2014年02月28日
今日(2月28日)の一枚
貝合わせ 我が身リハビリ ひな祭り
我が家にもひな人形が飾られる。今年は新しいワンセットが加わる。丁度品に貝合わせのミニチュアもある。昔は貝殻が遊び道具であったかと、単純明快な遊びにあらぬ事を考える。認知症になったら、この遊びはリハビリに良いかもしれない。
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2014年02月28日
貝合わせ 我が身リハビリ ひな祭り
我が家にもひな人形が飾られる。今年は新しいワンセットが加わる。丁度品に貝合わせのミニチュアもある。昔は貝殻が遊び道具であったかと、単純明快な遊びにあらぬ事を考える。認知症になったら、この遊びはリハビリに良いかもしれない。
2014年02月27日
ひな人形 数に眩暈(めまい)で 抹茶飲む
北区新琴似の北郵便局の斜め向かいにせき呉服店がある。同店に展示されているひな人形を見に行く。ひな壇の上に飾られた人形の数が約600体あるというから驚く。飛び込み見物人であったが、和菓子と抹茶のサービスで、人形より団子である。
(パノラマ写真)
2014年02月26日
2014年02月25日
IT業界は日進月歩の技術革新で、企業の浮き沈みが激しい。企業寿命30年説はこの業界では特に異を唱える話でもない。むしろ、30年も生き延びる企業は珍しいかもしれない。中村真規氏がオーナー社長である「デジック」は、その前身時代から数えて30年以上経っている。
筆者は「知識情報処理研究振興会」を組織していた頃があって、同会で「北海道ベンチュアランド企業群」という、北海道のIT企業紹介本を1984年に刊行している。あれから30年経って、本に収録している企業や経営者で、現在も続いて仕事をしているのはわずかである。
業界団体もしかりである。同書に名前を連ねている「北海道マイクロコンピュータシステム工業会」(代表幹事 故北島健一氏)、「北海道ソフトウエア事業協同組合」(理事長 川端貞夫)、北海道ソフトウェア協会(会長 故小林英愛氏)は今は無い。
中村氏の会社は同書には「NC情報処理(株)」で紹介されている。NCの名前がついているのでNumerical Controlの連想で、そのような業種に関連する会社かと当時思っていた。今回、中村氏のインタビューで、氏の改名以前の名前「中村力」の頭文字であると聞いて、そうだったのかという思いである。中村氏は2001年に「真規(まさき)」と改名して、会社の名前も「デジック」に変えている。
中村氏は1947年生まれで、青山学院大学経営学部を卒業し、日本ユニシス(旧バローズ)勤務を経て札幌で起業している。現在の会社は運輸や通信の管理システムの開発を行っている。仕事の9割方は東京からのものである。東京の企業が中国などに仕事を発注するオフショアに対して、北海道の人件費が中国よりは高くても、東京よりは低めの優位性を生かしたニアショアでやっているとのことである。中国のオフショアに対する北海道のニアショアの売り込みの決め台詞は、北海道は「反日的ではない」との冗談が飛び出す。
海外はロシアのウラジオストックで企業連携を行っているとのことである。札幌のIT産業を1兆円の大台に乗せるには、技術者をはじめとする人材を集める必要があるとの持論である。人材養成にも関連して、京都情報大学院大学のサテライト教室を同社内に設けて、自ら同校の教授も務めてている。講義科目を聞くと「IT企業実践論」と答えが返ってくる。
北海道IT推進協議会の会長を務めたことがあり、現在は北海道情報システム産業協会の会長や北海道コンピュータ関連産業健康保険組合の理事長、その他の団体の役職に就いている。ご本人言では、組織を作るのが好きだとのことである。
組織作りは趣味には入らないと思うので、改めて趣味は何かと質問すると、カメラと写真撮影かな、との答えである。かなり以前の話になるけれど、中村氏は料理屋も経営していたことがあった。ITと料理屋が結びつかないので質問してみると、自分の好きな物を食べさせてくれる店を探していて、いっそのこと自分で作ってしまえ、と始めたとのことである。この店は今は無い。
北海道ソフトウェア協会があった頃、会長の小林英愛(ひでちか)氏と副会長の中村氏のコンビが長く続いた。小林氏はワインに凝っていて、ソムリエの資格を持っていたはずである。小林氏が、自分はソムリエではなく「ノムリエ」であると言っていたのを記憶に留めている。その小林氏も今は故人である。
(デジック社長室での中村真規氏、2014・2・25)
逃げる月 雪山連れて 二月末
我が家の居間は中二階になっている。三角屋根から落ちて軒下で重なっていく雪が居間の窓を超していくのは大雪の証拠で、その証拠写真を撮る。昨日から気温は高めになっていて、この雪の山並みが低くなって行くのが加速されるだろう。
2014年02月24日
