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2007年06月30日

水天宮本殿

 小樽・石狩秘境の原稿整理をしている段階で、取材不足が目についています。その一つは水天宮の正面中央に柱があり、屋根も二つに分かれている点です。掲示板で神仏混淆の名残ではないかと指摘されている点を確かめることもなく、原稿の整理を行っています。原稿の整理段階で、取材不足が気になり出のは取材に気合が入っていないせいでもあり、研究でデータを揃えておかなかったため、論文を書く段階で苦労するのに似ています。
 人生でも、あれをやっておけばよかったと思うことに通じます。

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2007年06月29日

発足小学校鮭孵化場看板

 小樽・石狩秘境の取材と原稿整理を行っています。取材不足を埋めようとしているのですが、季節が巡ってこないと取材できない対象もあります。「厚田川を遡る鮭」のテーマもそうで、これは秋まで待てないので、厚田川を遡る鮭を観察できる場所の近くにあった(過去形なのは閉校になってしまった)発足小学校の校舎の横の鮭孵化場の看板の写真です。
 それにしても、取材中には小中学校の閉校が目につきました。これは「廃校になった学校のその後」で原稿を書いてみようと思っています。

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2007年06月28日

中国語豆本出版の続き

 札幌秘境100選の中国語版豆本は、中国人の札幌案内の要素も含めていて、秘境でもない見学場所も秘境のカテゴリーに入れています。札幌市の下水道科学館は一度見るのに値します。

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 真駒内公園内の鮭科学館も面白いです。鮭の稚魚が見られます。同館のあずまヒキガエルは水のなかでじっとしていて、皮膚から水分を補給している様は我が家(といっても二人ですが)の人気のキャラクターで、朝のラジオ放送(ニュース番組)の解説者の顔に似ているということで、この解説者が番組に登場すると、あずまヒキガエルだ、といって喜んでいます。ご本人の知らないことではありますが、庶民というものはそういったものです。

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 この豆本を片手に秘境巡りをすると、中国語の勉強にもなるので、あるいは日本での中国語教材にならないか、とは思っているのですが、それはないですか。

2007年06月27日

札幌秘境100選中国語版豆本

 現在、標題の豆本(はがきの半分のサイズ)の初校の段階に入っています。8月には出版できるのではないかと思っています。校正段階の本を開いたページの体裁を載せておきます。中国語の翻訳で手伝ってもらった侯進さん有難う。

 この本は一般には流通しないのではないかと予想しています。つまり、特定のところに購入してもらうことを考えています。この本はきこう本(珍しくて手に入らない高価な本)になるとよいな思っています。そのためには、この豆本シリーズがある程度続いて、認知される必要があります。その方向で企画を進めています。

 このブログをご覧になっている方で、本をご希望のかたはお頒け致します。ただし、お届けは8月以降となる予定です。

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2007年06月26日

濃昼山道

 平成の大合併で厚田村、浜益村と一緒になった石狩市は日本海に沿った長い市になっている。合併前の二つの村、厚田と浜益の間は日本海に山塊が迫って陸路の難所であった。今でこそ国道231号線が整備されているけれど、かつては幕府が命じて開削させた濃昼山道で両村が結ばれていた時代があった。

 この濃昼(ごきびる)山道は新しい道の開通で忘れ去られていたのが、近年保存の活動の成果でルートが復活していると耳に挟んでいた。では、その山道の入り口ぐらいに立ってみようかとインターネットで得た情報を頼りに国道231号線沿いを探してみるのだが、見つからない。都市の秘境のテーマとかけ離れてもいるので、放っておいたのだが気になる。そこで石狩市役所に出向いて聞いてみると、なんと濃昼山道の立派なパンフレットが用意されている。このパンフレットの案内図であれば入り口に達することができるだろうと再度出向いてみる。

 まず滝の沢トンネルの手前の滝の沢側の入口を目指す。案内図にはトンネルの入り口近くにパーキング場があることになっているのだが、パーキングの標識もパーキング場もない。安瀬(やそすけ)橋の近くの国道脇に、がけ崩れ防止のコンクリート壁の始まりあたりにかろうじて空き地がある。半信半疑でここに車を止めて山側に登る道がないかと探してみると、濃昼山道入り口の小さな標識が現れた。これでは初めての訪問者が見つけられないのも無理はない。

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 最初からこの山道を走破する気は持ち合わせていないので、この入口から少しばかり道に分け入って探検を終了させるつもりである。山道はかろうじて道があるといった感じで、木の間から安瀬の海が目に入る。道の雑草は保存会の手で刈り取られた形跡があるけれど、獣道の雰囲気もある。ここは予定通り早々に切り上げて、もう一方の山道入口に国道を車で向かう。

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 国道の滝の沢、太島内、赤岩の三つのトンネルを抜けて、濃昼の村落の入口のところで停車する。ここの濃昼側の山道入口はバス停の横にあるのだが、これまた小さな案内で見落としそうになる。話しはそれるが、このバス停の時刻表には夏の間の一日二回の発着時刻が記されていて、実際の利用状況がどんなものであるのか興味をそそられた。

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 濃昼側入口には保存会の標柱も立っている。入口から沢道になっていて、確かに道がついている。歩いて行くとどこまでも道の先があって、山の中に吸い込まれるような感じもして深入りは避けようと、たいして歩きもしないで引き返した。軟弱な山歩きである。それにしても、市役所に置かれてあったあの立派なパンフレットと、現地のこの状況の落差は大きかった。

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2007年06月25日

厚田港の朝市

 秋も深まって冬を迎えようとしている厚田港を通りすがりに写真に撮ってみた。天気は悪く、海も荒れ気味で、厚田港の防波堤の灯台が曇り空をバックに立っていて、日本海の荒波が防波堤と砂浜に押し寄せ、これから到来する北海道の冬の季節を暗示するかのようであった。この景色は北海道らしいものであるけれど、もっと気持ちがはずむ頃にこの港に来てみようと思った。

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 年がかわり、6月の海開きが告げられた翌日の早朝、札幌から車で国道231号線を北に向かって走り、厚田の港に車を乗り入れる。今回も天気は曇り空であったけれど、海は穏やかだった。港内の岸壁に停泊している漁船は、漁を終えて魚を下ろしたのか、船内に人影は見当たらない。埠頭では魚網の手入れ作業も行われていている。港の生活は朝が早い。

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 日曜日で港の埠頭では、魚を主体にした朝市が開かれている。港の魚の荷下ろし場の広場に店が立ち並び開店で、客も集まり始めている。鮮魚の品定めというつもりもなく、店先に並べられている魚を目で追いながら歩いてみる。冷凍や干物の魚と一緒に、捕れたばかりと思われる魚も並んでいる。

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 鮟鱇(あんこう)やエイ(北海道ではカスベと呼んでいる)も並べられている。これらの魚は形や見た目にはグロテスクなところがあれけれど、高級食材である。カジカなどもそうであるけれど、魚は見た目に反比例して美味しいのではなかろうか。ここで1匹500円とか千円の魚が、札幌の高級レストランのフランス料理に姿を変えると、目の玉が飛び出る値段に化けるから、商売とはたいしたものである。

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 もう少し時間が経てば札幌方面からの客がこの朝市に集まって来て、もっと賑やかになるのだろう。港内に車を止めるスペースはあまりないと思われるのだが、港近くの路地にでも停車させることになるのだろうか。日曜日の早朝で港近くの店も閉まっていて、人通りも少ないことから、朝市に訪れる車の駐車は大目に見てもらえるのかも知れない。

