2006年12月31日
2006年12月30日
水天宮
小樽観光の代表の一つであるこの神社を秘境と呼ぶには無理がある。しかし、秘境の匂いのする史跡なんかもあり、秘境に組み込めないかと取材する。
閉校になった旧堺小学校の玄関を見ながら坂を登り、旧寿原邸の横から水天宮の境内に入る。丁度神社の本殿の横から境内に入ったことになり、正面の階段を登り本殿を見るのは後回しとなった。雪で覆われた境内には人影が無い。本殿の横には稲荷神社があり、赤い鳥居が雪景色に映えている。
境内は高台にあるので、ここからの小樽の街や港の眺望は抜群である。境内には小樽市重要眺望地点の案内板がある。市の景観条例により一九九六年に指定されたと記されている。小樽市に住んでいれば、ここからの眺めながら、あの建物は何に、この道路は何通りと同定できるところ、小樽外に居住する著者にはその知識がない。町並みの向こうに小樽港を眺め、小樽は坂と港の町の感想を再確認する。
境内には「経度天測標と旧樺太日露国境中間標石」の表題の看板がある。看板の説明によると、一八九三年(明治二十六年)旧海軍水路部が水天宮山上での天文測器により設置した石柱が境内に置かれている。
一九〇五年(明治三十八年)日露戦争の後始末のポーツマス条約で、両国の国境が両国の国境が樺太の北緯五十度に定められた。翌年に国境の画定作業が開始され、経度天測標が海馬島などの付属島しょの正確な経度を測定するための基準点として使われた。
この石柱は柵の内にあると注釈があったので、入ることができない本殿を囲む柵の内を覗くと確かにそれらしい石柱が認められた。柵の隙間からどうにかこの石柱を写してみた。旧樺太日露国境画定作業の記念として、国境中間標石のレプリカもここに移されて置かれていると書かれているので、写真に写っている石柱の手前の石碑であろう。
水天宮の境内の隅に、石川啄木の歌碑がある。この歌碑には
悲しきは 小樽の町よ 歌うことのなき人人の 聲の荒さよ
の歌が刻まれている。啄木にとって小樽は居辛い町であったようである。でも、小樽の人の心には荒っぽく響くこの歌が、歌碑として建てられるのを見ると、商業都市である一方で、文学的縁を大切にしようとする小樽の人の姿勢が垣間見える。
2006年12月29日
銭函駅近くの石蔵喫茶店
銭函駅前の通りをちょっと過ぎたあたりで写真の石蔵を目にする。気になったので引き返して寄ってみるとこれは喫茶店であった。ぽつんと石蔵が取り残されたようにあって、そこに暖簾がかかっている。無料で見ることのできる場所や対象が都会の秘境の条件であったけれど、今回はこの条件を無視することにする。
石蔵の扉がそのまま玄関になっている入り口の上の方には魚のレリーフが貼り付けられている。これはこの辺りで捕れる魚「八角」のようだ。かつて漁に使ったガラスの“ダマ”が玄関脇に飾ってある。店名の「大阪屋」が染め抜かれた暖簾をくぐって内に入る。
オーナーらしい中年女性がカウンター越しに顔を向けてくる。広くもない店内には彼女だけで、客は誰もいない。外からの明かりは石蔵の窓だけなので元々薄暗い空間に加えて、室内の照明も心もとない。何か秘境の喫茶店に紛れ込んだ感じである。
あれこれ考えもせず、コーヒーを注文する。コーヒーが落ちるまで石蔵の由来を聞くと、元々は質屋のもので、質草を保管していた場所である。薄暗い空間に思いのこもった品々がひっそりと置かれていたのである。店内には骨董品まがいのようなものが置かれていたけれど、これは質草とは関係ないだろう。
銭函近辺には秘境の候補になるようなところはないかと、コーヒーをすすりながら聞いてみる。ここに長いこと住んでいるらしい女店主に、意外と思われる秘境の定義に合う場所を尋ねても、ここの住人には意外なところなど思いつかないだろうから、はかばかしい答えは得られない。銭函海岸近くのゴルフ場のカントリー倶楽部の辺りは昔は競馬場だったといった話は出てきたけれど、今はその痕跡もないだろう、と締めくくられては取り付く島がない。
秘境のJR張碓駅には車で行けるかどうかなども聞いてみるけれど、明確な答えが得られない。喫茶店経営者なら無闇にあちらこちらと出歩かないと思われるので、秘境探しで多くを期待しても期待通りにならないのも当然の成り行きである。
帰り際、二階も覗いていくかといわれたので、二階に登ってみる。ここはアンテーク風な机と椅子が並べられていて、喫茶店の続きとなっている。詰めると二十人くらいは座れそうである。壁の掛かっている年代物の時計には「三馬ゴム株式会社」の社名が入っていて、この会社のゴム長(靴)を履いた昔を思い出した。
店を出るときに払ったコーヒー代は四百五十円で、こちらはしっかりと現代の都会の料金で、昔の代金でも秘境の代金でもなかった。
2006年12月28日
祝津の鰊御殿
北海道の日本海側は、かって群来(くき)と呼ばれた鰊の大群が押し寄せ、鰊漁が栄えて鰊御殿と称された網元の家が各地に建てられた。小樽祝津の高島岬の丘の中腹に、移築された鰊御殿があり、料金(三百円)を払うと中を見学でき、過去の繁栄の跡を確かめることができる。
この鰊御殿は一八九七年(明治三十年)西積丹の泊村に建てられたもので、建て主は青森県出身の田中福松という鰊漁で財をなした鰊大尽である。建物は一九五八年(昭和三十三年)に高島岬に移築され、小樽市に寄贈されている。一九六〇年(昭和三十五年)に北海道の民家では初めて道有形文化財の指定を受けている。
建物の内部は、檜の太い柱と梁で広い空間が生み出されていて、二百人を超える人々がこの空間を共有して生活していたというから、当時の賑やかさが想像される。シーズンオフのこの時期には訪れる見学客もまばらで、これは秘境の館と、無理を承知の上でこじつけて見て回る。
この建物は北陸・東北地方の民家の切妻造となっていて、大屋根の中央に飛び出した煙出しが設けられている。この煙出しを下から見上げると写真のように梁が幾重にも重なって見える。その梁に、鰊漁のために使われた網とタモが架けられてあった。現在の漁業なら動力をつかって網の中の鰊を船に引き上げるところ、昔は人力でこの大きなタモで鰊を掬い上げたかと思うと、これはかなりの重労働であったと想像できる。漁業も昔は労働集約産業で、鰊御殿のスペースもそのために必要なものであったのだろう。
建物内の一部は写真の展示室にもなっていて、鰊漁繁栄時代の写真が並ぶ。よく見なかったけれど、鰊漁の盛んなりし頃の積丹地方が写真に収められている。現在ならデジカメで写真(というより画像データ)はどんどん個人のパソコンに蓄積されていくけれど、昔の写真は貴重なものであろうから、この種の写真のディジタル・アーカイブスが進められているのかも知れない。そのうち、この写真コーナーにはプリントされた写真の代わりに、大型のディスプレイ装置が置かれ、その画面で過去の写真を見るようになっているのではなかろうかと予想して、この建物の見学を終えた。
2006年12月27日
小林多喜二文学碑
秘境のテーマに小林多喜二を採り上げるのは荷が重い。しかし、小樽を代表する二大作家の一人伊藤整の文学碑を採り上げたからには、もう一人の、二十九歳で拷問を受けて死んだこのプロレタリア作家の文学碑も並べて書いておきたい。
文学碑は「樺太記念碑」のテーマで触れているように、旭展望台にある。大きな文学碑で、全国からのカンパで、一九六五年に建立されている。写真の文学碑の制作に当たったのは彫刻家本郷新であり、碑の右側上部には多喜二の顔のブロンズ像があり、左側中央に見える人間の頭部のブロンズ像はプロレタリア労働者を模していると言われている。
この碑には、豊多摩刑務所に捕らえられていた多喜二の救援活動をしていた村山籌子氏に送った書簡のレリーフが嵌め込まれている。その文面は縦書き改行を/で表して次のようになる。
冬が近くなると/ぼくはそのなつかし/い国のことを考えて/深い感動に捉えら/れている そこには/運河と倉庫と税関と/桟橋がある そこで/は人は重っ苦しい/空の下を どれも背/をまげて歩いている/ぼくは何処を歩いて/いようが どの人を/も知っている 赤い/断層を処々に見せて/いる階段のように山/にせり上がっている街/を ぼくはどんなに/愛しているか分からな/い
多喜二は一九〇三年秋田に生まれ、四歳の時に小樽に移り住み、小樽商業(小樽商業高校)、小樽高商(現・小樽商大)に学び、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務している。一九三〇年上京し、一九三一年には日本共産党に入党している。「蟹工船」や「不在地主」等の代表作を世に出し、一九三三年築地警察署に逮捕され拷問を受けて死亡した。
多喜二の故郷は小樽であり、創作に影響を与えたのは小樽の港湾労働者である。多喜二は小樽を抜きにしては語れない。多喜二と過去の小樽の関係は、時代を背景にして抜き差しならない重いものである。それが多喜二の文学の芯にある。
一方、現在の観光都市小樽でも多喜二の名前は出てくる。こちらの多喜二と小樽の街は軽い関係であるとでも表現したい。なにせ、寿司屋の店名が「多喜二」なので。この寿司屋は写真のような年季の入った二階建てで、店先に多喜二の文章が彫られた碑があった。小樽の雪の描写が碑文となっている。
この碑のある場所は堺町通に面していて良く知られた店のようで、秘境ではない。ただ、秘境は無料で見れる場所の原則を守って、店内には入らなかった。
2006年12月26日
美登江開拓百年記念碑
道路地図を見ていると、国道337号線の生振(おやふる)バイパスが石狩川を横切って札幌から当別町に入る。その辺りの石狩川に沿った土手道に「開拓百年之碑」がポツンと記されている。辺りには何もなさそうで、これは秘境候補と見に行くことにする。
この碑は生振バイパスを挟んで、「石狩川」文学碑と反対側にある。しかし、現場ではこの土手道に出るのは通行止があったりして、地図通りには進めない。何とか国道下のトンネルや土手沿いの細い道を通って、お目当ての開拓百年記念碑までたどり着く。記念碑は農道の突き当たりに農地を背にひっそりと建っている。
碑文に書かれた美登江(ビトエ)の史実を振り返ってみる。この美登江に入植者が住み着いたのは一八八二年(明治十五年)のことで、本格的に開拓が始まり一八九八年(明治三十一年)には入植者の数は百十戸に達している。しかし、この年に石狩川の大洪水があり、その後も石狩川の氾濫が続き、離農者が続出して一九〇七年(明治四十年)には六十九戸までに減っている。
