2007年10月31日
2007年10月30日
像名の無い金次郎像
北広島市の西部小学校の校庭に金次郎像があるというので見に行くことにする。地図には輪厚(わっつ)地区の国道36号線沿いに小学校が記されていて、その辺りを車でうろうろするのだが、学校が無い。国道沿いのコンビニに寄って聞いてみる。国道を挟んで、コンビニの反対側が地図にある西部小学校であった。小学校は移転していたのである。
新しい小学校の所在地を聞いて広島輪厚通に面した学校の正面まで行くと、校舎に向かって置かれた金次郎像があった。近寄ってみると、金次郎像を載せている軟石でできた台の部分にかつてあったと思われる「二宮尊徳像」あるいは「二宮金次郎像」あるいは「・・・」の像名の部分が削られている。
金次郎像の方は1937年の12月に序幕式が行われたとインターネットでみつけたので、古い物のはずなのに、像は光っていて古びた感じがしない。色からして陶製にも見える。しかし、陶器なら壊れもせず70年近くも持つのが信じられない。中はコンクリートで、表面に塗料を吹き付けているのかな、とも考えてみるけれどこの方面の知識がないので分からない。
この小学校の先生に尋ねたら少しは分かるかと、職員室に顔を出して、居合わせた先生に聞いてみる。この金次郎像は先生たちにも気にかけられない存在のようで、像の材料が何であるか全く知らないとのことである。像名の部分が無いのも、移転前からそうなっていて、そのまま移しただけということで、これについても何の情報を得られなかった。
話はそれるけれど、最近の新しい学校はセキュリティがしっかりとしているようで、帰ろうとドアを押して外に出ようとするのに出られない。先生が背後に居て、下校時の生徒にドアを開けてあげなさいと指示して、生徒がドアを開くボタンを押してドアを開けてくれる。はて、入る時はどうしては入れたのだろうかと、疑問が頭をかすめた。
この最新技術を利用した西部小学校の新校舎は2005年の12月に落成している。坂を利用して建てられていて、広島輪厚通の正面からみると1階建てのこじんまりした校舎と思っていると、坂を下ったところにあるグラウンド側からみると大きな洒落た校舎であったのが印象に残った。
2007年10月29日
プリズムの 分光するか 色並び
2007年10月28日
榎本公園
定山渓を発し、札幌の街を横切り、石狩川と合流する豊平川は、かつては江別の発祥の地対雁(ついしかり)にその石狩川への河口があった。対雁も津石狩から名前が来ているとのことで、この地は水路の要衝であり、鮭が獲れ、その交易で栄えた場所であった。
しかし、鉄道が出来て石狩川の持つ交通の重要性が失われ、川沿いの集落は鉄道沿線に移ることになり、この地はさびれた。対雁の村落は江別村の元江別となり、その後江別市の対雁地区として組み込まれた。現在は石狩川沿いの工業団地が広がる場所に元江別の名残があり、榎本公園となっている。公園は国道275号線(空知国道)と国道12号線を結ぶ国道337号線(対雁通)の脇にある。公園は豊平川の改修工事で本流から切り離された部分が、世田豊平川としてかろうじて残された水路に沿ってある。
公園内には「対雁百年碑」があり、碑文にこの地に対雁神社があったことが記されている。石狩川治水工事のため対雁神社が解体され、そのご神体の天然石がこの碑の中に埋め込まれていることも碑文から知ることができる。
この公園が榎本公園と名づけられているのは、明治維新政府と戦った幕臣榎本武揚が後に開拓使からこの辺の土地を払下げてもらい、農場経営を行ったことによっている。騎馬姿の榎本武揚が公園内の石組みの円柱の上に設置されている。北海道を代表する彫刻家佐藤忠良が制作している。
榎本武揚の乗っている馬をアップの写真で見ると、ポニーかロバにさえ見える代物である。戦国武将が乗っている馬や、競馬で見るものとはかなり違う。多分道産子なのでこの大きになったのだろうと思われる。しかし、道産子のサイズを知らない人には、人物を大きく見せるため、このサイズにしたとの推測も成り立って、彫刻界の大御所の作にしては人、馬のバランスが悪いと感じるかもしれない。
公園の横にある世田豊平川を上から見ると、流れているとは思えない川の水面が草木の間から見える。ここを元の豊平川が流れていた頃は秋の今頃は鮭が遡り、それを捕まえるために集落の人々で賑わっていたとは、人影の見えない残された現在の水路の土手に立っていて想像するのが難しい。
2007年10月27日
穴滝のオーブ
「札幌の秘境を歩こう」の道庁のコースでは、樺太関係資料館でのオーブの撮影というテーマがありました。今回、何枚か室内の写真を撮ってみたのですが、オーブは写っていませんでした。講座の参加者が大勢で館内(部屋)に入ったので霊も逃げてしまったかな。