 朝市も組み込んで、厚田港を観光に組み込む方針に副ってか、港への舗道には海の生き物がタイルで描かれている。早朝で人通りはほとんどなく、舗道絵を写真にとるのは都合がよかった。

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2007年06月24日

三社神社と張碓神社

 神社は元の場所で、年月が経るままに境内で大きくなった木々に囲まれて古さを醸し出しているのがよい。しかし、建物が古くなったり、お守り役の住民が居なくなったり、開発で境内そのものが無くなったりで、神社も昔の姿でいられない場合も多い。張碓の町で昔ながらの神社と、新しく建て替えられた神社があったのでその対比を見て来た。

 国道5号線から張碓の町に入るとすぐに三社神社が現れる。冬の期間はこの神社は雪の中に埋もれている。雪がなくなって出かけてみると、大木のある境内に古そうな感じの神社がある。三社と呼ばれるように異なる神様が祀られているようで、社の一つには「波切不動尊」の額が掲げられていた。

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 波切(なみきり、浪切)不動尊は高野山真言宗から来ている。空海(弘法大師)が留学先の唐から帰国時に船が難破しかかってとき、霊木に「不動明王」を刻んで祈念すると、不動明王が火炎を発しながら右手に利剣を持って波を切り裂いき、船を導いたと言い伝えられている。境内にはこの利剣が刻まれた石碑があり、奉納年として明治27年(1894年)と刻まれているので、石碑だけからも百年以上前の神社であることが分かる。

 波切不動尊の額の横に大きな下駄とわらじが奉納されている。この大きな下駄は太平山碑の祠に中にあった大きな下駄にも通じるもので、どうして下駄なのか分からない。昔、真言宗のお寺にお参りするとき下駄やわらじを脱いだことから来ている、天狗も祀っていて天狗の履く下駄、不動明王の大きさを示すため(下駄を履いた不動明王は目にしていないけれど)などの説が考えられるけれど、確かめてはいない。

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 この三社神社よりもっと歴史の古い神社が張碓神社であると耳にして、さぞや古色豊かな境内を持つ神社かと張碓神社を張碓の町で探してみる。しかし、これが見つからない。それは国道5号線が張碓の町を分断していて、国道沿いの山側に新しい境内となっているためである。この境内は国道脇にはあるのだが、よほど注意していないと車では神社前を瞬間に通り過ぎてしまう。

 張碓に住む人から350年ぐらいの歴史はあるだろうと聞いて来た神社は真新しいものである。神社の標柱には平成14年建立の文字があったから、出来立ての神社である。狛犬(お稲荷さんか)さえも未だ置かれていない。これでは神社の有り難味が湧かない。多分、国道を含めて新しい道路建設のために境内が移動したのだろうと推測されるけれど、「村の鎮守の神様の、今日はめでたいお祭りだ」の神様も車がひっきりなしに通る国道沿いの新居では、気分が年中落ち着かないのではないかと思われる。

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2007年06月22日

了恵寺百年記念宝蔵館

 この寺の境内にあるコンクリート造りの資料館の宝蔵館を四代目住職の案内で見せてもらった時に、収蔵されているお宝には驚いた。無料でこれだけのものを見ることのできるところなのにほとんど知られていないところは秘境である。

 この真宗の寺は、高松にそのルーツがあり、一八九四年に渡道した初代住職が真宗興正派の最初の布教を行い、一九一〇年に了恵寺を建立している。寺名は初代と二代目住職の名前から一文字ずつ採ってつけている。

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 宝蔵館内のガラスのケースには中国の古銭や日本の古銭が並んでいる。殷、周、秦の時代の古銭が本物であれば、相当なお宝であろうと推測されるのだが、この方面の知識は皆無にお近く、それがどのくらい高価なものかは分からない。

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 目をひいたのは昔のタバコで、筆者が小さかった頃の家業がタバコも扱う小売業であったので、ガラスのケース内に並んでいる「光」、「ゴールデンバット」、「新生」、きざみの「ききょう」等は記憶の隅にある。満州国で製造されていた恩賜のタバコなどもあって、これは貴重品であろう。

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 北海道開拓の歴史に関わる錦絵もある。札幌本府の見出しも見える。組み絵になっていて、時代は右下から左上に流れるそうである。漫画のコマでは一般に右上から左下に時間の流れがあり、漫画に慣れているので絵で時間を追って説明する場合は漫画のコマ割りが普通だと思い込んでいる。しかし、二次元平面に一次元の歴史の流れを描くのは、下からでも上からでも、右からでも左からでもよいことになる。

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 これらお宝も見ごたえがあるけれど、境内には歌碑や句碑が多く設置されていて、歌碑、句碑巡りの同好の士なら石狩でははずせない場所であろう。その一つとして、碑面に「六蓄」文字が刻まれた歌碑がある。六蓄とは牛、馬、羊、鶏、犬、豚となる。普通に言う家畜で、六蓄に猫が入らないのは、猫は放っておいても餌を見つけてくるためだろう。一方、家畜の方は餌の心配をする必要がある代わり、人間に役立つ動物にもなる。

 この歌碑には「ふる里の 家の庭べに 相寄りし 深きいえにしを 思い出づつ」の歌が刻まれていて、作者は石狩市生振(おやふる)生まれの横田庄八である。また、「秩父蜂起の井上伝蔵(石狩では伊藤房次郎)が明治35年に詠む」と注釈のついた詩碑もある。これは石に刻まれた歴史の資料というところで、宝蔵館の展示資料の延長とも言える。

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2007年06月21日

小樽秘境HTBテレビ放送

 6月20日(水)、HTBの朝の番組「おはよう天気」で6:10~16のかなりの長い時間で小樽の秘境が放送されました。昨年、札幌の秘境ではシリーズのようにして放送してもらった「遠藤商店」の後続番組での放送でした。

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 秘境テーマは三つで、順に紹介しておきます。星置川の河口の堤防の上にある消波ブロックで、これがどうしてここにあるのか、最初見た時には皆目見当が付きませんでした。その後秘境講演会の折に、小樽の方から台風で波の力で持ち上げられたものであると教えられ、その後この話をあちらこちらでしていました。

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 今回テレビ放送ということで、堤防を管轄する北海道小樽土木現業所までテレビカメラが入って、その真偽を尋ねました。するとこれは車止めのために置かれているとのことでした。この消波ブロック一個の重さは3トンと聞いています。この話を聞いて、いくら猛威を振るう台風でも波の力で消波ブロックが防波堤の上に来るようでは、消波ブロックの意味がないかと思いました。

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 二番目の中野植物園は植物園の名前が有っても取材対象は園内にある遊具でした。人力メリーゴーラウンドには私が馬に乗り、取材スタッフの一人が人力で回しているシーンが放送されました。このメリーゴーラウンドは人気が出るかも知れません。

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 三番目は龍徳寺の自称日本一大きい木魚です。副住職のコメントとこの木魚を叩くシーンが放送されました。撮影に当たって、副住職が他の坊さんにカメラの前でコメントを話せとか、木魚を叩けとか言っても若い坊さんはしり込みしていて、結局副住職自らから木魚を叩いていました。現役の時、学生に指示を出してしり込みされて、結局自分でやったことに重なり、どこの世界でも同じような展開になることが印象に残りました。

