2015年11月30日
シリーズ2016・「パノラマ写真」ここはどこ
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2015年11月30日
アカプラで 子ら雪遊び 晦日なり
暖かかく、買い物もあるので街まで出る。アカプラ広場のところを通ると積雪が残っていて、子ども達が遊んでいる。この広場は雪の季節には良い遊び場になる。広場の周囲のイチョウはすっかり葉を落としている。今日で11月も終わりである。
(パノラマ写真)
2015年11月29日
終(つい)の時 何食べたいか 西瓜食う
11月の末に西瓜が買えるだろうか。スーパーには売っていない。デパートの果物コーナーも考えてみるけれど、この時期なおさら無理だろう。1,2回安売りを買ったことのある自宅兼用のような小さな果物屋で聞くと西瓜があり、買い求める。
2015年11月28日
2015年11月27日
重ね撮る ドラマと切手 世宗なり
テレビで韓国ドラマ「大王世宗」を毎日視ていて今日が最終回。以前道新のコラム「魚眼図」の原稿をまとめた「魚眼で覗いた中国電脳世界」(1988年)に「ハングル文字ワープロ」の世宗の切手付一文があり、ドラマの最終回シーンと重ねて撮る。
2015年11月26日
満月や 三脚触れる 手冷たし
明け方窓から光が漏れて来るのに気が付く。満月が西の空にあり、その光である。昨日の大雪が地面を覆い月の光を反射させている。手ぶれを起こさぬようにと三脚を持ち出し、木の枝に積もった雪と月を重ねて撮る。三脚を持つ手が冷たい。
2015年11月25日
大雪や 日にちを残し 霜の月
未だ11月の日にちを残しているというのに大雪である。この雪で散歩をせず、代わりに雪かきをする。雪かきが冬場の運動量確保になる。雪かき後、記録のため庭の周囲のパノラマ写真を撮る。これが根雪になるかどうか、師走に入って決まる。
(パノラマ写真)
2015年11月24日
千人の 児童並びて 体育館
北海道遺産に「増毛の歴史的建物群」があり、旧増毛小学校も含まれている。木造2階建てのこの小学校は戦前に建てられ、2011年まで使用された。児童数が千人も居た時代があって、その人数が並んだだろう広い体育館に児童の姿はもう無い。
(パノラマ写真)
2015年11月23日
2015年11月22日
寒き朝 霜の花咲き シモバシラ
寒い朝は庭に出て氷の花が咲いているか確かめる。今朝はかなりの寒さで、予想していた通りシモバシラの花茎からはみ出して霜の花が咲いている。十日ほど前にも撮っていて、今年は何度か鑑賞できそうである。この寒さでは雪になるだろう。
2015年11月21日
水膜や 瞬時の衣装 カモ囲む
天気予報欄に雪だるまが並んでいる。しかし、陽が差し天気予報は外れかと外に出ると雪が舞っている。西野川にカモが休んでいて少し変わった写真が撮れないものかと思っていると、カモが水に飛び込む。水の膜がカモを囲むように現れた。
2015年11月20日
2015年11月19日
パノラマを 撮る主催者の 姿消え
「eシルクロード大学10周年記念&「パノラマ写真で記憶する北海道の鉄道」カレンダー制作記念会」という長い名前のパーティをテレビ塔の宴会場で開催する。30名ほどの方々に集まってもらい盛会である。会の冒頭パノラマ写真を撮る。
(パノラマ写真)
追記:パーティでプロのパノラマ写真家山本修知氏が撮影した
パノラマ集合写真は次のサイトでご覧になることができます。
http://panotetsu.com/jr_hokkaido/party2015/
ブログ子の素人パノラマ写真とプロの写真家によるものの
差がご覧になれます。
日常は 夜から朝への リレーなり
朝はホテルでの朝食会。夜はテレビ塔の宴会場でのパーティ。スケジュールが立て込んでいるようだが、他に気を配る事も、突発的な事への対処もなさそうなのでいつもとあまり変わらない。日の出と消え残りの街灯を撮って今朝の一枚にする。