そこでオーブが沢山写っている穴滝内部の写真を載せておきます。これですと霊がごじゃごじゃいますね。霊のひとつひとを観察してみると、ある特徴が分かります。この特徴はカメラの外側の特徴と関連づけれることが分かります。霊は私のカメラにあったのだ。オーブの現れることの詳しい推論は文章で説明するのが面倒なので省略です。
穴滝は来週中には出版される予定の「小樽・石狩秘境100選」のテーマの一つで、そのページを載せておきます。文章も読みたい方は本をご購入のほどを。
2007年10月26日
アカナラは 夏着のままで 秋深く
植物園はやはり木について書いておかねば、と巨木なんかの写真を載せておきます。30mはあるだろうアカナラの大木は、葉がまだ緑でした。周囲の木は紅葉が始まっているのに、寒さを感じるのが遅いのかな、と思ってしまいます。
これは「ムラサキセイヨウブナ」の木です。木肌が滑らかな巨木ですが、ブナの木の仲間はいずれもこんな木肌でしたか。木の名前を分解して
ムラサキに セイヨウ加わり ブナ科の木
この季節紅葉が見事な木は晴れ着姿のようで、そこにばかり目がゆきます。街の中で晴れ着姿を目にすると、その空間が誇張されて見えるのと同じです。もっとも人間の場合、着ているものより人そのものに目が行くというのも事実なのですが・・・
取りまく木 晴れ着姿に 場所を空け
2007年10月25日
道庁で 開拓の母は(888) 子と共に
昨日の「札幌の秘境を歩こう」は赤レンガ庁舎と北大植物園でした。現在目にすることの出来る赤レンガ庁舎は1888年に出来ています。道庁の庭に本郷新の「開拓の母子像」という彫刻があります。そこで「道庁で 開拓の母は(888) 子と共に」といった句にして年号を覚えるのだ、といった話を披露しました。
都市の秘境は無料で見ることができるのが条件の一つなのですが、北大植物園は1年に1度だけこの条件を満足する日があります。それは緑の日(4月29日)で、この日は市民に無料開放です。しかし、11月となると閉園の季節で、日を選んでいる訳にもゆかず、受講者の皆さんに入園料を支払って入ってもらいました。ちょっと気の毒な気もしたので、「札幌秘境100選ー中国語版」豆本をこちらは無料で受講者全員に進呈しました。この日の読売新聞朝刊の札幌・石狩版にこの本の紹介が載っていたのはこの時は知りませんでした。ちょっとした偶然でした。
植物園のお目当ては園内の博物館の南極犬タロの剥製でした。その前に、宮部金吾記念館のなかで、受講者の一人から内村鑑三が宮部金吾に宛てたハガキの展示を示され、金釘流の鑑三の文字を見るとホットする、という感想をききました。確かに、そんな気がします。そのハガキの文字を載せておきます。
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2007年10月24日
溶岩の 飛び散ったかと カメラ向け
2007年10月23日
陽光は 人工の光なり 庁舎内
2007年10月22日
ひな女地蔵
筆者がオフィスを構えている札幌市エレクトロニクスセンターには床屋がある。散髪中に札幌秘境が話題になり、理髪師の自宅の近くに幼子を弔った地蔵がある話をしてくれた。明治の年号が刻まれている古いものだそうである。地蔵のある場所が北広島市なので、札幌近郊の秘境候補に加えようと出向いてみる。
場所は札幌市にあるJR上野幌駅から徒歩で五分程度北広島市に入ったところにある「森のゆ」の近くである。札幌秘境100選にJR上野幌駅を取り上げた時にこの「森のゆ」について少し書いている。「森のゆ」の露天風呂から正面に見える小高い林あたりにこの地蔵がある。この地蔵のある場所に車で行く砂利道もあって、砂利道を挟んで「北海道リハビリー」と名前についた施設の向かい側の山林に地蔵はある。
砂利道から少し高くなっている山林に入ってみると、平らな場所があり、写真の小さな地蔵が紅葉の林の中に一個佇んでいる。標識や説明板のようなものも見当たらない。山林に取り残された野仏といったところである。傍によって地蔵の両側面に彫られた文字を読む。
写真に示す一方の側面には年号と日にちがあって、明治十八年(一八八五年)十二月十一日と読める。もう百二十年も昔に造られてここに置かれていることになる。もう片方の側面には、写真で示すように「ひな女」の文字がある。この名前の女児が前述の日にちに亡くなって葬られ、そこに地蔵を建てたと推測できる。
もともとこの辺りは開拓農民の墓地であったらしい。開拓者がこの地に入植した年代が刻まれた地蔵ということで歴史的価値もありそうなのだが、供養することもなくなって忘れられ、野仏となってひっそりと山林に立っている。この辺りは本来の意味に近い秘境の雰囲気である。
