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2007年09月30日

厚田川を遡る鮭

 自宅近くの中の川を遡る鮭のことを書いたついでに、厚田川を遡る鮭についてです。昨年の秋にはわざわざ石狩市の厚田川に架かる「やまなみ橋」まで鮭の遡上を見に行きました。1年経った今、この時のことを小樽・石狩の秘境のテーマの一つに選んで秘境本シリーズの校正の段階です。そのページを載せておきます。
 このページにあるような地図データの制作やはめ込みのところで手間取って、本の出版が遅れています。次の印刷・製本の段階でどのくらい時間がかかるか(多分1ヶ月余)で出版日が決まってきます。取材から本ができるまでは1年以上は日にちがかかることになります。
 札幌秘境に続く2冊目の本の出版なので、1冊目のノウハウがあってスムーズに行くかと思うと、本の制作、自費出版と流通のこと等々、ある意味ではこの業界の秘境部分が顔を出して来ていて、世の中どんなところにも秘境部分はあって、それを問題視するとそこから先には進めなくなる、という思いがあります。

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2007年09月29日

中の川を遡る鮭

 自宅の近くを中の川という川が流れています。都会の川の整備方法で、両岸はご覧のように人工の岩場になっています。ある意味用水路のような感じになっている川に、今年は鮭が遡ってきています。これには驚きました。

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 昨年は鮭の遡上を見ようと、厚田川まで出向いて、これを今出版を目前にしている「小樽・石狩秘境100選」の1テーマに入れておいたのに、何と自宅の直ぐ傍で鮭の遡上を見られるなら、これはかなりピントのはずれた取材であったとは思われます。ただ、今回も川の中の鮭をカメラに納めようとするのですが、川の流れがあって、水面からの光の反射で水中の鮭の姿は目で見えても、ピントの合った写真に撮るのは難しいものです。
 
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2007年09月28日

ここ見よと 山芍薬の 実が光り

 野幌森林公園は、広い公園内を遊歩道が伸びている。遊歩道に沿って貴重な植物のあるスポットがあり、愛好家だけがその場所を知っている、という植物や鳥(ふくろう)等の巣がある。たまたま瑞穂の池へのルートを歩いていたら、先方が当方を秘境探検家と認識してくれた方がいて、珍しい植物のスポットを教えてくれた。そのうちの一つは山芍薬である。
 この花は既に実となっていて、どういうものか赤と青の実の部分が光っている。光の当たり具合なのだろうけれど、ここに自分がいるから、とアッピールしているようであった。

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 近づいて写真を撮ってもやはり光っている。発光体とさえ思えるほどである。林の中も探すとこのような植物に会えるとは、この森林公園は奥が深いと感じた。来年には実際に山芍薬が咲いているところを見てみたいものだ。とは思っているけれど、数時間しか咲かない花だとの話もあり、これでは花の咲くのをみることはできないかな、とも思っている。

山にある 芍薬の実は 発光体

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2007年09月27日

オンコの実 宝石かなと つまんで見

 秋はすぐそこまで、という感じです。気温が急に低くなる日が現れてます。リンゴのような成り物の木が目立ちますが、オンコの実も日光の当たり具合で鮮やかです。

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 道路脇にあったほうき草から鶏頭(紐鶏頭らしい)がはみ出している様は、天狗の面のようにも見えます。

鶏頭は 天狗の鼻に 擬態して

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2007年09月26日

道新豆本記事

 本日(9月26日)の北海道新聞朝刊の全道版に札幌秘境100選中国語版の豆本の紹介記事が掲載されました。豆本の販売に役立つと思っています(日本語も併記されていますが、中国語版ですので道内で売れるかどうかは未知数ですが)。この豆本はシリーズ化しようと考えていて、現在次の豆本出版の準備に入っています。その前に「小樽・石狩秘境100選」の出版にけりをつけなければならないのですが、こちらは地図データ挿入の編集段階で足踏み状態です。

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2007年09月25日

開店したてのパン屋

 江別市の国道12号線沿いの開店したばかりの手作りパン屋にたまたま寄りました。国道が四季のみち公園を横切りところで、手作りパンの旗につられて入ってみました。店名はマルリでこの名前については聞き漏らしました。玄関には開店祝いが並べられていました。

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 開店当初はどんな店でも頑張る雰囲気が伝わってきます。商品もオリジナルなものが並んでいて、味もよろしいです。開店早々でも客がやって来ていましたから、はやっている店のようでした。

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2007年09月24日

スウェーデン交流センターでのスールストロミング試食会

 いつも受付嬢と行動を共にするF社長のお誘いで、当別町のスウェーデンヒルズにあるスウェーデン交流センターでのスールストロミングの試食会というのに参加して来た。ここでスウェーデンヒルズとは、当別の少し小高いところに開けた高級住宅団地で、広い芝生の庭と統一された形と色合いのスウェーデンハウスが並んでいる。言ってみれば当別版ヒルズ族の住むところである。