昭和初期に石狩川の大改修が行われ、美登江地区が直線状になった新しい石狩川で分離され農地が減ったことと引き換えに、川の氾濫が治まり、現在の実り多い農地に生まれ変わって来ている。しかし、一九七〇年(昭和四十五年)に始まる国の稲作減反政策で水田は減り、三十六戸の農家までになった。一九八二年(昭和五十七年)にこの地への入植百年を記念してこの碑が建てられている。
碑の横には馬頭観音碑も並んで建っている。これらの碑を囲むように農地と農家があるだけである。稲穂が色づいていて、この時期米の収穫を迎えているのが分かる。最近の北海道の米の味は昔に比べると格段に美味しくなっている。石狩川の水を制御し、農地を拓いて、石狩川流域を日本でも有数の米どころにした果実は、先人の北海道開拓により得られたものであることをこの碑と碑文から改めて確認することになる。
石狩川の改修工事によりここら辺石狩川は真っ直ぐ流れていて、石狩川の増水に備えた川水の制御の仕掛けとしてのひ門が川に設けられている。写真のひ門は南三号ひ門の名盤が取り付けられていた。
2006年12月25日
星置川河口
札幌秘境百選には、星置川にある星置の滝を採り上げている。この滝から流れ下る川水は、小樽市と札幌市(手稲区)の市区を出たり入ったりする川となって、最後は直線状に流れて石狩湾に注ぐ。この星置川が銭函の浜で海水に帰っていく様子を見にゆくことにする。
夏には賑わいを見せるであろう銭函海水浴場と小樽カントリー倶楽部のゴルフ場を仕切るようにして走る海岸沿いの細い道を、雪道に埋まらないように気をつけながら車を走らせる。河口近くの望洋橋のたもとに車を止めて、腐食してぼろぼろになりつつある川の看板の写真などを撮る。
看板からかろうじて読める、二級河川の星置川の名前の由来は、アイヌ語で星置の滝の辺りをソーポク(滝の下)と呼び、一名ホシポキと云うことから来ている。星置の滝のある上流方向には、写真のように真っ直ぐな川の遥か彼方に手稲の山並みが望める。しかし、星置の滝がどの辺りであるかはここからは判別できない。
河口の方に歩を進めると、砂浜にコンクリートの防波堤が伸び、消波ブロックが積まれている。防波堤の先端から望洋橋の方向を見ると、海からの波が川上方向に押し寄せていくので、水が河口から川上に流れていくように見える。川水と海水とのせめぎ合いのせいか、河床に川の流れに垂直状の縞模様が出来ているのが川面からも観察できる。
解せないのは、写真のように防波堤の上に大きなブロックが一個置かれている。作業の途中で取り残されたのか、特に意味があってこの状況にしているのか分からない。しかし、写真を撮るのには景観にアクセントがついて都合がよい。ブロックの背景には冬の石狩湾が広がっている。
夏にはこの浜は海で遊ぶ人が集まる場所となるのだろう。秋になると星置川には鮭が遡るので、この河口あたりには鮭の遡上を見に来る人がやって来るのだろう。しかし、冬のこの季節、ここで目にすることのできるものは、人影のない砂浜と打ち寄せる波と波を遮り川水が海に戻り易くしているブロックの群れだけである。
2006年12月23日
北海道職業能力開発大学校ホログラフィー研究室
JR銭函駅付近から延びる銭函運河線に沿って標記の大学校がある。この大学校は独立行政法人雇用・能力開発機構に属する学校で、専門課程の二年間と応用過程の二年間の計四年間で知識と技術を習得するカリキュラムが組まれている。ここで、名称が大学と大学校と使い分けられているのは、前者は文部科学省が元締めで、後者が厚生労働省のような文部科学省以外の省が管轄する高等教育機関であることによっている。
この大学校の専門課程に属する科の一つに「情報技術科」があって、一部ホログラフィーの研究とこの技術を利用しながらの教育が行われている。著者も北大時代の研究事始めはホログラフィーであったこともあって、北大情報工学科の著者の研究室で助手であった同大学校の恩田邦夫教授の紹介もあり、同科の佐藤龍司教授のホログラフィー研究室を覗かせていただいた。
研究室内には本格的は防振装置付きのオプティカル・ベンチが並んでいて、その上に各種光学装置が乗っている。著者が北大電子工学科で防振装置もない普通の木の机で光ホログラフィーの実験を行っていた頃と比べると、装置ではこれは素人とプロの差である。木の机でも、大学院生と一緒になり電子工学科では最初の光ホログラフィー実験を成功させた頃が思い出される。
佐藤先生には、研究室の雰囲気を写真に撮りたいと注文を出し、暗い実験室内でアルゴン・レーザの緑の光が鏡に反射して、ビームとなって空間を横切っている様子を作り出してもらった。このレーザ光を物体に照射し、物体からの反射光と参照光を一緒に写真乾板に記録することでホログラムが出来上がる。
出来上がったホログラムから白色光で再生した像も写真に収めようと、ホログラムからの再生像にピントを合わせ、デジカメで撮影しようと試みるのだけれど、これはなかなか難しい。精々撮れて写真のもので、かろうじて再生像が写っている。
一般の人が、この研究室で二次元の写真乾板に記録されたホログラムから三次元像の再生が行われているのを見る機会があれば、これは秘境空間であると感じるのではなかろうか。研究室の廊下に研究成果のパネルが掲示されてはいるけれど、この光技術の原理についても説明を受けてもそれは秘境の領域に違いない。
秘境の本の出版時に、この研究室の技術を生かした仕掛けも佐藤先生と話したけれど、実現できるかどうかは今の時点では分からない。
2006年12月22日
張碓橋
土木学会が選奨する土木遺産という認定制度が二〇〇〇年に創設されている。これは第二次世界大戦以前に造られた土木施設や構造物を見直すためのもので、地域の資源として活用することも目的に加えられている。小樽市に関していうと「小樽港北防波堤」が既に土木遺産として認定されている。
張碓(はりうす)橋が二〇〇六年度の土木遺産として選ばれたとの新聞報道を目にした。この橋は、かつては札幌と小樽をつなぐ重要な役目を負っていたけれど、現在は札幌-小樽間には高速道路の札幌自動車道と国道5号線が平行して走っていて、この張碓橋のある部分は新しい橋が架かり、古い張碓橋を通る道路は札幌と小樽を行き来する自動車が通過することはない。
国道5号線が高速道路の大きな橋の下を抜ける辺りで、国道からわき道に入って張碓橋への道を辿る。この道路で車や人を見かけなかったけれど、道路と橋の上は除雪されているので、この道路は生活道路として利用されているのが分かる。橋に近づいて見ると、一方に張碓橋、もう一方に昭和八年(一九三三年)六月竣功の文字版がはめ込まれているのを確認できる。写真のように「土木学会選奨土木遺産 2006」のプレートも取り付けられている。
この橋は鋼製で、全長七十二m、幅七・五mである。橋の脇には雪があって、身を乗り出して橋の形を確かめるのが困難なので、橋から離れて橋全体を眺めてみる。写真のようにアーチ橋で、アーチ部分や欄干の部分は赤くペンキで塗装されている。この橋の背後に高速道路の大きな橋が見えるけれど、こちらの橋げたは直線状である。
七十年以上も昔に造られた橋が現役で役立っているのを目にすると、自分の歳よりも多いという思いも重なって、遺産の資格が充分にあると感じる。さて、この橋は今後三十年持ちこたえて、百歳の誕生日を迎えることができるだろうか。何か人間の長寿と競争しているような気もする。
冬の季節、橋が架かっている張碓川の両岸の木立はすっかり葉を落としている。そのため殺風景ではあるけれど、木の葉に遮られず橋全体を眺めることができ、橋の写真をとるには都合が良かった。でも、木が生い茂った季節には、小樽八区八景の一つとして選ばれているこの橋はどんな景色になるのか再度来てみようと思いつつ、雪道を引き返した。
2006年12月20日
森ヒロコ・スタシス美術館
小樽の緑地区に沿って走る道道956号線沿いにこの美術館がある。小樽ではよく知られた私設美術館で、入館料も設定されているので都会の秘境の定義の範疇からはみ出す。しかし、館名にある銅版画家の森ヒロコ氏と館長の長谷川洋行氏を知っている関係で、秘境の取材を行った。
最初この建物と出会った時、写真のように石蔵に美術館の看板が出ていて、美術館と石蔵の取り合わせの妙を感じた。加えて、看板に「NDA画廊」の文字を見つけて、この画廊が十五年以上も前に札幌にあった時、著者の作品をこの画廊に並べて行った「コンピュータグラフィックスホログラムとスケッチ展」を思い出した。
美術館の正面には館名にあるポーランドを代表するアーティストのスタシス・エイドリゲヴィチウス氏がこの美術館を訪れた時に描いていった、赤い人物とStasysのサインがある。開館日は週末に設定されているので、土曜日の開館時間に合わせて入館すると、好都合なことに森ヒロコ先生がおられ、館内を案内してもらった。
館内に入ると一階のフロアーにポーランドのユゼフ・ヴィルコン氏の廃材で作った動物のオブジェが置かれている。ユーモラスで素朴な犬やコンドルの置物で、森先生が気に入ってヴィルコン氏に頼み込んで美術館の所蔵品にしたそうである。ヴィルコン氏の猫の自画像も一緒に展示されている。
美術館はバス通りに面した部分と、奥にある石蔵をつないで建てられていて、石蔵内の美術館には森先生、スタシスの作品の他にチェコスロバキアのアルビン・ブルノフスキーの作品が展示されている。石蔵内の美術館の様子を写した写真の隅にブルノフスキーの肖像写真が見えるが、この天才的芸術家は一九九七年に亡くなっている。
森先生の銅版画のお好みのモチーフは猫で、著者も何点か森先生の作品を所蔵している。銅版画に関しては、札幌芸術の森で市民相手の夏休みの講習会が開かれた時に通って、西安で描いた兵馬俑のスケッチを銅版画に仕上げた経験があるので少しは知識がある。スケッチを銅版の上に写して、ニードルでなぞって行く。ニードルで傷のついた部分をさらに腐食させ、この部分にインクが入り込むようにする。最終的にはインクを塗った銅版に紙をあて、プレス機で銅版に描かれたものを紙に写し取る。なかなか手の込んだ作業となる。