北大学術交流会館でのシンポジウムでの特別講演を終え、隣の建物の北大交流プラザ「エルムの森」で持参PCを操作していた。そこに背後から声が掛かる。函館にキャンパスのある北大水産科学研究科教授の飯田浩二先生が立っておられる。長いこと会っていなかったこともあり、筆者であるかどうか確信が持てずためらっていた、との飯田先生談である。これは奇遇である。
飯田先生とのお付き合いは1978年頃まで遡る。筆者は、当時世の中に現れてきたマイクロコンピュータ(マイコン)を研究に利用しようと、応用技術開発の目的もあり、学内外の研究者や技術者、マイコン愛好家等を集めて「北海道マイクロコンピュータ研究会」を主宰していた。月1回、研究会の例会があり、時には道内の各地で研究会を開いていた。
研究会の17回目は1978年の6月に函館の北大水産学部で行っている。この研究会の世話役を努めていただいた飯田先生の研究発表は「マイクロコンピュータによる水中音響測定システム」であった。水産の分野の研究者(大学院生)であった飯田先生が、いち早くマイコン技術を研究に利用しようとしていたのは、筆者の状況と重なる。
飯田先生は1981年北大水産学部の助手に採用され、講師、助教授を経て1998年教授になられている。主要な研究テーマはソナーを用いた音響海洋資源調査と解析といったものである。音響ホログラフィ技術で、音波や超音波による物体の可視化技術の研究をしていた筆者は、研究上でも飯田先生とのつながりができることになった。
筆者の研究分野の国際学会に「Acoustical Holography」と銘打ったものが1967年に創設され、その第1回目に筆者も論文を提出している。この学会はその後「Acoustical Imaging」と名称を変えて続いている。この学会に飯田先生との共著の論文を発表したり、同道で参加した思い出がある。1989年にサンタ・バーバラで開かれた第18回目の学会の論文集が手元にあり、飯田先生との共著論文が載っている。論文名は「Three-Dimensional Display Technique for Fish-Finder with Fan-Shaped Multiple Beams」である。
筆者の研究はその後信号処理やコンピュータグラフィックス、メディア工学の分野に変わっていったので、飯田先生とのつながりは薄れた。今回偶然の再会で、急きょ飯田先生のパノラマ写真を撮る。「エルムの森」店の北大グッズが置かれているところに、筆者の都市秘境本や「爪句集」の豆本が並べられていて、パノラマ写真にも写るように撮影する。
この原稿を書いていて、研究者としての現役時代には、分野外の人が読んでも(読まれることはあまりなかっと思われるけれど)理解の及ばない研究論文に精魂を込めていたのを思い出す。もうその研究生活には戻れないだろうという感慨がある。今は誰が見てもわかる写真と、写真の説明の域を出ない「爪句」を捻り出す自称爪句作家で、自分も随分変わったものだと思う。その変わり様が顔つきにも出て、飯田先生は筆者であることを、一目では確信が持てなかったのだろう。
(北大交流プラザ「エルムの森」での飯田浩二先生、2014・2・18)
ポンサとは 狸の名前か 石狸
彫刻の作品名には判じ物がある。この彫刻は狸小路6丁目に設置されていて狸をデザインしているようだ。作品名の方は推測するしかない。狸公の名前に「ポンタ」というのがあるので、札幌だから「ポンサ」かな、ぐらいしか考えつかない。
2014年02月23日
地味な色 雌が咥えて 花芽なり
相変わらず桜の枝にウソが止まっている。首の辺りの赤い部分がなく、体の正面部分は褐色気味の灰色である。ウソの雌か亜種のアカウソの雌らしい。野鳥は雄より雌の方が地味な色である。目立たない色の雌でもしっかりと花芽を咥えている。
大林組札幌支店は日本生命札幌ビルの10階にある。同社札幌支店長の田實耕一氏の話では、同ビル建設の元請が大林組であった経緯があり、店子として入居している。ゼネコンと称される企業では、仕事を請け負った受発注企業間の関係が後々まで続くので、銀行の取引関係はいうに及ばず、会社で調達するビールまで影響が及ぶ話を聞いて驚く。因みに大林組は札幌のアサヒビール工場の建設に関係したので、社内的なビールはアサヒと決まっている。したがって、サッポロビールの親睦団体への加入は遠慮するというから、一般市民には伺い知れない企業間ネットワークがある。
大林組札幌支店の受付に、大林の名前がデザインされた大きな瓦のレプリカが飾ってあり来訪者の目を惹いている。大阪にルーツのある同社のシンボルになっているようである。支店長の田實氏の部屋に通された時、雪で覆われた北海道庁が窓から見下ろせ、見事な眺めである。同ビルの11階にある三井物産の北海道支社の角田道彦支社長の部屋から見た景色と重なる。
三井物産は北海道支社、大林組は札幌支店と称している違いが気になる。ルーツの大林店を継承しての支店はわかるとしても、北海道支店ではなく札幌支店としている点を田實氏に聞きそびれてしまった。
