2008年01月31日
2008年01月30日
絵文字
逆禁マーク・ハンティングというのをやっています。街角で見かけた注意書きの看板の禁煙が逆禁マークでした。ここまではいつもの逆禁マークを見つけて収穫があったと思っていたのですが、描かれている禁止事項の絵から、何の禁止事項なのか想像してみるのが面白いと思いました。で、写真を載せておきますので、気が向けば考えてみてください。
禁煙マークの左側の大小の人物のマークの禁止事項は?右側の二人の人物が描かれている禁止事項は(写真が小さいので判別が出来ないでしょうが、一人は眼鏡をかていてもう一人は顔に傷がある)。
その他の絵の意味は大体分るとしても、雷の絵のものは文字のコメントをよまないとこれは分らない。以前(今でも)「絵文字都市」というアイディアを部分的にでも実現したいものだとの考えがあって、この注意事項の看板はいたく気に入りました。ただし、この注意書きを掲げて営業している店の客になった経験はこれまでの長い人生で1,2回です。
2008年01月29日
外は雪 内珈琲(カフェ)談義に 花の咲き
2008年01月28日
木製戦闘機の模型
2008年01月27日
ベゴニアの 会話の外は 白世界
2008年01月26日
大連中山大酒店の窓から
大酒店とあっても酒を飲ますところではない。中国ではホテルを酒店と称する。大がつくと大きなというのは漢字を知る民族なら理解できる。酒店でも室内のミニバーから酒を取り出して飲むと、市内での飲み代の何倍かを要求される。で、時間のある時に金のかからない時間つぶしの方法は、窓の外に見える風景をカードにスケッチすることである。
ホテルの窓から見える風景は往々にしてスケッチには向いていない。しかし、写真に撮るとさらに平凡な景色にしかならない。その点スケッチは描き手によっては写真よりは現場感のあるのもを表現できる。描き手がよいという訳では決してないけれど、写真とスケッチの差を比較するために、酒も飲まずに一人で居て、酒店の窓から見た大連の街角の写真とスケッチを載せておく。
2008年01月25日
線香の 残り功徳の 履歴なり
2008年01月23日
現代の チャン・フン・ダオは ビル率(ひき)い
2008年01月22日
売り娘(こ)まで ベンタイン市(いち)は 花に見せ
2008年01月21日
これ何だか分りますか
大連のホテルの部屋に入ったら、机の上に写真の物が置かれてありました。これ何だか分りますか。パンダ(コメントによりこれは狸に訂正)をデザインしたものであるのは見れば分るのですが、何に使うものかと頭のフタの部分を取ってみると中に水が入っていました。そこでこれは加湿器であることが分りました。パンダ(これも狸に訂正)の両耳の部分から蒸気が放出されるようになってます。へその下の部分の突起部分が回転するようになっていて蒸気量のコントロールを行うようになっている。こんなところに回転ダイアルをつけているとは(狸ならこれは理にかなったデザインか)。う~む、そのキッチュ風デザイン、大きさ、これぞ現代中国風を実感させる室内器具でした。
2008年01月20日
1月に入ってからの忘年会
大連では1月半ば過ぎなのに外資(日本)企業の忘年会に参加して来ました。どうして1月なのに忘年会になるのかというと、中国の春節(旧正月)が2月の初めにあるので、年の区切りをここに置くと2008年になっていても2007年忘年会となります。
社員の平均年齢が若いので、大学に勤めていた頃の学生達のコンパに付き合っている感じです。忘年会には社員とその友達も呼んでいて、200名を超す大宴会です。余興の出来に順番をつけて、会社側が出した景品を与えていました。また、くじ引き(くじを引くのは経営者や来賓)で値の張る品物が当たる余興もやっていました。因みに私がくじを引いた景品はデジカメでした(ただし、景品は私が用意してはいません)。気持ちの上では暦ではなく、慣習の行事で年が終わり、そして始まるのでしょう。
2008年01月19日
歴史道 突き当たる先 本願寺
2008年01月18日
大連は 朝靄(あさもや)の中 陽の弱き
2008年01月17日
空港のタクシー
ホーチミン市から成田経由で大連市に来ています。大連の空港からタクシーを拾おうとして、客引きにつかまり、市内まで「百元」と吹っ掛けられました。「今日は寒いからこの料金だ」と言っているらしい。これは高いと断ると、別の客引きが今度は75元と電卓で示してくる。これらの客引きからどうにか逃れて料金メータのあるタクシーをみてけてホテルまでゆくと料金は28元でした。少しは中国語ができてタクシーの相場を知っていたから引っかからなかったけれど、初めて大連を訪れた外国人はよいカモにされているのかも知れない。空港からはメータのあるタクシーに乗るのが海外旅行の定石です。
