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2008年12月16日

テレビ取材

 HTB(北海道テレビ放送)の朝の番組に「オハ天やじうまプラス」があって、12月19日(金)の朝6:10頃から「江別・北広島秘境100選」に取り上げている秘境数ヶ所の放送が予定されている。今週に入ってから現地取材に付き合っていて、放送前なので、場所が特定されない程度に、取材の現場の写真を載せておく。これらの写真から、場所がどこであるか当てることが出来る方がおられれば、それは前記の都市秘境本を読まれている方である。

 ちょっと芸術的な写真になった場所である。

満月を 擬す陽(ひ)のありて 灯(ひ)の公園

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 こんな観音像が置かれてある場所である。

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 テレビ取材ということで(急に取材対象を依頼して)、巨石をショベルカーで動かしてもらったのには驚いた。お盆の時に、別のテレビ会社が、都市秘境の対象として取材を行ったところである。

取材には 重機も出番 化石列

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2008年08月14日

達磨寺

 HBCのHanaテレビの都市秘境探訪の取材協力で、北広島市にある達磨寺に行きました。丁度盆祭りの当日で、ステージが出来て、カラオケ競技が行われていました。久しぶりに田舎の祭りという雰囲気を味わいました。

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 写真では子供達が本堂に座って何かをしていますが、何をしているかを知りたい方は8月18日(月)午後4:00~のHanaテレビで放送予定(オリンピック放送で翌週になるかもしれません)ですので、ご覧ください。

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2008年07月22日

都市の境界

 都市秘境シリーズ本の出版の嚆矢である「札幌秘境100選」に「札幌、江別、北広島市境界点」のテーマがあった。この点に立つと三市を瞬間的に移動できるという触れ込みでテレビ放送もされ、予想した以上に世間受けした。

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 二冊目の「小樽・石狩秘境100選」では「入り組んだ石狩-札幌市境界」を取り上げた。旧発寒川に沿って両市の境界が定められ、河川の改修により川の方が真っ直ぐになっても都市の境界は昔のままで、川の両岸に入り組んで奇妙な光景が見られる点を素材にして書いてみた。

 同様な視点から今回も都市の接点とか旧河川に沿った市境界について面白そうなところがないかまず地図の上で探してみた。石狩川の捷水路工事で、旧河川に沿った市の境界が川の両岸に入り組んで残っている場所がある。そこに江別市、当別町、札幌市の境界点もある。では二市一町の境界を示す特別なものでもあるのかと行ってみる。

 境界点は江別市の環境クリーンセンターの近くの石狩川の土手道の近くにある。しかし、土手道から石狩川までの河川敷には草地や林があるだけで、これといった変わったものはない。石狩川に沿った土手道を歩くと、江別市からいつのまにか当別町に入り、地図上では河川敷の一部は札幌市でもある。土手道からみた標識には一方が江別河川事務所、片方が札幌河川事務所と併記されていたので、この辺の事情を反映しているのだろう。

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 土手道に木の杭があって、当別川左岸基点の文字があり、当別町に入っていることになる。その標識にSPの文字が見え、これがSapporoの記号のようにも見るのだが、本当は何の記号なのかはわからない。

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 山林や河川敷の都市の境界に何か見るべきものを期待しても得られるものがないのは、考えてみると当然かもしれない。都市の境界は人の通るところや車の往来するところに印がある。特殊な道路として自転車道路があって、ここには札幌市と北広島市の境界の印が両面にそれぞれカントリーサイン入りで描かれていた。看板の両面を利用するのは経費節約の上からもよいことである。

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 マンホールの蓋には設置した都市のマーク(模様)が刻み込まれている。道路が二つの都市を横切っていると、近くに並んだマンホールの蓋が別々の都市のマークとなっていて、その間に都市の境界があることが分かる。例えば、厚別東通が北広島市虹ヶ丘から札幌市もみじ台に抜ける場所の歩道のマンホールは北広島市のものであることが分かり、そこから10メートルぐらいのところにあるマンホールの蓋には札幌市のマークがあり、車からは札幌のカントリーサインを行き先地名と一緒に見ることができる。

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2008年07月10日

北広島市観光農園-イチゴ摘み

 農産物に付加価値をつけて売る方法として、生産者と消費者が直接結びつくやり方がある。契約方式で、生産者が、契約した特定の消費者の注文に応じて農産物を売る方式などがある。不特定の消費者に対しても、農家の直売店の店先まで買いに来た客に売る方式もある。最近言葉が目立つ観光農園といわれているのがこれである。

 北広島市は大消費都市札幌に隣接して、平地が多く農地が広がり、道路も整備されていることなどから、自家用車や大型バスでやってくる客を相手の観光農園が多くある。特に、夏のイチゴ摘みの観光農園は北広島市の農業の特色になっている。

 それらの観光農園を二、三訪れてみた。道道江別恵庭線沿いに広いイチゴ摘み畑が点在している。幹線道路からすぐにイチゴ畑に入れるところもあり、また脇道に入ったところにある農園もある。インターネットでおおよその場所を頭にいれて道路を走っていると、6月中旬から7月中旬のシーズンではイチゴ摘みの旗が並んでいる。周囲には高い建物もないのでイチゴ畑はドライブしていても目に入ってくる。

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 週末が稼ぎ時のようで、家族連れが多く、イチゴ畑でイチゴ摘みに余念がない。広い畑にはイチゴが栽培されている畝が幾筋も真っ直ぐに伸びていて、客がカゴをもって畝に沿って歩きながらイチゴ摘みをしている。この広がりのある農園風景は北海道を代表するものである。大都会から車で30分も走れば、この景観に出会い、イチゴ摘みが楽しめ、大都会と田園がこれほど接近している点を再認識させられる。

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 イチゴは緑の葉に覆われていて、赤い実は葉の影に隠れている。イチゴ畑は緑一色といったところで、遠目には色の変化に乏しい。観光農園と銘打つからには、景観に彩りを加える工夫も必要だろう。イチゴ畑の周囲に花の鉢を置いているところもあり、イチゴ摘みと二重に楽しめる工夫の走りだろう。

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 しかし、この取材をしている時、ガソリンのがまた大幅に値上げで、その他の生活必需品の値上げもあって、車を使って毎日の食卓に必ずしも必要という訳でもないイチゴを摘みにゆくことにはブレーキがかかりそうで、観光農園には逆風が吹き始めているのかもしれない。