支店長室で目に止まったものに神棚があった。スーパーゼネコンと呼ばれる近代的企業の支店長室に神棚があるのが印象的である。北海道神宮の分祠(表現が適切であるかどうかわからないけれど)で、同神宮の企業内営業所みたいなものかと思う。工事現場の起工式などで神事が慣習として行われるので、ゼネコンのオフィスに神棚があっても不思議ではないのかもしれない。
田實氏のパノラマ写真を2,3枚撮って、支社長室で雑談的インタビューである。氏は1950年の大阪生まれである。大学は信州大学の工学部というので、大学時代に信州の山にでも登っているのかと聞いてみると、大学時代は山登りとは縁が無かったとのことである。山登りは建設現場を巡る関係もあり、就職後に経験することになる。
大学時代には陸上短距離をやり、同和問題にも首を突っ込み、子ども達相手のサークル活動を行っていた話が出てくる。北海道では同和問題といっても言葉の意味がわからない。北海道のアイヌ民族問題は、ルーツは異なる民族にあるので話はある程度理解し易い。加えて、最近はアイヌ文化を日本の中の異文化として理解することが進んできている。対して、同和問題は北海道では霧の中にあるようだ。
大手ゼネコンに勤めているので海外勤務経験があり、シンガポールとタイの支店の行き来をした時代がある。筆者も学会でシンガポールに行った思い出があるので、セントサ島の話など出る。本島とセントサ島に架かる橋の建設にも大林組が関わった。田實氏がシンガポールで勤めていた頃はこの橋は出来ておらす、船で島に行ったそうである。
札幌支店長として2011年の4月に赴任しているので、札幌での生活は3年間ほどになる。札幌で登った山を聞くと円山だけで、藻岩も手稲も登っていないとのこと。札幌に居る間にオフィスの窓から眺めるだけではなくこれらの山に一度は登るように勧めてみる。
田實氏の年齢(63歳)になると退職後にすることなどを温めておられるだろうと聞いてみる。予想外の答えは、林業に関することだそうである。林業を関わっている息子さんの影響もあるらしく、国土を拓く立場のゼネコンとはある意味対極にある国土の環境保全につながる仕事を視野に入れている。
会社に残るよりは、後進に早めに道を譲り、残された時間を確保して、新しいことにチャレンジしたいとの希望を内に秘めておられるようであった。
(支店長室での田實耕一氏、2014・2・21)
2014年02月22日
十字路で 多雪の年の 記録なり
今年は雪が少ないかと思っていたらさにあらず、雪の多い年のようだ。札幌が多雪都市であるのを確認し記録しておこうとパノラマ写真撮影である。家の傍の十字路でカメラを構える。土曜日のためか車も人通りも少なく、撮影の条件はよい。(パノラマ写真)
北1条カトリック教会の近くに歩道橋があり、北1条通を跨いだところにテレビ北海道(TVh) がある。建物の壁に「おかげさまで開局25周年」の垂れ幕が下がっている。逆算すれば開局は1989年となる。同社は北海道にある民放5社の最後発の会社である。
同社社長の関口尚之氏のパノラマ写真を社長室で撮影して、同社設立の経緯を話していただく。テレビ東京系の民放が北海道に無かった時、日本経済新聞(日経)と北海道の財界が中心となり、北海道で5番目の民放会社設立が実現した。このことで、現在の同社の大株主は日経、伊藤組、北海道新聞社(道新)と並んでいる。社長の関口氏は日経から転身し、昨年(2013年)6月に社長に就任している。
関口氏は生まれは千葉県で、慶応大学法学部を卒業後日経に就職している。経済分野での仕事が主で、記者時代には役所回りをする生活であった。札幌勤務の経験があり、1979年から北海道支社の記者として4年間、2000~02年に支社の編集部長として仕事をされた。北海道での思い出深い事件は、1981年に起きた、北炭夕張新炭鉱ガス突出事故だったそうである。
民放のテレビはスポンサーからの広告収入で成り立っている。東京を中心とする企業のCMに加え、地元企業のCM、さらに系列親局からのネットワーク料などを収入の柱としている。こうなると、広告収入を上げる営業がテレビ業界では力を持つようになる。新聞では、広告収入のほかに読者が払う購読料も大きな収入となっており、テレビとは収入構造が違う。取材して記事を書き、購読料を支払ってくれる読者に還元する記者陣が中心となる点とはかなり異なるようだ、と関口氏と話していて感じた。
関口氏にテレビ事業での課題と抱負を質問してみる。放送のデジタル化の移行に伴い、これまで過大の設備投資をしており、経営の安定化を第一に考えるというのは、経営者なら至極もっともなことである。インターネットのような新しい形態のメディアとの競争や棲み分けも課題である。最終的には、社員がTVhに勤めてよかったと思ってもらえる会社にして行きたい、との抱負も語られた。
趣味の方に話を向けてみると、多趣味のようである。音楽を聞くことが好きで、Kitaraには良く行くそうである。演劇観賞の話も出てくる。仕事柄メディアに関する本も読むようで、「ブレーキング・ニューズ」の分厚い本を出してきて説明される。