北広島市の開拓の歴史を同市のHPで見ると、一八八四年(明治十七年)に広島県人二十五戸百三人が集団移住し開拓の鍬がおろされた、とあるのでこの地蔵が置かれたのは入植の翌年ということになり、この地蔵は広島市の開拓の歴史の始まりを示している貴重な存在である。それが説明板の一つもなく、誰に注目されることもなく、この山林にひっそりとあり、たまたまこの秘境の取材で顔を出している。
2007年10月21日
「赤い靴」親子像
昨日(20日)の道新夕刊に「「赤い靴」親子像小樽・運河公園に建立」という記事が出ていました。最初はカトリック富丘教会の敷地内を予定して建立のための募金が行われていたものです。富岡教会は来月初め出版予定の「小樽・石狩秘境100選」にも取り上げています。
富岡教会の記述の最後の部分ではこの「赤い靴」の母子像の話についても触れており、この像と秘境本のできる時期が同じ頃だろうと思っていたら、本当にそうなりました。
ただ、「赤い靴」の母子像は設置場所が富岡教会の前庭から運河公園に移った点は、約1年前の取材時からは変っていました。
2007年10月20日
輝きは 木の間の隙間 穴(あな)一穴
2007年10月19日
レンガ焼く 火が木を燃やし グリーンモール
2007年10月17日
平成の 名を冠するや 新並木
道新文化教室の「札幌の秘境を歩く」講座は昨日(10月17日)が第3回目で、北大の北側の遺跡庭園コースとなりました。歩いた場所で、写真を撮ったものから三ヵ所ばかり。「平成のポプラ並木」は大きくなっていました。歩いた時、具合良く晴れた秋空にポプラが若木の枝を伸ばしていました。
この平成のポプラ並木の真っ直ぐ遠方に三角山が見え、三角山の解説を少ししたら、三角山をボランティアで常時パトロールしている方が受講者に居られ、受講者の素性が皆目分からない現状では、下手な解説もできない、といったところです。
話は前後して、恵迪寮歌碑の前から出発したのですが、長い間歌碑の文字が読めなくなっていたこの歌碑は(その状況は「札幌秘境100選」に載せてあります)、恵迪寮百年記念行事で新しくなっていました。
寮歌碑の近くの、今や「恵迪の森」と命名されている原始林に[恵迪吉従逆凶惟影響]の文字の刻まれた恵迪寮碑があります。この 『書経』より採られた一節から寮名「恵迪」が生まれたとのことで、この一節は、「迪(みち)に恵(したが)えば吉、逆に従えば凶、惟(こ)れ影響」と読み、解釈としては「天の道に則っていれば吉であり、そうでなければ凶となる。これは形あるものには影が現れ、音には響きが生ずるように、瞬時に、しかも確実に結果となって現出するものである。」 が定説である、との解説を見つけて、受講者に披露しました。
私が関係した「楡影寮閉寮記念碑」も見学対象で、こちらは雑草が多くなっていた点を除けば、「札幌秘境100選」に載せてある写真のものと変ってはいませんでした。
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- by 秘境探検隊長
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2007年10月16日
北広島市レクの森逆禁マーク
「レクの森」を耳にするとこれは判じものであるけれど、レクレーションの森の略語である。道立北広島高校の向かい側に広がる森林公園で、広島市が国有林の一部を林野庁から借り受ける形で、1980年から整備を行ってきている。
訪れた日が平日であったこともあるせいか、パーキング場に仕事の合間に休息をとっていると見られる自動車が二,三台ほど止まっているだけで、ここを訪れるのが目的の人の車とも思えなかった。パーキング場から遊歩道が続いていて、林を分け入って行くと水のみ場、トイレ、東屋などの施設があり、森の環境を生かした公園になっている。
ここは広い公園のようで、名前の通りの各種レクレーションに供される場所がある。しかし、ちょっと寄ってみたという状況で、人影も無い森の奥まで入ってみる気にはならなかった。この手の公園は、人が散策していたり遊んでいたりしないと、山の中に迷い込んだような気持ちになって、少々心細くなるのではなかろうか。
公園内にあったゴミ持ち帰りの看板が逆禁マークであった。これは思わぬところで収穫があったと思って写真に収めた。それにしても、この広い公園にゴミが散らばってしまっては、管理する方も清掃に手のかかることだろう。
2007年10月15日
パンダ公園のイベント参加
ミュンヘン大橋の近くの藻岩下公園は別名パンダ公園と呼ばれています。それはここにパンダの像があるからです。「札幌秘境100選」でもこのパンダ像を取り上げています。