画家小倉宗氏の札幌時計台ギャラリーでの個展のハガキが届く。小倉氏は岐阜県大垣市に住んでいて、札幌の知人(画家佐藤武氏)に個展の準備等を依頼しているようで、本人は札幌までは来ないかも知れないと思っていた。以前にも同様な個展があって、会場で姿を見ることがなかったのが記憶に残っている。
今回(2015年11月)も個展の二日目に行ってみて、会場で小倉氏が来札されていないのを確かめる。しかし、あるいはと思って最終日にもう一度会場に出向いてみると小倉氏が居られる。小倉氏と知り合いになった20年以上も昔の、このギャラリーでのお互いの展覧会に話が及ぶ。
1993年の2月に筆者は「青木由直・岡林茂二人展」を前述のギャラリーで開催している。この時向い側の部屋で個展を行っていたのが小倉氏で、これが同氏と知り合うきっかけになっている。今回小倉氏と昔話をしていて、この年を小倉氏は正確に覚えていた。小倉氏にとっては記念すべき個展であったとの話である。なお、筆者の方の二人展の岡林氏は既に故人となられた。
小倉氏は1959年生まれの大垣市出身(出版された絵本にある著者経歴では北海道厚田村出身だが、小倉氏の口からは大垣市出身)である。1993年の個展を開いた頃は厚田町に住み、塗装業(ペンキ職人)で生活していた。北海道に来たのは小倉夫人が北海道の人だったことによるのか、北海道に来てから結婚されたのかその辺について詳しくは聞いていない。ただ、北海道で仕事を探すとペンキ職人の求人が多くて、それに決めて来道されたそうである。ペンキ塗りの仕事の合間に絵を描いていた。
厚田町(現在は石狩市)から出身地の大垣市に戻ってからの仕事は、しめ縄の卸の営業である。定時に仕事が終わるので、絵を描くのには適した職であると話しておられた。因みに毎日の平均で出勤前に2時間、帰宅後に2時間の計4時間は絵を描いているので、これまでかなりの枚数を描いてきている。小倉氏はアクリル画で、乾きが速いことも量産の手助けになっている。これまで2000枚ほど描いていて、そのうち500枚は売れている、というからもうプロの絵描きである。
絵を描く人との会話では、絵を描いて生活ができるか、否それは無理だろとのお決まりの話になる。小倉氏には絵に関連した特技があり、これが絵を売ることにつながっている。それは額の手作りである。小倉氏の絵は全て小倉氏手製の額に納まっている。特にペンキ職人であったので、その技術を生かして額の仕上げの塗装をプロ並みのものにできるそうである。手作りの額であるため、額付きの絵の値段を抑えることができ、販売につながる。
小倉氏はこれまで絵本も出版している。「じゃんけん戦争 あっちの国こっちの国」(新風舎 2005年7月)があり、出版後に1冊送られてきた。絵本の著者の略歴に「北海道原田村出身」とあるのは「厚田村」の間違いだろう。絵本に載っている経歴には「絵本にっぽん新人賞」(1991年)、「岐阜県美術展県展賞」(1996年)が記載されている。12支マイカレンダーの絵も担当されていて、このカレンダーが送られてきたこともあった。このこともあり、今回お会いした時、筆者が制作に関わった「パノラマ写真で記憶する北海道の鉄道」の2016年カレンダーを進呈した。
小倉氏の絵は独特なもので、一目で小倉氏の作品とわかる。小倉氏に同じような画風の他の画家が居るかとたずねたら、居ないだろうとの答えなので、どこかで小倉氏の展覧会があったり、作品が飾ってあれば迷うことなく小倉氏の名前が出てくる。最近は年に5,6回は全国で個展や展示販売会が行われていて、結構忙しいらしい。
(札幌時計台ギャラリーで 2015・11・14)
2015年11月18日
思い出は 芳名帳に 絵本なり