関口氏との話を終えた後、専務の嶋田健氏の案内で同社の放送現場を見せてもらう。嶋田氏は道新出身である。、4月から始まる道新文化センターの講座の見学先にTVhを予定していることもあり、参加者に配布する資料用の写真を撮らせてもらった。
(社長室での関口尚之氏、2014・2・20)
2014年02月21日
2014年02月20日
雪兵の 攻め来たる朝 応戦す
昨夜からまとまった雪が積もり早朝の雪かきである。他の家でも同様に朝の作業である。仕事に出かける自動車はヘッドライトを灯して坂を下りてくる。雪の朝に見られるいつもの光景である。2月の下旬でも冬将軍配下の雪兵の攻撃は止まない。
2014年02月19日
体毛を 膨らませ居て ツグミなり
悪天候が続く。雪かきに外に出ただけで後は家の中でパソコンに向かう。窓の外を見ると桜の木にはウソは見えずツグミが体毛を膨らませて風と寒さに耐えている。松の葉陰や林の中に居場所を見つけた方が良さそうなものを、と思ってしまう。
NPO北海道地域ネットワーク協議会(NORTH)が創立20周年を迎えるということで、記念のシンポジウムが2月(2014年)の中旬に北大学術交流会館で開かれた。同会会長の札幌医大教授辰巳治之先生から記念特別講演を頼まれ、「北海道パノラマ写真風土記プロジェクト」と題した講演を行った。
以前筆者は北海道コンピュータグラフィックス協会を立ち上げ、1987年に「札幌国際コンピュータグラフィックスシンポジウム」の第1回目を開催した。これは前年に創設された(財)札幌エレクトロニクスセンターの1周年記念行事の一環でもあった。このシンポジウムはその後毎年1回で8回行われ、1995年には「インターメディアシンポジウム」と名前を変えている。国際CGシンポジウムの2回目には辰巳先生も大阪から参加で、この時の先生の所属は阪大医学部となっている。
同シンポジウムの4回目では辰巳先生の所属は札幌医科大学と記されていて、先生は前年(1989年)には札医大に移られている。医学部での専門分野は解剖学と聞いているけれど、情報やネットワークの分野で活躍されているのが前面に見えてきて、医学部の先生という感じがしない。それでも「情報薬」といった話では、情報通信技術を積極的に用いて患者の治療に当たろうとしていて、本業は医学である点を確認させてくれる。
今回のシンポジウムは、辰巳先生の医学やネットワーク関連分野の人脈を動員して行われている。種々の団体にも関与していて、「札幌シニアネットワーク」の顧問として同団体を支援している。同団体は会員が600人ほど居て、常時何かの活動が行われているそうである。超高齢化社会に薬効のある「情報薬」の治験とも考えられる。
講演会前に学術交流会館ホールで辰巳先生のパノラマ写真を撮る。丁度室蘭工大名誉教授の久保洋先生が受付のところに現れたので久保先生にもパノラマ写真に入ってもらう。久保先生は1967年北大工学部精密工学科を卒業していて、筆者は学年では3年上になる。電子工学科と精密工学科は当時新しくできた学科で、事務が共通であった。久保先生とは当時顔を合わせていたことになるけれど、この点に話が及んでもこれといった具体的な記憶がない。
久保先生とは1985年に北海道拓殖銀行が主催した「米国先端産業集積地域調査団」に団員としてご一緒した。この時の久保先生の所属は室蘭工大産業機械工学科教授である。当時の久保先生の研究テーマがどんなものであったかは知らないが、室工大を定年退職される頃は情報工学科所属で「感性工学」が研究テーマであった。
室工大退職後は感性工学の研究成果を企業化しようと合同企業「ノースラボ」を立ち上げておられる。同社の商品として化粧水やクリームが並んでいて、感性工学とはこんな範囲にも及ぶものかと意外な感じがした。久保先生は70歳を超えても、研究成果を企業化する熱意は消えていないようである。
(左端:久保洋先生、右隣:辰巳治之先生)
2014年02月18日
売れ行きの 気になる自著が 棚並び
北海道地域ネットワーク協議会(NORTH)の20周年記念シンポジウムの特別講演を頼まれ、会場の北大学術交流会館まで出向く。会館に隣接する北大交流プラザ「エルムの森」に寄る。店内の棚に自著が並べられているところをパノラマ写真に撮る。
2014年02月17日
閉店と 翌日に知る ぱんぢゅう屋
偶然に近い事はあるものだ。2月14日に狸小路を歩いていて、何気無く「ぱんぢゅう屋」のパノラマ写真を撮った。1945(昭和20)年創業のこの名物店は、2日後の16日に閉店した事を本日知った。新店は小樽の「田中ぱんぢゅう店」跡に移る。
2014年02月16日
ウソの口 花芽咥えて 気落ちなり
今朝もウソがソメイヨシノの枝に居座ってせっせと花芽を食べている。写真を撮って拡大すると嘴でしっかりと花芽を咥えている。この様子では桜の枝の花芽がとことん食い尽くされる勢いである。今年の春の桜見は絶望的で、気分が落ち込む。
2014年02月15日