森先生の居間で話し込んでいると、外出先から館長の長谷川氏が戻られた。氏からは、スロバキア国立オペラを毎年日本に招待して公演を行う興行師としての話を聞いた。その話は、一般には知られていない逸話に満ちていて秘境的であった。二〇〇七年の年明けは「カルメン」が演目だそうで、オペラとはこれまで縁が無かったけれど、この美術館見学の縁で札幌講演のチケットを買い求めた。
この取材記をブログに投稿しようと準備していると、このオペラ公演に関する記事が長谷川氏の顔写真とともに新聞に掲載されているのを目にした。
2006年12月18日
小樽市立堺小学校跡
小樽市の地図を見ていると、東雲(しののめ)町の水天宮近くにかなりの広さの敷地と建屋を持った小樽市立堺小学校が描かれている。街の中にある歴史のありそうな小学校なので、この小学校が二〇〇六年三月に閉校になっていたとは思いもよらなかった。
この小学校に出向いたのは二宮金次郎の銅像が契機となっている。戦前にはどこの小中学校にも、柴を背負い本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像があった。戦時中に銅が不足ということで、銅製のものの供出が行われ、全国の金次郎像も戦争被害者となった。しかし、この供出を免れた金次郎像もあったようで、現在でも金次郎像が残っている小中学校がある。旧堺小学校の金次郎像も戦争を生きぬいた例のようである。
小樽市が坂の街であるのは、この旧堺小学校付近で実感できる。冬季にこの辺りの場所を車で探すと、初めて訪れる状況では、細い雪道の坂には緊張する。駐車する場所を見つけるのも一苦労である。旧堺小学校から少し離れたところに車を止めて、歩いてこの小学校跡まで行ってみる。校舎につながった広い校庭(兼グラウンドか)は雪で埋まっている。校庭の端に目指す金次郎像があった。典型的姿の金次郎像で古そうには見えない。
この像の横に写真の閉校記念碑が建っている。碑文に「嗚呼、北の学習院」と書かれているので、この小学校は名門校学習院になぞらえられ、北海道における学習院の名誉を担っていたことになる。碑文にもそのことが記されていて、一九〇二年(明治三十五年)一月に開校し、一九一三年(大正二年)十月に火災での再建を経て、閉校までの百年を超す歴史で、多くの著名な経済人の子供達が学んだ小学校であった。
全盛期には在校生が千数百名も居たのに、閉校時の在校生は五十四名に激減していたとも碑文に書かれている。この生徒数の激減は、小樽の経済的衰退に近年の少子化が加わった結果なのだろう。それにしてもこの由緒ある、小樽市内の中心部近くの小学校が閉校に追い込まれる最近の世の中の変わり様はすさまじい。
校庭への入口の門柱のところに、旧堺小学校の校舎や跡地の利用者として、市立小樽病院高等看護学院、小樽市シルバー人材センター、職業訓練センターと並んでいる。それらの名前の最後に堺小学校記念室とあるので、ここがかつては小学校であったことを思い出させてくれる。
それにしても、世の中のこの流れが続いて行くと都会には秘境がどんどん増えてゆくのではなかろうかとの思いが強かった。
2006年12月17日
朝里駅SL撮影後日談
秘境探検には掌に入るようなコンパクトなデジカメを使っている。銀塩フィルムの時代には大きなレンズのカメラを使っていて、よくもまあレンズらしきレンズもなくても、デジカメは誰が扱っても様になる写真が撮れるものだと感心していた。デジカメ時代にも大きなレンズの高級そうなカメラを抱えて撮影している写真愛好家を目にするようになって来たけれど、あんなかさばって重いカメラなんか必要ないと思っていた。
愛用のデジカメを掌に握って、JR朝里駅で「クリスマスin小樽」号の撮影をして失敗したことは前に書いた。デジカメの機能がそこそこで連写ができないので、駅構内を通過していくSLを近くで撮影するとシャッターチャンスは一回きりで、手に持っての撮影でもあって、手ぶれを起こす可能性がある。特に、天候が悪いとレンズが小さい場合光量の不足分をシャッター開放時間で補うので、手振れの危険性は大きくなる。
案の定先週末のSLの写真は表示したようなぼけた写真となってしまった。理論的にはこの写真からはっきりした写真を作り出すことは可能である。手振れでできたぼけた写真なので、手振れにより点像がどのくらいぼけたかの具合(ポイント・スプレッド関数)を求めて、その逆関数で画像データとたたみ込み演算を行えばよいのである。
最近のカメラ技術展開の一つ方向としては、簡単なレンズでぼけを生じた状況でも、上記のようにコンピュータ処理でフォーカスの合った写真にしてしまうソフトウエアを組み込んだソフト・カメラとでもいうべきものである。ただ、この方面の勉強をしていないのでおおまかこんなところであろうと理解している。
プロのカメラマンと話す機会があったのだけれど、連写ができるとか、光量をそれなりに保障されるので大きなレンズのカメラを利用する話は、自分の失敗と重ね合わせて理解できた。素人が大きなレンズのデジカメを利用しているのを身分不相応と思うのは止めにしよう。
こんな状況で、大きなレンズのカメラを改めて購入する誘惑もあったのだけれど、やはり秘境探検での機動性を考えると、いままでの小さなカメラは手放せない。カメラ屋に行ってみると、同じ機種で手ぶれ防止と表示されたものが目に付いた。操作も今のカメラとほぼ同じである。電池だけが異なる点に目をつぶれば、これはよさそうである。自分の写真撮影技術を棚にあげ、秘境探検のための大義名分を盾にカメラに出費してしまった。
一週間後、新しいカメラで再度朝里駅の同じ場所でSL通過を待つ。今度も一回きりのシャッターチャンスである。得られた写真は掲載のものである。カメラの性能向上が手伝ったのか、天候が影響したのか、はてまた失敗を教訓にシャッター操作を慎重にしたせいか、良い写真をとることができた。
2006年12月15日
JR朝里駅
十二月に入って、新聞に今年も「SLクリスマスin小樽」の運行が始まったとの記事を目にする。電飾のSLが週末に札幌と小樽間を往復して、観光都市小樽のクリスマスの雰囲気を盛り上げる助っ人となる。これは小樽と札幌の間の秘境的JR駅で撮影せねばなるまい、とSL撮影のためにJR朝里駅で出向いてみる。
生憎の吹雪模様で、写真撮影がうまくゆくかと懸念しながら、雪道に覆われた国道5号線を小樽に向かって走り、朝里駅方向に折れて海岸の方に降りて行く。鉛色の空につながった朝里の海のすぐ傍に駅舎がある。無人駅の駅舎内には人が居ない。切符の自動販売機があるのが、ここが駅舎であることを示している。
SLが通過する時刻までに時間があるので、夏は海水浴客が訪れるであろう朝里の海の簡易防波堤の写真などを撮る。岸辺にも消波ブロックにも雪が積もっていて、かもめが2羽ほど羽を休めている。荒涼とした眺めである。
駅のプラットフォームでSLを待っていると、大抵の電車はこの駅に止まらず通過していく。たまに停車する電車もあっても、乗降客はほとんど居ないか、居てもわずかである。この季節、この駅は秘境の文字を冠してもよさそうである。
SLを写真に撮りためSL愛好家がカメラを手にプラットフォームに並んでいるかと予想して来たのに、SL通過の時間が近づいても、プラットフォームに突っ立っているのは著者だけである。もっとも、この天候ではよい写真も撮れないだろうから、今日は写真愛好家に敬遠されたか、SLの止まる小樽駅に集まっているのかも知れない。
SLが駅に近づいてくると遠くから汽笛をならす。これはサービスなのか、危険だからプラットフォームの前には出ないようにとの警告なのかは分からない。駅構内に進入してくるSLに向けて、シャッターを2,3回押している間にSLは走り去ってしまった。
後で写った写真をPCで表示してみると、手振れなのか、ぶれた写真ばかりである。雪煙を上げてSLが通過していく写真ぐらいが、どうにかSL通過の雰囲気を伝えているか。しかし、わざわざ秘境の駅まで出向いたのに、自分の写真の腕の未熟さ(とカメラの性能が今ひとつである点)に気落ちする。
次の週末は天候が回復して良い写真が撮れそうならまた出向いて見ようかと思っているけれど、そんなにうまく天候が言うことを聞いてくれるかどうか・・・
2006年12月13日
手宮洞窟保存館
シーズンオフにこの国指定史跡の保存館に入ってみると、ここは秘境の空間である。手宮にある小樽交通記念公園沿いの道道454号線の山側の崖に張り付くように保存館があり、この日の最初の来館者として入ってみる。入館料は百円で、多分この種の施設としては全国最低の入館料ではなかろうかと推測する。
ボランティアの説明員がいて、暗くて広いとは言い難い館内のそれぞれの展示の案内をしてくれる。この史跡の説明を写真のようなディスプレイがあって、保存している洞窟の一部をバックに立体的映像表示で手宮洞窟の全体像の説明がなされている。大掛かりなディスプレイもない館内では、このディスプレイに注意を向けることができて効果的であると思えた。
お目当ての洞窟壁画はガラスケースの向こう側にある写真のものである。あらかじめ知識を得てから来ないと、これだけか、と失望感を持つ人も出て来そうである。洞窟と見学場所を仕切るガラス面のところにはパネルがあって、洞窟に刻まれた模様を模写したものがある。模写はパターン化されて、刻まれた形状が強調されていることもあって、確かに古代人の描いた絵か文字だと言われるとそうとも思える。しかし、洞窟壁面の実物にパネルのような模様があると言われると、なるほどそうか、といったところである。
この洞窟壁画は一八六六年(慶応二年)にこの辺りで小樽軟石を切り出していた時に石工の長兵衛により発見されている。一八七八年(明治十一年)に榎本武揚により学会で紹介され、その後専門家による調査や学会発表がなされて世に知られるようになり、一九二一年(大正十年)には国指定史跡となった経緯がある。
調査研究が続けられ、この種の岩に彫られた絵(文字?)に類似のものがロシア極東部、中国、朝鮮半島に散在して発見されていて、この地域での文明の相関説がある。余市町にあるフゴッペ洞窟の壁画との類似性も指摘されている。しかし、この程度の壁画からでは、推論の範囲は制限されるだろう、と実物を見ながら思った。壁画にある形は杖を持ち、特別な頭飾りを身につけた人物、例えばシャーマンという説もあるけれど、想像を働かせればそんな説に行き着くか、といったところである。