画家小倉宗氏の個展を先週見に行き、小倉氏のパノラマ写真を撮ったので「パノラマ写真北海道風土記-人物編」の原稿を書く。小倉氏と知り合うきっかけの「青木由直・岡林茂二人展」の芳名帳と小倉氏の絵本を持ち出してきて写真に収める。
(パノラマ写真)
2015年11月17日
木葉が落ちて野鳥の姿を見つけ易くなったのに加えて、野鳥が里に下りてくる季節で、散歩時の野鳥撮りの機会が増えてくる。カケスが木から降りて地面で餌を漁るのが見える。静かに近づいても気付かれ、距離を詰めると逃げられる。逆に静かに立ったままで居ると、近くまで飛んできて支柱のパイプに止まる。止まったところは撮れても、飛び出す状態が偶然に写ると流れ画像になってしまう。マニュアル操作でカメラの設定をせねばならぬのだろうが、その知識と経験がなく残念だ。
木葉落ち カケスの撮れる 季節なり
写したき 流れぬ画像 野鳥撮り
2015年11月16日
経済界倶楽部札幌11月例会でアパホテル社長の元谷芙美子氏の講演を聞く。演題は「私が社長です」で、これは同氏のキャッチコピーでどこの講演会でもこの演題で話をしているようである。自身の露出度を高めることにより、社長自らが自社の広告塔になる戦略である。
配られたノベルティグッズはレトルトカレー、インスタントコヒー、ミネラルウォーター等で、どのグッズにも同社長の派手な帽子姿の顔写真が印刷されている。これだけ徹底して本人を売り込まれると、実体がなければ冷笑の対象にしかならないだろうが、アパホテルという日本のホテル業界でNo1を狙うまで急成長してきている同社の社長として納まっている事実は、この露出戦略の説得力を感じさせる。
もっとも、アパホテルを起業してここまで成長させたのは、芙美子氏の夫の元谷外志雄代表の起業家並びに経営者としての才覚によるもので、芙美子氏はマスコット的存在で営業活動の方面でアパホテルの成長に貢献している。
以下はネット情報で拾ったものである。芙美子氏は1947年7月8日福井県福井市で生まれている。1歳の時福井地震で奇跡的に助かり、福井県立藤島高校卒業後福井信用金庫に入行し、小松信用金庫勤務の外志雄氏と知り合い結婚。1971年外志雄氏が起業した信金開発株式会社(現アパ社の前身)の取締役を経て、1994年現職に就く。2001年法政大学人間環境学部入学、2005年卒業。早稲田大学大学院公共経営研究科入学、2006年修士号を取得している。
講演はアパホテルの成功譚を軸に、色々なエピソードが披露された。その中で元谷夫妻の機微を語る話として、インドのタージマハル廟旅行での夫婦の会話がある。芙美子氏がこの世界遺産にもなっている廟に葬られているマハル妃が、王にかくも愛されていたのかと夫の外志雄氏に言う。対して外志雄氏は、アパホテルの建物群を芙美子氏の働き場所として与えているではないかと応え、芙美子氏がタージマハル廟にも劣らない贈り物を外志雄氏から受け取っていると再認識した逸話である。夫婦間の惚気話でもあるとしても、事実を述べている話でもあるので聞くに値する。
講演会後の立食の昼食会で芙美子氏のパノラマ写真を撮る。露出度を高める演出のためいつも着用している派手な帽子姿で集まった人と名刺交換をしている。こんな場では長めの話もできず、インタビューというにはあまりにも短い時間の名刺交換で(筆者はパノラマ写真の爪句集を名刺代わりにする)、写真撮影のため会場で少しの間動かないで立ってもらっただけである。ただ、後で何かの話をする時にデータとして利用できるかもしれない、ということで芙美子氏を撮ったものをパノラマ写真メモとして残しておく。
(2015・11・6 札幌プリンスホテル国際館パミール)
ブログ記事 これで終わりの 宗谷線
壁に掛かっている北海道の駅カレンダーの11月は稚内駅のパノラマ写真である。ブログに毎日載せてきた宗谷本線の記事も今日の稚内駅で終了である。3年以上も前に訪れた同駅のパノラマ写真と記事を仕上げて、長かった宗谷本線を締めくくる。
