2007年02月26日
了恵寺境内南線小学校門柱
了恵寺(りょうえいじ)は札幌市北区屯田町から石狩市に少し入った花川南3条5丁目にある真宗のお寺である。このお寺には歌碑や句碑が多く設置されていて、歌碑、句碑巡りの同好の士なら石狩でははずせない場所であろう。
写真のような歌碑が目に付く。碑面にある文字は「六蓄」である。六蓄とは牛、馬、羊、鶏、犬、豚となる。普通に言う家畜で、六蓄に猫が入らないのは、猫は放っておいても餌を見つけてくるためだろう。一方、家畜の方は餌の心配をする必要がある代わり、人間に役立つ動物にもなる。
この歌碑には「ふる里の 家の庭べに 相寄りし 深きいえにしを 思い出づつ」の歌が刻まれていて、作者は石狩市生振(おやふる)生まれの横田庄八である。また、「秩父蜂起の井上伝蔵(石狩では伊藤房次郎)が明治35年に詠む」と注釈のついた詩碑もある。
この了恵寺の境内を散策していたら、写真の石狩町立南線(みなみせん)小学校のプレートがはめ込まれた門柱とおぼしきものが設置されていた。石狩町は近隣の町村と一緒に石狩市となっているので、かつて石狩町であった頃にこの辺りに南線小学校があったということだろうか。門柱の奥にある小屋が何であるかは分からない。
南線小学校のことが頭に残っていて、日を改めて、今や石狩市立のこの小学校に出向いてみる。小学校は道道44号線沿いの花川南3条1丁目にあり、建物はこれといった特徴はみられない。そのせいか、ここが南線小学校であるとの意志表示のような看板があって、車のなかからでも目につく。
この学校の裏手には南線神社がある。南線地域は1881年(明治14年)香川県からの入植者で開拓が始まり、その関係で入植者の郷里の讃岐の金刀比羅宮からの御神礼を持ち帰って小詞を建立したことに端を発していると伝えられている。春には境内の桜が見事と聞いているけれど、生憎の冬場の訪問で、境内は雪で覆われていた。後でインターネットで調べて知ったことであるけれど、鳥居の傍に「町村農場発祥之地」碑があるそうで、これは見落としてしまった。桜の季節に再訪して確かめてみようと思っている。