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2015年12月14日

HPFhito100・修士修了でも「ドクター国本」と呼ばれるヤマハ(株)主席技師の国本利文氏

 研究室の成果をまとめた論文集に、黄ばみかけた論文別刷りが綴じられている。その中の一編に1983年1月号の電子通信学会論文誌(A)に載った「ARMA群遅延フィルタの統計的設計法」の論文がある。筆頭著者は国本利文君で筆者との共著論文である。論文には同君の所属が日本楽器製造(株)と記載されていて、修士課程の研究が学会誌に論文で掲載されたのは修士修了後であった。
 前記会社は1987年にヤマハ(株)に社名を変更していて、社名は創業者山葉寅楠から採っている。山葉は1889年浜松でオルガン製作の山葉風琴製造所を設立した。そのヤマハ(株)の研究開発統括部戦略担当主席技師国本利文氏の講演会の案内が、講演当日メールで届く。同氏が修士課程修了後30年以上も経っていて、懐かしさも手伝って北海道総合研究プラザで行われた講演を聞きに行く。
 国本氏は1957年札幌で生まれている。札幌旭丘高校卒業後北大に進学、1982年北大工学部電気工学科修士課程を修了している。当時の筆者の研究テーマはホログラム信号処理であったので、それに関わる研究テーマを与えていたはずである。しかし、実際の修士論文の研究成果は前述の論文にあるもので、独自に研究テーマを見つけて成果を出している。
 講演は国本氏の略歴から始まり、ヤマハの音楽教室に通う子ども時代があったそうで、それがヤマハへ就職する伏線であったのをこの講演会で初めて知る。就職担当の教官に当たっていないと、学生の就職先選択の動機など込み入った話を聞く機会はほとんどない。
 講演会資料の講師プロフィールに「在学中に立東社の「だれにもわかるエフェクター自作&操作術」のライターとして業界デビュー」とある。この立東社も初めて聞く会社名で、「Jazz Life」という音楽雑誌を出していて、前記の原稿はこの雑誌への寄稿のようである。音楽よりは、音を作り出す電子機器に興味があったと講演での自己紹介であった。なお、立東社は2001年に倒産している。
 入社後はヤマハの主力製品のシンセサイザーの音源部分の研究開発を手掛けている。講演会でも、時代を追って開発された音源のモデル音をパソコンでデモしていた。楽器の物理モデルに関して入門的な話をしていたけれど、専門外の聴講者には理解が及んだかどうか。FM音源と古典的ピアノの電子音の差ぐらいは音(音楽)に強くはない筆者にも分かった。それにしても、この分野は電子機器とデジタル信号処理技術で長足の発展を遂げている。
 国本氏は2010年から3年間ヤマハ(株)研究開発センター長として同社の研究開発の陣頭指揮を執っている。56才を過ぎて役職定年になり、現在は同社研究開発統括部戦略担当主席技師として後進の研究者や技術者の指導に当たっている。自身もより現場近くの研究に戻る機会を得たようで、研究者、技術者としてのやり甲斐があると言っていた。
 講演の冒頭に初音ミクのイラストが出てきて、これがヤマハのボーカロイド製品を応用している事をこの場で初めて聞いた人が多かったのではないだろうか。講演後、今回の講演会をメールで教えてくれた国本君と同期の中本伸一君が筆者にマイクを手渡して何か質問するようにとのことで、ヤマハのボーカロイド技術と初音ミクの技術の境目がどこにあるのか、といった事を聞いてみる。大雑把に言えばボーカロイドの基本技術はヤマハ、その利用技術を初音ミクを生み出した札幌のクリプトン・フューチャー・メディア(株)で開発したといったところか。国本氏の講演の演題が「楽器のヤマハ、音のヤマハの音楽へのこだわり」に対してクリプトン社のコンセプトが「音で発想するチーム」であることが、両企業の性格の違いを表しているともいえる。
 講演会の橋渡しをした北大の山本強教授も講演会に来ていた。国本君が修士の学生の頃、山本先生は同じ研究室の博士課程の学生だった。博士課程を卒業していなくても、会社ではその研究開発の実績から「ドクター国本」と呼ばれていると聞いたのは山本先生からだったと記憶している。現在、社会人入学で北大の博士課程の学生になり、博士号取得の過程にあると聞いているので、近い将来名実共に「ドクター国本」が誕生することになるのだろう。