このパンダ公園を活用して地元での市民活動を行っている「パンダフル」の団体があり、代表のFさんからの案内で昨日の日曜日(14日)のイベントを見て来ました。
このイベントは子供達を主体にしたもので、集まった子供達にパンダの絵を描いてもらいます。これは公園に旗を揚げるためのもので、子供達は思い思いの絵を描いていました。
出来上がった絵は紐で結わえられ、仮設のポールに渡したロープで吊り下げられます。手際よく行われているのをみると、昨年のノウハウが生かされているようです。自分の絵が揚がっていくのを見て子供達が喜んでいました。旗の下にはこれまでこの公園に「シェー」の姿で座っているパンダが見えます。
今年の目玉はこの公園にやって来た新しいパンダの像のペンキ塗りです。この像は厚田区の公園にあったものが、公園整備のため移動させることになり、この公園にもらわれてきたそうです。ボランティアが準備して、パンダの黒毛の部分に黒いペンキを塗る作業を子供達にやってもらっていました。
作業が簡単なことと、ペンキ塗りは面白い作業で、これは子供達も喜んでペンキ塗り塗りをやっていました。ペンキが乾けばこの公園にはパンダが二匹居ることになり、パンダ公園の名前のアッピールにつながります。
最後は焼き芋が配れました。筆者達も一人当たり100円の参加費を支払って賞味しました。なかなか美味しく焼けていて、これもこれまでのノウハウが生きていると感じました。
このイベントは「パンダフル」の人達のボランティア活動に負っています。Fさんをはじめ父母(お母さんが主体と思われますが)スタッフ達が子供達の楽しむ場の提供と、そしてある意味公園の整備を行って、地元の活力を生みだすのに貢献しています。これに参加した子供達が、将来同様なボランティア活動に参加する契機になるかも知れず、評価できる活動だと思いました。
2007年10月14日
「子供盆おどり唄」歌碑
子供を集めた盆踊りが廃れていっている、との新聞記事を見た。これは夏休み期間中の朝の風物詩ラジオ体操も同様で、少子化がその原因の大きなものであるらしい。地域の活力の低下、娯楽の多様化、個の生活様式の強まり等々もこの傾向に拍車をかけているのだろう。
筆者も盆踊りを見に行くことは無くなっている。しかし、お盆の頃には近くの広場から盆踊りの曲が流れてくる。夕闇が迫る頃は「子供盆おどり唄」で、その後は大人の部に変わって「北海盆唄」の勇ましい囃子唄が響いてくる。踊りは見に行かなくても、これらの盆踊り唄を耳にするとああ、お盆なのだ、の季節感が強まる。
「この子供盆おどり唄」の作詞者が江別で教員をしていた坪松一郎であることを知った。野幌グリーンモールと呼ばれている、国道12号線から湯川公園までの約1kmのレンガの遊歩道があって、これまたレンガ造りの野幌公民館の横を過ぎたところに坪松一郎の歌碑がある。この歌碑には「この子供盆おどり唄」の一番と二番が掘り込まれている。その一番は
そよろそよ風 牧場(まきば)に町に
吹けばちらちら 灯(ひ)がともる
赤くほんのり 灯がともる ほら灯がともる
シャンコシャンコシャンコ
シャシャンがシャン
手拍子そろえて シャシャンがシャン
筆者も子供の頃、この盆踊り唄にあわせて片田舎の会場で盆踊りに参加した記憶がある。同じ歌詞とメロディーが繰り返し耳に入ってくるので、今でも歌詞は頭にこびりついている。この唄を思い出すと、盆踊りの会場は中心のやぐらの部分の明るさと周囲の暗さが際立っていた印象が蘇る。
坪松一郎は1910年(明治43年)茨城県に生まれ、その後渡道、童謡作家で活躍していて北海道教育委員会の依頼で1952年ごろこの盆踊り唄を完成させたといわれている。作曲は山本雅之で全道に、さらには本州にも広まった。坪松は江別第三中学校を始め、道内各地の校歌の作詞も行っている。1969年五十八歳で亡くなった。
この歌碑は黒の御影石で出来ていて鏡のようになっていて、写真を撮ると碑面の文字よりは周囲の景色が写り込んでしまう。それはそれで面白い。近くにあるステンドグラスのオブジェのある噴水公園の景色も写っている。夏も過ぎてこの公園の噴水は止まっていて水抜きがされている。この公園で噴水を見ることと、どこかの会場で「子供盆おどり唄」に合わせて子供達が踊っているのを見るのが残された課題となった。
2007年10月13日
この季節 三原色は アールジーワイ(RGY)
2007年10月12日
北大構内
札幌の秘境を歩くということで、北大構内の秘境を見て歩いたとき目についた恵迪寮祭の看板です。看板に寮章のエンレイソウが描かれていて、季節が春であれば構内でエンレイソウが咲いているところに案内できて好都合だったのですが。