北海道とサハリン(樺太)を結ぶ鉄道連絡船が運行していた時代、稚内駅から線路が稚内港の北防波堤まで延びていた。稚内駅の構内仮乗降場の扱いの「稚内桟橋駅」が設けられ、乗客は北防波堤のドームを歩いて連絡船に乗り込んだ。桟橋駅までの線路の記憶を留めるため、稚内駅舎の正面に線路と列車止めがある。列車止めの先を歩いて北防波堤のドームに達する。エンタシス状の柱40本に支えられた高さ14 m 、長さ427 mのドームは現在見ても圧巻である。宗谷本線を走ったSLの動輪がドーム近くに置かれている。
2015年11月15日
稚内駅は日本最北端の駅ということで、駅に降りるだけの目的で鉄道ファンが訪れる。ホームから改札口の通路入口に看板があり、北緯45度25分03秒の数字が見える。駅は赤道と北極のほぼ2等分の角度上にある。因みに日本最南端のモノレール駅は那覇市の赤嶺駅である。ホームは1面1線でこの先に線路は無く、ホームから線路の終端が見える。4代目の現駅舎「キタカラ」は2012年に全面開業している。ガラス張りのホールで旅行客が列車を待っている。ホールには流政之の彫刻「KANE POPPO」が新しく設置された。
有難や 書棚に新刊 置かれたり
日の出が全く期待できない、雨雲に覆われた暗い朝である。外の写真を撮るのはあきらめる。昨日大通4丁目の文教堂書店で撮った爪句集の写真をPC画面に表示し、実物の爪句集と重ねて撮ってみる。新刊豆本を店の書棚に並べてくれて有難い。
稚内市は稚内港を取り巻く細長い街である。その表玄関の駅が南稚内駅で、昔は駅の位置はずれてはいたけれど、ここが稚内駅であった。この駅の北に位置する現在の稚内駅は稚内港駅であった。日本最北端の駅として観光地になっている稚内駅の方が知名度が高いけれど、南稚内駅の方が本家の駅となる。有人駅で地元市民に良く利用されている雰囲気である。ホームに出てみると2面3線で跨線橋がある。島ホームは屋根付きである。ホームから駅の北側に抜ける出口はない。魚の形の木板に筆字の駅名看板が駅舎の壁にある。
2015年11月14日
流星群 見ることできず 日の出かな
夜中(ブログ子にとっては十分夜中)にメールが来て「おうし座流星群」の観察推奨である。自宅の窓から流星が見られるという東空を見ても、東は大都会札幌の夜景が控えていて、星空さえ見えない。朝が明ける頃パノラマ写真を撮ってみる。
(パノラマ写真)
宗谷本線は抜海駅の付近で海に近づく。抜海駅から直線で西に1.5 kmほど行くとそこは日本海である。海に突き出した抜海岬に抜海漁港があり、抜海の集落は港の周囲にある。少し内陸に入る駅の周囲には集落はない。抜海駅と横書きの駅名看板のある駅舎の壁に「ようこそ抜海駅へ」の文字のある看板が見える。日本海からの強い風に対応して玄関に風除室がある。駅舎内は椅子4脚と一人用ソファーがあった。ホームは2面2線で列車交換可能駅である。映画「南極物語」のロケの駅であり、ホームのプランターの花に心が和む。
2015年11月13日
駅の所在地は稚内市抜海村上ユーチで最後の部分は片かな表記である。片かなの駅名は都合が悪かったのか、漢字の「勇知」表記にしてある。語源はアイヌ語の「イオチ(蛇の多いところ)」である。車掌車改造の待合所が設置されているものの、外壁の塗装が剥げ落ちてみっともない姿である。それを少しでも繕うかのようにプランターや鉢の花が並べられている。待合所内は掃除が行き届いており、ガラス窓に飾りが目に入る。ホームは土盛りの1面1線の棒線駅である。なお、現在は待合所の外壁は新しく塗り直されている。