ただ、この洞窟は秘境の言葉とは相性がよい。来館者も居ないところで、暗い洞窟内の壁面に謎の模様が描かれている謎の模様と対面できて、秘境の空間の雰囲気を味わえた。
2006年12月12日
塩谷漁港
港には港格というのがあると知る。重要湾港、地方湾港、さらに第一種、第二種等々とあり、塩谷漁港の港格は第一種とインターネットでみつけた。港格がどのようにして定められるのかについての知識は全然持ち合わせていないけれど、港格の分類から類推するに、そこそこな漁港らしい。
しかし、実際に見た塩谷漁港は小さな漁港であった。国道5号線を札幌に向かって走っていて、塩谷トンネルを抜けたあたりでポンマイ岬方向へ寄り道で、夏場であれば海水浴客で混んでいるだろう塩谷の浜を通りすぎる。道の終点に塩谷の漁港があった。
防波堤とコンクリートのブロックを積んで塩谷海岸の一部を囲って漁港が造られている。天気が良くて防波堤では釣り人がのんびりとチカ釣りを楽しんでいる。釣りは、釣っている当人もそれを傍で見ている方も時間を忘れる。特に海釣りは、川釣りのように流れに合わせて竿をせわしなく動かすことが少ないので、釣り糸をたれたまま無言の行をしているようなところがある。
この漁港はポンマイ岬の付け根の辺りに位置し、写真に写っている港内の崖がポンマイ岬へとつながっている。岬へ道が続いているかと、港から山道を辿ってみたが、途中で自動車の通れる道は途絶えていた。機会があれば徒歩でポンマイ岬まで行ってみようかと思ったけれど、さて実現することやら。
別の日に伊藤整の文学碑のあるゴロダの丘から塩谷漁港を遠望したことがある。この時は塩谷の海は少し荒れていて、海岸に白い波が押し寄せていた。漁港内は防波堤で波は消えているように見えたが、それで漁港内にはうねりはあっただろう。漁港の背景のポンマイ岬がゴロダの丘の高みからはよく見える。
冬になれば、日本海からの冷たい風と波がこの漁港に押し寄せ、漁港の風景は一変するだろう。冬の季節に、この漁港の写真を撮りにくるだけの元気はあるだろうかと、もうすぐ傍まで来ている北海道の冬を思いながら漁港を後にした。
忍路神社
忍路(オショロ)の環状列石の遺跡が載っている観光案内図に、国道5号線を挟んで環状列石と反対側になる海側の忍路湾にこの神社が記されている。環状列石を見物した後で、この神社にも行ってみることにする。国道5号線が海岸沿いに走り忍路トンネルとなるその上を横切る道を忍路湾の方に向かって自動車で降りていく。途中、海に向かって左側には竜ヶ岬、右側には塩谷の港あたりの景色を眺めることができ、絶景である。
神社は忍路湾の近くにあり、鳥居と神社名が書かれた門柱は写真のように新しいものである。境内はロープで立ち入り禁止のようになっているのは改修作業でも行われる予定なのかも知れない。鳥居から少し離れて本殿があり、本殿横に稲荷神社がある。
後でインターネットで調べると、この神社の由来は古く、一六七四年の神社誘致の勧請に端を発していて、一九八九年(元禄二年)には社殿が創建されている。一九七五年(明治八年)には郷社となり、一九八四年に蝦夷大国主神社であったものが忍路神社と改称されている。その後社殿の焼失、再建、忍路稲荷神社を合祀するなどして一九二〇年(大正九年)現在地に本殿を移転している。
本殿は屋根が緑色である一方、横にある稲荷神社の屋根が赤く、そのコントラストが印象的であった。本殿も稲荷社も造りは手が込んでいるようで、写真に写っているように龍の木彫りが正面の鴨居のところにあった。
本殿の両脇には神社の造りの典型的パターンで阿吽の狛犬が居たのに対して、稲荷社の方の両脇には写真の狐が控えていた。稲荷神社なのできつねの石像があっても不思議ではないのだけれど、狐の石像はちょっと珍しかった。ただ、このきつねの尻尾が写真にも写っているように、折れて下にころがっていた。手入れが行き届いておらず、少々荒れた感じのする神社であった。
神社のすぐ傍は忍路湾になっていて、神社から少し歩くと忍路港に出る。忍路湾の外には余市湾がつながっていて、湾の中にさらに湾があると言ってもよい。
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忍路環状列石
一ヶ月程前に忍路にある環状列石を見に行って、地鎮山環状列石を見てこれが忍路の環状列石と思い込んでいた。ところが、その後国指定史跡としての環状列石が別にあることを知り、再度国指定史跡の方を見に行くことにする。今回は前回とは逆に国道5号線からJR塩谷駅につながる小樽環状線からフルーツ街道に出て蘭島の方向に走り、途中で史跡の案内表示をみつけ、脇道に入って車を止める。ここは地鎮山環状列石のすぐ傍にあり、場所としては忍路二丁目である。どうして前回この場所が目につかなかったと不思議である。
史跡は写真の縦看板から続く小道を後は2百mぐらい歩くと道の脇に広がって見えて来る。石柱と鎖で囲まれて立ち入り禁止の表示が出ている。この史跡の管理者である小樽市が建てた説明板もあるので読んでみる。
この環状列石が造られた時代はおよそ三千五百年前の縄文時代後期に遡る。低い山のせいか道路地図には記載が見当たらないけれど、インターネットには説明のあった三笠山の山麓のゆるやかな斜面を平らに造成して造られている。南北三十三m、東西二十二mの広さの楕円形上の石の配置で、墓地として死者を弔う場所として利用されたと推定されている。地鎮山環状列石の場合墓穴に相当するものがあったのに対して、それに相当するものは楕円形の列石内には見当たらない。
この列石に使用された石がどこから運ばれたのかは特定できていないらしい。余市町のシパリ岬から運ばれたとの推測もある。列石は家屋の土台石や庭石として運び出された受難の歴史もあって、発見当時と現状は異なっているとのことである。万里の長城のレンガが、家をつくるため持ち去られ、史跡が破壊された話が頭をよぎる。
国内では最大級この列石は一九六一年(昭和三十六年)に国指定史跡となっている。国指定というと大げさに響くけれど、周りには農家があって、農家のちょっとした空地の雰囲気である。
秋も深まって、周りの山々の落葉樹は葉が落ちて、自然は冬の到来に備えている。人間の方も同様で、付近では人が立ち働いていて、農家のビニールハウスも鉄骨だけにされ、冬の準備が急ピッチで進められている。もうすぐするとこの史跡も深い雪の下に埋もれることになる。
JR塩谷駅とSL
JR函館本線の小樽駅の上りの次の駅は塩谷駅である。地図で見ても、塩谷の街から少し山側に位置するこの駅は相当小さいと見当がつくので、秘境候補であろうと日曜日の午前中に見にゆくことにする。塩谷の近くで国道5号線から小樽環状線に入り、塩谷駅に着く。辺りは紅葉も終わりかけていて、葉の落ちた木々が山間にある駅舎の目の前にある。
塩谷駅は無人駅で駅舎内には何も無い。列車を待つ客なんかいないだろうと思っていると、意外なことにプラットフォームに人が四、五人ほど立っている。こんな小さな駅でも利用者がいるのだと、感心した。しかし、客の様子が列車待ちの乗客の雰囲気でもない。皆カメラを手にして立ちん坊である。著者と同じく、秘境探検のノリでこの無人駅を撮影に来ていて、列車待ちなのか、それなら当方も無人駅を通過する列車の写真でも撮っておこうと待つことにする。
待つ間に屋根付跨線橋を渡って、反対側のプラットフォームから駅舎や跨線橋の写真を撮る。跨線橋の背景に写っている小樽環状線の道路を利用して小樽でも札幌でも行く方が便利だろうから、一日何人ぐらいこのJR駅を利用するのだろうか、などと考えながら時間をつぶす待ちん坊である。
時間が過ぎて、待っていた列車が駅の構内を通過して行ったけれど、それはなんとSLであった。予想もしていなかったのでこれには驚いた。停車しないで走り去るSLの写真を二、三枚慌てて撮った後で、近くに居た人に聞いてみた。答えによると、土、日に観光用にJR北海道がSLを走らせていて、それを写真に収めようとマニアがSLの追っかけをするのだそうだ。グッドタイミングとはこのことである。
札幌と蘭越町間を走らせているこのSLは、札幌から小樽までは速度の関係でジーゼル機関車の助けを借り、小樽から蘭越町までは自力で走る。帰りはSLを回転させる方向転換器がないため、SLはバック走行となり、ジーゼル機関車で押して(引っ張って)札幌まで戻るとのことである。
札幌に本社があったゲームソフトの大手のハドソン社はSLのハドソン号から社名を取っていた。初代の社長はSLマニアでもあって、会社の羽振りのよいときの社長室には何分の一かのSLの大きな模型が飾ってあった。この社長の出身地がニセコ町であったこともあり、この会社がスポンサーになってSLを復活させ札幌、ニセコ間を走らせた事があったのを、塩谷駅を後にしながら思い出していた。
厚田古潭港弁財船投錨地碑
国道231号線を石狩市厚田支所に向かって北上して走っていると、古潭の地名が出て来て、港が現れたので寄ってみることにする。港の近くには写真の「弁財船投錨地」と彫られた新しいそうな碑が古潭の海を背にして建っている。弁財船とはあまり聞いたことのない言葉で帰宅後に調べてみた。
弁財船とは江戸時代の海の交通で大きな役割を果たした和船で、瀬戸内海地域で発達した。十八世紀以後は、北前船で代表される日本全国の長距離貨物輸送で活躍している。北前船は蝦夷地から日本海と瀬戸内海を通り、日本を端から端にわたってつなぐ輸送手段であった。弁財船の大きなものとなると、千石船とも呼ばれ、絵馬等に描かれている船は、中央に大きな帆柱があり、舳先と船の後部が反り上がっている形をしている。
一八五八年(安政五年)弁財船がこの古潭の地にやって来て碇を下ろしたと碑の横にある紹介文に書かれている。この古潭の海には「弁天ぞり」と呼ばれる自然の岩礁が海に突き出していて、押琴(オショロコツ)湾と呼ばれる天然の良港になっていたのが、ここに弁財船を停泊させる理由になった。
古潭を含む厚田の地の海産物は弁財船で近畿地方に運ばれ、厚田は栄えることになる。財船投錨地碑の隣には「厚田村発祥之地」碑があるから、厚田はこの天然の良港から始まっている。古潭の港の小高い丘にある写真の郷社八幡神社は一八五六年(嘉永九年)に創建されている古い神社で、厚田の歴史の古さを証明している。