2008年07月09日

北広島河川防災ステーション

 千歳川は北広島市と長沼町の境になっていて、国道274号線が千歳川を横切るところにこのステーションがある。昨年(2007年)の4月に落成式を行った新しい施設で、北海道開発局、つまり国がオーナーで、北広島市が施設の運営のお手伝いをしている仕組みらしい。この施設見学が目的で立ち寄った訳ではなく、迷い込んだ感じで建物に足を踏み入れた。

 新しく出来た施設だけあって立派な建物で、一階には事務室と展示ロビー、研修室、防災時に利用する用具の倉庫などがあり、ロビーには千歳川の監視カメラからの映像がオンラインで映し出されているモニターテレビが架かっている。その他千歳川の洪水に関する写真パネル等と防災関連グッズなどが展示ケースがある。

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 二階にも展示室と休息コーナーがあり、千歳川に面してテラスもある。テラスから千歳川、274号線の通る千歳川橋、船着場、対岸の長沼町の田園地帯を眺めることができ、パノラマ写真を撮ってみる。この辺りの風景は夏の北海道の景観で、自由に入館できるこの施設は、274号線を利用する車のドライブインとして利用されてもよく、今のところ利用客が見当たらないこの無料休息テラスは、秘境のテラスである。

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 千歳川が流れるこの辺りは低地で、多くの川が流入している。防災ステーションの横には輪厚(わっつ)川の河口がある。さらに上流には島松川、漁川等が千歳川に合流する。石狩川に流れ込む千歳川が、増水時には石狩川より水位が低くなるので、千歳川の河水を太平洋側に流す千歳川方水路計画は、千歳川が低地を流れる川であることに起因している。この開発局の河川改造構想は環境保護等の問題点をクリアできずに頓挫した。

 建物は立派でも、利用されることの少ない施設と見受けられた。屋内には事務室に一人、掃除をしている人が一人居て、シルバー人材センターから派遣されて来ていて、ボランティアに近い状態で仕事を引き受けているそうである。河川防災ステーションの性格から、このステーションの出番は災害時で、普段は人が来なくても差し障りはないことになる。しかし、この立派な施設が普段は使われない客無しの施設にしておくのはもったいない気がする。

2008年06月10日

逆禁止マークハンティングーその1

 「逆禁止マーク」には説明が必要である。街頭や道路、公共施設で禁止マークを見かける。このマークはNO(禁止)の文字を合体させたデザインであるといわれている。すると○印に斜め線が加わるようになる。この禁止マークの円(文字0)の中の斜線が文字Nを表しているとすれば左上から右下となる。しかし、その逆がたまに目につくことがある。

 札幌市内で見かけた例では、ポイ捨て禁止のステッカーにはNOの文字があって、禁止マークは写真にあるものとなっている。インターネットでポイ捨て条例のサイトを見てみると、こちらは通常の禁止マークが描かれている。このように通常の禁止マークの斜め線が“逆”向きになっているものを「逆禁止マーク」と呼ぶことにして、江別市、北広島市で目に留まったものを並べてみる。ただし、このマークがいつまでも残っている訳でもなく、本書にあるので見に行ってもないかも知れない点を断っておく。

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 北広島市の西の里地区にレクレーションの森がある。名称が長いので「レクの森」の省略名が用いられている。野幌原始林の一部を市民のための公園にしている。ここのごみ持ち帰りの看板に逆禁止マークをみつけた。

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2008年05月05日

エルフィンを探して

 北広島市が市のシンボルの一つとしてエルフィン(妖精)を採用した経緯はよく分らない。緑豊かな市のイメージとして森の妖精に出番が回って来た、といったところらしい。このイメージ・キャラクター(といった用語があるかどうかは分らないけれど)は、森や林の中を抜けて自然と親しめる環境を生かした、北広島市と札幌市をつなぐサイクリングロードの愛称「エルフィンロード」の名前に採用されている。

 この自転車道を中心にエルフィンの姿を探してみることにする。線路と並行に走る自転車道が北広島駅に近づくと、街路灯の飾りにエルフィンが顔を出す。丁度桜の季節で、透かしの妖精の体の向こうに桜の花が見え、ここで春にはエルフィンは桜の精のようである。

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 道路に目を転じると、マンホールの蓋にエルフィンが居る。エルフィンには羽が4枚あるようで、羽の枚数では蝶やトンボと同じである。マンホールの遠方に写っているのはJR北広島駅で、線路を跨ぐ建物のガラスの天蓋のある建物である。

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 この建物は「エルフィンパーク」の名前がついている。大きなガラスの天蓋の下の広場になっている。自転車道に続く斜道で自転車を押してこの広場に入り、線路の反対側に抜けることができる。名前の通りエルフィンの姿がところどころにあるのだけれど、あまり目立たない。

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 ただ、エルフィンパークへの斜道に部分には注意して見ると色々なエルフィンがいる。代表的なエルフィンの身体は女性のものを借りている。これに対して、子供姿の天使の身体を思わせるエルフィンも見かける。

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 JR北広島駅の玄関が面した広場部分にはエルフィンの姿のある時計塔があり、その先に市立図書館の建物が見える。舗道部分にも変形マンホールの蓋にもエルフィンが飛んでいる。この辺り一帯はエルフィンの棲家のようでもある。

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2008年05月02日

エルフィンロード

 千歳線の跡地を利用した「札幌北広島自転車道」は1997年から整備が進められて、2004年には札幌の白石区からJR北広島駅まで一本のサイクリングロードとしてつながった。札幌側は最初「白石サイクリングロード」、2008年には「陽だまりロード」と命名され、広島側は「エルフィンロード」と名づけられている。

 現在のJR千歳線と並行して走るこの自転車道は、札幌市白石区、厚別区、北広島市の緑豊かな緑地と森林地帯を貫く21kmの距離があり、エルフィンロードの部分だけでは8kmとなる。この自転車道は大都会の中で自然と親しみながらサイクリングを楽しめる環境を提供してくれていて、大方の市民にとっては都会の秘境になっているのはもったいない。

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 この自転車道はひたすら自転車を走らせるか、人によっては自らの足でランニングをするか、さらに軽い運動なら散策するのが目的の道である。この本来の目的から外れる施設は、この自転車道にはほとんど無く、自転車道が伸びているだけである。ただ、エルフィンロードの中間あたりに「自転車の駅」と呼ばれる、休息所と貸し自転車のサービスを行うところがある。