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(北海道総合研究プラザの国本利文氏 2015年12月10日)

2015年12月12日

HPFhito99映画「杉原千畝」で注目のリトアニア共和国名誉領事の藤井英勝氏

 2015年12月に封切りになった映画「杉原千畝」の1面全面広告が北海道新聞に掲載された。その広告の下欄に「国内初のリトアニア共和国名誉領事館が札幌にあるんです」の見出しで、同領事館名誉領事の藤井英勝氏の写真が載っている。名誉領事館のある場所は札幌市中央区大通西11丁目の藤井ビル内である。
 日時を合わせ、藤井ビルの9階のオフィスに藤井氏を訪ねる。オフィスの入口のところにリトアニア共和国と日本の国旗が立てられている。以前道新文化センターの街歩き講座で、札幌市民と共にこの名誉領事館を訪ねたことがあるのを思い出す。応接室で藤井氏のパノラマ写真を撮影し、簡単なインタビューとなる。
 藤井氏は1944年に雨竜町で生まれている。札幌東区にある光星高校に入学する時に札幌に出て来くる。高校から東海大学短期大学部に進学し、電気通信科を卒業している。弱電関係に興味があったので電気通信を選択したとのことで、この専門分野の職業に就くつもりはなかったようである。
 大学卒業後の1967年に藤井ビルに入社し、1988年には社長に就任している。現在は会長職にあり、70棟の自社所有及び管理マンションの管理運営をする社業は息子の將博社長が先頭で陣頭指揮である。藤井氏とリトアニアとの縁は、同国のアルギルダス・クジス駐日大使が北大大学院に留学していた当時に知り合ったことに遡る。この縁で、2004年に国内初のリトアニア共和国名誉領事に就任している。リトアニアには親善訪問団団長の時も含め、3回ほど訪問しているとの事である。
 リトアニアはバルト三国の最も南に位置する国である。第二次世界大戦以前にはポーランド・リトアニア共和国であったのが、ポーランド分割によりリトアニアはロシア帝国に編入される。ロシア革命後独立を果たすがソビエト連邦に併合され、大戦中ナチス・ドイツに支配され、戦後はバルト三国がソビエト連邦の構成国になっている。ソ連邦崩壊に先立つ1990年に独立宣言を行っている。2004年には北大西洋条約機構に加盟している。
 前述の映画は、主人公杉原千畝領事がリトアニアのカナウス領事館に赴任し、ナチス・ドイツの迫害に合ったユダヤ系難民に日本通過のビザを発給し続け、6千人もの人々を救ったという史実に基づいている。映画にも当時のリトアニアを取り巻く国家間の複雑な関係が描かれている。
 独立後間もない同国と日本との関係は広く知られることがなかったけれど、前記映画でリトアニアの知名度が上がるようにも思われる。藤井氏に札幌とリトアニアを結ぶものを訪ねてみるけれど、これといったものがない。リトアニアは製造業が重要産業で、家具や建築用品などがあり、ビルの窓枠などの輸入を検討しても、遠い国なので輸送コストが加算され、リトアニア製品を札幌で見ることはほとんどないようである。
 話題を変えて藤井氏の趣味などを伺ってみる。ゴルフやマージャンとのことであるけれど、そのどちらとも趣味が重ならない筆者としては話しの接ぎ穂を失う。道新文化センターの講座で札幌市民を連れて来るのでリトアニアの紹介をしてもらう企画の話も、話下手なのでとやんわり断られる。リトアニアはやはり遠い国のように思えてくる。


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(藤井ビルの会長室での藤井氏 2015年12月10日)