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 私のこの木魚を叩くシーンもありましたが、これはご愛嬌です。が、叩く棒のバイが重く、なかなか重労働でした。取材のスタッフもメリーゴーラウンドを回したり、テレビカメラを担いだり、滑り台の上に何度も登ったりで、こちらも重労働に見えました。

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2007年06月20日

毛無山展望台

 国道393号線で小樽から赤井川村に抜けるとき、毛無山(548m)の横を通る。毛無山とは妙な名前であるけれど、同じ名前のついた山が小樽市と余市町の境にもある。こちらは高さが650mである。本州にも毛無山と名のつく山がある。「木無山」からこの名前になったのではないかという説がある。火山を除けば北海道に木の無い禿山を探しても見つからないだろう。この語はアイヌ語のケナシ(木や林のある野や原)から来ていると聞くと、確かに毛無山は樹木で覆われている。

 この毛無山の近くに展望台があり眺望が良いと聞くので確かめに行く。朝里から望洋パークタウンを抜けて国道393号線に入り、急カーブの続くところを登って行く。カーブの最後の辺りでこの展望台がある。この国道はライダーがよく利用する道らしく、展望台の広場にはライダー達が休息をとりながら談笑している。

 確かにここからの眺めは良い。小樽の市街や小樽港、その外に続く石狩湾とパノラマが広がる。当然この見ごたえある景観をパノラマ写真でも記録する(パノラマ写真を拡大してご覧になるには こちら まで)。本州は梅雨入りしているとニュースで聞いても、ここ北海道は初夏に向かうさわやかなで透明な大気の中にある。ライダー達がこの山道を風を切って疾走してゆきたくなる気持ちも理解できる。

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 広場には測量の日(6月3日)を記念して測量に関係する団体が寄贈した標石があって、標石の緯度経度と高さが刻まれている。緯度は43°9′8″.12679、経度は141°0′51″.46650、高さは467.569mと刻まれている。計測に関することなので、その精度を誇示しているのだろうけれど、例えば、標高(海抜)の最後のミリ単位など誤差のうちだろう。因みに標高は東京湾の平均海面の高さから計測されると説明されていた。

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 これらはGPSで計測されたデータである。このような地上でのデータと衛星写真のデータを組み合わせたものがインターネットで利用することが出来る時代になって来ている。都市秘境探検にもその技術は利用でき、現在そのようなツールの開発中で、試しに毛無展望台の部分の画面を出しておく。緯度経度のデータの並びが逆になっているのは、まだ開発途中である証左である。このツールはGoogleMapを利用しているけれど、GoogleMapの座標は世界測地系(WGS84)に準拠しており、日本では従来日本測地系(Tokyo)が使われてきていて、両者にはわずかなずれがあることも知った。

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2007年06月19日

毘砂別千本ナラ

 国道231号線を北上して送毛トンネルを抜けたところに毘砂別(びしゃべつ)の集落がある。国道から分かれ、毘砂別送毛線を今度は南下して山を登るようにして車を走らせると目指す千本ナラに到達する。

 道路脇には千本ナラの案内看板が立っている。林野庁肝いりで、「巨樹・巨木保護中央協議会」選定の森の巨人たち100選に選ばれた木である。番号付けが北からなされているようで、この木はNo.1の番号が付けられている。この巨木選定の基準は、国有林にあり、地面からの高さ1.2mのところの直径が1m以上あり、地域のシンボルとして親しまれているもの、となっている。

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 北海道で選定された巨木はこのナラの木を含めて11本である。国土の約20%を占める北海道では20本の巨木が選定されてもよさそうである。ただ、深山にあって地域のシンボルになっていない巨木は当然この選に漏れるだろうし、過疎地が拡大していく北海道の巨木の数が国土面積に比例していなくても不思議ではない。

 ともかく、この巨木の看板を見ながら階段を下っていくと、幹にしめ縄が巻かれたミズナラの大木が3個並んでいる。樹齢は800年と推定され、最大のものは幹周4.8m、樹高18mにもなる。これらの巨木の枝が幾重にもなっていて、千本の枝のように見えるところから千本ナラの呼称が生まれたと解説されていた。

 当然というべきか、この木をここまで見に来る人も居なくて、六月中旬の空気が透明な森の中は静謐の言葉が適している。この木は樹皮に触れたり、落ち葉で患部をなでると病気が治る話がテレビ放送されたため、願い事を書いてしめ縄に残された杓文字が目に付く。願い事を読むと、それぞれの人生でそれぞれの願い事があるものだとの感を強くする。

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 巨木の写真は写真で雰囲気を伝えるのが難しい。幹の大きさを強調しようとすると、枝はみ出す。枝も入れると、他の木が邪魔になり、幹の太さが伝わらない難点もある。これが3本もあると普通の写真では無理である。魚眼レンズを利用する撮影方法もあるけれど、魚眼レンズを持ち合わせていない。そこで、デジカメの機能として備わっている(パノラマ写真を今回も試してみるパノラマ写真を拡大してご覧になるには こちら まで)。

 3本のナラの木の中央付近に立って、左右のナラの木を写してみる。写真からは、木の大きさが伝わるというよりは、これらの巨木のある森の朝のさわやかさが伝わってくる。

2007年06月18日

赤岩園芸のメコノプシス(ヒマラヤの青いケシ)

 六月中旬の新聞で、札幌北区の百合が原公園内でヒマラヤの青いケシが見ごろであるとの記事が目に留まった。メコノプシス・グランディスの名前のついたこのケシを日本で最初に栽培したのが小樽の赤岩園芸であると耳に挟んでいたので、栽培の本家まで早速見に行くことにする。

 小樽の赤岩二丁目の北山中学校の横に赤岩園芸の花の育成園がある。花に散水している年配者にメコノプシスの在りかを聞くと、階段状の花壇を教えてくれ、確かにそこに5,6株花をつけたメコノプシスがあった。花の色は青というより水色に近いかな、という印象である。

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 くだんの散水していた人に聞いてみると、ここを経営している園芸家の続木忠治氏で、1965年からここで園芸屋を始めているとのことである。エジンバラ国立植物園と縁が出来て、花の交換が始まる。1977年に同植物園からメコノプシスを譲り受け、育てたのが日本でのこの花の栽培事始めだろうとの話を聞いた。

 もともとヒマラヤの高地に咲く花なので、原種を日本で育てるのは無理で、日本向きに改良した品種のようである。それでも暑さに弱く、気温が25℃以上になると駄目になるそうで、北海道といえども育てるのが難しいらしい。温度が高くなるとこの花は夏の休眠に入るそうで、気温が下がって冬眠する動植物とは逆の言葉を聞いて面白と思った。

 氏の著述になるメコノプシスに関する本が来年には出版される話を伺ったついでに、花の種類の整理法について尋ねると、氏の整理法によるカードのファイルを見せてくれた。約1万種類程の花の名前が分類されてカードに記録されているそうである。商売柄とはいえ大した手作りデータベースである。

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 約1000坪の土地に3000種近くの花があると聞く。花好きには見飽きない場所だろう。しかし、経営者としては園芸屋も苦戦を強いられている話も出てくる。ポットで売られる小物の花の値段が安い上に、中間マージンを大幅にとられると、生産者に入ってくる生産代も少なくなる。メコノプシスが高値で売れるとよいのだろうが、前述のような気温の壁があって、商品としては難しいようである。しかし、何かの分野に努力を傾注すると、残されるものは大きいと感じた。