 この団地の中央にスウェーデン交流センターがあって、北海道とスウェーデンとの文化交流をその役目としている。センターホールの建物内にはスウェーデン紹介の本や資料、民芸品等が並んでいる。センターホールの近くに「ガラス工芸工房」、「木材工芸工房」の建屋があり、芸術家や工芸家の活動の場を提供している。1986年に交流センターが出来た当初は、スウェーデンからインストラクターをこれらの工房に招いたそうである。

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 スールストロミングの方は生鰊の塩漬けである。缶詰になっていて、缶を開けて食べるだけである。それが何で試食会になるかというと、その臭いである。塩漬け鰊は発酵していて、その臭いが強烈である。食品なのに決して良い臭いという訳ではない。生魚が腐った臭いである。臭いが強烈なので、家の内ではなく、庭で試食会が行われる。缶詰にしても、発酵食品で中身が膨張して缶が破裂する危険性があるので、航空便の扱いが敬遠され、輸入業者が現れない。このためほとんど輸入禁止食品のようになってしまって、スウェーデンとの文化(?)交流の名目で細々と日本に持ち込まれるものを、同好の士(?)と試食してみようというのである。

 毎年参加しているというF社長が缶詰を開けている。受付嬢はどこかに行ってしまっている。缶が開くと、嗅ぎたくはない臭いが辺りに広がる。この臭いを出しているスールストロミングがテーブルの上に乗せられる。当別で採れたじゃがいもやトマト、野菜サラダも並べられる。スールストロミングを乗せて食べるベースのクラッカーなどもある。

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 お金を払っての試食会なので当然一口は食べてみる。味は鰊の塩辛といったところか。美味しいかと問われれば、即座に美味しくないと口に出る。ビールやじゃがバターで口直しである。試食会の様子の写真を載せておく。怖いもの見たさ(食べたさ)で結構人が集まっている。受付嬢はといえば、写真に写っているけれど、テーブルの下の方で水ばかり飲んでいた。

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2007年09月23日

四季のみちのホタル

 北電の江別火力発電所が稼動していた時、ここに石炭を運び込む石炭車の引き込み線がJR江別駅と高砂駅の中間ぐらいのところから分岐してあり、スイッチバックで石炭車が引き込み線へと導かれた。この石炭車は公園の中に展示されている。近くには火力発電に利用されたタービンや電気の遮断機なども展示されている。

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 火力発電所が閉鎖されて、この引き込み線も廃止となった。その線路跡が「四季のみち」の公園となっている。引き込み線の跡であるため、この公園は遊歩道の趣の細長く伸びる公園で、春、夏、秋、冬のゾーンに分けられている。前述の石炭車は秋のゾーンに置かれている。

 現在のJRの線路から国道12号線を横切るあたりまでは春のゾーンで、国道を横切り江別市立病院横辺りまでが夏のゾーンである。このゾーンは夏のテーマに合わせてヘイケボタルの繁殖地として整備と保護が行われている。このこともあって、四季のみちの歩道はアスファルト舗装なのに、ホタルの道の区間のみ枕木が敷き詰められている。

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 ホタルの一生の説明板を読むと、産卵は自然の草の根元や苔が選ばれるので、夏の間は道の両側の草は刈らないでおくのだそうである。ホタルの成虫は光を発するのに、成虫も幼虫も他の光は苦手らしく、この辺りは夜間なるべく暗くしている。ホタルの光を見るためとはいえ、暗く草が生い茂ったこの道を暗闇のなかで歩くのはちょっと怖いのではなかろうか。ただし、実際に歩いたことはないので分からない。

 ホタルの幼虫は水の中で生活し冬を越し、蛹になり、成虫となる。成虫になってからは水しか飲まず、2週間ほどの寿命で産卵を行い死んでしまう。ホタルの光を見ることができるのはこの成虫が生きている2週間の間と思うと、その機会を捉えるのはなかなか難しそうである。残念ながら、この夏のゾーンでホタルが光っているのは実際に目にしていない。ホタルが光を発するのを見ないと、この秘境の記述も画龍点睛を欠いていることになる。来年の夏には見られるだろうか、と思いながらのレポートである。

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 夏のゾーンの市立病院横には黒川晃彦の「ワンモア・タイム」の題がついた、サキソホーンを演奏する人物像が椅子に座って置かれていた。なかなかユーモラスな像である。像の横には人工の水辺が造られていて、最初通り過ぎた時には誰も居なかったのに、戻る時には女子生徒が素足になって水辺で語り合っていた。夏も過ぎようとしている土曜日の午前中である。

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2007年09月22日

豆本の大きさ

 「札幌秘境100選ー中国語版」豆本がやっと印刷されて手元に届きました。サイズはA7です。どのくらいの大きさかを、元のA5サイズの「札幌秘境100選」と並べておきます。