春に撮ったエンレイソウです。正確にはオオバナノエンレイソウで、エンレイソウの方は赤紫の花です。北大の校章はオオバナノエンレイソウです。寮章の方も多分校章と合わせていると思います。
サクシュコトニ川が横を流れる大野池には鴨が多数居ました。秋になって、これらの鴨はここで一休みなのでしょうが、いずれ南の方に移動していくのかな、と思いました。池の周囲の木々の紅葉が始まっていました。
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2007年10月11日
文化教室2回目
昨日(10日)は道新文化教室の秘境探索講座で北大構内を回りました。北大のシンボルのクラーク像のところから発点して、その近くにある古川講堂もみました。私より建物に詳しい受講者の方もおられ、古川講堂が文化庁の登録有形文化財001-0003であるところ、001-0001はどこの建物のだろうか、と疑問を呈したら、札幌資料館だろうという答えでした。また、古川講堂が農学部の林学教室として利用が始まっていて、その名残で写真のように窓の枠の部分が「林」を象っていることも教えてもらいました。こうなると、どちらが先生か生徒か分からない。
北大交流ぷらざ「エルムの森」にも寄りましたが、ここの北大グッズの販売コーナーに「札幌秘境100選」があったのにはびっくりしました。確かに、北大の秘境を複数取り上げている本ですが。一般の北大訪問者を想定した本を並べているのでしょうが、北大に勤務していた時に書いた専門書(教科書)が並ばないで、退職後書いた本が並ぶとは、何か考えさせられるものがあります。
本の宣伝もあったので、これもしっかりと写真に収めました。
次に見てあるいた北大総合博物館にも博物館グッズの販売コーナーがあり、ここにも市民セミナー推薦図書でならんでいましたので、写真を撮っておきました。この文化教室の講座が設けられたことも含めて、都市秘境探検は都市を知る切り口になり得ると思いました。ただ今回は、秘境探索より自著を探して歩いたた印象が、自分としては強かった回になりました。
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2007年10月10日
旧仁別小学校校舎のガラス工房
札幌市清田区有明と接して北広島市仁別がある。この両地区をつなぐ道路はゴルフ場の私道しかなく、この私道は現在閉鎖されていて、札幌から仁別に行くには国道36号線から、あるいは道道1147号線から仁別大曲線に折れて行くしかない。この仁別大曲線をかなり深くまで入ったところに旧仁別小学校の校舎がある。校舎はニーウン・ペツ・ガラス美術研究所の工房とギャラリーになっている。ここで「ニーウン・ペツ」はこの辺りのアイヌ語地名だそうである。
仁別小学校は1933年に開校し、1971年に廃校となり、校舎は地元の町内会で管理されている。小さな学校だったとみえて、現在は写真のように二棟になっている建屋はもともとつながっていた。ガラス工房となっている右側の建物は体育館だったそうである。1999年、榎本祐比呂弘氏がこの校舎を借りてガラス工房を開き、奥さんのユミさんがギャラリーとカフェの方を受け持っている。
ギャラリーに入るとこの工房で制作されたガラスの作品が並んでいる。カップ、花瓶、置物、ペーパーウェイト、おはじきのような小物まである。ガラスの作品に混じって、東南アジアの民芸品も並んでいる。そこだけみるとベトナムかタイあたりの土産物屋に来ている感じである。
日本のアンティーク時計も目につく。ガラス工房がギャラリーに接してあるので、室温が高い。そこで天井の扇風機を回してくれるが、この扇風機がまた年季が入っている。東南アジアから持ってきたのかと聞くと、これは日本のものだそうである。扇風機も回してもらったのでカフェオレを注文して、小学校時代の卓球台のテーブルにカップを置いて、東南アジアの国にでも来た気分になる。
ガラスの作品の制作現場を覗くと、榎本氏と思われる人が作品作りに余念がない。炉の中に吹き棒を入れ、棒の先のガラスのかたまりが赤くなるまで熱し、これを取り出して息を吹き込み形を作っていく。作品の良し悪しが決まるのは瞬時の勝負である。集落があるのかな、と思えるこの地に制作の場を構え、終日瞬時の勝負のガラスの作品作りに没頭するのは、ガラス造形に魅せられてためなのだろうと思ってみる。
ギャラリーの窓からはかつて校庭であったろう広場が広がっている。客で来ている子供達が秋の日を浴びて遊んでいる。この校舎をとり巻く周囲の山が紅葉で満たされる季節はすぐそこまで来ている。
2007年10月09日
メタル人 交差点では 人、車?