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2007年06月17日

小樽のガラス工房と工場

 小樽は観光客を集めるガラスの土産物店が軒を並べ、ガラスの物造りが盛んなところである。これはかつて小樽が漁具としての浮き球造りの伝統があったことも関連していて、NHK札幌が制作して2007年5月全国放送になったドラマ「雪明りの街」のヒロインの父親が、この浮き球を吹く職人という設定であった。

 ドラマそのものは軽くて、北大生のヒロインが社交ダンスの同好会のメンバーで、大学間の競技のための練習をしているシーンが主に出て来くる。北大生がダンスとアメリカ留学までする研究を両立させていることになっていて、やはりドラマである。ドラマの付録で、実際には閉鎖されていた浮き玉造りの工房(工場)を、このドラマのためだけに関係者が再開させたエピソードが放送されていたけれど、こちらの方がドラマより面白かった。

 この放送では、ヒロインの父親は頑固なガラス吹き職人を演じてしたけれど、ガラスの物造りはこの職人と工芸家(作家とも呼ばれている)の線引きがはっきりしない。ガラスの土産物屋に並んでいるほとんどのガラス製品は、作り手の名前がある訳ではないので、それらを作るのは職人と言える。しかし、中には作家が作るガラス工芸品は当然あって、それを作るのは芸術家ということになる。一方、何々工房の名前がついたところで作って販売しているものはその工房主の作品だとすると、作家の作品と言えるかも知れない。

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 ガラス工房か工場かも線引きが難しい。作家が工房を持って細々と自分の作品を作っている場合もあれば、職人を使って大量生産をしている場合もある。熱を伴う物造りであるため、工場内の熱管理を行い工業製品並みにコストを下げる努力がなされている現場を見ると、これは工房というよりは工場である。

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 観光客相手にトンボ玉造りの実演を見せてくれるところもある。これは店の売り子が客の依頼に応じて、トンボ玉がどのように作られるかを解説を交えて行ってくれる。こうなると売り子のサービスで職人でもない。しかし、著名作家による高額なトンボ玉が店頭に並べられていたりする。

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 トンボ玉の実演を見せてもらったガラス工房には、筆者が主宰している勉強会「eシルクロード大学」をプリントしたガラスのジョッキを、修了証代わりの記念品として作ってもらったことがあるので、とりわけ親しみを覚えている。

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2007年06月16日

HTB「おは天」での放送

 小樽・石狩秘境のテーマの放送がHTBの朝の番組「おはよう天気」で放送予定です。6月20日(水)の朝6:08頃からの放送と知らされています。取材先は小樽の中野植物園、龍徳寺、星置川河口です。そこがどうして秘境なのかはご覧いただくと納得していただけるのではないかと思っています。

 小樽の秘境取材に関して「読売新聞」に紹介されましたので、時間は経っていますが転載しておきます。

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南線小学校の門柱と奉安殿

 戦前の教育勅語を捨てて、1947年に民主主義国家への移行に合わせて設けられた教育基本法は、昨年(2007年)の国会でさらに改定され、施行されている。前の教育基本法で教育を受けた世代の筆者には教育勅語と聞いても、それがどんなものであったのかの体験的記憶がない。当然教育勅語の謄本も見たことがない。

 札幌市北区屯田町から石狩市に少し入った花川南3条5丁目にある了恵寺(りょうえいじ)の境内に南線(みなみせん)小学校の表札のはめ込まれた門柱が建っているのが目についた。最初これを目にした時、どうしてこの門柱がここにあって、門柱の奥にある小屋が何であるのか分からなかった。

 後日同寺を再訪問した時、たまたま居合わせた了恵寺四代目住職から、南線小学校が移転する際に、その門柱と奉安殿の行き場がなくなり、この寺の境内に引き取った話を聞いた。門柱には石狩町立南線小学校と書かれていて、石狩市がまだ町であった頃のものである。

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 ここで奉安殿は筆者の年代以下では見たことも聞いたこともない建物であろう。戦前に天皇と皇后の写真(ご真影)と教育勅語の謄本が納められていた建物である。一般に、奉安殿は殿がつくくらいの建物であるから、コンクリートや石で出来ていたそうであるけれど、南線小学校のものは貧乏であったせいか、木造である。建国記念日(紀元節)や天皇誕生日(天長節)にここから教育勅語謄本が取り出されて、校長先生が生徒の前で読み上げる。映画か何かで聞いたことのある「チンオモウニ ワガコウソ コウソウ クニヲハジムルコト・・・」という言い回しから始まるものである。

 この奉安殿にあったという教育勅語の謄本が保管されているというので、見せてもらった。塗り物の木箱に入った謄本が取り出される。時が時であれば真新しい白手袋でうやうやしく開かれたであろう謄本が無造作に敷物の上に広げられる。教育勅語が発布された明治二十三年十月三十日の日付や御名御璽の文字を確かめる。この類のものは戦後に回収されたと思われるのに、よく残っていたものである。

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 名前の出て来た南線小学校は、現在は道道44号線沿いにあり、古い面影は微塵もない。現在の小学校の生徒はいうにおよばず、先生ですら教育勅語の謄本を目にすることはないだろう。秘境探検なので教育勅語の謄本を取り上げているけれど、これは日本の教育史の秘境に静かにしていてもらうに越したことはない。

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2007年06月15日

石狩浜のハマナスとカモメ

 石狩市の花はハマナスで市の鳥はかもめと定められている。小樽市はツツジとアオバトである。石狩川の河口近くには砂浜が広がり、砂丘を形成し、ここではハマナスを始め多くの海浜植物を、冬場を除けば1年を通して鑑賞することができる。

 石狩川が石狩湾に流入する辺りでは、カモメの群れも見ることができる。市の花と鳥がセットになって観察出来る点で、石狩浜の砂丘は石狩市の景観や環境が象徴的に現われている場所である。特に群生している多種の浜辺の花を目にすれば、野の花の愛好家なら秘境的場所と感じるのではなかろうか。

 イソスミレは春石狩の浜で最初に見ることができる花である。日本海側でこの浜がその北限となっている。6月の初旬にハマナスの開花を予想して石狩の浜を訪れた時には、イソスミレの花は少ししか残ってはいなかった。

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 ハマナスは5月の下旬から9月頃まで見ることができる。花が終われば赤い実をつける。この実が梨に似ているとのことで「ハマナシ(浜梨)」がなまってハマナスの和名になった。ハマナスの咲く浜では、長い期間ハマナスの花を見ることができるので、長持ちする花かと思っていたら、一夜花とか呼ばれていて、咲いた翌日にはもう花の盛りを過ぎて、散ってゆく花なのだそうである。長く花が咲いているように見えるのは、次々と花が咲いてゆくためである。バラの原種の一つであり、交配して改良を加えたバラの新種がハマナスから作られている。

 ハマエンドウは石狩の浜を代表する海浜の花で、青紫の花が群れて咲く。エンドウの名前があるとおりマメ科の花でエンドウマメに似た実をつける。6月に入ればエゾスカシユリの花も見ることができる。このユリの名前は花弁の間に隙間があることから来ていると聞いた。

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 エゾスカシユリの自生地にはススキが入り込んで来ている。ススキは繁殖力の強い植物で、放置していると砂丘がススキで覆われてくるので、ボランティアの人達が砂丘の花の自生地からススキを取り除く作業をするそうである。