 しかし、自転車を借りるためにこの場所までどうやって来るのかの疑問が残る。歩いて来ては貸し自転車を使うまでもない。駅から離れたところにパーキング場とおぼしきところがあって、自動車が止まっていたから、自転車道とは別の自動車道でここまで来られるようなのだが、地図で調べてもよく分らなかった。

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 エルフィンロードの途中には「学習の森」や「水辺の広場」といった場所が設定されていて、自転車を降りて散策できるようになっている。散策路を分け入ると春なら水芭蕉をみることができる。コブシや山桜もところどころに咲いている。近づくことはできないけれど、養鯉場のプールなども自転車道から見下ろすことができる。

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 出発点、あるいは到着点となるJR北広島駅には「エルフィン・パーク」があって、大きな天蓋のある施設内に自転車を入れることができる。北広島市が自転車活用やサイクリングに力を入れているのを示す建物でもある。

2007年11月19日

大曲の百年橋

 この橋の名前は北海道に開拓使が置かれてから百年であることに由来している。橋は1971年9月に完成している。ここで北海道に開拓使が置かれたのは、1869年(明治2年)から1882年(明治15年)で、1870年から1871年の足掛け2年間は北海道開拓使と呼ばれている。これはこの2年間に樺太開拓使が置かれたため、新設樺太開拓使との関係で、元々北海道開拓の任に当たる役所であった開拓使を北海道開拓使の名前に変更したのだろう。

 この2年間が過ぎると、名前は元の開拓使に戻っている。北海道の開拓が進まないのに、さらに開拓条件の厳しい樺太まで手が回らず、樺太の開拓は頓挫したためである。もっとも、1875年(明治8年)の樺太・千島交換条件で、日本は樺太を手放している。北海道開拓使の廃止後は北海道には札幌県、函館県、根室県が設立された。開拓使の建物が復元されたものが野幌の北海道開拓の村にある。

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 橋の方は道道大曲中央通が高速道路の道央自動車道を跨ぐ部分にある。橋は古そうであるけれど、どうも高速道路が拡張されるのに合わせて造り直されて部分もあるらしく、古い部分と新しい部分が重なっているようである。「ひゃくねんはし」と「北海道縦貫自動車道」の二つの名盤が橋に埋め込まれていて、この橋の生い立ちを表している。

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 この橋の下を通る北海道縦貫自動車道は1971年12月に北広島と千歳間で暫定2車線で開通している。これは翌年の札幌オリンピック冬季大会に間に合わせて工事が進められたためらしい。この道路は現在は片側3車線の道央自動車道となって、ここを通過して西は札幌を通り小樽まで、北は士別剣淵、南は八雲までつながり、東は一部途切れて道東の足寄、本別まで延びている。

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 橋自体に見るべきものはない。精々橋の下の高速道路を、ひっきりなしに往来する自動車の流れに目が行くぐらいである。橋につながる歩道を歩いてみると、道端に「セピア館」の看板が出ている古物を扱っている店が目についた。百年橋はセピア色にはなってはいなかったけれど、この橋の完成の頃を写した写真があれば、それはセピア色になっているのではなかろうか、と思えた。

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2007年10月30日

像名の無い金次郎像

 北広島市の西部小学校の校庭に金次郎像があるというので見に行くことにする。地図には輪厚(わっつ)地区の国道36号線沿いに小学校が記されていて、その辺りを車でうろうろするのだが、学校が無い。国道沿いのコンビニに寄って聞いてみる。国道を挟んで、コンビニの反対側が地図にある西部小学校であった。小学校は移転していたのである。

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 新しい小学校の所在地を聞いて広島輪厚通に面した学校の正面まで行くと、校舎に向かって置かれた金次郎像があった。近寄ってみると、金次郎像を載せている軟石でできた台の部分にかつてあったと思われる「二宮尊徳像」あるいは「二宮金次郎像」あるいは「・・・」の像名の部分が削られている。

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 金次郎像の方は1937年の12月に序幕式が行われたとインターネットでみつけたので、古い物のはずなのに、像は光っていて古びた感じがしない。色からして陶製にも見える。しかし、陶器なら壊れもせず70年近くも持つのが信じられない。中はコンクリートで、表面に塗料を吹き付けているのかな、とも考えてみるけれどこの方面の知識がないので分からない。

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 この小学校の先生に尋ねたら少しは分かるかと、職員室に顔を出して、居合わせた先生に聞いてみる。この金次郎像は先生たちにも気にかけられない存在のようで、像の材料が何であるか全く知らないとのことである。像名の部分が無いのも、移転前からそうなっていて、そのまま移しただけということで、これについても何の情報を得られなかった。

 話はそれるけれど、最近の新しい学校はセキュリティがしっかりとしているようで、帰ろうとドアを押して外に出ようとするのに出られない。先生が背後に居て、下校時の生徒にドアを開けてあげなさいと指示して、生徒がドアを開くボタンを押してドアを開けてくれる。はて、入る時はどうしては入れたのだろうかと、疑問が頭をかすめた。

 この最新技術を利用した西部小学校の新校舎は2005年の12月に落成している。坂を利用して建てられていて、広島輪厚通の正面からみると1階建てのこじんまりした校舎と思っていると、坂を下ったところにあるグラウンド側からみると大きな洒落た校舎であったのが印象に残った。

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2007年10月22日

ひな女地蔵

 筆者がオフィスを構えている札幌市エレクトロニクスセンターには床屋がある。散髪中に札幌秘境が話題になり、理髪師の自宅の近くに幼子を弔った地蔵がある話をしてくれた。明治の年号が刻まれている古いものだそうである。地蔵のある場所が北広島市なので、札幌近郊の秘境候補に加えようと出向いてみる。

 場所は札幌市にあるJR上野幌駅から徒歩で五分程度北広島市に入ったところにある「森のゆ」の近くである。札幌秘境100選にJR上野幌駅を取り上げた時にこの「森のゆ」について少し書いている。「森のゆ」の露天風呂から正面に見える小高い林あたりにこの地蔵がある。この地蔵のある場所に車で行く砂利道もあって、砂利道を挟んで「北海道リハビリー」と名前についた施設の向かい側の山林に地蔵はある。

