と同様な心や気持ちの存在を立証して楽しませているのが、一般的短歌や俳句や川柳と一線を画している決定的な要因と思います。
ベニシタンの実しか記憶に無かったのは、花(蕾)の時も遠目には赤い実のように見えていたせいかな、と思っています。毎年庭で見ている木なのに、花が目に入っていなかったとは、我ながら不思議です。