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 石狩川の河口は流れの方向に年々移動していて、河口近くに設置した石狩浜の灯台は河口からかなり離れた砂丘に取り残された格好になっている。石狩川の河口の砂浜にはカモメが集まっている。カモメは気性の激しそうな鳥である。しかし、羽の一部を除けば白色がこの鳥を優しげに見せている。この点カラスは全身が黒で可愛気が無く、身近な鳥ではあるけれどカモメと比べると色で損をしている。

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2007年06月14日

小樽市能楽堂

 以前冬場に取材し、ブログに掲載したテーマの再取材を行っています。能楽堂も冬場は建物が覆われていて、舞台が見えなかったので、実際に舞台が使用されている時を見計らって取材です。施設があればそれを使ってみようとする趣味の団体も出て来てくるようです。でも、能は趣味の世界では秘境に属するのではないかとの感想を持ちました。

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2007年06月13日

オタモイ小樽岬新道観音

 小樽市役所を訪問した時に、オタモイに観音やら地蔵らがひっそりとあって、秘境の雰囲気十分であるという話が出た。それは見てみたいものだと言うと、早速自動車で現地に連れて行ってもらうことになった。

 オタモイ海岸の地図をみると、団地が海岸に迫っているけれど、これらの団地は小高いところにあり、海岸と団地の間は崖で遮られている。以前、地図の右側のくねくねとした坂を自動車で下って、オタモイ海岸まで行ったことがある。今回は崖の近くまで造成が進んだ地図の中央の団地を過ぎて、崖の上からオタモイ地蔵への山道が始まる場所に来た。訪れた時、この山道は崖崩れで通行止めとなっていて、通行止めの看板と柵の傍に祠があった。祠の閂を開いて中をのぞくと、新しそうな着物を纏った石の地蔵が立っていたけれど、私的な地蔵らしいので写真は掲載しないでおく。

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 地図に示されたオタモイ地蔵への道は、この山道か、前述のくねくね坂を下りたところから歩いて崖の中腹の隧道を抜けて行くしかない。しかし、この隧道も崖崩れで通行止めである。一度は海岸にある秘境オタモイ地蔵まで行ってみたかったけれど、この秘境本の取材を行っている半年ばかりの間ではそれはかないそうにもない。

 この祠のすぐ傍に、平和地蔵堂というお堂があって、大きな一体の地蔵と大小の地蔵達が並んで置かれてある。戦没者の供養のためらしい。お参りする人がいるらしく、造花の他に生花も飾られている。しかし、団地の坂を上って、崖しかないだろうと予想しているところに、こんな地蔵堂がひっそりとあるのは都市の秘境を感じさせられる。

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 次に地図の左側のお寺を通り越してこれまたオタモイ海岸を見下ろす崖の上に連れて行ってもらう。ここには小樽岬新道観音の文字が刻まれた観音像が二体並んでいる。これらの観音像がどうしてここに安置されているのかは分からない。

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 この場所からはオタモイ海岸が下方に見渡せる。かつて竜宮閣があったと言われる海岸縁の崖の部分に突き出した遊歩道も眺めることができる。地図通りに二つの隧道の出口(入り口)も見える。ここからのオタモイ海岸の眺めも絶景である。でも背の高い雑草や潅木で覆われている周囲の状況から、ここまで来てこの絶景を目にする人はほとんどいないのではなかろうか、と思われた。

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2007年06月12日

秘境テレビ取材の続き

 小樽の秘境のテレビ取材が続いています。今日は星置川の河口の堤防の上に置かれている消波ブロックが取材の対象です。編集後放送されるのは6月21日(木)のHTBのおは天(「おはよう天気」、遠藤商店の名前を変えた後続番組)と聞いています。

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秘境コメンテーター

 テレビ局が小樽の秘境の取材を行っているのにお手伝いです。当方の役どころを何と表現すればよいなかちょっと適切な言葉が出て来ないのですが、コメンテーター(解説者)かな、と思っています。中野植物園では手回しメリーゴーラウンドなどが取材の対象でした。源山の観音さんのところまで取材陣がカメラを担いで登っていくのを下からカメラで記録しました。

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 龍徳寺の日本一大きな木魚では副住職の方が重いバイで木魚を叩いてもらっています。試しにコメンテータもこのバイで叩いてみましたが、腕が疲れました。放送は7月の半ば頃になるそうで、日時が定まればお知らせします。

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2007年06月11日

石狩川改修記念碑と石狩川護岸工事標柱碑

 時に暴れ川となる石狩川の治水は北海道開拓の一大事業であった。イシカラベツ(回流する川)と呼ばれた石狩川は石狩低地帯で蛇行する川で、洪水に対処するための護岸工事が進められた。1910年(明治43年)に本格的に始まる護岸工事では、石狩治水事務所(後に北海道開発局石狩川開発建設部)の初代所長岡崎文吉が活躍した。岡崎が考案した単床ブロックを用いた護岸工事が行われ、その工事標柱が残されている。

 石狩川から切り離されて出来た茨戸川の川下に向かって右岸に工事標柱がある。茨戸川の土手に起点と終点の二基の標柱があるけれど、元の標柱は地面に横に置かれてその上をガラスで覆っている。立っているのは新しい標柱である。土手の狭い砂利道を車でやってくるのは茨戸川で釣りを楽しむ人ぐらいで、ここまでこの標柱を見るのが目的で来る人はほとんどいないだろう。

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 護岸工事だけでは石狩川の治水の根本的な対策にはならない。そこで、蛇行する石狩川をショートカットする捷水路(しょうすいろ)を設け、増水する河水を速く石狩の海へ逃がす方法を採用し、そのための工事が行われた。その結果取り残された川が茨戸川(上流)と真勲別川(下流)となり、本流の石狩川は石狩市生振(おやふる)では直線状の川に生まれ変わっている。この捷水路は石狩低地帯の氾濫を防ぎ、さらに湿地を耕地として生かすことに成功している。

 この石狩川改修記念碑が石狩川の土手を走る道道508号線沿いに建立されてある。石狩河口橋の手前からこの道路に入ってしばらく走ると標識が現れ、駐車場がある。車を降りて見ると、石狩川治水発祥の地碑を中心に、碑が並んでいる。

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 この生振捷水路は2002年土木学会選奨土木遺産に選定されている。それを記念して、遺産選定書もはめ込まれた石碑もある。この碑の他にここで目にするものは直線状に伸びた土手の上の道と緑に覆われた石狩河川敷きだけである。その景観をパノラマ写真に収めてここを後にした(パノラマ写真を拡大してご覧になるには こちら まで)。

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2007年06月10日

アクセス数が1万の大台に乗って

 このブログの途中からアクセス数をカウントしていて、本日(6月10日)1万アクセスの大台に乗ったので、記念にカウントが1万になった画面をコピーしましたのでアップしておきます。最近は日に50以上のアクセスがありますから、1日50アクセスとして200日でこの数字になります。6ヶ月~7ヶ月かかったことになりますか。

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 小樽・石狩の秘境もほぼ100テーマを超えて、そこからよさそうなもの100選の案が固まって来ています。まだ、取材が残っているテーマもあるので、それを終えてから選定したものを発表します。