 小さいので文章の内容は簡略化されています。中国語の他に日本語の原文があります(中国語の翻訳がおかしい場合に対応した処置です)。ただし、日本語は私のように視力の落ちた者は拡大鏡を用いなければ見えません(豆本の印刷技術がどの程度かのチェックをしたかったこともあります)。この本には札幌の航空写真の綴じ込み地図を織り込んであります(見る時は広げます。これも豆本で試みてみたかった)。定価は400円です。

 この豆本の内容は秘境システムhttp://www.hikyo-100sen.com/}の紙ベースのものの位置づけでもあるので、同サイトにアクセスしていただくと、内容を見ることはできます(ただし、完全に全部をサイトに載せてはいません。が、豆本のテーマ以外のものがサイトでは見ることができます。)

 eSRU豆本series1の位置づけです。もし、この豆本の叢書が続けば、この最初の豆本にはプレミアムがつくと思っています。書店ではなかなか手に入らないのではないかと思います。私のところまで注文していただくとメール便で送ります。

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2007年09月21日

美園リンゴ並木

 環状通の豊平区美園を通ると車道の分離帯にリンゴの並木があります。この時期リンゴが実をつけていて、都会のこんなに交通の激しいとろろに帯状の果樹園もどきが広がるとは、札幌の景観としてもっと売りだせるのではないかと思いました。

 で、車を留めてこのリンゴの並木を撮ってきました。リンゴにはコンサドーレのキャラクターやロゴのシールが貼られていているものもありました。気になるのは並木のリンゴは誰の口に入るのかな、という点です。リンゴが落ちるまで放っておくのかな。

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2007年09月20日

火薬庫の刻印のあるレンガを探して

 江別市の郷土資料館で耳にした話である。屯田兵部隊の火薬庫が残っていて、使われたレンガを製造した会社の鈴木煉瓦の頭文字Sが刻印されているものがある。そこで火薬庫と刻印のあるレンガを見に行くことにする。国道12号線からJR江別駅の方向に折れて火薬庫の近くの江別小学校付近のスーパーに駐車する。店員に場所を聞くのだが、あまりはっきりしない。

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 地図もあったので、多分このあたりだろうと見当をつけて小学校の横の道を歩いて行くと火薬庫が直ぐに目についた。レンガ作りの4.5坪の小さな四角の小屋で、北海道には珍しく瓦屋根になっている。後で調べてみると、火薬庫の役目を終えてからは、天皇の御真影奉置所や教育勅語を納めておく奉安殿に利用されたそうで、そのために屋根は立派なものにしたのかな、とも推測してみる。

 この火薬庫は江別に屯田兵の大隊本部が置かれた年の1887年(明治20年)に建てられ、屯田兵制度が廃止される1887年(明治39年)まで本来の目的で利用されたそうである。その後は江別尋常高騰小学校敷地に移設され前述の役目の建物として利用され、1957年江別小学校が新築されることに伴って現在地に移されている。

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 さて刻印のあるレンガ探しである。それほど広い壁でもないので、一枚一枚といった感じで探してみるのだが、刻印の入ったレンガを見つけることは出来なかった。近くの説明板にもS字の刻印のことは書かれているので、わざわざここまで見に来る人が見つけ易いように、刻印されたレンガの部分に何か記しでもつけておくとよいのに、と思った。

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 刻印されたレンガを見つけることは出来なかったけれど、火薬庫の近くに二宮金次郎像があるのを見つけた。近づいてみるとコンクリート製のようで、無残にも顔や手が欠けている。古いもので取り壊すのが憚れ、この姿で残っているのだろう。しかし、これではあまりにもみっともない姿を晒している。関係する地元の組織なり人なりでどうにかできないものだろうか。刻印のレンガを見つけることが出来なかった上に、この惨めな金次郎像を見て、今回の秘境探検はすっきりしない気持ちであった。

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2007年09月19日

街の中のパンダ

 江別市のJR江別駅の近くの歩道にパンダの標識をみつけました。札幌の秘境で「パンダの棲む街」のテーマでパンダを追いかけたのを思い出しました。

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 新札幌の駐車場にあったと記憶しているパンダの絵です。その他にもパンダの絵は札幌にはありますが、今回の江別・北広島ではパンダはほとんど目にしていません。

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2007年09月18日

天徳寺の屯田兵木像

 この浄土宗のお寺は江別市のJR野幌駅を降りてすぐのところにある。境内には地蔵が並んでいて太子堂もある。お寺の内に誰か居るかと探すのだけれど誰も見つからない。事前に見学の電話をかけておいたこともあるので、そのまま本堂に行き、お目当ての屯田兵の木像とご対面である。

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 本堂の左側の仏間に仏さんを中心にして左右に16体ずつ計32体の木像が安置されている。これらの木像は江別・野幌の屯田兵村から日露戦争に出征して戦死した32名の屯田兵を供養するためのものである。当時の天徳寺の住職や村の有志が、名古屋のからくり人形師玉屋庄兵衛に依頼して作り、1907年(明治40年)にこの場所に安置された。