2015年11月19日

HPFhito98札幌時計台ギャラリーでの個展と二人展でご縁のできた画家小倉宗氏

 画家小倉宗氏の札幌時計台ギャラリーでの個展のハガキが届く。小倉氏は岐阜県大垣市に住んでいて、札幌の知人(画家佐藤武氏)に個展の準備等を依頼しているようで、本人は札幌までは来ないかも知れないと思っていた。以前にも同様な個展があって、会場で姿を見ることがなかったのが記憶に残っている。
 今回(2015年11月)も個展の二日目に行ってみて、会場で小倉氏が来札されていないのを確かめる。しかし、あるいはと思って最終日にもう一度会場に出向いてみると小倉氏が居られる。小倉氏と知り合いになった20年以上も昔の、このギャラリーでのお互いの展覧会に話が及ぶ。
 1993年の2月に筆者は「青木由直・岡林茂二人展」を前述のギャラリーで開催している。この時向い側の部屋で個展を行っていたのが小倉氏で、これが同氏と知り合うきっかけになっている。今回小倉氏と昔話をしていて、この年を小倉氏は正確に覚えていた。小倉氏にとっては記念すべき個展であったとの話である。なお、筆者の方の二人展の岡林氏は既に故人となられた。
 小倉氏は1959年生まれの大垣市出身(出版された絵本にある著者経歴では北海道厚田村出身だが、小倉氏の口からは大垣市出身)である。1993年の個展を開いた頃は厚田町に住み、塗装業(ペンキ職人)で生活していた。北海道に来たのは小倉夫人が北海道の人だったことによるのか、北海道に来てから結婚されたのかその辺について詳しくは聞いていない。ただ、北海道で仕事を探すとペンキ職人の求人が多くて、それに決めて来道されたそうである。ペンキ塗りの仕事の合間に絵を描いていた。
 厚田町(現在は石狩市)から出身地の大垣市に戻ってからの仕事は、しめ縄の卸の営業である。定時に仕事が終わるので、絵を描くのには適した職であると話しておられた。因みに毎日の平均で出勤前に2時間、帰宅後に2時間の計4時間は絵を描いているので、これまでかなりの枚数を描いてきている。小倉氏はアクリル画で、乾きが速いことも量産の手助けになっている。これまで2000枚ほど描いていて、そのうち500枚は売れている、というからもうプロの絵描きである。
 絵を描く人との会話では、絵を描いて生活ができるか、否それは無理だろとのお決まりの話になる。小倉氏には絵に関連した特技があり、これが絵を売ることにつながっている。それは額の手作りである。小倉氏の絵は全て小倉氏手製の額に納まっている。特にペンキ職人であったので、その技術を生かして額の仕上げの塗装をプロ並みのものにできるそうである。手作りの額であるため、額付きの絵の値段を抑えることができ、販売につながる。
 小倉氏はこれまで絵本も出版している。「じゃんけん戦争 あっちの国こっちの国」(新風舎 2005年7月)があり、出版後に1冊送られてきた。絵本の著者の略歴に「北海道原田村出身」とあるのは「厚田村」の間違いだろう。絵本に載っている経歴には「絵本にっぽん新人賞」(1991年)、「岐阜県美術展県展賞」(1996年)が記載されている。12支マイカレンダーの絵も担当されていて、このカレンダーが送られてきたこともあった。このこともあり、今回お会いした時、筆者が制作に関わった「パノラマ写真で記憶する北海道の鉄道」の2016年カレンダーを進呈した。
 小倉氏の絵は独特なもので、一目で小倉氏の作品とわかる。小倉氏に同じような画風の他の画家が居るかとたずねたら、居ないだろうとの答えなので、どこかで小倉氏の展覧会があったり、作品が飾ってあれば迷うことなく小倉氏の名前が出てくる。最近は年に5,6回は全国で個展や展示販売会が行われていて、結構忙しいらしい。


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(札幌時計台ギャラリーで 2015・11・14)