駅名の兜沼は駅近くにある沼で、形が兜に似ていることから命名されている。しかし、航空写真で沼の形を見て、どう見ると兜の形なのか首を捻る。駅の西側の沼の近くに兜沼公園オートキャンプ場がある。駅舎正面右寄りに玄関があり、腰折れの三角形庇がある。兜をイメージしてこの形にしたのかもしれない。駅舎内には椅子が4脚あり掃除用具が置かれている。ホームは2面2線で構内踏切がある。ホームから兜沼が見えるのだが、伸びた夏草で沼の景色が遮られ、あまりよく見えない。駅近くに「兜沼郷土資料室」がある。
2015年11月12日
徳満駅の辺りでは宗谷本線と国道40号は並行して北に延びる。駅は国道からわずかに西に入ったところにある。駅待合所はプレハブで、壁に掲げられている木の駅名看板がなければ工事現場の詰め所と間違う。待合所の傍にあるトイレも工事現場の仮設トイレの趣である。狭い待合所内には椅子が4つあり座布団も敷かれている。牛の置物があり、この辺りが酪農地帯であると教えているようだ。ホームは土盛りの1面1線で、真っ直ぐな線路が延びている。隣駅の「豊富」にこの「徳満」で有人駅時代には人気の乗車券であった。
小雨朝 日の出東に 虹は西
日の出時に雨が降っている。陽が顔を出す東の空ばかりに気を取られていたが、ふと西の空を見ると虹がかかっている。肉眼で虹は良く見えるのだが、パノラマ写真に撮るとうっすらとしか写っていない。蕪村の名句を真似て一句作ってみる。
(パノラマ写真)
豊富町の表玄関の駅である。町名は石炭や泥炭、石油や天然ガスの地下資源が豊富であることから命名された。地下資源には温泉もあり、わずかに油を含む泉質で「油風呂」とも呼ばれている。豊富温泉郷とサロベツ原野を組み合わせた観光の町である。駅前は広場になっており、玄関フードのある平屋の駅舎がある。駅舎内の観光案内所にサロベツ原野でロケが行われたNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」で使用された防寒具が飾ってある。ホームは2面2線でホーム間に跨線橋がある。ホームから駅の西側には出られない。
2015年11月11日
駅名は地名からで、地名はアイヌ語の「パンケ・トウ(下の沼)」を意訳している。パンケトウは阿寒湖の近くにもある。車掌車改造待合所が置かれ、1面1線のホームがあり、この路線の同様な構造の他の駅と大きく異なる点が見つからない。時刻表から特急が通過する時刻に居合わせたので、特急を入れたパノラマ写真を撮ってみた。同様の写真撮影をしているカメラマンが写り込む。待合所内の時刻表には下りと上りでそれぞれ4便が記載されていて、この規模の駅では比較的多い本数である。テーブルに駅ノートがあった。
幌延駅は宗谷本線の拠点駅である。歴史的には留萌駅から日本海に沿って北上する羽幌線の終着駅で、道北の鉄路の要衝の駅であった。羽幌線は1987年に廃止された。駅前に広場がありバス停もある。有人駅で鉄道の他にバスの乗車券販売も行われている。ホームは2面2線で、ホーム間の移動は跨線橋を利用する。ホーム側の駅舎の壁にトナカイの絵の切り抜きが並べられている。これは同町にトナカイ観光牧場があるためである。北緯45度の町の看板もある。しかし、核廃棄物処理研究の深地層研究センターの文字はない。
幌延は 駅舎も示す 拠点駅
(パノラマ写真 2013.8.12)
緯度の町 トナカイ迎え 駅ホーム
2015年11月10日
上幌延駅は牧草地と原野の中に車掌車改造待合所があり、土を盛った1面1線のホームがある。似たような駅が何か所も現れてくると、異なる記述にするのが難しい。過疎化は風景を似たようなものに変えていく。車掌車待合所はどれも煙突がついている。待合所内に入って見ると、かつては使われた煙突の差し込み口がある。しかし、ストーブなどはもう使われていない。壁にある時刻表を見ると下り方面2便、上り方面3便しかなく、これでは暖房装置を取り付けことは考えられない。待合所の木製ベンチに駅ノートがあった。
2015年11月09日