 木像は制服・制帽を着用して、銃を下げて整列している。立像の台の部分に軍人としての階級と氏名が書かれていて、木像が似ていても、戦死したそれぞれの屯田兵に対応している。中に一体水兵姿のものがあり、他の像には陸軍と書かれているところ、この軍人は海軍となっている。屯田兵の時代に既に陸軍、海軍の組織分けが出来ていたようである。これらの屯田兵の中で階級が一番上だったのは陸軍歩兵中尉のようである。

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 屯田兵は北海道の守りと開拓を行う半軍人、半農民で、北海道に留まっていると思っていたら、海外まで行って戦争に加わったとは知らなかった。確かに国家が給料に相当したものを与えている将兵であれば、外国との戦争となれば海外の戦場に駆り出されても不思議ではない。

 境内にあった太子堂は文字通り聖徳太子をお奉りしている。聖徳太子は職人の神様でもあるらしく、江別や野幌でレンガ産業に携わって来た職人の守り神としてこの境内に堂がある。浄土宗の寺の境内に太子堂とはちょっと違和感があるけれど、聖徳太子は仏教を広めていて、日本では神仏は敵味方という訳でもないので、特に変でもないのかも知れない。

 むしろ気になったのは境内にあった地蔵の方で、大きな地蔵2体をのぞけば32体が並んでいる。これは屯田兵の木像の32と同数なので、あるいは屯田兵の地蔵なのかも知れない。しかし、寺には誰も居なかったのでこの点を確かめる術はなかった。

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2007年09月17日

円形校舎

 通りすがりに円形(円柱)校舎を目にしました。円形とは珍しい。このような形の建物の使い勝手はどんなものであるか聞いてみると話も面白くなるのでしょうが、そこまでする余裕はありませんでした。この学校は江別市立第3小学校でした。

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 この学校には校舎に大きな壁画がありました。焼物で出来ているようで、陶芸の里ー江別をアッピールするためのものであるようですが、これも写真を撮っただけで本当の「ところは分かりません。

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2007年09月16日

豆菓

 野菜スイーツというのが人気だそうで、豆菓というケーキ屋さんが西野にあると聞いて行ってみました。小さな店舗で、ケーキ作り、店番を女性店主が一人で行っている店です。

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 ケーキのケースには色々並んでいるのですが、豆菓エクレアというのを買いました。これはこの店の一番人気の商品だそうです。どんなケーキかというと、店の説明をそのまま書くと、緑茶味のシュー皮にカスタード・生クリーム・小豆のクリームを詰め、きな粉をふりかけた「和風のエクレア」です。味は良かったです。食べ歩き、買い歩きの秘境探検は楽しいのですが、お金がかかる点が問題です。 

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2007年09月15日

クエッション・タイム

 近くの住宅地を散歩していたら、小さな公園の中の木の幹に写真の注意書きが貼り付けられていました。「樹液をなめようとしてxxxxx」等がいますので注意してください」とあります。肝心のxxxxxの部分が消えてしまっている。注意書きとしては意味がないのだけれど、もともとここにこの注意書きをするほどのこともなかったと見えて、意味の通じない注意書きが晒されている。そこで問題。この「xxxxx」は何でしょう。

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 答えは北広島市のレクレーションの森でみつけた注意看板のものです。こちらは森のような場所にあたので説得力がありました。

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2007年09月14日

採石山 蘇ったり 新公園

 「札幌秘境100選」で取り上げた五天山は採石場でもあったのですが、採石場跡の緑化と公園化が進められて、今年行ってみると「五天山公園」に生まれ変わっていました。

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2007年09月13日

屯田兵屋の様式

 屯田兵とは北海道開拓時代に国防と開墾の二役を担った開拓者達であった。政府の指定する土地と兵屋が与えられ、訓練と開墾作業を行いながら、最初は兵隊の給料に相当するものをもらい、一定の年限で与えられた土地を開墾し、以後給料無しで開墾した土地からの収穫で生活していく方式である。

 屯田兵の兵屋がまとまって屯田村を形成していた。ここで兵屋は政府の規格品であり、兵屋の様式をどのようなものにするかの試行錯誤が行われたらしい。江別市の屯田資料館には各様式の兵屋の模型が展示されている。

 この資料館自体は屯田兵の中隊本部の建物であって、米国式の建築様式が採用されている。明治11年(1978年)の第一次江別屯田では米国式の兵屋が十戸建設されている。正方形に近い建物内は4等分されて、中央に暖炉があり、部屋の一つが土間になっている。屋根は切妻柾葺きで、バルーンフレーム構造で特徴のある屋根裏部屋がある。この様式の兵屋は建築費用がかかるため、後に建築されることはなかった。

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 開拓使長官黒田清隆がロシア沿海州の兵舎を視察し建てたのが篠津型兵屋で、これは丸太を積み上げて造るので、いわばログハウスである。これも暖炉を部屋の中央に置き、内部を「田」の字形に四等分して部屋を設けている。元々寒冷地仕様の建物であったけれど、ログハウスの建築に日本の大工が慣れておらず、丸太の間に隙間が出来たりして不評で本格的な採用にはいたらなかった。