「経済界」という雑誌がある。以前、何度かこの雑誌の取材を受けたことがある。特集のグラビアページにまで取り上げられたのは2001年6月12日号で、特集は「土壇場で見せるか、開拓者精神-「札幌」どん底からの出発」である。プロのカメラマンがやってきて、教授室や講義中の教室、テクノパーク、Bizカフェ、はてまた自宅庭で畑起こしをしている写真まで撮られ、同誌に載った。
多分、記事が出てから後だと思うけれど、同誌を発行している「経済界」の社長だった故佐藤正忠氏が札幌に来られ、ホテルでの朝食に誘われた。ホテルのレストランでの朝食かと思っていたら、スイートルームでルームサービスの朝食でびっくりしたことがある。書道家の氏は、ホテルでも書の作品制作中でもあり、食事中に書の個展の話になったのをぼんやり覚えている。
正忠氏は2013年に85歳で逝去されている。それ以前の2001年に同社の社長は長女の有美氏にバトンタッチされていて、有美氏の社長業は、12年間続いている。有美氏は秋田で幼少時代を過ごし、東京で仕事をした後、現在の会社に勤めて20年間が過ぎている。
今回「経済界」主催の講演会があり、有美氏はそれに合わせて来札である。講演会の講師は、江戸しぐさ伝承者でラジオパーソナリティの山内あやり氏である。講演の方は「いき」と「やぼ」の対立する言葉を取り上げ、西(関西)の「粋」、東(江戸)の「いき」、商売で「野暮」と言われたら「いき(生)」が無い等のイントロダクションから始まる。現代のビジネスに通じる江戸の「思草(しぐさ)」についての解説が続く。道産子には江戸は遠いけれど、日本人の共通のベースでの話であるので、社会生活を送り仕事をする上でもっともな知恵と教えは、具体例でも納得する。
懇親会の時、これはよいチャンスと有美氏と山内氏に並んでもらい、パノラマ写真を撮る。撮影後有美氏と少し雑談である。有美氏の趣味はゴルフと似顔絵描きである。モデルと描いた似顔絵を並べた写真をケータイで見せていただいたが、絵心があり上手なものである。筆者もスケッチを基に画文集を出しているけれど、1枚のスケッチに1時間以上はかかるので、5分で描ける有美氏の技には驚く。
山内氏は著書「江戸しぐさに学ぶおつきあい術」を幻冬舎から出版していて、講演会場で販売である。懇親会が著書のサイン会のようになって、著作とサインを求めた講演参加者との話に忙しい様子なので、名刺交換程度で終わる。インターネット情報では山内氏は静岡県出身で、鶴見大学文学部日本文学科卒業、「江戸しぐさ語り部の会」主宰者の越川禮子氏に師事し、NPO法人江戸しぐさ理事である。それにしても「あやり」とは変わった名前である。
(佐藤有美氏(左)と山内あやり氏(右)、画面をクリックでパノラマ写真)
奥宮や ここは山頂 三角点
平地にある神社の奥宮が山頂にある。小さな鳥居と放送会社から奉納された銅板付きの社殿が、一等三角点と並んである。山頂の林立するアンテナ群と小さな神社の対比が面白い。山頂の広場がそのまま境内となり、眺めが抜群の高所神社である。
2014年02月14日
雪ミクは 祭りの後も 仕事なり
さっぽろ雪まつりは終わっても、雪ミク市電が走っている。札幌生まれの、世界的人気のアイドル歌手初音ミクにあやかって、札幌市が雪まつりに合わせて採用している雪ミクが市電に描かれている。市電の停留中にパノラマ撮影を試みる。
雪壁が 現れ児童 遊ぶなり
午前中から街に出て、午後に我が家へ帰る道の除排雪が進んでいる。道路の雪の山が垂直に切り取られ、整然とした雪の壁が出現している。学校帰りの児童がこの雪壁をなぞったり、雪が削り取られた路面に立ち止まったりして遊んでいる。
2014年02月13日
十年前の2004年に成都市を訪れている。最初に成都市を訪れたのはさらにその十年前の1994年で、この時は楽山大仏を見て描いたスケッチが残っている。2004年の訪問時に初めて「成都華日通訊技術有限公司」を訪れ、董事長(社長)の莫景猷(Mo Jing You)氏にお会いしている。莫氏は当時研究室の博士課程に在籍していた莫舸舸君の父親である。
昨年(2013年)成都旅行時に上記会社を訪れ、莫景猷氏の董事長室でパノラマ写真を撮る。莫氏はお元気で、息子夫婦の通訳で札幌からの訪問グループと四方山話となる。会社の仕事は息子夫婦にバトンタッチが行われたようで、大人数となったグループ企業を大所高所から見守る立場にあるようだ。
莫氏は、元は人民解放軍に籍を置く研究者であった。筆者が立ち上げた「札幌-瀋陽計算機応用国際学術会議」の第2回目は1986年に札幌で行われた。その論文集に莫氏の論文が収録されている。莫氏は札幌まで来ることはできなかったけれど、20年後には息子が北大情報科学研究科で研究生活を送っている。
第二の経済大国まで成長した中国では多くの成功した企業人を輩出している。莫氏のその中の一人である。氏の夫人の楊治敏さんも又企業家である。楊さんは日本留学の経験があり、日本語に通じている関係で、成都市で一時期筆者が展開したパンダ支援プロジェクトでもお世話になっている。
