北海道情報産業史編集委員会が編集しイエローページ社から2000年3月に出版された「サッポロバレーの誕生」という本がある。当時サッポロバレーを牽引していた企業家達のインタビュー記事が載っていて、それらの企業家の一人として「八戸ファームウェアシステム(株)」の代表取締役八戸朗夫氏の名前がある。インタビュー記事のタイトルには「フロンティアの沃野に立つITの挑戦者」とある。
時は流れてイコロアート・ギャラリーで航空写真家(熱気球カメラマン)の「八戸耀生 写真展」が2014年10月~2015年3月まで行われた。冒頭のIT企業家八戸朗夫氏と写真家八戸耀生氏が同一人物であることは、氏の近くの人物でなければ知らないだろう。ITの企業家から航空写真家への転身は直に話を聞いてみると、その転身がなるほどと思えるところがある。「朗夫」と「耀生」は共に「てるお」と読み、名前を変えてもつながりがある点が、転身の前後のつながりを象徴している。
1960年生まれの八戸氏は、札幌の高校時代から空を飛びたいと思っていた。熱気球も自作している。日本における熱気球の歴史は比較的浅く、1969年にイカロス5号が北海道の真狩村で飛行したのが最初とされる。現在熱気球は日本気球連盟が発行する熱気球操縦士技能証の取得が求められている。八戸氏はその北海道での第一号であるので、北海道大学の探検部と並んで、北海道の熱気球の草分け的存在である。
熱気球を飛ばすだけでは生活ができないので、1981年北海道電子計算機専門学校卒業後帯広市にある「日本甜菜製糖」に3年間ほど勤め、1984年冒頭に書いた会社を創業している。仕事はハードウェアを手掛け、牛の体重測定器などを手始めに作っている。PCの黎明期に当たっていて、アイディアが次々とハードウェアの形になってゆき、最大の売れ筋の製品は、エプソンのノートPCにカラーディスプレイをつなぐアダプタである。この儲けで自社ビルを建設するまでになり、このビルは資金源調達の経緯から別名「カラーアダプタビル」とも呼ばれた。
時代はハードウェアから高機能のPCへのアプリケーションソフトやインターネット対応へと変わっていく。この頃八戸氏は無人ロボット船をインターネットの端末として利用することを考え、無人船の太平洋横断プロジェクトを温めていたが、これは実現されなかった。時代の流れに沿って会社の製品をハードからソフトに移行させ、機能を包む機器のデザインに力を注ぐ。“文化臭”のする企業を目指したようであるけれど、結果には結びつかなかった。
近年、新聞や雑誌等のメディアに紹介される八戸氏は世界を飛び回る熱気球写真家である。ある意味紆余曲折を経て“文化臭”のする仕事に辿り付いたのかもしれない。写真家故清水武男氏の常設展示会場のイコロアート・ギャラリーで、期間を区切って八戸氏の航空写真の作品が並べられ、写真展会場になっている。会場で八戸氏から熱気球から撮ったパノラマ写真動画などをPC画面上で動かして見せてもらう。この動画を撮るテクニックの解説も聞く。プロの写真家の仕事である。
熱気球からの写真と対極にあるような昆虫の拡大写真もある。深度合成技術で虫の複眼が鮮明にPC画面に広がる。写真のみならず虫に関する造詣が深い。これは単なる虫好きの領域を超えている。その理由は、写真展の会場を後にして南区中ノ沢の街外れにある氏の作業場を覗いてみてわかることになる。
八戸氏は現在「ダウンロードフォト」という会社を立ち上げているけれど、Nature Scienceの商標で昆虫標本の製作もしている。昆虫の色が鮮明に出るように処理が施された昆虫が、防腐され瓶詰めにされる。この標本を目の前にして、昆虫の驚くべき能力の話などを聞く。自分の身体の何百倍の動物の死骸を、後日自分らの餌にするため地中に埋めるシデムシの知恵は初めて聞くものである。ついでに昆虫の極微の世界の写真の撮り方を、実際の撮影装置を前にして説明を受ける。
ITの機器から昆虫の標本という、八戸氏の作り出す製品の変わりように驚く。大空に浮く熱気球から俯瞰する大画面の世界から、顕微鏡写真の昆虫の極微の世界まで、写真家八戸氏は縦横無尽である。
(イコロアート・ギャラリーで自分の作品と熱気球ゴンドラの前に立つ八戸氏)