2015年11月16日

HPFhito97:「私が社長です」で大量露出戦略の企業家アパホテル社長元谷芙美子氏

 経済界倶楽部札幌11月例会でアパホテル社長の元谷芙美子氏の講演を聞く。演題は「私が社長です」で、これは同氏のキャッチコピーでどこの講演会でもこの演題で話をしているようである。自身の露出度を高めることにより、社長自らが自社の広告塔になる戦略である。
 配られたノベルティグッズはレトルトカレー、インスタントコヒー、ミネラルウォーター等で、どのグッズにも同社長の派手な帽子姿の顔写真が印刷されている。これだけ徹底して本人を売り込まれると、実体がなければ冷笑の対象にしかならないだろうが、アパホテルという日本のホテル業界でNo1を狙うまで急成長してきている同社の社長として納まっている事実は、この露出戦略の説得力を感じさせる。
 もっとも、アパホテルを起業してここまで成長させたのは、芙美子氏の夫の元谷外志雄代表の起業家並びに経営者としての才覚によるもので、芙美子氏はマスコット的存在で営業活動の方面でアパホテルの成長に貢献している。
 以下はネット情報で拾ったものである。芙美子氏は1947年7月8日福井県福井市で生まれている。1歳の時福井地震で奇跡的に助かり、福井県立藤島高校卒業後福井信用金庫に入行し、小松信用金庫勤務の外志雄氏と知り合い結婚。1971年外志雄氏が起業した信金開発株式会社(現アパ社の前身)の取締役を経て、1994年現職に就く。2001年法政大学人間環境学部入学、2005年卒業。早稲田大学大学院公共経営研究科入学、2006年修士号を取得している。
 講演はアパホテルの成功譚を軸に、色々なエピソードが披露された。その中で元谷夫妻の機微を語る話として、インドのタージマハル廟旅行での夫婦の会話がある。芙美子氏がこの世界遺産にもなっている廟に葬られているマハル妃が、王にかくも愛されていたのかと夫の外志雄氏に言う。対して外志雄氏は、アパホテルの建物群を芙美子氏の働き場所として与えているではないかと応え、芙美子氏がタージマハル廟にも劣らない贈り物を外志雄氏から受け取っていると再認識した逸話である。夫婦間の惚気話でもあるとしても、事実を述べている話でもあるので聞くに値する。
 講演会後の立食の昼食会で芙美子氏のパノラマ写真を撮る。露出度を高める演出のためいつも着用している派手な帽子姿で集まった人と名刺交換をしている。こんな場では長めの話もできず、インタビューというにはあまりにも短い時間の名刺交換で(筆者はパノラマ写真の爪句集を名刺代わりにする)、写真撮影のため会場で少しの間動かないで立ってもらっただけである。ただ、後で何かの話をする時にデータとして利用できるかもしれない、ということで芙美子氏を撮ったものをパノラマ写真メモとして残しておく。


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(2015・11・6 札幌プリンスホテル国際館パミール)