 明日は某TV局のスタッフと小樽まで取材に行く予定です。放送は金曜日が予定されています。スケジュールが固まったらお知らせします。

小樽港でのケーソン造り

 小樽港の埠頭の縁を走り、国道5号線と合流する道路で平磯岬の南防波堤の付け根辺りを通過する時、海側に大きなクレーンが2基置かれているのを目にする。このクレーンはケーソン(caisson)を造る時に利用するものである。クレーンの下にはケーソン造成時に用いる台座の部分がある。

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 ケーソンとは防波堤を築くときに陸上や港内で造られるコンクリートの大きな箱である。鋼製のケーソンもあり、海を跨ぐ橋の橋脚などのため造られ、明石海峡大橋の主塔の基礎は鋼製である。その高さは65m、直径80mという巨大なものとなる。

 ケーソンは造られた場所から海上を曳航されて、目的地まで運ばれる。目的の場所でコンクリートの箱内には土砂が詰められ、海中に沈められ蓋で閉じられる。このケーソンが並べられ防波堤が造られる。

 最初小樽港の防波堤を造った工法は廣井進博士が採用したブロック工法で、ブロックを海中に斜めに積んで行く方法である。これは当時セイロン港を造る時に採用された方式で、イギリスからブロックを積んで行く機械タイタン号を持ち込んで防波堤を造って行った。その機械の説明と動く模型を、クレーンのある場所の隣にある「みなと資料館」の中で見ることができる。

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 廣井のブロック工法に対して、廣井の門下生にあたる伊藤長右衛門がケーソン工法を採用している。ケーソン工法はブロック工法に比べて単純で、ブロックをつなぎ止める必要もなく、手の込んだ技法を用いなくてもよい点優れている。しかし、大きなコンクリートの箱を造り、完成後に海に浮かべなければならない。伊藤は船の進水と同様に台座の上でコンクリートの箱を造り、これを傾け、石鹸で滑り易くした斜路にして海に進水させる方法を考えた。平らな台座で造られたケーソンをどうして傾けるかというと、台座を下で砂袋で支えておき、ケーソンが完成された時点で砂袋の砂を抜き取り、ケーソンを傾かせる。

 小樽港の防波堤は北方防波堤と南防波堤の一部がブロック工法、南防波堤の残り部分と島防波堤はケーソン工法で造られている。現在ほとんどの防波堤はケーソン工法で造られている。陸地でケーソンを作るのが難しい場合、浮き舟を利用して海上でケーソン造りが行われる。こうするとケーソンを進水させる必要もなくなる。小樽港に現役として残っている斜路を用いたケーソン造りの施設は全国でもここだけだろうと、たまたま居合わせた関係者から聞いた。

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 ケーソンは常時造られている訳ではないので、現時点ではケーソンを造る台座の部分とクレーンが、使われなくなった施設のように見える。しかし、これらの施設は現役である。資料館のパネルに写真が出ている、出来上がったケーソンの進水を一度見てみたいものだと思ったけれど、ケーソンを造る作業が行われていない現時点では、何年先のことになるか分からない。

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2007年06月09日

小樽の姉妹都市からの植物

 小樽の姉妹都市は同じ港町ということでロシアのナホトカ市とニュージーランドのダニーデン市であり、それぞれ1966年(昭和41年)と1980年(昭和55年)に提携を行っている。2006年にはナホトカ市と姉妹都市40周年となり、市役所の庭に40周年記念植樹のつつじが植えてあった。ダニーデン市とは20周年記念として同様につつじが植えてあった。この両市から贈られた植物が手宮緑化植物園に生きている。

 この緑化植物園は手宮公園に隣接していて、1982年に開園している。高台にある傾斜地を利用して植物園が造られていて、小樽港が一望にでき、花や木を観賞出来るのに加え、ここからの眺望もすこぶる良い。小樽の放送の中継アンテナ群はこの公園のすぐ下の方に林立している。6月、植物園を訪れた日は天気もよかったのでパノラマ写真を撮る(パノラマ写真を拡大してご覧になるには こちら まで)。

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 この植物園の散策路に文字がすっかり読めなくなっているプレートが置かれている。紙を当ててなぞってみると、1981の年号が現れてくる。どうもナホトカ市から贈られた木を植樹した記念のプレートらしい。植物園の職員もこのプレートに書かれている内容は知らないとのことである。ただ、このプレートの近くにあったシベリアの松、白樺、菩提樹はナホトカ市から贈られ、ここで根着いたものであると説明してくれた。

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 園内には緑の相談所という建屋があり、管理棟、集会場、展示場、温室などが合わさっている。この温室の中に和名でニュウサイラン(新西蘭)あるいはニュージーランドアサ(麻)を目にすることが出来る。1983年あるいは84年頃ダニーデン市から贈られたそうで、20年以上も生きていることになる。

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 この植物はニュージーランドとオーストラリアのノーフォーク島が原産地で、夏に花茎を伸ばして橙色の花を咲かせるそうである。ニュージーランドではこの麻から繊維を取り出して、綱、帆布、敷物、紙の原料にすると説明文に書かれている。わが国には明治時代の初めに渡来したというから、それほど珍しい植物であるという訳でもなさそうだ。

 しかし、ニュージーランドから小樽の地にやって来て、20年以上も経ったこの植物の由来を聞くと、変哲のない植物に秘境の匂いを感じ取ることができる。

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2007年06月08日

読みの難しい地名ー続き

 石狩には読みの難しい地名が多くあります。国道231号線沿いに見つけた難しい地名の写真を掲載しておきます。濃昼(ごきびる)は「こいひる」を濁音を入れて訛らせるとこの発音になりますか。毘砂別(びしゃべつ)は「びさべつ」の音を少し訛らせる。しかし、安瀬(やそすけ)は漢字の当てはめ方が分からない。送毛(おくりげ)、は覚えてしまえば難しくはないか。発足(はったり)は最初は「はっそく」と発音していました。銭函にある豊足神社も「とよたり」と呼ばれているから「タリ」はアイヌ語の何かなのでしょう。アイヌ語は詳しくないので。

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2007年06月07日

奥沢ダムのカモメ

 勝納川を土でせき止めたアースダムである奥沢ダムは、水道水の貯水池として利用されている。土でダム堤を造っていて、年月が経つと漏水が目立つようになる。そこで、このダムは最初の堤の下方にさらに堤を補強している。それでも漏水はあり、漏水が勝納川に流れ込んでいる部分を見ることができる。

 このダム堤に一般の人が自由に入れるのは6月の第1週目の水道週間の期間で、2007年は6月3日(日)~6月9日(土)となる。ここを訪れた時は水道週間の前の週で、小樽市水道局の計らいでダムサイトまで行って見ることができた。ここは景観を楽しむ適地である。しかし、この時は鳥と蛇に注意が行った。

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 ダムへの入口でも、ダムサイトでも写真のマムシに注意の看板が否でも目に入って来た。マムシが多いらしい。案内してくれた市の浄水センターの所長さんも、まず蛇に注意と言って先に行って蛇がいないかどうかチェックしていたから、この看板は単なる脅しではないことが分かる。 
 
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 貯水池の中に取水塔があり、塔まで橋が架かっている。この橋の袂に大正三年(1914年)三月の日付と製作した中野鉄工所の名前の入ったプレートが貼り付けられていて、今から九十数年前に造られた施設であることがわかる。この貯水池や取水施設は中島鋭治によって設計されたということであるけれど、専門外のことなるので初めて聞く名前である。

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 取水塔までの橋を渡っていて気がついたのは、橋の上に針金が上を向いて設置されている。聞いてみると「防鳥針」との答えが返ってくる。鳥が止まって糞を橋に落とさないようにする目的で設置されている。確かに、通路や橋には鳥の糞はなかった。