南幌延駅付近では宗谷本線と道道256号が近くで並行に走っている。256号から分かれて線路に直角の道が延び、踏切がある。踏切のところから木製のスロープとデッキのホームがつながる。道路を挟んで上り方向に待合所がある。待合所があるのでそちらに時刻表や料金表があり、1面1線のホームには駅名看板のみで駅施設としては最小限である。ホームから赤い屋根の建物が見え、この建物横には獣魂碑があった。待合所内は板張り板敷で木製ベンチがあり除雪用具などが置かれてある。木製の除雪用具が目に留まった。
駅名(地名)に漢字の「牛」が付くのを見かける。アイヌ語の「ウシ(所)」に漢字の「牛」を当てはめている。駅名にある「安」の方はアイヌ語の「ヤシ」(網引き)で、近くの天塩川に遡るサケを捕る網引きを言っている。駅前に道道256号から分かれた道路はあるものの人家はなく、牧草地と原野のなかに安牛駅の車掌車改造待合所がある。待合所の塗装は剥がれ、無残な姿を晒している。この手の待合所は外見も内部も似たり寄ったりで、待合所内の壁にある時刻表を見ると上り3便、下り3便である。ホームは1面1線である。
2015年11月08日
駅名と町名(地域名)が同じ漢字でも読みが異なる場合がある。札幌の昔の月寒(つきさっぷ)駅と地区名の「つきさむ」、室蘭本線の稀腑(まれっぷ)駅と稀腑(まれふ)町などがある。雄信内も駅名は「おのっぷない」町名は「おのぶない」である。駅前は0.3 kmの道道302号になっているが周囲の集落は消えている。辛うじて残った感じの駅舎は、北海道の典型的駅舎の姿を残している。駅舎内には木製ベンチがあり、駅作業員のものと思われる自転車があった。ホームは2面2線で構内踏切のある列車交換可能駅である。
糠南駅は牧草地と原野の中にあり、周囲に人家は見えない。中問寒糠南線踏切から上り方向に木製デッキのホームの駅が見える。踏切から線路に沿って少し歩き木製スロープを上り1面1線のホームに立つ。ホームに物置かと思えるプレハブ小屋がある。戸を開くと、待合室になっている。除雪用具やスコップ、ゴミ箱と並んで座る場所があるけれど、人一人が座れば満室状態の待合室である。ご本尊のような時刻表があるので見ると、上り方面2便、下り方面3便で、停車しない普通列車が多い。この駅は秘境駅の名前に値する。
2015年11月07日
漢字の音訓読みが混じった駅名で、正しく読むのが難しい。駅名になった地名はアイヌ語の「トイ・カム・ペッ(土が覆う川)」に由来し、漢字を当てはめる時、「トイ」に訓読みで「問」、他は音読みの漢字が用いられた。隣駅の歌内駅とそっくりの車掌車改造待合所が旧駅舎跡に設置されている。駅前広場があり付近に民家がある。駅前の赤いポストが印象的で、待合所同様利用されることは少ないだろう。ホームは1面1線の棒線駅である。待合所内は横長木製ベンチがあり、座布団も用意されていて、清掃が行き届いている。
宗谷本線は北に行くにつれて車掌車改造待合所が多くなる。車掌車はヨ3500形で、歌内駅と隣駅の問寒別駅の例では塗装も同じである。駅の構造も似ているとなれば、句も文章も同工異曲にならざるを得ない。駅名は異なるので駅名の由来にこだわると、旧駅名はアイヌ語の「ウッ・ナイ(細い脇川)」に「宇戸内」の漢字が当てはめられ、似た音の「歌内」となったらしい。旧駅舎が取り壊されてそのコンクリート基礎の上に待合所が置かれている。ホームは1面1線である。待合所内にトイレがありドアに「便所」の文字がある。
2015年11月06日
中川町の表玄関になる天塩中川駅は道路から東に少し入ったところにある。駅を正面に見る道路にマンホールがあって、蓋のデザインに首長竜とアンモナイトが描かれている。中川町で見つかった化石で、化石で町の知名度を高めようとしている。町名に天塩を冠して駅名にしているのは、奥羽本線に中川駅が既に存在したことによる。木造平屋の駅舎内は大きな石油ストーブを囲んで据え付け椅子がある。化石に関する展示等を期待したが見当たらない。ホームは2面2線の列車交換可能駅で、ホームの南側に構内踏切がある。