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 砂利道から少し高くなっている山林に入ってみると、平らな場所があり、写真の小さな地蔵が紅葉の林の中に一個佇んでいる。標識や説明板のようなものも見当たらない。山林に取り残された野仏といったところである。傍によって地蔵の両側面に彫られた文字を読む。

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 写真に示す一方の側面には年号と日にちがあって、明治十八年(一八八五年)十二月十一日と読める。もう百二十年も昔に造られてここに置かれていることになる。もう片方の側面には、写真で示すように「ひな女」の文字がある。この名前の女児が前述の日にちに亡くなって葬られ、そこに地蔵を建てたと推測できる。

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 もともとこの辺りは開拓農民の墓地であったらしい。開拓者がこの地に入植した年代が刻まれた地蔵ということで歴史的価値もありそうなのだが、供養することもなくなって忘れられ、野仏となってひっそりと山林に立っている。この辺りは本来の意味に近い秘境の雰囲気である。

 北広島市の開拓の歴史を同市のHPで見ると、一八八四年(明治十七年)に広島県人二十五戸百三人が集団移住し開拓の鍬がおろされた、とあるのでこの地蔵が置かれたのは入植の翌年ということになり、この地蔵は広島市の開拓の歴史の始まりを示している貴重な存在である。それが説明板の一つもなく、誰に注目されることもなく、この山林にひっそりとあり、たまたまこの秘境の取材で顔を出している。

2007年10月10日

旧仁別小学校校舎のガラス工房

 札幌市清田区有明と接して北広島市仁別がある。この両地区をつなぐ道路はゴルフ場の私道しかなく、この私道は現在閉鎖されていて、札幌から仁別に行くには国道36号線から、あるいは道道1147号線から仁別大曲線に折れて行くしかない。この仁別大曲線をかなり深くまで入ったところに旧仁別小学校の校舎がある。校舎はニーウン・ペツ・ガラス美術研究所の工房とギャラリーになっている。ここで「ニーウン・ペツ」はこの辺りのアイヌ語地名だそうである。

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 仁別小学校は1933年に開校し、1971年に廃校となり、校舎は地元の町内会で管理されている。小さな学校だったとみえて、現在は写真のように二棟になっている建屋はもともとつながっていた。ガラス工房となっている右側の建物は体育館だったそうである。1999年、榎本祐比呂弘氏がこの校舎を借りてガラス工房を開き、奥さんのユミさんがギャラリーとカフェの方を受け持っている。

 ギャラリーに入るとこの工房で制作されたガラスの作品が並んでいる。カップ、花瓶、置物、ペーパーウェイト、おはじきのような小物まである。ガラスの作品に混じって、東南アジアの民芸品も並んでいる。そこだけみるとベトナムかタイあたりの土産物屋に来ている感じである。

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 日本のアンティーク時計も目につく。ガラス工房がギャラリーに接してあるので、室温が高い。そこで天井の扇風機を回してくれるが、この扇風機がまた年季が入っている。東南アジアから持ってきたのかと聞くと、これは日本のものだそうである。扇風機も回してもらったのでカフェオレを注文して、小学校時代の卓球台のテーブルにカップを置いて、東南アジアの国にでも来た気分になる。

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 ガラスの作品の制作現場を覗くと、榎本氏と思われる人が作品作りに余念がない。炉の中に吹き棒を入れ、棒の先のガラスのかたまりが赤くなるまで熱し、これを取り出して息を吹き込み形を作っていく。作品の良し悪しが決まるのは瞬時の勝負である。集落があるのかな、と思えるこの地に制作の場を構え、終日瞬時の勝負のガラスの作品作りに没頭するのは、ガラス造形に魅せられてためなのだろうと思ってみる。

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 ギャラリーの窓からはかつて校庭であったろう広場が広がっている。客で来ている子供達が秋の日を浴びて遊んでいる。この校舎をとり巻く周囲の山が紅葉で満たされる季節はすぐそこまで来ている。

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2007年10月07日

広島村立小中学校門柱

 国道36号線で札幌清田区から北広島市に入ると、そこは大曲と呼ばれる地区である。今のところこの大曲の地名がどこから来ているのかは分からない。秋田県の大曲市と関係があるのか、地形的なものなのかなどと推測をしている。

 大曲付近では国道36号線は高速道路の道央自動車道と平行に走っていて、大曲工業団地は国道からみて高速道路の反対側に広がっている。この工業団地にさしかかる手前で、国道沿いの高速道路側に大曲中学校がある。この中学校のグラウンドの隅に二つのレンガ積みの門柱が取り残されている。

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 一方には「広島村立大曲中学校」、もう一方には消えかかった「札幌郡廣島村立大曲小学校」がかろうじて読み取れる。これらの門柱から、ここはこの二つの学校があった跡地であるのが分かる。インターネットで調べると、大曲小学校は1892年(明治25年)、月寒小学校大曲分校として始まり、その後公立大曲尋常小学校、輪厚(わっつ)尋常小学校大曲分校と名前が変わっている。太平洋戦争後の1947年(昭和22年)広島村立大曲小学校と改称された。

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 一方の中学校の方は、1947年に西部中学校大曲分校が小学校と並置されている。この経緯で小学校と中学校の門柱が並んで置かれ、小中学校の生徒達が同じ校門をくぐることになった。小学校の方は児童数が増えたため1977年に近くの大曲柏葉に移転している。

 これらの門柱は本当にとり残されたという表現が適しているようである。史跡というほどの仰々しさでもなく、移転するか取り壊すのを忘れてしまってついつい放っておいた、という感じである。この門柱を見にくるのは、秘境探検のテーマ探しに苦闘している筆者ぐらいなものではなかろうか。

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 三連休の初日で、門柱の向こうに広がるグラウンドでは秋の日を浴びながら中学生が野球の練習に余念がない。スポーツの秋でもある。今や校門でもないグラウンド脇のこの門柱は、そこを通って登下校する生徒も多分居らず、これからもじっと佇んでいくことになるのだろう。

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2007年10月05日

見えない平和の灯

 北広島高校と北広島市総合体育館の間に位置して平和の灯公園がある。近くには北広島レクレーションの森が広がっている。この公園にある灯は広島市の平和記念公園内にある「平和の灯」から分火されたもので、北広島市の市制施行を記念して灯された。この灯は点火してから絶えることなく燃えて続けているとのことで、何時行っても灯をみることができるのだろうと出かけてみる。