莫氏のオフィスで撮ったパノラマ写真を回転して見ると馬の置物がある。莫氏の生まれは午(馬)年で、巳年生まれの筆者が1年先輩に当たる。莫氏の論文の載った論文集を持ち出してきて、論文のページとパノラマ写真を重ねて撮ってみる。莫氏と出会ってからの20年の歳月の流れが、瞬時であったような気もしている。
2014年02月12日
祭り去り 短き命 尽きるなり
雪まつりから1夜明ければ午前中から大雪像の解体作業が始まる。制作するのに一か月はかかった大雪像も、壊すのには1時間もあれば終わる。相棒のムックが重機で削られていくのを見たガチャピンは直ぐに自分の番だと観念の目つきである。
2014年02月11日
母子の見る 電飾と月 雪まつり
大通公園西2丁目の雪まつり会場でテレビ塔を見上げる。満月に近づきつつある月が天空にある。パノラマ写真を撮る横に山内壮夫の「花の母子像」がある。雪まつりで会場を訪れた人は雪像や氷像を見ても、母子のブロンズ像を見る事はない。
雪像に 舞う火の鳥や 夜を焦がし
夕方に雪も止み、暖かったので最終日の雪まつりを見てくる。お目当ては雪像をスクリーンにしたプロジェクション・マッピングで、インド北部のアーグラーにあるイティマド・ウッダウラー廟の雪像にハスの花や怪鳥の映像が映し出された。
2014年02月10日
2014年02月09日
角田道彦氏の支社長室に通された時の強烈な第一印象はその眺めの良さであった。角田氏が勤める三井物産北海道支社は日本生命ビルの11Fにある。支社長室はこのビルの北西の角にあり、西側の窓の下には北海道庁、さらに視線を上げると手稲山から三角山、藻岩山と札幌の都心部から眺められる山並みが続く。北側の窓からは近くにあるJRタワーが目に飛び込んでくる。2年前に、シンガポールから札幌に転勤になった時、オフィスから眺められるこの景観を見て社員が英気を養うようにと、オフィスの西側のブラインドは1日に1度は全部上げるように支社長命を出したというのは頷ける。
暑いシンガポールから雪の舞う札幌への転勤は寒さが堪えるのでは、と尋ねると、雪は好きだとの答えが返ってくる。幼稚園の頃札幌に住んでいた経験があり、横浜国大時代にスキー部で長野辺りに行っていたので、近場にスキー場のある札幌は恰好の勤務地のようである。因みに出身地を聞くと、新聞社に勤めていた父親の転勤で全国各地を動いたので、出身地と聞かれると答えに困るとのことである。強いていえば、最も年月が長かった東京かな、とのことである。
主な仕事はプラント関係で、海外勤務も多く、カナダ、台湾、マレーシア、シンガポールの支社で働いた経験の持ち主である。カナダのバンクーバー市の駐在の話では、筆者もケベック市のラバル大学に留学していたことがあるので、向こうの生活の感じはつかめる。部屋の壁にはサハリン全図が張ってあり、聞いてみると同社はサハリンの液化天然ガス(LNG)の開発と輸入を行っていて、そのパイプラインが地図に書き込まれている。
同社は百年先のことを考え、北海道に森を育てているのは初めて聞く話である。森を育てることは林道の整備も同社が行うことになる。商社の扱うものに木材はあるだろうけれど、国産材を今すぐ商売の対象にする、といった話ではない。大きな会社になると、長期の視点で、国土保全といった点からのプロジェクトにも関係するようだ。
文化面でもそのような試みが行われているようである。部屋の壁にはアイヌ・コタンの写真がある。その写真はある仕掛けの合成写真なのだが、プロジェクトは水面下で検討中であり、社内で正式に承認されていないとのことなのでここに書く訳にはゆかない。しかし、技術者としての筆者の目から見て、そんなことが可能なのだろうか、と思ってしまう。もし、それが実現されるなら、アイヌの象徴空間創造に大いにインパクトのあるプロジェクトだと思った。
蛇足ながら「角田」は「つのだ」、「かどた」、「すみた」と発音でき、本人を目の前にしてどの発音だったと迷う。実際会話中に間違った発音をしてしまったが、それは度々起こることなのだろな、と思った。
ふくふくと フクロウつがい 福念じ
雪まつり大通会場を歩いていたら、フクロウのつがいの雪像が目に留まったのでパノラマ写真を撮る。制作者は北大自然研究会で、雪像名は「ふくふく」となっている。フクフクとしたフクロウが幸せを運んでくれる願いを込めたと説明にある。
2014年02月08日
光合金製作所会長の井上一郎氏は1934年生まれで、この2月には80歳になられる。小樽港町の波止場に隣接する同社本社を取材で訪れた時も相変わらずお元気であった。昨年(2013年)11月、筆者の北海道功労賞受賞祝賀会に井上氏に乾杯の発声をお願いしていて、井上氏も2009年に同賞を受賞しておられる。
同社は不凍給水栓を製造販売しており、観光地小樽運河からも近い本社は管理・営業部門だけで、工場は小樽市朝里にある。以前「小樽・石狩秘境100選」(共同文化社、2007)を出版した時、朝里工場の取材でお世話になったこともある。
