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2023年07月23日

爪句集覚え書き-53集

 以前から気になっていたAIで作る俳句について、北大大学院情報科学研究院調和系工学研究室准教授山下倫央先生をオンラインの勉強会eSRU(eシルクロード大学)の講師として招待して話して頂いた。そこで認識を新たにしたのは、俳句は「句作」と「句会」がセットになっている事である。俳句の場合、句作後出来が良いと自分で評価しても作業はそこで終わらない。句会に出して他人の評価を得て納得して、作句活動が一応終わる。
 AI俳句でも膨大な数の俳句を機械的に生み出しても、評価の問題がある。そこでAI俳句を句会や選評会に出して人間の評価者が優劣をつける。人間の作った俳句に伍して秀作と評価されるところにAI俳句のレゾンデートルを見出そうとする。ただ、秀作のAI俳句が作れたからといって、PCによる句作の意味が何なのかの問題はいつまでも残る。
 ここで「爪句」を考えると俳句との違いがはっきりしてくる。爪句は句会を必ずしも必要としない。元々写真データのファイル名として俳句の形式を借りたもので、写真データを検索する時の効率性や記憶の手助けに重きが置かれていて、文芸的観点での爪句良し悪しはほとんど問題にしていない。爪句は写真データのキャプションに徹している。
 前述の勉強会の講演で説明された芭蕉の次の句「古い池や 蛙飛び込む 水の音」を例に取った話が思い起こされる。俳句とは、先ず芭蕉が水辺に蛙のいる情景を思い浮かべ、それを17文字に変換し(記号化)、この句から読者が元の情景を想像する(復号化)の過程と考えられる。爪句もこれに似ているけれど、頭に浮かぶものは情景ではなく写真という確定的なデータであって、これを爪句で記号化して、復号作業は元の写真を記憶システムで検索する事である。そこでは読者が爪句から元の情景を思い起す必要はない。元の写真が検索されればそれでよい。この点からも爪句の句会といったものの存在は影が薄い。
 しかし、爪句を始めた初期の頃、爪句を新しいデジタル文芸にしたいとの意気込みもあった。文芸と呼ばれるものは作家と読者がいて成り立つ。読者は作品を作ることは出来なくても、作品を評価する力はある。爪句は写真集の付属品で、写真を見た読者が写真を爪句が良く特徴を説明しているか(良いキャプションになっているか)、を講評しあう句会に相当するものも考えられる。そのためには写真と爪句同好会のような集まり作りも必要になってくる。そのような集まり作りにはこれまで成功していない。ただ、爪句集出版は53集に到達していて、これは成功したと言える。

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