2007年10月08日
野幌森林公園の土アケビ
土アケビはラン科ツチアケビ属の多年草である。栄養は自前で作らず、全て腐葉土から吸収する腐生植物である。夏から秋にかけてバナナのような赤褐色の実をつけ、この実がアケビの実に似ているため土アケビの名前が付けられている。この土アケビをひょんなことから見つけることができた。
昨年(2006年)野幌森林公園内にある瑞穂の池につながる遊歩道を歩いていると、先方が当方を知っている人に出会った。何でもこの辺りを時々散策しているというのである。話が公園内の植物に及んで、土アケビの話が出てきた。珍しい植物で、教えられた辺りを探せば見つかるだろう、とのことを聴いたけれどこの日は見にいくことはなかった。
日を改めて土アケビ発見を目的にしての探しに出かけた。教えられた辺りで確かに土アケビと確信できる写真の実をつけた植物を見つけた。炭酸同化作用を行わないため、周囲の植物のように緑色がない植物で、緑の草木に混じってかなり変って見える。
土アケビは花も咲くということで翌年の春にまた出かけてみるのだけれど、昨年見つけた辺りにはそれらしい花は発見できなかった。土アケビは消えてしまったのだ、と思ってそれ以上探すことはしなかった。
夏も終わって紅葉は始まっているだろうかと、森林公園の遊歩道を歩いているとまたまた先方が当方を知っている人に出会って、土アケビの話になった。今度は実の成っている場所に連れていってもらった。それはどうも昨年見た土アケビのあった場所のようで、多年草であるので同じ株のものであるようである。しかし、実をつけた土アケビは少なくなっている。今年は土アケビの不作の年なのかも知れない。
この実は乾かして強壮剤、強精剤として用いられることがある。それを知って土アケビの実を持って行くとは考えられないけれど、このままでは、この場所の土アケビは早晩消えてしまうようにも思えた。野生の珍しい植物はどこかに移して保護しても意味がないだろうから、公園に入り込む散策者のモラルに頼るよりしかない。大方は自然のままにしておこうとは思っているのだろうけれど、心無い者も居るのは世の常で、散策路の脇にある土アケビの存在も危ういものがある。
2007年10月07日
広島村立小中学校門柱
国道36号線で札幌清田区から北広島市に入ると、そこは大曲と呼ばれる地区である。今のところこの大曲の地名がどこから来ているのかは分からない。秋田県の大曲市と関係があるのか、地形的なものなのかなどと推測をしている。
大曲付近では国道36号線は高速道路の道央自動車道と平行に走っていて、大曲工業団地は国道からみて高速道路の反対側に広がっている。この工業団地にさしかかる手前で、国道沿いの高速道路側に大曲中学校がある。この中学校のグラウンドの隅に二つのレンガ積みの門柱が取り残されている。
一方には「広島村立大曲中学校」、もう一方には消えかかった「札幌郡廣島村立大曲小学校」がかろうじて読み取れる。これらの門柱から、ここはこの二つの学校があった跡地であるのが分かる。インターネットで調べると、大曲小学校は1892年(明治25年)、月寒小学校大曲分校として始まり、その後公立大曲尋常小学校、輪厚(わっつ)尋常小学校大曲分校と名前が変わっている。太平洋戦争後の1947年(昭和22年)広島村立大曲小学校と改称された。
一方の中学校の方は、1947年に西部中学校大曲分校が小学校と並置されている。この経緯で小学校と中学校の門柱が並んで置かれ、小中学校の生徒達が同じ校門をくぐることになった。小学校の方は児童数が増えたため1977年に近くの大曲柏葉に移転している。
これらの門柱は本当にとり残されたという表現が適しているようである。史跡というほどの仰々しさでもなく、移転するか取り壊すのを忘れてしまってついつい放っておいた、という感じである。この門柱を見にくるのは、秘境探検のテーマ探しに苦闘している筆者ぐらいなものではなかろうか。
三連休の初日で、門柱の向こうに広がるグラウンドでは秋の日を浴びながら中学生が野球の練習に余念がない。スポーツの秋でもある。今や校門でもないグラウンド脇のこの門柱は、そこを通って登下校する生徒も多分居らず、これからもじっと佇んでいくことになるのだろう。
2007年10月06日
オーブ