漢方は かくの如しと 蔵の家
ホーチミン市から帰国して、そのまま成田空港から大連行きの合間に投稿します。
札幌の都心にビルに囲まれ石蔵付きの木造二階建てのこの建物を目にすると、一瞬タイムスリップに遭ったような気持ちになる。漢方薬店であることは看板から分る。インターネットで調べると建物は1901年(明治34年)に出来ている。創業にいたっては1872年(明治5年)というからもう136年続く老舗である。丸井今井デパートの筋向いにある建物で、デパートに買い物に行ったついでに写真を撮っている。ひやかしに店内を覗くのは老舗に威厳に押されてできなかった。
創業の 明治の文字も 薬効か
2008年01月16日
インターネットカード
2008年01月15日
ホーチミン市のバイク
雪の中 明治もかくや 浅野邸
ホーチミン市で投稿してみます。
東本願寺の正面に突き当たる通りに面した木造平屋の建物で、冬期間は閉ざされているのか人の気配がない。建物の後ろに雪で埋まった庭園があり、そこにある立て札を読むと正式には「浅野次郎右衛門邸」である。この人は1884年(明治17年)富山県から渡道して札幌で浅野組を興している。庭に接した石蔵に、丸に違いの鷹の羽の紋が見えて、これは忠臣蔵の浅野家の家紋であるので、両浅野はつながっているのかも知れない。建物はさっぽろ文化百選にも選ばれている。
石蔵の 家紋連想. 忠臣蔵
2008年01月14日
住宅街 奏でる乙女 一人弾き
2008年01月13日
ビルの上 空間開け 貸し画廊
2008年01月12日
紀伊国屋書店に並んだ爪句集
2008年01月11日
お天気で 外出ませんか 猫誘い
2008年01月10日
江別キリスト村記念碑
江別の秘境のテーマ探しで「江別キリスト村」創生の開拓史を知った。今やこの村は存在せず、記念碑が残るのみだということで、この記念碑を探しにゆく。住所は江別市東野幌704番地とだけ記されている。詳細の番地の入った地図を持ち合わせていないので、大まかな地図で見当をつけて現地で情報を得ようと出かけてみる。
筆者のオフィスのある札幌のテクノパークから立命館啓祥高校の横を通り、江別恵庭線に出て江別の市街に向けて車を走らせる。途中の志文別で千歳川の方向に向かう。この辺りでは千歳川が江別市と南幌町の境界になっている。千歳川の土手の工事が行われていて、工事事務所で番地を聞くのだが、工事用の詳しい番地図にも載っていない。近くの農家で聞くと分るかもしれない、とのことで農家をみつけ二軒目でやっと道順を教えてもらう。
教えられた場所に着いてみると、ここは産業廃棄物の処理場になっていて、ダンプカーが出入りし、ショベルカーが作業をしている。危険ということで一般の人は立ち入り禁止の看板が出ている。近くの事務所風の小屋に詰めている作業員に聞くと、昔ここは教会があったけれど、碑については心当たりはないとのことである。取り壊されたのでは、とも言われる。
ここまで来てこのまま帰るのも心残りで作業現場をふらふら探していると、現場監督らしき人がきて、碑の場所を教えてくれる。確かに、これでは見落としそうになるように碑があった。保存運動でもしておかないと早晩この碑は産業廃棄物と一緒に処分されそうな雰囲気である。
この「キリスト村」の開墾は西村久蔵によって始められた。西村は昭和初期に札幌駅前で洋菓子店「ニシムラ」の経営で成功しており、キリスト信者であった。しかし、第二次世界大戦に主計将校として協力したことで公職追放となり、これを契機に開拓のため江別東野幌の地に入植した。行動を共にしたのは4戸であった。しかし、この地は泥炭地で農耕に適せず、苦難の末心臓病を患って、信仰と開拓の生活は三年で終わることになった。この頃、賀川豊彦は祈りを核にした共同体「キリスト村」建設の運動を起こしている。この運動と西村の開拓の実践の関係は筆者にははっきりしない。
1963年開拓に加わった15戸が解散し、キリスト村計画は幕を下ろした。この地での信仰に根ざした開拓史を物語る唯一の記念碑は、一方は農地として広がる雪原と片方は産廃処理のため動いている重機に挟まれて、誰の目にも留まることもなく佇んでいる。その様子は、キリスト村の開拓史が完全に風化していることを物語っている。
2008年01月09日
ゼラニウム 赤白混ぜて 茜色
2008年01月08日
建物も 紅白合戦 駅近く
2008年01月07日