中の川 番のカモ見 試し撮り
これまで使ってきたコンデジの調子が少々悪いこともあって、新しいものを購入する。カメラ専用の電池だと充電に気を配る必要があるので、単3で動作するものを選ぶ。試し撮りで朝の散歩時に中の川に居た番のカモをズームで撮ってみる。
中川町佐久の集落は宗谷本線と天塩川に挟まれてほぼ南北に広がっている。駅前の通りを西に2区画行くとそこは天塩川となる。佐久はアイヌ語の「サク(夏)」に当て字をしていて、咲来駅と同様、この辺りは夏が生活に深くかかわっていたようだ。駅舎は中川町の施設「佐久ふるさと伝承館」と一緒になっている。古い生活用具や農器具、馬橇などが展示されている。大きな鉄釜と木製蒸留装置があり、これはハッカの生産に用いられた。ホームに出てみると2面2線で列車交換が出来る駅で、ホームの南側に構内踏切がある。
2015年11月05日
黄葉を 見に来撮るのは 大道芸
用事があって(というより作って)アカプラ広場の近くまで出掛ける。アカプラのイチョウ並木の黄葉は既に盛りを過ぎていて、葉の無くなった木も並んでいる。暖かい日で広場の中央で若い大道芸人が技を披露し、それに見入る人々の姿がある。
難読の駅名である。アイヌ語に漢字を当てはめているけれど、元のアイヌ語には諸説がある。それにしても何故こんな読みの難しい漢字を用いたのか疑問が残る。駅の住所は音威子府村大字物満内(ものまない)小字筬島で、音威子府駅から6.3 kmの集落らしきものが無い所に駅がある。ホームは土を固めた1面で、棒線1線である。車掌車改造の駅待合所があり、外壁は新しく塗り替えられている。待合所の内には故砂澤ビッキのポスターがある。駅近くの筬島小学校の廃校舎が同木彫作家のアトリエ跡兼作品展示場である。
筬島で 列車行き先 不明なり
2015年11月04日
北海道で一番小さな村が売りの音威子府の駅はかつては天北線の分岐駅として鉄道の要衝であった。駅舎内には人気の立食い蕎麦屋と並んで「天北線資料室」がある。天北線は音威子府から興浜北線への接続する浜頓別駅経由で南稚内駅までつながっていた。資料室の路線図を見ると、興浜北線を含め随分長い路線が廃止になった歴史があり、現在も路線の廃止は続いている。音威子府は宗谷本線の拠点駅で、有人駅である。ホームは2面3線で跨線橋がある。島式ホームには屋根が架かっており、木製SLのオブジェがある。
天北線 記憶詰まりて 資料室
暦売れ 書店売り場を 記念撮
紀伊国屋書店札幌本店のカレンダー売り場を覗いてくる。追加で納めた鉄道暦50部は無くなりかけている。手持の在庫はないので店頭に鉄道暦が置かれているのは後2,3日ではなかろうか。記念のため売り場のパノラマ写真を撮らせてもらう。
(パノラマ写真)
この駅名は最初は読めない。難読駅名はアイヌ語に漢字を当てはめているためで、この駅名(地名)もその典型例である。そのアイヌ語は「サク・ル」で「夏の通り道」を言っている。同じアイヌ語に「札弦(札鶴)」の漢字を当てはめた駅が釧網本線にある。枝幸町歌登中央を起点とする総延長25.4 kmの道道220号の終点にある駅である。土を固めたホーム1面に棒線の駅である。駅の東側には鉄道防風雪林が延びさらに東側に国道40号が線路と並行にある。ホームの下り方向の端に駅待合室がある。待合室には除雪用具があり、L字の木製ベンチに造花が置かれてある。ベンチの上の駅ノートも目に入る。
棒線は ここでは夏の 通り道
2015年11月03日