このブログで紹介した心霊写真の話をしてくれたSさんからメールをいただきました。Sさんは心霊写真には疎く、樺太関係資料館の心霊写真の話はSさんの息子さんからの情報だそうです。息子さんの話では、写真に写っている丸い白いシミのようなものは「オーブ」といって、その部屋に霊がいる場合に写るそうです。良い霊か悪い霊かは分からないそうだけれど、息子さんの話では(有名な話だそうですが)樺太記念館の右扉の所に男性の霊が立っていて、入ってくる人を睨みつけている!のだそうです(オー、怖)。
そこでインターネットで調べると、オーブとは英語のorb(球体、宝球)でゲームの「ドラゴンクエスト」にも重要なアイテムとして出てくるものらしい。さらに、オーブの写真を集めたブログもある。知りませんでした、こんなのがあるなんて。
そこで当然ながら秘境探検で撮った他の写真に同様なものがないかを調べてみました。趣旨(?)に添って、霊の出そうなお寺さんなんかをしらみつぶし調べてみたところ、小樽の宗円寺(円の文字もあるので)の五百羅漢像のある本道の写真にオーブが複数個(天井の辺りや柱の横に)写っていました。
その他のお寺の本堂にもうっすらとオーブが写っている写真があります。お寺さんもこんな写真を出されると気持ちのよいものではないでしょうからここには載せません。
どうしてこんなものが写真に写り込むのだろうか。何かの反射現象なのだろうけれど、今のところ説明はつきません。都市秘境探検が心霊秘境探検になりそうです。いや、世の中色々なことがあるものです。この話を教えていただいたSさん(の息子さん)、面白かったです(でも根が臆病でこの種の話は少しばかり怖いもの見たさのところもあります)。
2007年10月05日
見えない平和の灯
北広島高校と北広島市総合体育館の間に位置して平和の灯公園がある。近くには北広島レクレーションの森が広がっている。この公園にある灯は広島市の平和記念公園内にある「平和の灯」から分火されたもので、北広島市の市制施行を記念して灯された。この灯は点火してから絶えることなく燃えて続けているとのことで、何時行っても灯をみることができるのだろうと出かけてみる。
公園は小さなもので、この灯の由来に関する説明が書かれていて、日付が平成8年(1996年)9月1日となっているから、この日付は北広島市が発足した日になるのだろう。お目当ての平和の灯は岩の台座の上に設置されたランプの内で火が点っているはずだと近づいて見る。しかし、ランプ内に火が見えない。岩に登って目を近づけても火を確認できない。
これは火が消えている。掛の人に知らせねば、と総合体育館の事務所に行って話しをする。応対した事務員の話では、火(燃料)を絞ってあるので、下の方にわずかに見えるとのことである。そこで再びランプのところに行ってみるけれどやはり火は見えない。デジカメでランプ内を撮影してまた事務所に戻り、再度状況を説明する。しかし、火はついているのだそうである。
火は見えないと取材の結果を書くけれどよろしいか、と念を押すと今度は担当者がランプのところまで出向いて確かめる。しかし、見えないものは誰がみても見えない。でも、火は点っているのだそうで、日中では見えないけれど夜には見えるのだそうである。いくら酔狂で秘境探検をしているとはいえ、平和の火をみるためこの場所に長居する気にはならないので、日中この平和の灯を見に行っても火は見ることができない、というのがこの秘境の取材結果となる。
しかし、何かの連続計測で絶え間なくデータを採っているのと異なり、見えない火が絶えず燃えている、という話も変である。見えないなら途中で火が途絶えても、途絶えなくても、見た目には同じである。火が燃えていると信ずるか信じないかの問題で、これは神学論争だな、などと考える。そんな状況に遭遇して、平和の灯をこの地に分火した本来の意義を考える手前で、思考は横道にそれてしまった感じである。
火の見えないランプ内を撮るだけでは芸がないので、太陽がランプの向こう側に来るようにしてランプから光が発せられている写真を撮って、今回の探検の成果にした。
2007年10月04日
心霊写真
道新文化センターの講座として「身近な都市秘境を歩いてみよう」というのを担当することになりました。昨日(10月3日)はその第1回目の教室で、16名の受講者を引き連れて札幌市役所最上階の茶室から歩き始めました。それにしてもこの講座に16名もの受講者が集まるとは思いませんでした。