井上氏は室蘭工業大学を卒業後、小樽商大に籍を置き、その後北大衛生工学科の助手を5年間勤めて現在の会社に入社した。衛生工学科時代には水処理が研究テーマだったので、北大での研究が現在の不凍給水栓の製造に生かされている。
同社は一郎氏の父親の良次氏が1947(昭和22)年に創業しており、一郎氏が2代目社長、一郎氏の息子の晃氏が3代目社長である。社名にある「光」は戦後の混乱期に「光明あれ」と創業したことによっている。
木造2階建ての本社の応接室は表彰状で囲まれている。副賞の置物も所狭しとテーブルの上に並べられている。一番新しいものは昨年の「北海道新聞文化賞」で、これは井上氏が中心になって活動してきた「伊藤整文学賞の会」に与えられたものである。同賞で贈呈された安田侃氏の作品のブロンズの置物もテーブルの上にあった。
井上氏とは随分長いお付き合いで、1985年北海道拓殖銀行が主催した「米国先端産業集積地調査団」の31名の団員に、井上氏も筆者も加わっている。1986年には札幌のIT産業の拠点として、サッポロテクノパーク内に札幌市エレクトロニクスセンターが開設されていて、後にサッポロバレーと呼称される札幌情報産業の黎明期に当たっている。
筆者は2005年に北大を定年退職し、その後3年間札幌市エレクトロセンターのオフィスで仕事をした。その時ITと関係のない都市秘境探索を開始している。前記のように都市秘境を探して小樽まで取材に行った時、井上氏は小樽観光大使を務められていたかどうか定かではないが、現在は同大使を務めておられる。今回、井上氏から、氏が巻頭言を書かれた「小樽草子」の小冊子を手渡された。この小冊子から、井上氏が本業の傍ら、観光による小樽地域振興にも力を尽くされているのを読み取ることができた。
(父・良次氏の肖像画の横に立つ井上一郎氏)
2014年02月07日
予想外 撮る人まばら 人気像
朝刊にさっぽろ雪まつりでの「雪ミク人気過熱」の記事が出ている。約束があり街に出たついでに、大通11丁目会場にある雪ミク像のパノラマ写真を撮る。時間のせいか天気のせいか、予想に反して、雪ミクを撮る人の姿をほとんど見なかった。
2014年02月06日
2014年02月05日
化粧顔 衣装も冴えて 雪舞台
マレーシアから来た踊り手達が、首都クアラルンプールの代表的な建築物の大雪像の前で踊りの披露である。室内の舞台であれば舞台も色がつく。これに対して、大雪像をバックにしての雪舞台では白一色なので、衣装や化粧顔の色が冴える。
南国の 建物移築 雪まつり
用事があったので街に出る。今日から65回目の「さっぽろ雪まつり」である。大通公園で大勢の見物客の中でパノラマ写真撮影を試みる。大雪像の案内には「スルタン・アブドゥル・サマド・ビル」とあり、クアラルンプールにある建築物である。
北海道観光の宿泊で評判の高い鶴雅グループを率いる大西雅之社長とは、何かの委員会で顔を合わせている。しかし、かなり以前のことでもあり、どんな会合であったのか記憶が定かでない。最近は北洋銀行会長横内龍三氏の主宰する「北海道シマフクロウの会」の設立総会で、たまたま大西氏の隣の席に座った。その席で、当方の北海道功労賞受賞の記念品として配るものに、北海道らしいもの、例えばシマフクロウに関した小物がないか、と相談している。
大西氏のパノラマ写真を撮りたいものだと思っていても、氏の本拠地が阿寒町で、加えて出張も多そうで、これは無理かと思っていた。ところが、今年(2014年)の2月2日に、札幌大学副学長の本田優子先生が進めてきたアイヌの長老・エカシ全身の木彫像をJR札幌駅西コンコースに設置するお披露目のセレモニーがあった。大西氏は来賓の一人として出席されていて、北海道観光振興機構の副理事長として挨拶された。
この機会に大西氏のパノラマ写真を撮ることを試みる。今回のセレモニーの主役の本田先生にも並んでもらって、パノラマ写真によるツーショットである。報道陣や見物人が取り巻くところでのパノラマ写真撮影は難しい。それでも撮影写真を張り合わせて、どうにか見られるパノラマ写真となる。大西氏と本田先生が並んだところのパノラマ写真は記念すべき一枚として残るだろう。
ホテルは泊まることはあっても、経営に関する知識は皆無で、大西氏にホテル業に関連して問いかける質問は思いつかない。穏やかな人柄で、これはホテル業という性質上そうなのか、職業を離れてまったく個人的なことなのか、判然としない。ホテル業にITを取り入れ、多様化する客のニーズに対応させ、質の向上を目指すこと心掛けているとインターネットで氏のインタビューを読んだ。しかし、それに類する話をご本人の口から直に聞いたことはない。
日本の人口減少時代に向かって、ホテル業界は地域間競争が激化する。客を呼び込む地域の魅力は何か。北海道が優位に立つ自然と食。文化はどうか。和人の文化は歴史が浅くても、アイヌ文化がある。これをもっと知ってもらい、民族の共生に生かしてゆくことが結果的に観光産業への寄与となって帰ってくる。この点でアイヌ文化研究家の本田先生と共有するものがあり、今回エカシ像を挟んでのパノラマ写真撮影につながっている。