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 公園は小さなもので、この灯の由来に関する説明が書かれていて、日付が平成8年(1996年)9月1日となっているから、この日付は北広島市が発足した日になるのだろう。お目当ての平和の灯は岩の台座の上に設置されたランプの内で火が点っているはずだと近づいて見る。しかし、ランプ内に火が見えない。岩に登って目を近づけても火を確認できない。

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 これは火が消えている。掛の人に知らせねば、と総合体育館の事務所に行って話しをする。応対した事務員の話では、火(燃料)を絞ってあるので、下の方にわずかに見えるとのことである。そこで再びランプのところに行ってみるけれどやはり火は見えない。デジカメでランプ内を撮影してまた事務所に戻り、再度状況を説明する。しかし、火はついているのだそうである。

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 火は見えないと取材の結果を書くけれどよろしいか、と念を押すと今度は担当者がランプのところまで出向いて確かめる。しかし、見えないものは誰がみても見えない。でも、火は点っているのだそうで、日中では見えないけれど夜には見えるのだそうである。いくら酔狂で秘境探検をしているとはいえ、平和の火をみるためこの場所に長居する気にはならないので、日中この平和の灯を見に行っても火は見ることができない、というのがこの秘境の取材結果となる。

 しかし、何かの連続計測で絶え間なくデータを採っているのと異なり、見えない火が絶えず燃えている、という話も変である。見えないなら途中で火が途絶えても、途絶えなくても、見た目には同じである。火が燃えていると信ずるか信じないかの問題で、これは神学論争だな、などと考える。そんな状況に遭遇して、平和の灯をこの地に分火した本来の意義を考える手前で、思考は横道にそれてしまった感じである。

 火の見えないランプ内を撮るだけでは芸がないので、太陽がランプの向こう側に来るようにしてランプから光が発せられている写真を撮って、今回の探検の成果にした。

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2007年09月10日

開拓記念公園

 国道274号線から江別恵庭線(46号線)に折れ、北広島市役所の辺りでこの公園にたどり着く。整備された公園であったけれど、訪れた土曜日の午前中は園内には人影はなかった。公園の中央には飛躍と銘打たれたモニュメントを中心に子供達が遊ぶレリーフが置かれている。芝生と植栽があり、ところどころに北広島市の歴史が書かれた説明板があって、それを読むと一通り北広島市についての知識を仕入れることができる。

 この市のルーツを辿ると、広島県人和田郁次郎にたどり着く。同人が1882年(明治15年)初めて来道し、それが契機となり1884年広島県人25戸103人がこの地に入植している。1968年に広島町が誕生しているけれど、町名はこの先人達の出身地広島に由来している。1996年には北広島市が誕生している。広島町から北広島市になったのは、既に広島市があったことによる。

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 この開拓記念公園は1984年(昭和59年)の同市開基100年を記念した事業により造園されている。広島県との歴史的なつながりで、広島県東広島市と姉妹都市の関係にある。広島市とも交流が行われている。また、球団の広島カープが来道して試合を行う機会をとらえて、市民(かつては町民)と野球を介しての交流もある。

 その交流を示す碑が園内にあった。「交流の翼」の文字が刻まれた碑には広島市少年野球協議会の名前があるので、これは野球が取り持つ交流である。ただ、その碑には原爆石が置かれていて、これは旧広島市庁舎の被爆した石をここに運んで設置したものである。原爆は北海道のこの地にも影を落としている。

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 公園内には水が湧き出していて、それが園内の小川となっている。ここは開拓時代の水源地跡でもあると説明されている。現在足元を流れている水が昔からの水源のものであるのかどうかは分からない。しかし、なかなか良い水辺を造っている。

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 園内にあった親子像は写真を撮っただけで、よく調べてみなかった。作者とか彫刻名とかが分からないので、又の機会に訪れることがあれば調べておこうと思っている。

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2007年09月09日

緑葉公園の安田侃の作品

 北広島市は札幌市のベッドタウンの性格を持っている。そのため団地や住宅街がJR北広島駅を中心に開発が進み、特にJR千歳線の西側にはいくつもの団地が丘陵地帯に展開している。都市計画に沿って住宅地が開発されたことは、大きな緑葉公園が住宅地に取り囲まれるようにしてあることで分かる。

 この緑葉公園には野球場、サッカー場、テニスコートなどの施設があり、遊歩道も整備されているので、市民が屋外スポーツを楽しむように設計された公園である。この公園に彫刻家安田侃の作品が設置されているというので見に行く。その前日には北海道新聞にローマ発の記事で、安田侃の個展がローマ帝国の遺跡群「フォロ・ロマーノ」で始まったというのを読んだことも探検先に選んだ理由の一つでもある。

 安田侃は美唄市出身で、イタリアの大理石を素材にした彫刻を手がけている。札幌市にもJR札幌駅の「妙夢」、知事公館の「意心帰」、中島公園の「相響」などがある。それにしてもこれらの彫刻名は意味不明である。

 彫刻名はさておいて、探検にもどる。緑葉公園の第一駐車場に車を止めて、レンガ造りの階段を登る。小高いところに広場が開け、ここに「新生」と名づけられた大理石の作品が黒い御影石の塔の上に設置されている。設置年は1979年となっているので約30年前のことになる。寄贈者はダウ化工株式会社となっている。この会社と北広島市の関係は分からない。

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 白大理石の作品は卵をイメージさせる。しかし見る方向を変えると球体に切れ込みが入っていて卵でもなさそうである。この種の作品に具体的物を当てはめても意味はないけれど、文章だけで表現しようとすれば、何に似ている、と書かねばならない。この点、画像データもテキストデータと一緒に表示できるブログは、このような作品紹介では強力な手段である。

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 この作品のある場所から少し高いところから見ると、同心円状で植えられた芝生の内側の円のはずれに立っている。この全体の配置も彫刻と一緒にしてデザインされているのであろう。彫刻の向こうには北広島の住宅街が台風一過の夏の終わりの空の下にあった。

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2007年09月08日

島松軟石の名残

 島松はアイヌ語の「シュマ・オ・マップ」が語源といわれ、これは「岩石のあるところ」の意味である。島松は島松軟石といわれる石材が採れたところで、軟石の岩が地表に露出していたといわれている。この軟石の切り出し場の跡を見ることができる。