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ここで鳥というのはカモメである。カモメが港に居ても不思議はないけれど、山間の貯水池に海鳥のカモメが居るのはちょっと奇異な感じがする。餌が無ければ鳥は来ないだろうから、カモメが居るからにはここには魚も居るに違いない。どんな魚がいるのかは聞きそびれてしまった。

 最近は札幌の公園でさえもカモメを見ることがある。札幌の場合、都市から出る残飯等を餌にしているのかも知れない。ただ、鳥も周囲の景観で期待されるものであるとよいのだが、そうでないと蛇に出くわすほどではないにしても、びっくりする。    

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2007年06月06日

はまます郷土資料館

 札幌から国道231号線で北上し、浜益の港を過ぎて国道が海から山へカーブして行く辺りで、地図にも示されたように海への細い別れ道があって、ここに郷土資料館の立看板が目に入る。看板のところから海岸沿いの道が延びているだけで、道の入口からは資料館の建物は見えない。後で知ることになるのだけれど、この資料館は鰊番屋を修復したものなので、建物は波打ち際にある。

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 ともかく細い道を400mばかり進むと資料館が姿を現した。資料館になっている番屋は、かつてはハママシケ(今の浜益)で繁栄を誇った白鳥家のものであった。この番屋は1899年(明治32年)に魚場を拡大して行った白鳥浅吉が建てたものである。その後 鰊漁の衰退で番屋の役目も終わり、廃屋同然であったものを資料館にしたものである。

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 六月の上旬の日曜日では来館者もほとんどなく、この日は著者らが訪れた二組目ということで、この日の入館者は二組か三組ぐらいで終わったのではなかろうか。料金を支払う場所は原則秘境から除いてはいるけれど、ここは秘境の資料館である。

 内部は土間が仕切りとなって、親方や使用人の住むところ、漁師らの住む漁夫溜に分かれた構造となっている。資料館なので当時使用した漁具を始め、諸々の生活用品が展示されている。詰めていた案内役の人の説明で、一番の見ものはアメリカ製のカレンダー時計で、一日の時刻のみならず、曜日、月までが表示可能なものである。百三十六歳になるこの時計は、今でも時を刻みつけている。

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 濃昼(ごきびる)にあった番屋の写真なども展示されている。濃昼の地名は他所から訪れた人はまずは読めないので、写真の説明に読みのカタカナが併記されている。北海道の海岸沿いにあったこれら多くの番屋は放置され朽ち果て、資料館や移築され展示館等になったものはほんの一部である。 

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 この番屋の前には浜益の海が広がり、愛冠(あいかっぷ)の岬を望むことができる。かつてこ鰊の群来(くき)でこの浜の海が白く濁った情景を想像しようとするけれど、テトラポットで護岸された現在の海岸を見ては、想像も広がらない。

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2007年06月05日

石狩浜海浜植物保護センター

 砂浜の花はハマナス、ハマエンドウ、ハマボウフウぐらいしか思い浮かばず、その程度の花ぐらいしか見ることができないだろうと漠然と思っていた。海浜植物保護センターとは名前が大袈裟な施設と思いつつ訪ねてみた。場所は石狩の海水浴場近くで、シーズンには海水浴客の自動車で埋め尽くされるパーキング場に面している。入館料無料である。

 センターは展示スペースのある1階部と展望室のある塔部分が組み合わさった建屋になっている。展望室から見ると、近くの駐車場、その向こうに広がる石狩浜、さらに石狩湾と眺望が開ける。展望室はちょっとした秘境空間である。

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 シーズンオフの日曜日で、館内は誰も居ない。壁や衝立に石狩浜の植物のパネル展示がある。この展示やパンフレットに目を通すと、海浜の植生が多様なものであることが分かる。ハマナスやハマボウフウばかりではないのである。砂地でよくこんなに多種類の花が咲いているものであると感心する。

 イソスミレは早春の浜で一番先に開花して、ここ石狩の浜が日本海側北限の自生地であるとの知識を得ると、実際にイソスミレを見て、こんなところにスミレの花がある、といった以上の興味が湧く。知識は興味を増強させる。このセンターの大きな役目の一つは、海浜直物の知識を得る場を提供することで、一般市民の海浜植物の興味を促進することにあるようだ。

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館につなげて、散歩道に沿って海浜植物を並べた館外植物園があり、石狩の浜で見ることができる植物が並んでいる。訪れた6月の上旬はハマエンドウの花が盛りで、赤紫、青紫を塗り合わせたような色の花をカメラに収めた。イソスミレの小さな株も目についた。ハマナスは葉ばかりで、花は未だ見ることができなかった。

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 保護センターの文字通りの役目として、海浜植物の環境保護や植生地の拡大の活動も写真等で知ることができる。バギー車やオートバイで砂浜を荒らし回る行為は困ったものである。不法投棄の問題もある。国内の問題ばかりではなく、海外のゴミが波に乗って石狩の浜まで漂着する。砂浜で海浜の花を観賞する隣合わせで、環境を破壊している問題点がこのセンターのパネル展示で認識させられる。 

2007年06月04日

ハママシケ陣屋跡と川下八幡神社

 現在は石狩市と合併したかつての浜益村にハママシケ陣屋跡があるのをインターネットで見つけて見に行くことにする。国道231号線を浜益に向かって走り、安瀬(やそすけ)と、最初はまずは正しく読めない地名の標識の写真を撮り、長い太島内トンネルを通過して濃昼(ごきびる)と、これも難読の地名のところを通過する。さらにこれまた長い送毛(おくりげ)トンネルを抜けて浜益の町に入る。

 史跡の標識ぐらいはあるだろうとたかをくくり、浜益の海水浴場を横目にみながらさらに北上する。郡別を越え幌の村落あたりで脇道に入り、地元の人に陣屋跡の場所を聞いてみる。案の定通り越してしまっている。戻る途中で「はまます郷土資料館」に寄った時に行き方を聞いてもらった手書きの地図を頼りに、途中標識のひとつもないこの史跡に辿り着いた。

 この史跡は川下八幡神社の横にある。この神社は陣屋の鎮護の役目を担って建立されたものである。初代と思われる狛犬は形が崩れかかっていて、地面に置かれている。その代わり新しい狛犬が、年季の入った台の上に鎮座していた。

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 この神社の横を通って陣屋の大手門跡に近づいてみる。大手門脇にこの史跡の説明の看板がある。1859年(安政6年)幕府は奥州六藩に蝦夷地を分け与え、その警備を命じている。ハママシケ(浜益)の地は荘内藩の拝領地となり、奉行所、寺、神社、長屋等が設けられている。この陣屋建設と警備のため荘内藩は莫大な金を注ぎ込んでいる。しかし、戊辰戦争で荘内藩による警備の役目は終わり、陣屋は引き上げられ、わずかに復元された大手門が残されているだけとなった。

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 大手門をくぐってみても何もなく、「足軽」の文字だけが見える標柱が目についただけである。これだけなら史跡の標識が国道沿いに無いのもうなずける。ただし、この史跡は1988年に国指定になっていて、史跡としては重要なものと認定されている。唯一史跡を説明する説明の看板の文字は薄れかかっていて、これも新しくするような予定もないようだ。ただ、浜益村から石狩市に変わったので、この説明看板の石狩市教育委員会の文字だけが新しくはっきりと書き直されていた。そこだけを書き直すのなら、説明板全体を新しくしてもさほどの経費はかからないと思うけれど、何か事情があるのかな、と思ってみる。