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 洋式の兵屋に代わって建てられたのが日本式の兵屋で、長方形の建物の入口から土間が続き、土間から板の間の部屋になり、ここにいろりがある。台所は土間につながっている。板敷きの部屋に畳みの和室が接している構造である。この様式は札幌西区の琴似に国の指定史跡となっている兵屋として残されていて、内に入って見ることができる。

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 当時の兵屋の写真を見る限りでは日本式兵屋は掘っ立て小屋の印象を受ける。日本式の兵屋では煙突が無いので、天井に煙抜きの構造がないと煙は部屋に充満することになる。窓を開けて煙を外に逃がすと寒気が入ってくる。現在の北海道の勝れた断熱式の住宅に住んでいる世代には、この時代の兵屋の住み心地は想像を絶するだろう。

 ただ、戦後の下見板に柾葺き屋根、室内に薪ストーブの家屋に住み、冬の朝には台所にある汲み置き式水がめに氷が張っているのを経験している筆者には、この兵屋での冬の生活の厳しさには少しは思いを馳せることができる。

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2007年09月12日

登りたる 山を朝日で 確かめつ

 朝散歩しているところから西野の街と、それを取り巻く山々を撮っています。三角山とか五天山などの登った山を推定していますが、山の形からは確信が持てません。

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 我が家の屋根も見えるのでズームの写真です。小型のデジカメですが、ズーム、接写、パノラマと種々の写真が撮れて、デジカメもここまで機能が揃っているか、と感心するばかりです。

我が家に 朝の射光の やわらかく

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2007年09月11日

札幌100秘境豆本

 札幌100秘境中国語版豆本の表紙のデザインが固まり、印刷・製本の段階に進みつつあります。今月下旬には本になります。豆本のサイズははがきの半分です。つまり本を開くとはがきの大きさとなります。200ページ強です。このサイズに秘境の場所の地図も綴じ込みます。この本は豆本のシリーズ第一巻目の位置づけで、eSRU (e-Silkroad University) 豆本series 1としました。書店で扱ってくれる本かどうか分かりませんし、一般の方が手にすることが難しい本になるかも知れません。今後この豆本シリーズが出版されても(現在次のものの原稿の準備に入っています)、一般の方には幻の豆本叢書になるかも知れない。1冊400円でお頒けします。

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2007年09月10日

開拓記念公園

 国道274号線から江別恵庭線(46号線)に折れ、北広島市役所の辺りでこの公園にたどり着く。整備された公園であったけれど、訪れた土曜日の午前中は園内には人影はなかった。公園の中央には飛躍と銘打たれたモニュメントを中心に子供達が遊ぶレリーフが置かれている。芝生と植栽があり、ところどころに北広島市の歴史が書かれた説明板があって、それを読むと一通り北広島市についての知識を仕入れることができる。

 この市のルーツを辿ると、広島県人和田郁次郎にたどり着く。同人が1882年(明治15年)初めて来道し、それが契機となり1884年広島県人25戸103人がこの地に入植している。1968年に広島町が誕生しているけれど、町名はこの先人達の出身地広島に由来している。1996年には北広島市が誕生している。広島町から北広島市になったのは、既に広島市があったことによる。

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 この開拓記念公園は1984年(昭和59年)の同市開基100年を記念した事業により造園されている。広島県との歴史的なつながりで、広島県東広島市と姉妹都市の関係にある。広島市とも交流が行われている。また、球団の広島カープが来道して試合を行う機会をとらえて、市民(かつては町民)と野球を介しての交流もある。

 その交流を示す碑が園内にあった。「交流の翼」の文字が刻まれた碑には広島市少年野球協議会の名前があるので、これは野球が取り持つ交流である。ただ、その碑には原爆石が置かれていて、これは旧広島市庁舎の被爆した石をここに運んで設置したものである。原爆は北海道のこの地にも影を落としている。

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 公園内には水が湧き出していて、それが園内の小川となっている。ここは開拓時代の水源地跡でもあると説明されている。現在足元を流れている水が昔からの水源のものであるのかどうかは分からない。しかし、なかなか良い水辺を造っている。

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 園内にあった親子像は写真を撮っただけで、よく調べてみなかった。作者とか彫刻名とかが分からないので、又の機会に訪れることがあれば調べておこうと思っている。

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2007年09月09日

緑葉公園の安田侃の作品

 北広島市は札幌市のベッドタウンの性格を持っている。そのため団地や住宅街がJR北広島駅を中心に開発が進み、特にJR千歳線の西側にはいくつもの団地が丘陵地帯に展開している。都市計画に沿って住宅地が開発されたことは、大きな緑葉公園が住宅地に取り囲まれるようにしてあることで分かる。