2014年02月04日
STVテレビに「Do!アンビシャス」という番組があった(2013年3月で終了)。道内で活動しているユニークな人物に密着して取材して放送する番組である。1年前(2013年)番組の制作担当部門から打診され、同番組作りにお付き合いすることとなった。取り上げられたテーマは「爪句」で、パノラマ写真を撮って爪句を捻り出す趣味の世界に焦点が当てられ、1週間ほどにわたっての取材となった。
番組担当のデレクターは札幌映像プロダクション所属の成田清美さんで、番組作りのためSTVに派遣されていた。札幌円山とか羊ケ丘のような絵になる場所での取材の他に、駅のパノラマ写真を撮っている様子も撮りたいとの申し出がある。そこで留萌本線はどうか、ということで泊りがけでの取材となる。同行者は福本工業の福本義隆社長と同社のパノラマ写真家の山本修知氏である。
深川駅からパノラマ写真撮影グループはレンタカーで出発する。それをSTVのスタッフが追いかける。北一已駅で雪の駅舎やホームでパノラマ写真を撮影しているところをテレビカメラが録画撮りである。パノラマ写真を撮っている様子をテレビカメラで撮るということは、こちらのパノラマ写真に取材スタッフが写るということでもある。パノラマ写真に写っているカメラマンは喜井雅章氏、音声担当は松本尚也氏であった。
この日(2013年2月7日)は留萌本線の終点の増毛駅まで行っている。増毛町では国希酒造にもカメラを入れている。増毛駅の隣駅の箸別駅にも寄ってパノラマ写真を撮る。取材初日は留萌市内泊となる。
翌日は留萌駅を出発して深川駅方向に向かってパノラマ写真撮影となる。大和田駅まではSTVの取材スタッフも一緒についてくる。大和田駅からはSTVのスタッフと別れて、テレビカメラを気にせずにパノラマ写真撮影だけに注意を集中する。
成田さんの経歴を後で聞くと、24年ほど前にテレビ制作の仕事に入り、出産のため退社、二人の子どもの母親で、現在は「どさんこワイド179」のデレクターを勤めているとのことである。番組の数字179は北海道の市町村数である。平成の大合併により市町村数もかなり減ったものだと気がつく。
成田さん(中央)とスタッフ。パノラマ写真に離れて写っているのは山本氏。
2014年02月03日
後に「サッポロバレー」と称されるようになる札幌情報産業の黎明期に、キーパーソンの一人に三浦幸一氏がおられた。「ソード札幌」の役員として同社を立ち上げ、後に「テクノバ」社の社長になっている。惜しむらくは、2000年に57歳の若さで亡くなっている。三浦氏の死が契機で、2000年に「三浦・青木賞」が設けられた。札幌や道内のIT業界の新人を発掘して表彰しようとする目的の賞であった。
社会人と学生の部門の大賞入賞者には、賞金50万円の他に副賞としてブロンズ像を贈呈することになった。そのブロンズ像の制作を彫刻家の國松明日香氏に依頼した。出来上がった像は抽象的なもので、なんとなくモアイ像に似ていることから、関係者間では「デジタル・モアイ像」と呼んでいた。賞は5年間で終了する予定のプロジェクトで、像のプレートには第1回から5回までの授賞式の日付が彫り込まれるスペースが空けてある。4回目まで授賞式が行われたが、5回目は授賞式の記録がなく記憶も定かでない。確かめたことはないけれど、國松氏はこの小物の作品については、制作したことを忘れているかもしれない。
國松氏とは「伊藤組100年基金」の評議員や「北海道アートマップ」編集制作検討委員会などでご一緒させていただいている。札幌市立高専の教授時代には同校の先生の研究室を訪問したことなどもある。「カスケード」社の服部裕之社長がイサム・ノグチの作品の蹲(つくばい)を札幌市に寄贈した。2013年11月に行われた贈呈式で、ガラスのピラミッドの会場で國松氏を見つけてパノラマ写真撮影となる。
國松氏は1947年小樽生まれで、父親は國松登画伯である。長男希根太氏も彫刻家なので、芸術家の家系である。明日香氏の作品は南6条西5丁目の交差点のところにある「出逢い」のような具象作品は初期のもので、鉄製の抽象作品を制作し、札幌市内や道内に多くの作品が設置されている。作品を見るとすぐに國松氏のものであるとわかるものが多い。鉄を素材にすると重くて加工が大変だ、と何かの折に聞いた記憶がある。
(パノラマ写真はガラスのピラミッドでの國松明日香氏)
2014年02月02日
木彫の エカシ生まれて カムイノミ
札幌大学の本田優子副学長を中心にして、アイヌ文化をテーマに活動する「ウレシパクラブ」がある。その活動の一環としてJR札幌駅西コンコースにアイヌ・エカシの木彫を設置するセレモニーが行われ、学生達によるカムイノミが実演された。
雪道を 黒き重連 通過なり
摩周駅で石炭と水の補給を受けたSL湿原号が川湯温泉駅に向かって出発する。これを摩周駅の近くの踏切で待ち構えてパノラマ写真で撮ってみる。走行方向と逆向きになり、重連のSLが雪景色の中で白煙を吐きながら客車を牽く光景は珍しい。
2014年02月01日