2015年09月08日

HPFhito96:ロングトレイル・北根室ランチウェイ提唱者の佐伯農場当主佐伯雅視氏

 山登りを趣味にしているグループがあって、メンバーの一人がテレビで放送された「北根室ランチウェイ」を歩こうと言い出した。ランチウェイを最初耳にした時は、昼食を食べながら長い道のりを歩くのかな、と思った。ランチ(Ranch)とは大牧場を意味しており、牧場や山林を横切って歩き、宿泊所も牧場内や山小屋を利用する長距離徒歩旅行である。しかし、今まで耳にしたことにないトレイルの名称である。ランチウェイの途中には西別岳の登山も組み込まれているので、半分登山気分で行くことにする。
 メンバーは筆者も入れて4名で、札幌からプロペラ機で中標津空港に飛ぶ。メンバーの一人のF氏の高校時代の同級生久保俊治氏が空港まで車で迎えに来てくれる。久保氏は「羆撃ち」(小学館文庫、2012)の著者である。氏の車で「神の子池」の見学に行き、ランチウェイの途中にある開陽台で下してもらう。ここから第一日目の宿泊所となる佐伯農場までの10.1 kmを歩く。この佐伯農場の当主佐伯雅視氏がランチウェイの提唱者であり、このロングトレイルの整備を実践している。
 佐伯農場では敷地内の旧牛舎を宿泊施設として提供していて、ここに泊めてもらう。民宿といったものではなく、旅行者の宿泊ができるようにといった主旨で設けられている。従って、宿泊料金が設定されてはおらず、宿泊者が利用した謝礼を置いて行くシステムである。この宿泊施設にくつろいでいると佐伯氏が立ち寄り四方山話となる。トレイルから始まり、酪農業の現状、田園生活を教育に取り入れる話、等々と話題が尽きない。
 佐伯氏は1950年生まれの64歳(2015年)である。生まれは岡山県で、佐伯農場の初代の、父親の柾次氏が中標津に移住したため1956年に来道する。小学校、中学校、高校は地元中標津で終え、高校卒業後は江別市にある酪農学園大学に進学、卒業している。卒業後は佐伯農場に戻り、酪農業を継いでいる。1990年代には100頭の乳牛から搾乳し、年間乳量1000 tonを達成している。2000年に入り牧場敷地内にレストラン「牧舎」をオープンさせ、2004年には「ダンと町村酪農文化賞」を受賞している。
 佐伯氏は酪農業と生活文化の接点に興味があるようで、農場の人の生活空間に文化的なものを持ち込んでいる。佐伯農場経営のレストラン「牧舎」で夕食を摂った後、近くにある「荒川版画美術館」を見学する。荒川とは版画家の名前かと思っていると、後で佐伯氏から牧場内を流れる川の名前であると教えられる。版画家の方は地元ゆかりの根本茂男、細見浩、松本五郎の各氏で、作品が三部屋に展示されている。農場内の美術館とは予想もしていなかった。その他「ギャラリー倉庫」もあって、納屋の中に木彫が並んでいるのを覗いてみた。サイレージ用の牧草ロールが置かれてあり、これもアートの位置づけで、酪農業とアートを組み合わせようとしている。
 今回歩いたランチウェイも生活文化との関わりで見ることができる。氏はイギリスのトレイルを体験して来て、その思想を中標津で実現させようとしている。イギリスでは「歩く権利」が確立されていて、公共の道路は言うまでもなく、私有地でも歩くことができ、それが生活文化につながっている。日本でも地域に密着した「歩く権利と文化」を根付かせるようとして佐伯氏らは活動している。
 アスファルトの道路を歩くのではロングトレイルの魅力は半減する。第一、車道の脇を歩くのは危険なこともある。国有林内にトレイルを作ろうとすると、国の許可がなかなか下りない。それでも笹薮を刈り、歩く道を整備している話をしてくれる。イギリスのように「歩く権利」が普通の概念になれば、国有林であっても自由に歩け、むしろ国が国有林内を市民が歩くのに寛容であるべきだと思った。
 氏の話によると、ランチウェイを始めた2006年頃からの5年間はほとんど歩く人はいなかったそうである。10年経った現在は遠くから歩きにやって来る人が増えているそうだ。しかし、道内よりは本州から訪れる人が多いらしい。東京近郊の学生や子ども達に牧場内でキャンプを行う機会を作っていて、子ども達が大きくなってトレイルを歩くこともあると言っていた。確かに、道民にはこのロングトレイルの存在は今一つ知られていない。
 北根室の地のロングトレイルを歩く人を増やし、満足させるためには課題も多い。只歩くだけなら札幌の近郊の森林公園や牧場でも良い。道東の自然に加えて、この地で酪農業に従事している人々が根付かせる文化的なものが歩く人にも伝わるような佐伯氏の工夫が周囲に拡大して行くと、北根室ランチウェイの名前はもっと広がりを見せるだろう。


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(旧牛舎の宿泊施設前での佐伯雅視氏:パノラマ写真)