 この緑葉公園には野球場、サッカー場、テニスコートなどの施設があり、遊歩道も整備されているので、市民が屋外スポーツを楽しむように設計された公園である。この公園に彫刻家安田侃の作品が設置されているというので見に行く。その前日には北海道新聞にローマ発の記事で、安田侃の個展がローマ帝国の遺跡群「フォロ・ロマーノ」で始まったというのを読んだことも探検先に選んだ理由の一つでもある。

 安田侃は美唄市出身で、イタリアの大理石を素材にした彫刻を手がけている。札幌市にもJR札幌駅の「妙夢」、知事公館の「意心帰」、中島公園の「相響」などがある。それにしてもこれらの彫刻名は意味不明である。

 彫刻名はさておいて、探検にもどる。緑葉公園の第一駐車場に車を止めて、レンガ造りの階段を登る。小高いところに広場が開け、ここに「新生」と名づけられた大理石の作品が黒い御影石の塔の上に設置されている。設置年は1979年となっているので約30年前のことになる。寄贈者はダウ化工株式会社となっている。この会社と北広島市の関係は分からない。

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 白大理石の作品は卵をイメージさせる。しかし見る方向を変えると球体に切れ込みが入っていて卵でもなさそうである。この種の作品に具体的物を当てはめても意味はないけれど、文章だけで表現しようとすれば、何に似ている、と書かねばならない。この点、画像データもテキストデータと一緒に表示できるブログは、このような作品紹介では強力な手段である。

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 この作品のある場所から少し高いところから見ると、同心円状で植えられた芝生の内側の円のはずれに立っている。この全体の配置も彫刻と一緒にしてデザインされているのであろう。彫刻の向こうには北広島の住宅街が台風一過の夏の終わりの空の下にあった。

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2007年09月08日

島松軟石の名残

 島松はアイヌ語の「シュマ・オ・マップ」が語源といわれ、これは「岩石のあるところ」の意味である。島松は島松軟石といわれる石材が採れたところで、軟石の岩が地表に露出していたといわれている。この軟石の切り出し場の跡を見ることができる。

 現在の国道36号線が島松川を越える辺りは高架橋になっていて、高架橋下の道路に下りて見ると、石切り場の跡を見ることができる。軟石の岩がいかにも橋を支えているような格好になっていて、大きなコンクリート製の橋脚と協力しているようである。かつての建築物の建材の軟石と現代のコンクリートの対比の妙が感じられる。

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 島松の軟石はかなり古くから採石が行われていて、1960年頃まで続いていたとのことである。軟石は火砕流の堆積物が岩となったもので、加工のし易さから良く利用された時代があった。札幌軟石、小樽軟石もよく用いられた。しかし、ブロック建材が現れてコスト競争となると軟石は分が悪く、建材から姿を消している。現在目にする軟石はかつての建築物の名残である。

 そのような名残の一つをこの採石場跡の近くで見ることができる。この高架橋の近くには島松駅逓所の史跡がある。その史跡の裏山に石で出来た門が残されている。この門は島松軟石で出来ている。この門は駅逓所の敷地に入るための門のようで、門の内側には明治天皇行幸在所の石碑があるので、その当時は整備された庭園だったのかも知れない。

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 この明治天皇の行幸は1881年に行われていて、天皇一行は船で小樽に着き、SL義経号で札幌に入っている。札幌からは島松、苫小牧、室蘭を経由して函館に行き、ここから船で帰京している。このとき島松の駅逓所で休息した折に天皇が飲んだ水に因んで「御膳水」の碑が駅逓所の建屋の横にある。

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 この時駅逓所を経営していた中山久蔵は北海道の稲作の祖でもあり、北海道の稲作について天皇に説明しているはずである。その際建材としての島松軟石に話が出たのか出なかったのかについては知る術もない。

2007年09月07日

陽(ひ)を真似て 花弁はコロナ 種光球

 台風が北海道にも接近中で、雨風の前に明るい陽のもとの写真です。

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2007年09月06日

新川を 下るもみじ葉 上る鮭

 橋の欄干の飾りです。札幌市の新川に架かっている橋です。この他にも色々あります。

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 石狩市庁舎の近くの樽川橋のものです。

 樽川の 土手のハマナス 橋に乗り

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 札幌市の新川に架かっている天狗橋のものです。

 天狗橋 鼻高き人 名を残し

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2007年09月05日

化石の野外展示

 化石が野外に展示されているのは珍しいのではなかろうか。北広島の達磨寺の境内がこの化石の野外展示場になっている。料金を取る訳でもなく、駐車場からつながる境内と思しき一角に化石が置かれている。これだけ大きな化石なら誰かに持ち去られる心配もなく、無造作に置かれている。

 化石の説明の看板があり、穂別の化石と書かれている。化石の産地でもある穂別で採取されてここに運ばれたようである。まず、化石の王様アンモナイトがある。これだけ大きなものを掘り出すのも運び込むのも大変だったろうと推測される。ビルの大理石板の内装で見つけることにできる小さなアンモナイトがあるかと思えば、こんな巨大なアンモナイトもあって、この太古の生物のサイズの幅の広さには驚く。