受講者には「札幌秘境100選」をテキストとして購入していただきました。この講座の世話役の道新文化センターのSさんから、この本の写真が心霊写真である、という話をかなり真剣に話してもらったのにはびっくり仰天でした。
本の3番目のテーマの旧道庁赤レンガ館内の樺太関係資料館で、この部屋には霊がいて時々写真に現れるのだそうです。その霊の写った写真をブログに載せておきます。ブログの写真でははっきりしないと思われたら、「札幌秘境100選」の本でご覧ください。
どこに霊が写っているかというと、写真上部にぼんやりと丸い円が二つあります。拡大した写真が次のものです。
確かに何か丸いものが二個写っています。Sさんはまともな方(失礼)で、心霊写真云々に凝っているようには見受けられないので、この場所の心霊写真のことは広まっている話のようです。これは知らなかった。今度講座の受講者を引率してこの部屋に行ったら、もう一度写真を撮ってみようと思っています。心霊写真を信ずるかと聞かれれば、いいえとは答えますが・・・
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- by 秘境探検隊長
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2007年10月03日
カントリーサイン
市の境界に時たまカントリーサインを見かけることがあります。大抵交通量の多い主要道路にあるため、車を停車させて写真にとるのが難しいです。カントリーサインはその都市のシンボル的なものをデザインするので、都市の特徴を理解する上で便利です。
江別市のデザインは百年記念塔にレンガの倉庫(?)です。レンガ造りの倉庫群はそのうち見に行こうと思っています。
石狩市は石狩浜の灯台、港、ハマナスです。これも確かに石狩市のイメージです。
小樽市は運河で、小樽といえば運河が直ぐに結びつきます。
札幌市は時計台です。北広島市はクラーク博士だったと思いますが、手元に写真がありません。今度北広島にカントリーサインの写真を撮りにゆこうと思っています。
2007年10月02日
サルネエビネ
2007年10月01日
軽緯度・標高モニュメント
野幌駅近く、北東に向かう国道12号線と垂直に北西方向に野幌グリーンモールが湯川公園まで伸びている。このグリーンモール沿いにレンガ造りの野幌公民館があり、その傍に標記のモニュメントが置かれている。モニュメントはエジプトの大ピラミッドを144分の1に縮めてものであると碑面に記されているけれど、どのピラミッドかは分からない。多分、ギザにあるクフ王のピラミッドの一番大きいものなのだろう。このモニュメントも江別特産のレンガを積み上げて造られている。
北海道測量設計業協会等の測量に関する協会と札幌理工学院専門学校がこのモニュメントの寄贈主である。6月3日は測量の日ということで、1993年6月3日付けでモニュメントが寄贈されている。寄贈のいきさつについては知らないけれど、デザインは異なっても同様な趣旨のモニュメントが同じ協会から寄贈され(寄贈年月日は1994年6月3日)ているものを、以前小樽の毛無峠でみたことがあり、この他にもモニュメントの寄贈が行われているのだろう。
モニュメントの碑面に記されたこの場所の位置情報は、緯度B=43°05′38″94432、経度L=141°31′28″03842、標高H=27m045となっている。経度はイギリスのグリニッジ天文台を通過する子午線を基準にしているのはどこかで習っている。ここで子午線の「子」は北、「午」は南を意味していて、南極と北極を地球の表面上で結ぶ円周線である。
標高は東京湾の海面の平均の高さを基準にして測定される。現在ではGPS衛星を用いてきわめて精度の高いデータが得られる。それを示すために標高はミリ単位まで測定されたものが刻み込まれているけれど、ミリ単位は測定されたとしても実際は誤差の範囲内だろう。
モニュメントの前には方向を示す石板が置かれてあり、方角と都市名が示されている。そのうちアメリカのグレシャム市は江別市の姉妹都市、高知の土佐市は友好都市でここに名前が出てくるのだろう。その他の都市がどのように選択されているのは分からないけれど、東京、土佐を除けばアジアの都市が一つもなく、加えてヨーロッパの主要都市も無く、選択が偏り過ぎである。まあ、こんなところで異議を唱えても仕方がないとは思うけれど。