屯田兵とは北海道開拓時代に国防と開墾の二役を担った開拓者達であった。政府の指定する土地と兵屋が与えられ、訓練と開墾作業を行いながら、最初は兵隊の給料に相当するものをもらい、一定の年限で与えられた土地を開墾し、以後給料無しで開墾した土地からの収穫で生活していく方式である。
屯田兵の兵屋がまとまって屯田村を形成していた。ここで兵屋は政府の規格品であり、兵屋の様式をどのようなものにするかの試行錯誤が行われたらしい。江別市の屯田資料館には各様式の兵屋の模型が展示されている。
この資料館自体は屯田兵の中隊本部の建物であって、米国式の建築様式が採用されている。明治11年(1978年)の第一次江別屯田では米国式の兵屋が十戸建設されている。正方形に近い建物内は4等分されて、中央に暖炉があり、部屋の一つが土間になっている。屋根は切妻柾葺きで、バルーンフレーム構造で特徴のある屋根裏部屋がある。この様式の兵屋は建築費用がかかるため、後に建築されることはなかった。
開拓使長官黒田清隆がロシア沿海州の兵舎を視察し建てたのが篠津型兵屋で、これは丸太を積み上げて造るので、いわばログハウスである。これも暖炉を部屋の中央に置き、内部を「田」の字形に四等分して部屋を設けている。元々寒冷地仕様の建物であったけれど、ログハウスの建築に日本の大工が慣れておらず、丸太の間に隙間が出来たりして不評で本格的な採用にはいたらなかった。
洋式の兵屋に代わって建てられたのが日本式の兵屋で、長方形の建物の入口から土間が続き、土間から板の間の部屋になり、ここにいろりがある。台所は土間につながっている。板敷きの部屋に畳みの和室が接している構造である。この様式は札幌西区の琴似に国の指定史跡となっている兵屋として残されていて、内に入って見ることができる。
当時の兵屋の写真を見る限りでは日本式兵屋は掘っ立て小屋の印象を受ける。日本式の兵屋では煙突が無いので、天井に煙抜きの構造がないと煙は部屋に充満することになる。窓を開けて煙を外に逃がすと寒気が入ってくる。現在の北海道の勝れた断熱式の住宅に住んでいる世代には、この時代の兵屋の住み心地は想像を絶するだろう。
ただ、戦後の下見板に柾葺き屋根、室内に薪ストーブの家屋に住み、冬の朝には台所にある汲み置き式水がめに氷が張っているのを経験している筆者には、この兵屋での冬の生活の厳しさには少しは思いを馳せることができる。