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 亀甲石は石に亀裂が入っていて文字通り亀の甲羅を連想させる。石灰分が固まった後に地表に出て乾いた時に出来る乾裂痕である。形の良いものは飾り物や盆栽に使われたりして珍重されるらしい。

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 石の種類より形にこだわったものとして、達磨の形に似ている石というのがあった。言われてみるとそのような気もするけれど、さてどうだろうか。無理な連想と思えなくもない。

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 他の説明板にはトリゴニア砂岩が出ている。これは中世代に繁栄した二枚貝が砂岩と一緒になって採取されたものである。ノジュールの説明もある。こちらは母岩から分離できる球状やレンズ状の石で、その内に生痕化石、動物化石を含んでいる。ノジュールを割るとその中にアンモナイトの化石がつまっていたりする。

 化石という点から北広島を見るとなかなか多様で、産出するものが豊富であるらしい。地層は古い順から下野幌層、音江別川層、小野幌層などがあり、下野幌層では、北広島カイギュウやヒゲクジラの仲間等々の大型ほ乳動物化石や貝類化石が産出していて、市の名前を採って北広島化石動物群と呼ばれている。達磨寺の野外展示の化石に北広島産のものがあるのかどうかは、生憎説明してくれる人が居なかったので分からなかった。

2007年09月04日

屯田資料館の五稜星

 江別市野幌代々木町錦山緑地内にこの資料館があり、隣り合わせに錦山天満宮の神社がある。資料館の開館日は土、日と祝日なので、9月に入っての最初の土曜日に訪れてみる。

 この建物は屯田兵の中隊本部を移築、補修したものである。鉄製の門があり、五稜星のマークがデザインされて門格子に取り付けられている。この門は新しく造られたものであろう。この五稜星は開拓使のマークとして採用されたもので、北辰星(北極星)を想定してデザインされたものである。開拓使の関係する建物には今でもこの五稜星のマークを見ることができる。

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 このマークの制定時に開拓使長官であった黒田清隆は、五稜星から七稜星へのデザインの変更を申し出たけれど、それは却下されている。しかし、現在の北海道旗のデザインは七稜星を使っていて、黒田提案と直接は関係ないけれど、結果的には黒田提案を取り入れた形になっている。

 資料館の屋根の飾りの下の部分に目をやると五稜星が目に入る。屋根の飾りの部分にも五稜星がデザインされているのだが、下からははっきり見えない。改修時にこの飾りの古いものが残されていて、それを資料館の二階で確認することができた。

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 一般の見学者には資料館の一階部分が開放されていて、屯田兵に関する展示やこの建物の室内を見学できる。入館料は100円である。館内には見学客は誰も居なかったせいもあって、受付兼説明役の人が丁寧に説明してくれる。探検隊が興味を示したためと来館者が居なくて説明員の手持ち無沙汰が重なって、二階まで案内してくれる。急勾配の狭い階段を登ると天井の梁のない屋根裏部屋のような空間がある。

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 この建物はバルーンフレーム方式というそうである。我が家のツーバイフォー方式とそっくりで、現在ツーバイフォーと呼んでいる建築方式のルーツなのだろう。この部屋に元の屋根飾りが置かれてあり、それは五稜星と雲形がデザインされていた。ふと傍を見ると、ベニヤ板に書かれたこの建物の設計図があり、横はひらがな、縦は漢数字で柱の位置が分かるようにした図面である。他の設計図もベニヤ板に描かれている。建築の専門家は興味を示すそうだけれど、当方にはその古文書(板?)的価値については見当がつかなかった。 

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2007年09月03日

ガラス工芸館の作品たち

 野幌代々木町を突き抜ける国道12号線と並行で、兵村2番通りとも呼ばれる通りに面してこのガラス工芸館がある。公園の縁に建つレンガ造りの建物は瀟洒で、外観からこの内にガラス工房の作業場があるとは思えない。

 この建物は元々故・石田惣喜知氏の個人の家であったものを江別市が買い上げ、推定重量540トンの建物を40メートルほど移動して現在地に移して改修工事を行ったとパンフレットに書かれている。総工費は9千万にもなるそうである。新しく建てた方が安上がりだと思うけれど、古いものを生かそうとするとお金がかかる。

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 中に入ると一階はガラスの作品の売り場と地階から吹き抜けになっている作業場があり、ガラスを吹く作業を上から見下ろすことができるようになっている。作品作りの作業は午後に行われることが多いそうで、この時は作業の様子を見ることができなかった、二階はガラス作品の展示室となっている。現在、この施設全体をガラス工芸家の柿崎均氏がレンタルしていて、同氏の作品が展示されている。

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 同氏の作品は木工とガラスのコンビネーションに特徴があるようで、胴体は木、顔や手がガラスといった作品が並ぶ。現在札幌の近代美術館で行われているダリの絵画をガラスで表現したような作品もある。狭い空間ながら、壁のレンガ、窓の外の緑が手伝って作品群を引き立たせている。無料で、前述のお金のかかっている施設であることも加えて、来館者が少ないのであればもったいないことである。