ここで郷社とは耳なれない言葉である。これはこの神社が道路の近くにあって、祭神に対して不敬を働くものが多く現れたため、神社を奉還して、その後社格が定まらないので郷社と称しているそうである。神社にも色々社格があるのを知った。
この神社の横から古潭の港が一望にできる。防波堤には車が並んでいるのが見られるが、これは週末釣りを楽しむ人の車である。ここは釣り人に人気の場所なのだろう。しかし、日本海から吹き付ける風が強くて、白い波頭も目立つ。今は秋だけれど、冬になり雪交じりの強風が海から吹きつける様を想像すると、厳しい北海道の冬の海が目の前に広がる。しかし、夏のこの地のすばらしい海も同時に思い描くことができ、今度は夏にこの海沿いの道をドライブしてみようと思った。
鮭の遡る厚田川
秋になると、大都会札幌を流れる川に鮭の遡上が話題となる。一度は川を遡る鮭を見たいものだと思っていても、見る機会もなく秋は足早に去っていくのが毎年の事である。今年は大都会の秘境探検であちらこちらと行っており、鮭の遡上もこの目で確かめることができれば秘境のテーマに組み込もうと考えていた。
そんな時、新聞に橋の上から鮭の遡上を観察できる場所があるとの記事がでていて、早速行ってみることにする。場所は大都会から離れているけれど、石狩市厚田で、市内には違いない。厚田は二〇〇五年に市町村合併で石狩市、浜益村と一緒に石狩市となる前までは厚田村であった。この村出身の作家、子母沢寛の小説「厚田村」の地である。
新聞の記事の地図を頼りに、国道231号線を北に走り、厚田支所から道道11号線の月形厚田線に折れて進む。生憎の雨模様であったけれど、天気がよければ周囲の山々の紅葉が映える季節である。しばらくこの道を行くけれど、記事に出ていた脇道の林道古潭越線が見つからない。廃校になった小学校のところで停車する。
この小学校は「厚田村立発足小学校」で一九〇三年(明治三十六年)に開校し、百年後の二〇〇三年(平成十五年)に校史を終えている。現在は発足地区交流センターに衣替えしている。それにしても開拓から百年経って小学校が閉校になるとは、その点だけでみると開拓百年は後戻りの歴史であったのか、と考えざるを得ない。
発足小学校の元校舎から来た道を戻ると、途中に橋を見つけた。これが新聞に出ていた「やまなみ橋」で厚田川に架かっている。確かに道の看板も出ている。降りて橋に近づいてみると既に先客が一人居て、橋の欄干から川面を覗いている。鮭が見えますかと声を掛けると、水中ではっきりしない鮭の姿を教えてくれる。「ほっちゃれ」に近くなっていて、一部分表皮がとれて皮膚が白くなった鮭が流れに向かって留まっているのを確認できた。五,六匹を目で数えることができた。
この状況で鮭を写真に収めるのは難しいとは思ったけれど、何枚か撮ってみる。やはり、水中の鮭を確認できる写真は撮れず、鮭が白い腹を横にした瞬間のピンボケの写真が精々のところである。でも、鮭が遡るか産卵しているのかの現場を見ることができたので、来た甲斐があったというべきである。よい写真を撮るのは来年の課題にしようと思った。
秘境オタモイ
秘境探検と称してはいるけれど、人に知られざる場所という本来の語義とかなり離れたところを取材して歩いている。しかし、尋ねて行ったところで目にした案内板に、ここが秘境であると書かれているところに初めて出くわした。オタモイ海岸への入り口にあった写真の唐門の説明に「秘境オタモイ」の文字があった。
小樽の街は赤岩山、下赤岩山から続く高島岬と石狩の浜で囲まれた石狩湾の入りこんだところの港町として発展した。この高島岬の小樽の街と反対側に位置して赤岩海岸からつながってオタモイ海岸が伸びている。
小樽の街を貫く国道5号線を余市の方に向かって走り、途中長橋地区からオタモイ海岸への細い道へ入る。標識を探しながら道なりに進むと海岸の上の辺りに唐門が現れる。この門はオタモイ海岸への入口に一九三二年(昭和七年)に建立されたものが、オタモイにあった建物が焼失した後に残り、この場所に移転されたものであると説明されていた。
この唐門から海岸へ向かってつづら折りの細い坂道を対向車が来たらどうしようかと気をもみながら車で降りてゆく。下にはかなり広い空地がひろがりパーキング場になっていて、ここからオタモイの海と海に迫る断崖を一望にすることができる。訪れた日は雲ひとつ無く、凪の海面を水平線まで見渡せ、太陽の光が切り立つ崖に陰影を生み出し、絶景であった。大小の石が重なっている波際まで降りて見ると崖が迫ってくる感じである。
この場所は昭和初期には一大リゾート地であったと説明板に絵と写真入りで書かれていても、それを偲ぶ痕跡がない。唯一、崖から海に張り出して建築されていたという龍宮閣への隋道の門を遠くに見ることができる。この門は以前遊歩道とつながっていて、通ることができたのが、崖の崩落後通行禁止となっている。この門を通り越していくと子授けの地蔵があるそうだが、当然そこまでは行けなかった。
オタモイ海岸の観光開発は小樽で割烹を経営していた加藤秋太郎が行った。龍宮閣をはじめ、現在の車のパーキングの辺りには弁天食堂や遊園地があって、一日数千人が遊びに訪れたそうである。戦後の一九五二年(昭和二十七年)に建物が焼失して、この地はリゾート地としての幕を下ろした。そのような繁栄の時があったとは、人の居ないことも手伝って、この場所に立っても信じられなかった。
樺太記念碑
小林多喜二の文学碑を見ようと出かけた小樽旭展望台で最初に目にしたものがこの樺太記念碑である。樺太記念碑の上部にある石のレプリカは、大日本帝国の国境に置かれた礎石を模している。当時の日本帝国に対峙したプロレタリア文学を代表する小林多喜二の文学碑の近くに、この帝国国境の礎石の碑があるのを見ると、互いに居心地が悪そうである、と感じるのはよそ者の著者の思い過ごしか。
緑青で文字が遠目にははっきりしない碑文には、「樺太を偲ぶ」の表題で、望郷の地樺太に寄せる思いが記されていて、碑の建立された年が一九七三年(昭和四十八年)であるのを碑面から知ることができる。碑文に記載されているように、故郷であった樺太から引き上げてから二十年以上が過ぎ、さらに碑が建立されてから三十余年が経過していて、樺太は歴史に呑み込まれた名前になっている。
樺太記念碑の国境の礎石は菊の御紋に「日本国」と刻印されている。この礎石の模造品は他のところでも目にしている。札幌の赤レンガ庁舎の北海道庁旧本庁舎二階の樺太関係資料館にも国境礎石のレプリカが、礎石を設置している様子の写真と一緒に展示されている。このレプリカの表面には「大日本帝國」の文字が刻まれていて、旭展望台の記念碑にあるものは「大」と「帝國」の文字が消えている。七十年代では未だ何かを慮ってこれらの文字を消したのかな、と思っている。
札幌の円山公園内の開拓神社の隣に、やはりこの樺太の国境の礎石の模造品が置かれてある。写真でははっきりしないけれど、こちらも「大日本帝國」の文字があるのを認めることができる。旭展望台の樺太記念碑の碑文は望郷の思いが綴られているだけで、史実にほとんど触れていないのは、「大日本帝國」を「日本国」にしている事情と符号しているのかと思ったりしている。
余談になるけれど、著者は以前「中国パソコンの旅」(エム・アイ・エー、一九八七年)を上梓したことがある。名もない出版社がこの本の表紙裏の挿絵として日本と中国の国土の簡単な地図を載せた。印刷された本のその地図には樺太(現在のサハリン)の中央に国境線が目立つように描かれていたのを見た時には仰天した。幸いというべきか、この本は重版もなく初版で終わり、どこからもクレームは来なかったけれど、何かの時に思い出す自分のなかの歴史の一こまではある。
石狩紅葉山49号遺跡
石狩浜の番屋の湯のパーキング場で、道路を隔てたところに「いしかり砂丘の風資料館」と書かれた建物が目についた。どんなところかと入館料を払って中に入ってみる。石狩の海、川、河口をテーマにした自然や歴史の展示が主体の資料館である。一階にはチョウザメの剥製や鯨の化石なんかが展示されている。手作り缶詰工場のコーナーがあって、各自のお宝を有料で缶詰に出来る器具がある。
二階に上がると石狩紅葉山49号遺跡の展示場になっている。この遺跡は発寒川に遊水地をつくろうと土地の調査をしていると、一九九七年に遺物や遺構が発見され、その発掘調査の結果の一部がパネル等で解説されている。古いものは縄文中期のもので、それ以後のものも出土している。
石器や木器が並べられていて、一階に展示されていた舟形容器は、ちょうど鮭が一匹入るように木をくり抜いた舟形の容器である。縄文の古代から、人々が石狩川に上る鮭を捕獲して生活していた証拠の品である。湿気のある粘土質の地中にあったので、木器も風化されずに現代にその姿を現すことになったのだろう。
発掘作業は一段落で、現在は出土品の整理と調査を行っているようだ。館内のボランティアの係の人に発掘現場はどうなっているのか尋ねてみた。現場に行っても何も無いとのことである。しかし、この資料館から札幌に戻る道すがらでもあるので、地図に場所を記してもらい寄っていくことにする。
紅葉山は花川の発寒川沿いにあり、花川通に接した紅南公園横を走る花川4号線と発寒川の河川敷一帯である。遺跡発掘時に利用されたと思われる簡易アスファルトの小道が残されていて、空地が広がり、あちらこちら雑草が生い茂っているだけである。遺跡の案内板に類したものは一切なく、ここが大規模な発掘調査が行われた地であるとは思えない。ここに鮭を捕らえる細工の水中に立てる柵の「エリ」なんかも埋まっていたのかと、誰も通りそうもないアスファルト道を歩きながら想像してみた。
わずかにここが発掘の現場であったと知るのは、遊水地の整備を説明した看板にある写真である。発掘当時の写真が、確かにこの地が遺跡の地であることを教えてくれている。
龍徳寺の日本一の木魚
小樽の龍徳寺に日本一大きな木魚があるという情報を得て実物を見に行くことにする。札幌から国道5号線で小樽に向かい、JR小樽築港駅を少し過ぎ小樽の市街地に入る国道沿いに大きな寺の屋根が見えてくる。このお寺が目指す曹洞宗龍徳寺である。このお寺は一八五七年(安政四年)創建というから道内では古刹である。