2015年05月31日

HPFhito95:札幌の歴史と都市計画に造詣の深いノーザンクロス社代表取締役山重明氏

 山重明氏は北海道イトムカ出身の56歳(1959年生まれ)である。現在イトムカの名はほとんど耳にしないけれど水銀鉱山のあったところで、現在の所在地は北見市留辺蘂町である。北大経済学部に進学し、眞野脩教授の経営学ゼミ生となる。北大を1982年に卒業して北海道東北開発公庫に就職し、3年間勤めて退職する。退職後、東京でいわゆる土光臨調の民間スタッフとして加わり、国鉄分割民営化・地方分権等に携わって2年間仕事をする。
 東京での仕事に区切りをつけて札幌に戻り、1987年28歳の時現在のシンクタンクの会社「ノーザンクロス」を設立している。ノーザンクロスという星座に関する言葉はサザンクロス(南十字星)に対応した造語で、建築デザインの専門家であった北大の飯田勝幸先生からの助言で採用したそうである。北十字星は人や情報の交差点を意識したネーミングと話されていた。
 山重氏は会社の業種として「総合まちづくり」を掲げ、メインクライアントの札幌市からの依頼を受けて、札幌の街造りに助言を行ってきている。今回聴講した経済界倶楽部の札幌5月例会講演会の表題が「人口減少・超高齢化の札幌の街づくり」で、仕事柄札幌の歴史や都市計画に関して造詣が深い。
 氏の札幌の歴史のまとめによると、創建期が1860年代から1910年代の半世紀で、1869年の開拓使設置があり、開拓使判官島義勇の「五州第一の都」を目標にした札幌市のグランドデザインが描かれた史実の紹介があった。屯田兵による開拓や開拓使が指導した殖産興業が盛んになり、札幌は都市の形を整えていく。
 札幌市の拡大期は1910年代から1960年代の半世紀で、1918年の札幌の人口が13万人であったものが、周辺の町村を吸収しながら1970年には101万人に達したことからもわかるように、急速な都市拡大が行われた。
 拡大期に続く飛躍期を1960年代から2010年代の半世紀として位置づけている。この札幌市の飛躍期の牽引になったものは1972年の札幌冬季オリンピックである。山重氏はオリンピックでの男子スキージャンプでの日の丸飛行隊が表彰台を独占した活躍を目にして、感激した話をしておられた。国際都市札幌の都市文化に力点を置いての解説で、講演では触れられていなかったけれど、1960年に北大に創設された工学部電子工学科の第一期卒業生の筆者の立場では、高度経済成長に突入する日本の産業の人材養成のための新学科が北大に次々に創設された点が拡大期の札幌においても大きなウエイトを持つ。電子工学科の卒業生が興した情報産業ベンチャーを札幌市が施策に取り上げ、1986年には札幌テクノパーク造成と札幌市エレクトロニクスセンターの落成があり、札幌情報産業の幕開けにつながっていったのも札幌の飛躍期の一側面である。 
 半世紀毎の区切りで、2010年代から2060年代のこれからの成熟期は人口減少・超高齢化社会を迎える。札幌市の人口も今年(2015年)が増加から減少に向かう人口グラフの頂上の年であると紹介されると、改めて札幌市の将来について考えさせられる。今年は札幌市長が新しい顔の秋元克広氏になり、成熟期の札幌市の向かう方向性を定める必要に迫られるのだろう。そのような局面で山重氏の今後の活動が期待されるところである。
 ノーザンクロス社が発行している「カイ(KAI)」という雑誌がある。この季刊誌のコンセプトは「北海道を探しに行こう」というもので、第1号は2008年に発行されている。筆者も「北海道豆本」シリーズの「爪句集」を2008年から出版してきていて、この豆本は季刊みたいなもので、2015年現在で24集を数えている。ノーザンクロス社の季刊誌発行と筆者の個人出版は何となく似ているな、と思っている。因みに「カイ」の意味は北海道の名付け親松浦武四郎が、アイヌ語の「この土地に生まれし者達」を意味した言葉であると山重氏が知ることになり、誌名に採用した話も聞いた。
 山重氏の趣味について聞いてみると、少年野球のコーチだそうである。子息が少年野球をやっていて、その関係でこの趣味を15年間続けているとのことである。少年野球では話題の重なるところがないので踏み込んだ話にはならなかった。山重氏からは、7月には筆者の主宰する勉強会の講師で又お話を伺うことで約束を取り付けている。


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(東京ドームホテル札幌での講演準備中の檀上の山重明氏、右は経済界倶楽部札幌支局長小松久幸氏)