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 ガラス製のりんごが窓際に置かれてあって、窓越しに見える外の景色との取り合わせは写真の題材にもなる。筆者が写真家なら芸術的写真を撮るためここで粘るだろうな、と思った。その他小物の作品や実用品が並んでいて、品定めするのは面白い。

 そのうち作品の作り主の柿崎氏が現れる。ガラス工芸には知識がないので、展示している作品は売れるか、などいった俗っぽい質問をしてみる。この場所ではほとんど売れないと返答に合わせた訳でもないけれど、ガラス製のペーパーウェイトを一個購入した。入館無料でも取材費とカウントされる出費はあるものだと思って工芸館を後にした。

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2007年09月02日

江別式土器

 札幌には札幌の接頭(接尾)語がつく言葉で全国に通用するものがある。「サッポロビール」、「札幌ラーメン」、最近なら「コンサドーレ札幌」などとある。これに類するもので江別の付く言葉で全国に認められるものはないかと探していて、「江別式土器」というのを見つけた。

 石狩川左岸の対雁(ついしかり)にある坊主山と呼ばれる砂丘に、北電の火力発電所が建設されることになり、建設予定地の発掘調査が行われた。その時、縄文時代から擦文時代にわたる多数の遺物が出土し、なかでも多数の完形土器が発見されている。これらの土器は「江別式土器」と命名され、この言葉は考古学の世界で認められている。さらに、江別式土器は文様から古い順番にA,B,C、Dと分類されている。特殊な世界ではあるけれど全国に通用する江別の接頭辞のつく言葉となっている。

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 江別式土器のコレクションは江別市の郷土資料館内でみることができる。資料館の二階に上ると夥しい数の土器が展示棚の上に置かれている。江別式土器を生み出した人々が東北地方まで勢力を伸ばし、北日本に一つの文化圏を形成し、これを「江別文化」と呼ぶそうであるけれど、こちらの文化の名称は初めて知った。さて、これが考古学界その他で広く認知されている用語なのかどうかは専門家でないので分からない。

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 江別式土器の表面にある幾何学文様がアイヌの文様のルーツになったという説は、実際出土された土器群をみていると説得力がある。土器のなかには彩色が残っているのものあり、他の文様のはっきりした土器とともに見応えのあるものである。

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 展示室とは別の一室に縄文式土器が並んでいる。これは現代の縄文土器造り愛好家(専門家?)が、縄文時代と同様にして粘土をこね、文様をつけて、薪を焚いて土器造りをしたものだそうである。本物と比べても遜色にない土器が棚に並んでいた。一部は焼物市の売り物となっているそうで、確かに土器には値段がついていた。江別式土器を参考にして、現代製の縄文式土器をブランド品に高めることができれば、江別式土器の名前はさらに認知度が高まると思われる。 

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2007年09月01日

芸術文化ホールの軟石と化石

 JR北広島駅に面して、市の芸術文化ホールがある。市立図書館とも一体になった建物である。短い並木のあるアプローチからこの建物に入るとエントランスホールになる。このホールの一階にある事務室の壁から階段の部分、さらにギャラリーの入口にかけて軟石の壁がつながっている。この軟石は島松沢で切り出された軟石である。

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 この文化ホールのある北広島駅の東側にはかつてJA北広島の倉庫が立ち並んでいた。その中で「廣嶋農業倉庫」は軟石造りの倉庫で、駅の東の土地区画整理事業で取り壊された。しかし、北広島の歴史を伝える意味から文化ホールの建物の一部として先の倉庫の軟石が再利用されることになり、それを現在このホール内で目にすることができる。

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 軟石の表面は滑らかに加工はされてはいないけれど、このホール内の壁としては調和が取れていて、落ち着いた感じを出している。再利用に成功していて、昔の北広島の証人の役目も担っている。建材としての石は、このように再生することができればその生命が長いことが改めて認識させられる。なお、ホールの事務室の窓口の近くにこの軟石で造られたもとの倉庫についての説明があり、それによると倉庫は1934年(昭和9年)に建設されている。

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 一階には花ホールと命名されたホールがある。このホールの入口部分は大理石の化粧板が貼り付けられた壁がある。こちらは表面が磨かれたもので、いかにも化石がその表面に現れていそうである。係りの人に頼んで、イベントが無く閉め切られているホールの入口部分だけに入れてもらい化石探しをする。
 見つけたものは多分アンモナイトと思われる化石である。ただし、この方面は勉強した経験がないので、あるいは巻貝かその他のものかも知れない。ただ、火砕流が石になった軟石と堆積した土砂に生物が取り込まれてマグマの熱で結晶化してできた大理石の二種類の異なる石から、軟石を切り出した近い昔や大理石に含まれる生物が居た太古の昔を想像できる場所としても、この文化ホールは文化的であるといえる。

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