開拓使 麦酒に残す 五稜星
2008年01月06日
江別の食のブランド
現代の市場社会において、どこの地域でもブランドの育成に熱心である。江別市の産業で全国ブランドになりうるものは、レンガに代表される焼物と小麦に代表される食材ではなかろうか。特に食に関しては、近年江別産小麦や小麦の加工食品が知られるようになってきている。
小麦に関して北海道は国内の小麦生産の66%を占める。この状況で、小麦で全国ブランドの地位を占めるものが出てきても不思議ではない。ただ、小麦のように粉食の場合、小麦粉が麺とかパンとかに姿を変えて口に入るため、米のような粒食と比べて小麦そのものがブランドとして消費者に知られるよりは、その小麦を使った食品が広まってブランドの名声につながるようである。
さらに、小麦を製粉する場合、大量の麦を一度に製粉するため、ある品種の小麦だけのオーダー製粉がこれまで難しく、どこ産のどの品種の小麦であるとの区別にこだわることができなかった点もブランド化の壁になっていた。この点江別製粉が開発したオーダメイド粉は食品加工の段階で好みの小麦を利用できるようにしていて、ブランド化に力を貸している。
このような状況で、近年江別の小麦を使った寒干しラーメンやパスタ、江別以外ではあまり知られていないけれど、レンガパンなどの加工食品の開発が盛んになってきて、知名度も上がってきている。小麦の「ハルユタカ」や「ハルヨコイ」はこれらの食品に姿を変えて江別産小麦の評価を高めている。
近年の道産米の評価の高さは江別でも例外ではない。江別産の米がイタリア料理のリゾットとして札幌のみならず道外にも売り出されている。写真に写っている巴農場が生産している「おぼろづき」などの米も知名度が高まっている。
食のブランドは口コミから始まるところがある。食と口コミとなるとおかあさん達である。ここに目をつけた江別市が第1回サンデー&サタデーマーケット「かぁーさん江別ブランド 手作り品大集合!」という企画を実行した。普段はほとんど訪れる人もいない河川防災ステーションの活性化も念頭に、江別産の食材や食品を並べた。人の入りは上々である。このような地域での地道な取り組みが将来の江別の食のブランド形成につながっていくのだろう。
2008年01月05日
2008初夢物語
暑き夏 コクリコ炎 蜂を焼き
外は雪で庭は白一色の世界なので、色の変化を求めて夏の時の写真です。
ヨーロッパが原産で江戸時代の渡来花です。芥子科の花で、科名を表す学名のペパベール(Papaver)は、ラテン語の「papa(幼児に与えるお粥(かゆ)」からきています。Papaの言葉から父に関係して語られる花でもあります。フランスではコクリコの名で呼ばれており、与謝野晶子の歌の一節に「君も雛罌粟(コクリコ) 我も雛罌粟」があります。花弁は薄く、紙のように見えることがあります。虞美人草はこの花の別名で、項羽の愛した虞妃(ぐき)に因んでつけられた名前です。
開きたり 虞美人草の パラシュート
2008年01月03日
爪句集-軽川
2008年01月02日
パノラマ写真
前日に掲載した北大博物館の建物を含むパノラマ写真は、水平方向に直線状に合成できません。手持ちのカメラで方向を変えながら撮った写真を合成する場合、水平方向の上下のずれが影響して合成写真が蛇行するためだろうと思っています。ただ、蛇行するパノラマ写真も面白いと思って、三脚を使わず撮影しています。
地平線がはっきりする風景では、この地平線を基準に手持ちのカメラの方向を変えて行けるので、蛇行しないパノラマ写真が撮れます。その例を北大農場のポプラ並木の風景で示します。なお、ポプラ並木は2004年秋の風台風で倒れたものは若木のポプラに代えられて、並木が片側にしかないように見えます。
陽の低く 影絵並木に 凍る道
名声も 片肺飛行 倒木後
2008年01月01日
大晦日 見学者無く 博物館
今日から新しい年なのだけれど、昨日と変わることもなし、といったところです。身近な秘境を歩こうの講座で尋ねた北大の博物館の写真を大晦日に撮りに行ってきました。
北大の博物館は2001年秋に北大創基125周年にあわせて創設されています。建物は元々理学部に属していて、北大の中では農学部と並んで格調の高い建物です。建物を入った正面に階段があり、二階に上るとアインシュタイン塔と呼ばれる部分があり、その名前の由来の説明が掲げられています。昔は廊下に研究活動に関連した色々なものが置かれて、狭くて暗い廊下だった記憶がありましたが、博物館に衣替えした現在は展示物が廊下にあるものの、すっきりした感じがします。