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 写真に撮る対象もないので、少し高いところにある陣屋跡から見下ろした川下地区の水田と、遠くに見える山が海岸に落ち込んでいる景観をパノラマ写真に収めた(パノラマ写真を拡大してご覧になるには こちら まで)。   

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2007年06月03日

勝納川の水すだれ

 奥沢ダムは水道水の貯水池であり、ここから一定量の水を浄水場に太い管で送っている。しかし、水かさが増しアースダムが決壊する心配を取り除くため、樋門を設けダムへの水を放水路に流すことと、貯水池から余水吐けを設けてこれらの水が勝納川に流れるように工夫が施されている。この余水吐けの部分に水路の階段が設けられている。

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 この水路の階段は水すだれを演出している。11段の階段は石組みで、河床が水流で不均等に削られるのを防ぐために亀張りと呼ばれる石畳を川の中に造って、水流が全川幅に亘って均等に流れるようにしてある。夏にこの水すだれを眺めると、両岸の緑ともあいまって涼感が得られる。銀行のロビーで小樽・石狩秘境写真展が行われているニュースがテレビ放送で流れた時、スポンサー企業がコマーシャルのバックにこの水すだれの映像を使っていた。

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 石の階段は石を置くだけでは水の力でずれて来るので、流れに対する上下の石を鉛でつなぎ合わせている。鉛の蝶番のようなものである。これは上からも観察でき、鉛は経年変化で白くなっているので、写真に撮ってもはっきり写る。この水すだれの仕掛けは1914年に造られているというから、よくぞ長い年月持ち堪えているものである。

 水すだれを効果的に見せるために、他にも工夫が凝らされている。それは階段の部分に石を並べるとき、縦に長いものと短いものを交互に組合わせている。そうすることで水すだれに変化が生じるようにしている。

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 余水吐けからの水はあくまでも余水である。水道の水は鉄管を通して浄水場に運ばれる。その鉄製の水管を見せてもらったが、これも1914年当時のものがそのまま使われているそうで、外側は錆びで赤くなった鉄管である。

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 勝納川の上に架けられた橋の下にこの鉄水管を通しており、外側は新しいペンキが塗られている。外見だけではペンキの効果で新しい施設のように見えるけれど、その中を九十数年前の鉄水管が通っていると思えば歴史の重みを感じる。

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2007年06月02日

小樽秘境写真展STVテレビ放送

 6月2日の9:25~小樽秘境写真展がSTVでテレビ放送されました。放送画面をデジカメで撮影してブログに掲載する練習も兼ねて、載せてみます。






都市と天狗

 小樽の天狗山で考えた。言うまでもないけれど都市は人間の住むところ、天狗の出没するところは本来の秘境である。ならば都市に天狗が関係してくる場所があれば、これは都市の秘境とも言えそうである。

 天狗山には鼻なで天狗とか天狗のコレクションを見せる天狗の館などがある。これは天狗の名前が最初にあって、この名前に因んで観光客に楽しんでもらおうと後で付け足したものである。因みに天狗の館は天狗の面を主体にして700点を超す天狗のコレクションが展示されていている。ただ、観光ということに加えて山の上あることも手伝って、都市と天狗の重なり部分を考えて、意味のあるものを見つけ出す努力が実る場所でもなさそうだ。

 小樽に観光名所天狗山があるなら、市内に天狗に関する場所や対象があるかと探してみるとこれが無い。小樽は観光と日常の生活が分離している印象が、都市と天狗のテーマの考察でも顔を出す。観光地とはそういうものなのかも知れない。

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 都市と天狗のテーマは都市の秘境にうまく重なるので、その例を見つけたくなった。その例が札幌にあった。このような素材を拾い出すことができる多様性がある点が札幌の幅の広さを表しているようである。

 石狩湾に向かって真っ直ぐ伸びる新川を、新琴似第5横線と名前のついた道路が跨ぐところに天狗橋がある。橋のたもとに天狗の浮き彫りがあり、橋の歩道の柵部分には天狗をあしらった飾りがある。ここからは直線状の新川を見通すことができる。

 この橋が天狗橋と名付けられた由来を記した石碑があってそれを読むと、1909年(明治42年)新琴似に発寒特別教授所、つまりは小学校が設けられ、新川を挟んで対岸の発寒からも生徒が通うになった。その通学橋であることが橋の役目の一つであって、1912年頃に橋を新しくすることになった。その時の棟梁が鼻が高く、天狗のあだ名があったことから、天狗橋の名前が生まれたとの説が書かれている。生活に密着した天狗伝説であって、都市の秘境と重なる。

 小樽の天狗山の名前の起源説の一つに、鼻の高い外人がこの山に登ったのを地元の人が見たため、というのがある。天狗も元を辿れば人が介在していている。都市における賑わいも秘境も、人間の営為の結果の異なる側面が現れてきたものといえる。

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2007年06月01日

小樽の水造り

 今回の都市秘境探検で、飲み水が造られものであることの認識を新たにした。勝納川の上流にある奥沢貯水池の近くに、この貯水池からの水を水道水に変えるための奥沢浄水場がある。ここで飲み水が造られているのである。その造り方が、美味しい小樽の水道水を生み出している。

 水道水は川の水を貯め、これから異物、雑菌、臭い等を取り除いて行く浄水工程を経て造られる。この浄水工程には、砂を使った緩速ろ過と、ろ過剤等を使う急速ろ過があることを知った。奥沢浄水場では前者の緩速ろ過方式を採用していて、プールの底に砂(山砂)を敷いて、ここを1日4~5mmの速度で水を浸み込ませながら厚さ8cmの砂の層を通過させ、このろ過水を集めて殺菌して水道水となる。

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 当然砂には異物その他が取り残されるので、定期的に砂の入れ換えが必要となる。浄水場を見学したとき丁度この砂の入れ換え作業をしているところであった。ベルトコンベアーで、今までの下の部分にあった砂を上に移す作業が人手で行われていた。どうして今まで底にあった半分の砂を上にするかというと、この部分の砂には水を浄化するバクテリアが残っているので、新しく入れる砂の上に乗せ、バクテリアを生かして使うためだそうである。

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 この浄水場は1914年(大正3年)に造られているので、もう九十数年もこの人手のかかる方式を続けて来たことになる。驚くことは、この歳月が経ってもプールの石組みからの漏水がほとんどないことで、水の蓄えられているプールと砂換え作業の行われている水抜きプールの境目の石壁からは水が少し浸み出している程度である。

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 貯水プールは4つあり、それぞれ年三回砂の入れ換えを行う。水の蓄えられているプールの方には金網籠内に金魚が飼われていて、水質モニターの役目をしている。このように緩速ろ過方式ではろ過のため広い場所が必要で、浄水場を広くとれない都市では一般に急速ろ過方式が採用されている。

 この手間暇はかかるけれど、自然の浄化力に頼る緩速ろ過方式が、美味しい水道水という評判を取っている飲み水造り出している。美味しい水に自信を持っている同市の水道局では、ペットボトル詰めの水道水も売り出している。水道水とは蛇口を捻って得るものだとの固定観念があったけれど、ミネラルウォータ並みにペットボトル入りでコンビニ等でも売られる時代になったのである。

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