境内は駐車場が広く取られていて、行事もないせいか当方の車の他には一台あるきりのところで、他の車に気を配る必要もなく止める。駐車場のある境内には大きな銀杏の木が二本あり、夫婦の銀杏と呼ばれている。寺の建屋には自由に出入りできるようになっているので、日本一の木魚を探して本殿の仏間に歩を進める。仏間の脇の座布団の上に鎮座ましまして、袈裟のような覆いを被って木魚のお姿があった。覆いを取って写真撮影である。
この木魚は檀家からの寄進で九州産の楠で作られていている。直径一・三m、高さ一m、重さ三百三十kgで、木魚を叩く「バイ」も長さ一m、重さ五kgもある。叩いたらどんな音がするのだろうか。
木魚の作り方は木にスリットと空洞を作り、これを叩くと空洞内部で反響して音が出る。よく木魚の音として「ポクポク」という擬音が用いられるけれど、空洞の木を叩いた音に近いのは間違いない。木魚を楽器とみればスリットドラムに分類されるだろう。
しかし、木魚の内をくりぬいて空洞を作るのはどうして行うのだろうか。インターネットで木魚制作工房のサイトにアクセスすると、スリット部分から特殊なノミをいれて中を削りだしていくらしい。職人技である。でも、木魚を作る職人も少なくなって来ているそうで、これも時代の流れなのだろう。
そもそも木魚は寺で使われている魚の形をした魚板(魚鼓)から発祥しているといわれている。木魚には魚の形がデザインされたりする。何で魚に拘るかというと、魚は日夜を問わず目を閉じないので、日夜修行に精進せよという意味を魚板や木魚に込めていることに由来するそうである。確かに、木魚を叩いてその音で眠気を追い払う物理的な効果もありそうだ。
余談ながら、多くの動物は目を閉じて眠る。魚のように目を開けて眠ると、他の動物に眠っていることを外見で悟られない。この方が身を守るのによくて、進化の過程でどうして眠るときに目を閉じるようになったのか。両目とも閉じないで、片目だけでも開けて眠っているとか…
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- by 秘境探検隊長
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伊藤整文学碑
この文学碑は見に行くつもりがあって碑の前に立った訳ではない。国道5号線を車で小樽から余市方面に走っていたら、塩谷のあたりで道路脇にこの文学碑の案内が目に留まった。すぐに車の方向を変えて、上り坂のわき道に入って少し進むと、この文学碑の前に出た。この文学碑と対面した状況はこのようなものであった。
碑は写真のように背の高いもので、高さは五mもある。上部に安山岩に「伊藤整文学碑」の大文字が刻まれた石版がはめ込まれ、下部に伊藤整の「海の捨児」からの文章が掘り込まれている。場所は小樽市塩谷二丁目、ゴロダの丘であると後で知る。前日から風が強かったせいもあり、ここからは白く波しぶきを上げる塩谷の海が眼前に広がって見える。
この文学碑は市街地から離れていて、さてこの文学碑を目当てにここを訪れる人はどのくらい居るのだろうか。偶然にこの碑の場所に来て、辺りに車も人も見かけなかった。碑文にある「私は浪の音を守唄にして眠る 騒がしく 絶間なく」の波の音はすぐ下の国道を走る車の音に消されてしまっている。しかし、日高の海岸に近いところに住んだ経験のある著者には、浜に寄せては返す波の「騒がしく 絶間なく」の感じは分かる。
伊藤整は一九〇五年(明治三十八年)北海道松前郡白神村で生まれ、塩谷に移り住み庁立小樽中学校、小樽高等商学校と進んでいる。小樽高商の一年先輩には小林多喜二がいる。小樽を代表する二人の文学者が、重なって同じ学校の学生だったとは奇縁というべきか。なお、小林多喜二の文学碑は小樽市街の旭展望台にある。
この世に知られた二人の文学者のせいか、小樽は文学者出身の街というイメージが強い。小樽は市や市民がこのイメージを補強しようとして、地方都市では珍しい「伊藤整文学賞」を設けている。活動の中心となる「伊藤整文学賞の会」の会長は小樽市長で、代表幹事は企業家で著者もよく知った方である。この企業家とはつい最近、小樽で夕食を一緒にして、小樽秘境100選の企画を話したけれど、そのときは伊藤整の文学碑を秘境対象にする考えは思いもつかなかった。
地鎮山環状列石
小樽市の忍路(おしょろ)に環状列石の遺跡があるというので見に行くことにする。地図に国道5号線沿いに忍路環状列石の位置が記されていて、簡単にたどりつけるだろうと安易に考えて出かける。小樽から余市に向かって左側(山側)に入る道を探すのだが、これが見つからず蘭島町まで行ってしまう。
蘭島町で道道1092号線に入り、地図にフルーツ街道と記されている道に折れ小樽方向に逆戻りである。途中道路脇に環状列石の看板をみつけて、農家の庭先に車を止める。しかし、農家のビニールハウスは目に入るけれど、遺跡らしきものはない。山林に向かって細い道が続いているのでこれを進むと、環状列石の標識が目に付き、階段が続いているので登ってみる。頂上と思われるところに、鎖で囲われた環状列石が現れた。
この場所は地鎮山の山頂で、山頂といっても高さ五十mの雑木林の丘である。環状列石は縄文時代後期のもので、高さ一mほどの石を十二個楕円形状に並べている。長径十m、短径八mほどの楕円形の区画を墓にしたものであると考えられている。発掘時にこの楕円形内に縦横二m、深さ一mの四角い墓穴が見つかっている。墓穴が一つしかないため、首長の個人的な墓ではないかと推測されている。
地表の丸みを帯びた自然石のストーンサークルは古代人の造形物の感じがする。これに対して、きちんと正方形に切り取られた石の墓穴は、石に加工技術が施されていて、ストーンサークルとちぐはぐな対比を見せている。落ち葉が底に重なっているこの墓穴には何が詰まっていたのだろうか。
これで忍路の環状列石の見物は終わったものと合点して帰宅した。このレポートを書く段になってインターネットで確認すると、忍路の環状列石とは国の指定史跡のもっと規模の大きなものであるのを知った。見て来た地鎮山環状列石の近くにあったらしく、地図に記されていたものは国定史跡の方で、それを目指して別のものを見て来てことになる。さて、また同じ場所に行って環状列石を捜すことになるのかどうか…
バッタ塚と新川河口
新川河口近くにバッタ塚があるという。バッタ塚は、開拓時代に起きた大災害のトノサマバッタの襲来に対処した跡で、砂地にバッタの幼虫や成虫を埋めたところであると知っていたので見に行くことにする。
直線状に伸びる人工の川である新川沿いの新川通を、小樽の大浜海岸に向かって車を走らせ、各種廃棄物の処理場が広がる手稲区山口に入る。新川と濁川の合流点付近にある札幌市のスラッジセンターの敷地に接したバッタ塚に、途中道を間違えながらたどり着く。
バッタ塚は小さなパーキング場に隣接した広場の柵外にある。ススキと背の高い雑草に囲まれた石碑の表面にはバッタ塚と彫られていて、写真のように実物大の雌雄の成虫と卵のうが描かれたパネルもはめ込まれている。近くにはバッタ塚のいわれの説明板もある。
その説明によれば、トノサマバッタは通常は空を飛ばないのに、異常発生して密度が高くなると生理的な変化をもたらし、大群で空を飛ぶ飛蝗化が起きる。一八八〇年(明治十三年)十勝に発生し、日高、胆振、後志、渡島は次々に飛蝗化したトノサマバッタの襲来を受け、一八八五年(明治十八年)まで北海道はその被害を蒙った。このバッタの大群が海を飛び越え本州までゆかないように、一八八三年(明治十六年)バッタの幼虫や成虫を石狩の浜の砂地に砂を二十五cmの畝状にして埋め、その畝がかって百列ほどあった。
トノサマバッタによる大災害から約百年建った一九七八年(昭和五十三年)にバッタを埋めた畝もほとんど無くなっているこの砂浜の地を札幌市の指定史跡にした。虫害の歴史上で重要性を考慮してバッタ塚を建てている。しかし、ここまでバッタ塚を見に来る人はほとんどいないのではないだろうか。
このバッタ塚から少し行くと、新川が石狩湾に注ぐ河口がある。ここはもう小樽市で、大浜海岸のおたるドリームビーチのはずれにある。夏には海水浴客で賑わう浜辺に人は見当たらない。石狩湾の向こう側には小樽の港とさらに積丹半島の山並みが見え、シーズンを過ぎた浜辺にかもめだけが群れ、波が寄せていた。
石狩尚古社資料館
人通りの無い弁天歴史公園をふらふら散策していると、公園事務所の係りと思しき女性が、近くに私設の資料館があると連れて行ってくれる。持ち主(中島勝久氏)の家に伝わる資料の数々を無料で見せてもらえる資料館だけあって受付はいない。案内した女性が館主の中島氏を探して来てくれ、館主が施錠をはずして内に入れてもらう。小さな館内には秘境空間が広がっている。
ここで「石狩尚古社」とは俳句結社の名前であり、石狩のこの地に一八五六年(安政三年)に創立されたといわれている。鮭鱒業で繁栄を極めた石狩浜で呉服屋を営んだ中島家の当主が俳句を嗜んで、この結社を介して全国の俳人との交流も盛んに行われていた。俳句に関わる活動の資料を核にして、中島勝人・勝久父子が私費をもって一九八九年(平成元年)に開設した文学資料館であると、A4一枚のプリントに説明があった。
資料館の二階には使用したものや未使用の食器類があり、目利きならその価値も推定できるところ、著者にはまるっきりこの方面の知識がないので、古くて価値がありそうだ、程度の感想しか出てこない。
前記の説明にあるように、色々な俳人の色紙や俳句集が並べてある。秩父事件の首謀者として追われていた井上伝蔵がこの地で伊藤房次郎と名前を変えて句を作っていたことの傍証の資料なんかも目につく。「秩父軍会計長井上伝蔵です」といった手書きの説明の付箋がついていて、いかにも私設資料館の趣である。
資料館内には、呉服屋の中島家に伝わる商売上の品々や日常用品の類が所狭しと置かれている。商売の呉服屋の看板には、和服姿の娘がバイオリンを手に演奏している姿は、当時はハイカラであったのだろうけれど、いかにも時代を遡るといった感じである。