 現在の国道36号線が島松川を越える辺りは高架橋になっていて、高架橋下の道路に下りて見ると、石切り場の跡を見ることができる。軟石の岩がいかにも橋を支えているような格好になっていて、大きなコンクリート製の橋脚と協力しているようである。かつての建築物の建材の軟石と現代のコンクリートの対比の妙が感じられる。

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 島松の軟石はかなり古くから採石が行われていて、1960年頃まで続いていたとのことである。軟石は火砕流の堆積物が岩となったもので、加工のし易さから良く利用された時代があった。札幌軟石、小樽軟石もよく用いられた。しかし、ブロック建材が現れてコスト競争となると軟石は分が悪く、建材から姿を消している。現在目にする軟石はかつての建築物の名残である。

 そのような名残の一つをこの採石場跡の近くで見ることができる。この高架橋の近くには島松駅逓所の史跡がある。その史跡の裏山に石で出来た門が残されている。この門は島松軟石で出来ている。この門は駅逓所の敷地に入るための門のようで、門の内側には明治天皇行幸在所の石碑があるので、その当時は整備された庭園だったのかも知れない。

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 この明治天皇の行幸は1881年に行われていて、天皇一行は船で小樽に着き、SL義経号で札幌に入っている。札幌からは島松、苫小牧、室蘭を経由して函館に行き、ここから船で帰京している。このとき島松の駅逓所で休息した折に天皇が飲んだ水に因んで「御膳水」の碑が駅逓所の建屋の横にある。

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 この時駅逓所を経営していた中山久蔵は北海道の稲作の祖でもあり、北海道の稲作について天皇に説明しているはずである。その際建材としての島松軟石に話が出たのか出なかったのかについては知る術もない。

2007年09月05日

化石の野外展示

 化石が野外に展示されているのは珍しいのではなかろうか。北広島の達磨寺の境内がこの化石の野外展示場になっている。料金を取る訳でもなく、駐車場からつながる境内と思しき一角に化石が置かれている。これだけ大きな化石なら誰かに持ち去られる心配もなく、無造作に置かれている。

 化石の説明の看板があり、穂別の化石と書かれている。化石の産地でもある穂別で採取されてここに運ばれたようである。まず、化石の王様アンモナイトがある。これだけ大きなものを掘り出すのも運び込むのも大変だったろうと推測される。ビルの大理石板の内装で見つけることにできる小さなアンモナイトがあるかと思えば、こんな巨大なアンモナイトもあって、この太古の生物のサイズの幅の広さには驚く。

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 亀甲石は石に亀裂が入っていて文字通り亀の甲羅を連想させる。石灰分が固まった後に地表に出て乾いた時に出来る乾裂痕である。形の良いものは飾り物や盆栽に使われたりして珍重されるらしい。

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 石の種類より形にこだわったものとして、達磨の形に似ている石というのがあった。言われてみるとそのような気もするけれど、さてどうだろうか。無理な連想と思えなくもない。

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 他の説明板にはトリゴニア砂岩が出ている。これは中世代に繁栄した二枚貝が砂岩と一緒になって採取されたものである。ノジュールの説明もある。こちらは母岩から分離できる球状やレンズ状の石で、その内に生痕化石、動物化石を含んでいる。ノジュールを割るとその中にアンモナイトの化石がつまっていたりする。

 化石という点から北広島を見るとなかなか多様で、産出するものが豊富であるらしい。地層は古い順から下野幌層、音江別川層、小野幌層などがあり、下野幌層では、北広島カイギュウやヒゲクジラの仲間等々の大型ほ乳動物化石や貝類化石が産出していて、市の名前を採って北広島化石動物群と呼ばれている。達磨寺の野外展示の化石に北広島産のものがあるのかどうかは、生憎説明してくれる人が居なかったので分からなかった。

2007年09月01日

芸術文化ホールの軟石と化石

 JR北広島駅に面して、市の芸術文化ホールがある。市立図書館とも一体になった建物である。短い並木のあるアプローチからこの建物に入るとエントランスホールになる。このホールの一階にある事務室の壁から階段の部分、さらにギャラリーの入口にかけて軟石の壁がつながっている。この軟石は島松沢で切り出された軟石である。

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 この文化ホールのある北広島駅の東側にはかつてJA北広島の倉庫が立ち並んでいた。その中で「廣嶋農業倉庫」は軟石造りの倉庫で、駅の東の土地区画整理事業で取り壊された。しかし、北広島の歴史を伝える意味から文化ホールの建物の一部として先の倉庫の軟石が再利用されることになり、それを現在このホール内で目にすることができる。

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 軟石の表面は滑らかに加工はされてはいないけれど、このホール内の壁としては調和が取れていて、落ち着いた感じを出している。再利用に成功していて、昔の北広島の証人の役目も担っている。建材としての石は、このように再生することができればその生命が長いことが改めて認識させられる。なお、ホールの事務室の窓口の近くにこの軟石で造られたもとの倉庫についての説明があり、それによると倉庫は1934年(昭和9年)に建設されている。

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 一階には花ホールと命名されたホールがある。このホールの入口部分は大理石の化粧板が貼り付けられた壁がある。こちらは表面が磨かれたもので、いかにも化石がその表面に現れていそうである。係りの人に頼んで、イベントが無く閉め切られているホールの入口部分だけに入れてもらい化石探しをする。
 見つけたものは多分アンモナイトと思われる化石である。ただし、この方面は勉強した経験がないので、あるいは巻貝かその他のものかも知れない。ただ、火砕流が石になった軟石と堆積した土砂に生物が取り込まれてマグマの熱で結晶化してできた大理石の二種類の異なる石から、軟石を切り出した近い昔や大理石に含まれる生物が居た太古の昔を想像できる場所としても、この文化ホールは文化的であるといえる。

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2007年08月31日

達磨寺巨大数珠

 都市秘境探検のテーマ探しでは、大きな物というキーワードに副ったものを見つけるのが定石の一つになったようなところがある。札幌市では大鏧(だいきん)、小樽市では木魚のそれぞれ巨大なものを見つけて秘境に選んだ。今回、偶然にも巨大数珠というのを見つけた。