駅の住所は中川郡音威子府村字咲来(さっくる)で、1956年の開業時は南咲来仮乗降場だった。乗降場から徒歩約10分の天塩川温泉があったので、仮乗降場名を天塩川温泉として、駅昇格で現在の駅名になった。木製デッキのホームの1面1線の駅である。線路と交差する道路があり、その踏切近くからホームへのスロープがある。スロープを上ったところに変わった形の屋根の駅待合室がある。待合室には8脚の椅子と小上がりのような部分があり、横にもなれる造りである。温泉に入浴した後の休み処といった感じである。
待合所 温泉文字の 目立ちたり
周囲に人家の無い、牧草畑の近くにある駅である。国道40号から分かれた道路を行くと駅前に通じる短い道路があり、道路の先の高いところに階段付きの駅舎がある。秘境駅の表現が当てはまる駅である。駅舎壁に縦書きの駅名板がある。駅舎の一部分が区切られていて狭い待合室になっている。木製ベンチがありトイレもある。秘境駅なら鉄道ファンのための駅ノートがあるかと見回してもそれらしきものはない。ホームに出てみると島式ホームの1面2線である。列車交換が行われる駅で、そのため冬期間は保線要員が常駐する。
これもまた 文化的かと ブログ書き
文化の日の祝日。新聞の天気予報欄には終日晴れマークが並ぶ。しかし、日の出時の東の空は雲が厚い。屋根から陽が昇って来る瞬間を写真に撮る。撮影した写真から良さそうなものを選び爪句を捻る。文化の日にささやかな文化的行為である。
2015年11月02日
蛇行した天塩川が取り囲む土地に恩根内の集落があり、集落の東端に恩根内駅がある。駅のすぐ東に線路と並行して国道40号が延びる。しかし、駅から直接国道につながる道路はない。かつての木造駅舎が取り壊され、車掌車改造駅舎が置かれ、さらに簡易駅舎に変遷して来ている。駅舎はマンサード風の屋根の四角の建屋で、駅名がなければ駅舎とは思われない。駅舎とホームの間には砂利敷の広場があり、紋穂内駅と同様木材の出荷駅として機能していた頃は規模の大きな駅だった名残である。駅舎内に役者絵が貼ってあった。
紋穂内とは変わった地名である。アイヌ語の「モム ポ ナイ(川尻に原野のある川)」が転訛したと言われている。林業が盛んだった時代には、周辺で産出した木材の出荷駅として規模が大きく、木造駅舎もあった。現在は車掌車改造の待合所がかつての駅舎跡に置かれている。ホームは1面の1線のみである。待合所の外壁は塗装がひび割れていて保守の手抜きが伺える。それでも待合所内は整理整頓が見て取れる。木製ベンチがあっても、駅ノートは置かれていなかった。ここから稚内駅まで似た車掌車改造待合所が現れる。
2015年11月01日
市街地を離れると宗谷本線は似たような駅が多い。田園地帯に、木製デッキのホーム1面の棒線駅であり、真っ直ぐな線路が延びる。駅の周囲には鉄道防風雪林があり、直線道路が線路を横切る踏切近くに駅がある。初野駅はそんな典型的な駅の一つである。駅待合所がそれぞれ異なるのでパノラマ写真を見て駅を当てるような場合、駅名標を除けば待合所が有力な手がかりとなる。初野駅の待合所は木製ホームの下り方向(北側)の端近くの道路に面したプレハブ小屋である。待合所のドアからホームへの木製スロープが見える。
霜月は あいまいな月 薄日なり
11月は霜月で晩秋から初冬への移行の月である。季節が変わっていくので何となく落ち着かない月でもある。東の空の雲間から陽の光が放射状に地上にこぼれ出ている。光が弱く、晴れか曇りか雲もどっちつかずで、季節の曖昧さを現している。
美深駅舎は名士バスのバスターミナルと同居する立派な建物である。建物の中央に鐘付きの時計塔があり、「美幸の鐘」の文字が見える。これは美深駅がかつて美幸線の起点駅であったことを記憶するものである。美幸線は全線が開通する前に廃止となった。有人駅で駅舎内には物産品販売コーナーや「美深町交通ターミナル文庫」と銘打たれた図書コーナーがある。ホームに出ると2面2線でホーム間の移動は跨線橋を利用する。丁度列車が入って来たところで列車と駅舎を撮る。この角度では高い時計塔が隠れて写らない。