石狩の町には大相撲の地方巡業もあって、相撲取りの番付が書かれた看板も室内にあり、「石狩 吉葉山潤之輔」という相撲取りの名前が書かれている。横綱吉葉山のことで、この相撲取りは石狩の鰊業の網本の三男として生まれている。悪性虫垂炎を治してくれた吉葉博士の名前を取って四股名にしている。著者が小学生の頃に横綱に昇進したけれど、弱い横綱だった。
そういえば、著者の育った日高の田舎町にも大相撲の巡業が来て、町の大イベントであった記憶がよみがえって来る。
楽山居と水琴窟
夏の海水浴シーズンや秋の鮭祭りの頃に石狩浜の弁天歴史公園は人で賑わっていて、これらの行楽を楽しむ人が乗って来る車で、公園近くのパーキング場は混雑を極める。こんな時にこの公園を見ていると、ここは秘境からほど遠い。
しかし、弁天歴史公園にある写真の句碑に刻まれた「俤(おもかげ)の 目にちらつくや たま祭り」が、秩父事件の首謀者の一人の井上伝蔵の句で、井上は伊藤房次郎と名前を変えてこの地に潜伏して、俳句の結社「石狩尚古社」に参加していたと知ると、俳句を介してのこの地の秘境部分が顔を出す。秩父事件は農民蜂起事件で、困民党軍会計長だった井上伝蔵は、事件鎮圧後の欠席裁判で死刑の判決を受けている。
この弁天歴史公園内には一九三七年(昭和十二年)に建築当時の姿に再生された「楽山居」という和風の建築物がある。建物の名前は前述の石狩尚古社の最後の社主である病院院長鈴木信三の俳号からつけられていて、ここで句会が頻繁に行われていたようである。井上伝蔵がこの楽山居に集った参加者の一人であったのかどうかは知らない。
楽山居の建物は凝った造りで、絵をあしらった欄間、精巧な模様の入った障子、廊下のガラス戸の向こうには石庭が広がっている。弁天歴史公園にはガイドが常駐しているのだが、この日は都合が悪くて出勤していないとのことである。公園の受付とおぼしき女性が、客が我々だけであることもあって手持ち無沙汰なせいもあり、丁寧に案内してくれる。
石庭の飛び石をつたって案内されたところに写真の蹲(つくばい)があって、柄杓で水を掬い石が積んである場所にかける。少し時間が経つと琴を爪弾いたような音がする。金属を叩いた音と表現が近いかも知れない。これは以前聞いていた「水琴窟」である。こんなところで水琴窟と初対面とは驚いた。
水琴窟の原理は水滴の落ちる音を反響させたものである。穴を空けた甕を、穴が上になるように逆さまに地中に埋め、その上に小石などを敷き詰め、注がれた水がこの穴から空洞の甕の下に落ちるようにする。この時、落ちる水滴が下に溜まった水に当たり音を発し、この音が空の甕に反響した音が地中から聞こえてくるのである。
江戸時代には庭園に設置されたものがすたれ、近年になって再発見されたいきさつで設置するところが増えて来た。水琴窟設置を手がける業者もあって、色々な形の水琴窟がインターネットでも見ることができる。しかし、それほど多くの実物を見ることはない仕掛けであることは確かで、楽山居の庭で秘境の音を聞いたような気分に浸ることができた。
石狩-無辜の民像
石狩の浜に本郷新の無辜の民と名づけられたブロンズ像があるとかねてから聞いていたので見に行くことにする。海水浴客や秋の鮭祭りのイベントの時には自動車で満杯になる駐車場に車も見当たらないのを横目で見ながら、石狩の浜に延びる道路を車でゆっくり走る。殺風景な浜辺の風景の中に案内標識がポツンと立っている。「本郷新制作ブロンズ像 石狩―無辜(むこ)の民」の文字が読み取れる。
車を降りて像に近づいて見る。像は、上半身にしては不均整な部分が布で隠れるまで巻かれたもので、布からかろうじて出た片手と両足が何かを訴えように伸びたフォルムが台座の上に横になっている。台座にはめ込まれたプレートには「石狩 開拓者慰霊碑」とあるので、鎮魂のブロンズ像である。
本郷新は一九〇五年に生まれ、一九八〇年に没している。二年前に本郷新生誕百年の行事もあった。北海道を代表する彫刻家で、札幌市内に多くの作品を見ることができる。札幌市宮の森には本郷新記念館もある。一九七〇年(昭和四十五年)から無辜の民の連作が始まり、十五点の作品が生み出されているので、本郷の晩年近くの作品群となっている。この石狩の浜にある作品は、箱根森彫刻の美術館主催の第二回現代国際彫刻展に出品されたものである。
彫刻の意味するものは、生きている状況で降りかかってくる諸々の制約で身動きのできなくなった人間の、もがきながら生を終えた姿を現しており(想像ではあるけれど)、開拓者慰霊の意味と重ねると、自然の脅威に遭遇してどうすることもできず苦闘のうちに斃れていった開拓者達を表現していると思える。石狩浜の灯台のロマンチックな思いを引きずってこの像に出くわすと、モノクロ写真の白黒を反転させたような感じになる。
見た目には不細工なこのブロンズ像を遠景にして、石狩の浜に赤い実をつけて冬の到来を待っているかのような浜茄子を前景にした写真を撮ってみる。すすきも生い茂っていて、秋の人の訪れない海浜の荒涼感が漂う。この荒涼感を浜茄子の実の赤色が和らげていると、芸術的なブロンズ像を鑑賞した余韻で写真の自己評価をしたけれど、普通の写真と評されるとそうかも知れない。
「石狩川」文学碑
「石狩川」の作者本庄睦男は一九〇五年(明治三十八年)当別町太美ビトエ番外地で生まれている。父は佐賀藩士で当別において開拓に従事している。「石狩川」は当別に入植した伊達邦直家中の北海道開拓の苦闘を描いており、一九三九年(昭和十四年)に刊行された。本庄睦男はこの本が出た二ヶ月後に東京の自宅で死去している。享年三十五歳であった。
「石狩川」は読んではいないけれど、石狩川の土手にあるという文学碑を見にゆきたくなった。文学碑の位置が示された地図がなかったので、インターネットに出ていた札幌から当別町に行く道が石狩川を横切る辺りの土手道という情報を頼りに、伏古拓北通から国道337号線に入り、この国道が石狩川を横切る札幌大橋を渡る。橋の上からインターネットでみた文学碑を目にすることができ、それを目指して土手道に入り、文学碑の前で車を留めて碑に近づいてみる。
文学碑は石の塔の上に、開拓時代の家屋を象徴していると思われる形が乗っている塔部分と「文学碑 石狩川」のプレートがはめ込まれた低い部分とから成っている。開拓時代を象徴して、木を燃やして火を焚いているのを模した造形もある。文学碑の傍には説明板があり、この文学碑が一九六〇年(昭和三十九年)建立されたと書かれている。この年に著者は大学に入学している。
この場所へのアクセスの悪さか、それほど知られていない文学碑のせいか、ここは訪れる人も居ない。文学碑の場所から写真のように石狩川とその河川敷が一望に出来る。写真に写っている橋が札幌大橋である。この橋を通る国道は、石狩市から札幌市の北区の縁のあいの里をかすめて当別町につながる主要な道であり、交通量が多いところである。車が途切れるところを狙って写真を撮る。
その後、本庄睦男(の写真)に思いがけないところで出会うことになった。石狩市の石狩川河口の近くの弁天町で偶然入った石狩尚古社にこの作家の写真が飾ってあった。一九三七年(昭和十二年)「石狩川」の取材に石狩八幡町に取材に来た時のものと説明があった。この取材旅行の二年後に「石狩川」を上梓し、あまり日を置かずして亡くなる運命にあるとは思えない顔がそこに写っている。
2006年12月11日
川の博物館
北海道開拓の歴史は石狩川治水の歴史でもある。この治水の歴史を見ることのできる博物館が、石狩市を突き抜ける国道231号線沿いの旧石狩川(現茨戸川)に面してある。
石狩川の治水の柱として、河口近くで蛇行する石狩川の蛇行部分を切り離し、本流部分を直線状に改修し(ショートカットの方法で専門用語的には捷水路(しょうすいろ))、川の水を最短距離で石狩湾に流すことがある。この残された石狩川の蛇行部分が茨戸川となっていて、茨戸川は石狩湾とは石狩放水路でつながっている。
石狩川に鮭が遡上し始めた9月の中旬の連休中日にこの川の博物館を訪れてみる。博物館のパーキング場は写真のように茨戸川の川べりにあって、茨戸川を間近にみることができる。パーキング場に止まっている車もなく、茨戸川を眺めてから、無料のこの博物館に入ってみる。予想したように館内には他に来館者は居ない。
館内には治水の歴史や石狩湾氾濫時の写真、河川工事に使われた測定器等の展示がある。石狩川の生態系や四季の変化の映像を見せるビデオもあって、誰も居ない館内でビデオのスイッチを入れてかなり長めのものを最後まで見る。子供達に石狩川を知ってもらうための教材といったところである。
この博物館の展示の目玉は、石狩川治水の祖岡崎文吉の業績である。岡崎は一八八七年(明治二十年)札幌農学校工学科に一期生として入学しており、北大工学部の前身で学んだことになる。卒業後北海道庁の技師となっている。しかし、この人の名前を聞くのは初めてであった。もっとも、岡崎は土木工学の人であるので、専門が同じ技術者には良く知られた人なのかも知れない。岡崎の論文、著書、辞令などがガラスケースの中に展示されていて、岡崎その人の博物館のようである。
岡崎は一九一五年(大正四年)には「治水」を丸善から出版しており、この著作は土木学会の「近代土木文化遺産としての名著100選」に選ばれている。岡崎の治水思想の集大成といわれている。治水事業は単に川のみを見るのではなく、山林を始め河川を取り巻く環境、その保全のための行政等に目を向ける必要があると言及しているとのことである。
川の博物の前には道路を挟んで風力発電の風車がゆっくりと回っていた。海から蒸発した水が地上に降り、石狩川の水となりそれを用いて電気を起こす一方で、河水が海に還る海岸付近では、海からの風で電力を得ようとするようになって来ている。この水と風に関わる技術の対照が、川の博物館と風車を並べて見比べて、印象深かった。
石狩灯台
著者が北大勤務時代に石狩の浜まで行って実験をしたことがある。電波で物を見る技術である電波ホログラフィーの研究をしていて、その関連で砂のなかに埋設された物体に地表から電波を照射して物体を映像化して判別できるか地表レーダ装置を用いて試してみようということになった。学生達を石狩の浜まで駆り出して行った実験はあまりよい結果が得られなかったと記憶している。
この実験の時に石狩灯台を見に行ったのか、実験に時間をとられてそんな余裕はなかったのか、今となっては記憶がない。しかし、石狩浜の灯台は砂浜とハマナスの群生に囲まれた詩情豊かなイメージが頭の隅にあって、今回の秘境探検の対象にした。