 数珠があったのは北広島市富ヶ岡にある曹洞宗のお寺、正法山達磨寺である。北広島市の市街地のはずれを音江別川が流れていて、この川の両岸にゴルフコースが広がっている。このゴルフコースに行く道沿いにこのお寺がある。初めての訪問者が迷わず来るようにとの配慮のためか、道路脇に達磨の絵の案内看板が間隔を置いて立てられている。これらの看板に導かれて、お寺に辿り着く。

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 このお寺は元々は札幌市の中央寺とつながっていて、1998年に寺号公称の許可を得たとあるので、新しいお寺である。境内にプレハブを少し大きくしたような本堂があるので、覗いてみることにする。玄関を開けて内に入っても誰もいない。仏間には何故かビニールで包んだ達磨の置物が並べられている。お土産のようである。そこで達磨の置物と一緒に目にしたのが巨大な数珠である。

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 この数珠には製作年月が入っていて、平成18年12月吉日の文字があるので、作られたばかりのもののようである。数珠をつなぐ紐も見るからに新しいものである。これほど大きいと仏事に使われることはないだろうから、見世物用であろう。境内に大きな達磨の張子もあって、見世物グッズを揃えたお寺である。

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 境内には達磨庵という達磨のコレクションを納めた建屋があって、ここを覗いても人が居ない。しかし、あるはあるは達磨の置物で棚やケースが埋め尽くされている。このコレクションの小屋の横には「だるまじ寺子屋」の看板もかかっている。ここにも人は居ない。一体お寺の関係者はどこに行ってしまったのだろう。

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 人を見つけたのは「整体院一休さん」の看板が架かった小屋で、整体をやる男性が居た。どうしてここにこんな達磨のコレクションがあるのか聞いてみると、達磨の置物のコレクターが亡くなって、達磨の名前のあるこの寺にコレクションを引き取ってもらったとのことである。

 整体院がどうしてお寺の境内にあるのかも疑問で、客は誰なのかも聞いて見たかったけれど、この質問をすると、言外に客の来そうもないこんなところでどうして開業しているのかと質問しているようで、これは遠慮して聞かなかった。近くのゴルフ場でプレーすると体を痛めて整体の注文があるのかも知れない。しかし、本当のところは分からない。

2007年08月27日

水稲赤毛種見本田

 島松の旧駅逓所横に「寒地稲作この地に始まる」と刻まれた碑がある。これは北海道の稲作事始に関わった中山久蔵を顕彰する碑である。駅逓所そのものが久蔵の家で、駅逓所経営にも貢献している。この駅逓所はクラーク先生訣別の地であり、明治天皇の北海道行幸の宿泊所も重なって、この三人の縁の地となっている。

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 久蔵の元の姓は松村であり、後に中山となっている。1869年41歳で白老に渡り、苫小牧の地での開墾の着手と断念、1871年に松島に移り稲の栽培を始めている。寒地に強い稲の赤毛種を選び、島松川から引いた川水を人工的に温め、水田の水温の調節を行いながら稲の栽培に成功している。この暖水路跡が残っている。

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 この赤毛種は今でも寒地稲作の碑の近くの見本田に育成されているのを目にすることができる。見本田で実を付け出した稲を見るとやや赤っぽいか、とは感じられるけれど、日頃稲を見ていない身(目)には稲の種類の差はピンと来ない。それにしても風呂の温水を苗代のために用いたとは、北海道の稲作事始の苦労のエピソードの一つである。

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 今や北海道は日本における米の一大産地である。米の味も本州のものにひけをとらない。いや、地球温暖化に伴って、良質の米の産地は北へ移動してくる傾向にさえある。北海道の米作の品種改良が進み、北海道米の人気が出てきて、さらに寒地の気象条件が米作にむしろ味方するようになって来ているなどとは、久蔵には思いもつかないことであったろう。

 この見本田の横に蓮池があり、蓮の花が咲いていた。久蔵は蓮の栽培も手がけている。現在咲いている蓮は久蔵の栽培した蓮とつながっているのだろう。その他養鯉や果樹園、牧場経営にも手を出している。久蔵の多角経営者ぶりが表れている。

 保存されている旧駅逓所の建物内には拡大された久蔵の写真のコピーが壁に貼られていた。この自宅の建物で久蔵が駅逓所の経営に乗り出したのが56歳の時である。昔の人の年では退職して現役から退く歳であると思われるのに、事業への意欲は旺盛だったようである。1919年91歳で亡くなっているから、普通の人なら人生の後半に事業を起こしたにもかかわらず、事業が成功したのは長命もその理由の一つに挙げられるだろう。


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2007年08月26日

クラーク先生訣別の地

 ウイリアム・S・クラーク(北大関係者はクラーク先生と呼んでいる)が札幌農学校(後の北海道大学)に一八七六年に赴任して、八ヶ月の滞在後、農学校の一期生や教職員との訣別した地が島松である。どうしてここが訣別の地になるかというと、この地に駅逓所があったからである。駅での別れは昔も今も変わらない。

 この別れに際して、クラーク先生の残した言葉「Boys, be ambitious.」は語り継がれて北大関係者のみならず、全国に広まった。それにしても、八ヶ月の滞在と、別れに際しての隻句が百三十年経った今もかくも有名な人物と言葉として残るとは、世の中不思議なものである。ただし、この言葉を詳しく辿ると「Boys, be ambitious like this old man」であったとも言われていて、これでは最初の言葉と比較するとかなり雰囲気が異なる。

 松島駅逓所を通過する道が国道になったけれど、現在は道央の交通の大動脈国道36号線はここからわずか離れたところを走り、旧駅逓所は旧国道と共に36号線から切り離されて車もあまり通らない道となっている。かつての北広島村(クラーク先生訣別の頃は札幌郡月寒村島松)が北広島市となり、同市と恵庭市との境に松島川が流れていて、この川岸の北広島市側に旧駅逓所がある。その駅逓所の保存された建屋の横にクラーク先生訣別の地の記念碑がある。

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 この碑にはクラーク先生の肖像と前述の有名な言葉の日本語訳「青年よ大志を抱け」が刻み込まれている。碑文によれば、この碑は昭和二十五年(一九五〇年)クラーク奨学会により建立されて、その発起人代表は札幌農学校二期生の宮部金吾である。植物学者の宮部は碑が建立された翌年に没している。

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 駅逓所は北海道の米作の基を築いた中山久蔵の家でもあり、国の史跡として指定され保存されている。建物を覗くと土間の入口に料金表が出ている。入口から内を見れば料金を払って入るまでもないかとは思ったけれど、車でここまで出向いたからには入って見るのも損はなかろうと結局入館する。

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 昔の駅逓所の絵地図があるので写真に収める。道路と駅逓所の位置関係は現在のものと変わらない。クラーク先生関係の写真のコピーも展示さえているけれど、昔の集合写真で人物がはっきり写っていない。でも訣別の雰囲気は伝わってくる。それにしても、クラーク先生は馬上から“Boys・・・”と叫んだのであろうか。

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2007年07月29日

虹ヶ丘公園のすべり台

 江別市の大麻新町公園の長いすべり台を取材したので、北広島市にも長いすべり台がないかと探してみた。すべり台のような遊具の設置場所は公園と相場が決まっていて、長いすべり台ともなれば、かなり規模の大きな公園でなければないだろう。そこで、札幌市厚別区に接する虹ヶ丘にある虹ヶ丘公園に出かけてみる。

 この公園は丘陵に整備されていて、公園に接して団地が出来ている。団地造成に際してこの公園も造成したようである。近くに日大の付属高校と中学校がある。公園の入口には噴水装置とオブジェがあったけれど、水は出ていなかった。広くて整備の行き届いた公園である。

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 公園の比較的高いところにお目当てのすべり台があった。平日の午前中で子供も居ないすべり台の上から、下に広がる公園とその向こうの札幌市側を眺める。良い眺めである。さて、このすべり台は長いかと問われれば、普通公園にあるのものよりは長いと答えられるけれど、絶対的基準で長いという形容詞がつくかどうかは迷うところである。

 それはともかく滑ってみることにする。すべる子供があまりいないせいか、金属製の滑る部分にはうっすらと土ぼこりが見える。これではズボンが汚れるとは思っても、取材であるからには滑ってみなければならないだろうと、足をすべり台の両脇に接触させてブレーキを効かせながら直線部をすべり降りる。途中からは大麻新町公園のすべり台と同様にローラースライダーになっていて、下まで滑っていけるようになっている。子供なら面白くて再挑戦するだろう、とは思っても再度滑る気にはならない。

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 この公園はパークゴルフ場があって、こちらは朝から幾組かの年配者がプレーを楽しんでいる。公園に来てみると、遊具の周りに子供が居らず遊具が遊んでいるのに対して、パークゴルフ場が年配者で賑わっているのを見ると、少子化、高齢化社会に突入した現実を実感できる。

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2007年07月26日

取り残された国道

 北広島市(かつては広島町)の西の里と札幌市厚別区の辺りは昔の野津幌川が両都市の境目になっていて、原始河川の蛇行が境界線に投影されていているらしく、地図上の境界線も蛇行している。現在の野津幌川は改修され直線状の川になっているけれど、両市の境界線が直線状に改められている訳ではない。直線状になった野津幌川に沿うように厚別東通が南北に伸びている。

 この道路と交差するように、東西に国道274号線がJR上野幌駅をかすめるように走っている。この国道は交通量の多い幹線道路で日高を通り帯広に抜ける。原始河川が改修されて、蛇行部が直線状になったのと同じく、道路も難所が改修され、直線状になる場合がある。その場合、旧道は車がほとんど通らない道路となって残される。旧道の道路標識も場合によっては昔のままに残されていたりする。そのような例を国道274号線の札幌市に接する北広島市の西の里にあるのを見つけた。

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 国道274号線を横切る厚別東通を南にほんの少し行き、東側に入り込むとここが端となる道がある。これが国道274号線の旧道で、カーブを描きながら直線状の新国道274号線に沿っている。この旧道には写真のように道路標識が残っていて、標識には夕張 74 km、広島 8 kmの案内を読むことができる。ここで広島は北広島市の前身の広島町を意味している。

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 この道路は、現在は市道西の里側道2号線と道路名がついている。国道274号線が弓の弦とすれば、この道路はさしづめ弓の形で、カーブの短い距離を走って新国道に合流する。旧国道は坂になっていて、新国道を下の方に見ることになる。新国道ではひっきりなしに車の往来があるけれど、旧道は通る車はほとんど無い。この旧国道に沿ってパークゴルフ場や温泉施設の森の湯があり、旧国道の両側は市民の憩いの場所となっている。

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2007年07月25日

水道発祥の地碑

 北広島市を貫く二つの大きな国道は36号線と274号線である。国道36号線は千歳市を通り苫小牧方面に抜ける。国道274号線は長沼町を通り夕張市から帯広市へつながる。国道274号線は札幌と道東を結ぶ重要道路であるけれど、日高山脈越えには片側1車線が続く部分が長く、ドライブには気を遣う道路でもある。国道274号線の西の里で野幌森林公園方向に折れて進むと西の里配水池の施設がある。

 この施設の横に北広島の「水道発祥の地」碑がある。北広島のこの地区には水源となる大きな川がなく、水は井戸に頼った。昭和三十年代に飲料水と灌漑用の深井戸が掘られ、水道管を敷設して西の里開拓用水道が設けられた。昭和五十年代には漁川ダム(恵庭市)を水源とする石狩東部企業団からの給水が始まり、西の里も本格的水道の恩恵を受けることになり、地下水の利用には終止符が打たれた。

 この北広島の水道事始めに関連し、水道発祥の地を記念した碑が建立され、西の里の配水地施設横にたたずんでいる。碑は年季物のようで、大理石の表面にそれが現れている。碑には碑文のようなものは無く、○印の水の字に発祥の二文字があるだけである。愛想の無い碑と言えばいえる。多分この碑を見にわざわざここまで来る人もいないだろうから、愛想を振り撒く必要もないのだろう。西の里の配水地施設の方は無人の施設らしく、施設内は立ち入り禁止となっている。

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 この碑の近くに西の里中学校がある。周りが自然に囲まれ田舎然としているので、市立の中学校というより田舎の町立の中学校の趣である。またこの辺りは農家や酪農家の農場や牧場が目につく。訪れた時には近くの畑に植えられたひまわりが群れて咲いていて、札幌の厚別区から少し車を走らせるとかなり広いひまわり畑を見ることができるとは、いままで知らなかった。

 ここから野幌森林公園方向の道を通って厚別方向に出る途中に立命館慶祥高校がある。森林公園が迫ってくる農地の中に、高校の校舎が突然現れるのは、予想していないと少々驚く光景である。

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