札幌からは新川通で小樽に向かい、国道337号線を通って石狩に入り、途中石狩川河口に発達した砂嘴(さし)部分を走る石狩街道を通って目的地に着く。灯台傍のパーキング場で車を止めて、灯台の付近に近づいてみる。日曜日のこともあって訪れる人も目立ち、夏が終わり、秋に入りかけている石狩の浜を楽しんでいる。木道の上からハマナスの赤い実を砂地のそこここに見ることができる。
石狩灯台の歴史は古く、一八九二年(明治二十五年)一月一日に最初の灯が点されてから数えると百十五年の歳月が流れている。この灯台は木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾年月」の舞台にもなったことで有名で、カラー映画の始まりの頃で、灯台の外壁の白黒の縞模様が映画撮影のため赤と白に塗り変えられた。この配色が現在まで続いていて、訪れる人の目を楽しませている。
灯台は石狩川の河口の先端部分に建てられたらいいのだが、長い年月で砂嘴が発達して河口からかなり離れたところに位置している。灯台から石狩の砂浜に出てみると、海水浴の季節を過ぎても砂浜にテントを張ってアウトドアライフを楽しんでいる人を見かける。
石狩湾を囲むように厚田村から浜益村の山並みを湾の彼方に遠望することができ、もうすぐここは日本海からの冷たい風と雪にさらされる季節を迎えることになり、石狩湾を取り巻く山々も雪化粧が施される。その時でも、石狩灯台は無人の石狩の浜から石狩湾を航行する船舶に光の信号を送っているだろう。
小樽市公会堂と能楽堂
小樽の都心部に近いところの緑地として小樽公園があり、この公園に隣接して市民会館や総合体育館がある。体育館の隣に小樽公会堂があって、小樽市民には良く知られた建物であろう。この建物は小樽市の歴史的建造物に指定されている。
しかし、観光都市小樽を訪れる観光客がここまで足を伸ばして、集会場になっているこの建物内を見て行くことはないだろうから、小樽市民でないと、あるいは小樽市民にとっても、秘境感のある場所である。
この建物は一九一一年に、当時の皇太子が小樽に泊まるのに合わせて建てられたものである。総坪数二百六十七坪の建物は、当時の小樽の豪商藤山要吉が個人の財力を注ぎ込んで完成させている。武家屋敷を模した玄関部分は、当時は豪華な建築物で人目を惹いたであろう様子を今に伝えている。この場所には一九六〇年に移築されていて、地階部分は移築の際に付け足されている。
建物内部は公会堂の名前の通り一般市民に開放されて集会場として利用されている。訪れた時は土曜日の午前中であったけれど、館内のどの集会場も利用されてはいなかった。どのくらいの利用状況なのかは一度の訪問では推測がつかない。館内は自由に見て回れるので、玄関を入ってから階段を下りて、地階部分にも行ってみる。
この地階部分は能楽堂とつながっている。この能楽堂は一九二六年(大正十五年)小樽の実業家が自邸の庭に建築したもので、旧岡崎家能舞台のただし書きのあるものである。冬季であるため、能楽堂内部に入って見ることができない。夏のある期間には能の実演を見ることができるらしいけれど、能舞台はどのような配置となり、観客はどこに座を取ることになのだろうか。一度実演を観てみたいと思うのだが、その機会を捕まえることができるかどうか。
能楽堂に面した部屋には能装束、能に使われる扇や刀類、謡や音曲に関する書籍類が展示されている。能の公演時の写真なども掲示されている。しかし、日本伝統文化なのに、能を鑑賞する機会はほとんど無く、この芸能の世界は著者にとっては秘境そのものである。
2006年12月09日
日刊スポーツの取材と記事
2006年12月08日
おたるみなと資料館
小樽港は北防波堤、南防波堤、島堤の三つの防波堤で港内と石狩湾が隔てられている。これらの防波堤のうち南防波堤は平磯岬が付け根部分となり、平磯岬に表記の資料館がある。ショッピングモールのウイングベイの海側を走る道路に沿って、平磯岬付近でカーブに差しかかる小樽寄りのところで、防波堤側に折れて行くとこの資料館に辿り着く。しかし、注意していないと見落としてしまう建物である。
この資料館は北海道開発局の小樽港湾事務所の建屋の一階部分にあり、無料で自由に見学ができる。十二月の最初の日曜日の午後に訪れてみたけれど、見学者は著者の他には居なかった。人の居ない点では秘境の必要条件をクリアしている。
この資料館は小樽港建設の歴史に関係する資料が展示されていて、小樽港ゆかりの人物の広井勇、伊藤長右衛門の小樽港築港に関わった足跡が展示されている。このうち広井は札幌農学校の二期生で新渡戸稲造、内村鑑三らと同期生で、一八八一年(明治十四年)に卒業している。卒業後一八八九年には札幌農学校教授に就任している。
一八九七年(明治三十年)に初代小樽築港事務所長となり、北防波堤の計画から施工まで従事している。このプロジェクトでセメントコンクリートの製造法や波力算定法を確立して築港上で貢献した。後に東大教授となり、橋梁工学でも一家を成している。
北防波堤が百年経た今もその役目を果たしているのをみると、百年前の土木技術が優れたものであることが分かる。しかし、防波堤に限らずダム、高速道路、ビルのような巨大コンクリート建造物の寿命はどのくらいなのだろうか。コンクリートもいずれは寿命が尽きるだろうから、今度は強制的に壊したり、取り除いたりする技術が要求されることになるのだろう。新しく造る技術から、壊し再生させる技術への技術変遷がどんどん進むと思われる。
資料館の傍から伸びている南防波堤では、釣りに興じる人が集まって釣り糸を垂れていた。これらの人の幾人がこの資料館を訪れているだろうか。資料館の近くに来ても資料館が素通りされるとなると、ここはやはり秘境の資料館と表現してもよいだろう。
2006年12月06日
読売新聞記事
2006年12月04日
富岡教会とステンドグラス
小樽名所の一つになっているこの教会は、シーズンオフでもそれなりに見学者が居るだろうと予想して十二月初めに出向いてみる。まず教会の正面で建物を写真に納める。確かに観光客が訪れてみたくなるような外観である。
この建物は一九二九年(昭和四年)に造られた鉄筋コンクリート、一部木造のゴシック建築を模したものである。この教会はカソリックの教会で、教会の後ろにマリア院という修道女の住む住居があって、教会とつながっている。マリア院の方には現在四名の修道女が住んでいるとのことである。
教会は十時に開かれるとあったので、十時に玄関の前に立って待っていると、ボランティアの当番の信者が少し坂になっている教会への道を登って来て、正面玄関の錠を開けて中に入れてくれる。教会内は冷え切っている。訪問者は秘境探検隊のみなこともあって、この当番の信者はにわかガイドになって、教会内部や最近の教会と信者の関係について説明してくれる。
建物の関しては、内部のステンドグラスがこの教会の特色となっているようで、建物の各所にステンドグラスを見ることができる。玄関、礼拝堂の窓部分のデザインは正方形や長方形の組み合わせのシンプルなもので、階段の踊り場のものは蔦をデザインしている。元々この教会の外壁には蔦が生い茂っていたのが、建物の保存の観点から蔦を取り払ってしまったので、このステンドガラスがその代用の役目を負っている。
礼拝堂の後ろの壁の高みに西欧の教会で見るようなキリストの顔や聖書に題材を取ったステンドグラスが飾られている。これは札幌で工房を持っているステンドグラス・アーティストが、フランス各地の聖堂で模写して製作したものをこの教会に寄贈したものである。残念ながらこのステンドグラスは窓の部分に取り付けられていないので、ステンドグラスの本来の光の芸術の部分の素晴らしさが消されている。
ステンドグラスは、素人が思っているよりはお金のかかる芸術品のようである。昨今は教会の台所も苦しいようで、ステンドグラス一つとっても、充分なお金をかけられないと推測できる。ましてや、年季物の教会の建物を維持管理していくのは大変ではなかろうか。観光客が好んでこの絵になる教会の建物を写真に撮っていく一方で、教会の活動のための資金集めという秘境部分は写真に写されることはない。
2006年12月02日
北海道立地質研究所海洋地学部
地図を見ていると、小樽築港駅の近く、平磯岬の付け根あたりに「みなと資料館」というのが目に付いた。では見に行こうかと、十一月も終わりに近づいた週日にそれらしい建物の前に車を止める。外観は写真のような佇まいで、建物の後ろにショッピングモール「ウイングベイ」の大観覧車が見える。
この建物の入り口部分には小樽の「都市景観賞」のプレートが掲示されている。公的なオフィスの一部を一般に開放しているらしい雰囲気で、受付も見当たらないのでそのまま館内に入ってみる。
玄関ホールの近くに資料展示コーナーがあり、海底調査に関する資料が並べられている。後ではっきりしたのだが、このオフィスは表題のもので、海洋や海底を対象にした調査研究を行う北海道立の研究所であった。
地質を対象にして研究を行っているので、写真のような北海道の岩石の標本などが、数は少ないけれど並べられている。忍路、天狗山、桃岩、高島、魚留の滝と小樽周辺の岩石の標本で、行ったことのある地名や、これから行ってみようかと思う地名が並んでいる。
展示棚には東海大学の海洋調査研修船「望星丸」の模型も飾ってある。この調査研修船は耐氷構造で、世界の色々な海域で調査、研修、親善活動を行っている。以前、この船を用いて行われた、日本近海海底でのメタンハイドレートの埋蔵調査に関する新聞記事があったのを憶えている。
廊下には研究の紹介のパネルが掲示してあって、海底地形を画像化する「サイドスキャンソナー」の説明もある。似た用語に「サイドルッキングレーダー」がある。こちらは航空機からマイクロ波を放射して地表の電波写真を撮影する。著者はマイクロ波ホログラフィーの数値的像再生技術や音響影像法が研究範囲であったこともあって、パネルを興味深くみる。
この建物を「みなと資料館」とばかり思い込んで帰宅したけれど、インターネットで調べると、「みなと資料館」とは違う建物に入ったらしい。小樽の秘境探検はまだまだ続くので、「みなと資料館」の見学は次回に回そうと考えている。