2015年04月18日

HPFhito94:起業の原点が札幌にあるソフトブレーン創業者の宋文洲君

 宋文洲君(学生時代から知っていて“君”付けて呼んでいたので)と会ったのは宋君が北大工学部の資源開発工学科の博士課程在学中である。1990年3月に博士課程修了で91年3月には同学科で博士号を取得しており、その頃が彼との出会いの最初の時期である。筆者はその頃「いんふぉうぇいぶ」なる小冊子を発行していて、同誌Vol.6,No.2(1991 April)に宋君に一文を寄稿してもらった。題は「A先生へ」でA先生とは筆者のことである。
 宋君と一番最近に会ったのは2015年の4月、札幌のホテルでの経済界倶楽部の講演会である。講演のテーマは「今でも変だよ 日本の営業 ~日本の営業は未だ世界に通じない~」というものであった。肩書はソフトブレーン株式会社創業者とあり、経営の第一線からは退いていた。宋君に現在の職業を聞くと無職との答えで、強いて言えば経済評論家かな、と言っていた。
 講演前に会場ロビーでパノラマ写真撮影となる。大学を離れて色々な事があったであろうが、四半世紀前の北大生時代や札幌で企業した頃の雰囲気と変わっていない感じである。宋君の札幌に関する感想は、四半世紀経っても街がほとんど変化していないというものである。中国では数年経つと、別の都市かと思われるほどの変わりようなのに、日本と中国のこの差が印象的であるとの感想は、筆者も同感である。
 宋君は1963年生まれで、中国山東省栄成市出身である。瀋陽市の東北工学院(現東北大学)を卒業後、中国の公費留学生として北大の資源開発工学科大学院に進学している。博士論文の研究は有限要素法による地下の解析といったもので、研究で開発した手法をパッケージソフトにしたものを売る「ソフトブレーン」を大学院修了後札幌で創業している。宋君の企業人としての成功の原点は札幌にある。
 講演では札幌での起業に際してのエピソードなどもふんだんに出てくる。起業の当初は入社希望者も居らず、どこにも就職できそうもない社員を雇った話など出てくる。これは話を面白くするためのところがあり、実際は筆者の研究室の修士課程修了者の七田真之君を入社させている。七田君は大手の企業に内定していたのに、宋君の勧誘で将来どうなるかわからない出来たばかりの会社に自分の将来を賭けたのだから、宋君の人心掌握術は大したものである。
 七田君について補足的に書いておくと、彼はその後ソフトブレーンの中国展開に関連して中国に滞在したりして、宋君が会長になった時2代目の社長になっている。年月が流れてある時突然七田君が筆者の前に現れ、医者の道に進みたいと、相談のような話しになる。色々な医学部を受験して、現在は群馬大学大学院医学系研究科脳神経再生医学分野の学部生になっているのをネットでみつけた。IT企業の社長から医学の学生とは、これまた生き方の大転換である。
 宋君は自分でも言うように営業が得意で、企業で責任ある立場にある北大の先輩たちを尋ねて、自社製品を売り込み、これが会社の発展につながっていく。2000年には東証マザーズに上場して、留学生が起こした企業では最初の上場企業となった。この頃、札幌は「サッポロバレー」と呼ばれ、札幌発のITベンチャー企業に全国からの注目が集まっていた時期と重なる。宋君の会社は2005年には東証1部に市場を変更している。宋君の企業家としての成功は、北海道の振興に関わるお役人や企業家の注目するところになり、講演依頼も相次いだ。そして企業家から評論家への下地が作られていったようである。
 宋君の現在の経済評論家への転身のきっかけになっているのは2002年に日経BP企画から出版した「やっぱり変だよ日本の営業」で、日本を代表する企業の経営者からも評価を受けている。東証1部の上場後は経営から退き、2006年には取締役も退任している。経営者から身を引くのに反比例してメディアへの登場が増していく。札幌に居て、時々テレビ等に出ている宋君の顔を見ている。
 2009年には息子の教育のためもあって、生活の場を北京に移している。2014年にはこれ又息子の教育のため日本に戻っている。その息子も2016年にはアメリカ留学ということで、宋君自身もアメリカに行くかも知れない、といった話をしていた。国境を越えて生活するのが普通の人に比べてそれほど苦にはならないようで、日本企業が外国人を雇用しても良く活用できていない弱点が見えてくるのかもしれない。
 現在の趣味を聞くと、農作業だとの答えが返ってきたのは意外であった。東京の近郊で農作業を楽しんでいる話は、講演後に飛行機に乗る予定で時間がなかったので、詳しくは聞くことが出来なかった。札幌を訪れる別機会があれば今度はゆっくりと聞いてみたいものだと思っている。



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(ホテルオークラ札幌のロビーでの宋文洲君)

2015年03月10日

HPFhito93・熱気球パイロット北海道第一号の熱気球カメラマン八戸耀生氏

 北海道情報産業史編集委員会が編集しイエローページ社から2000年3月に出版された「サッポロバレーの誕生」という本がある。当時サッポロバレーを牽引していた企業家達のインタビュー記事が載っていて、それらの企業家の一人として「八戸ファームウェアシステム(株)」の代表取締役八戸朗夫氏の名前がある。インタビュー記事のタイトルには「フロンティアの沃野に立つITの挑戦者」とある。
 時は流れてイコロアート・ギャラリーで航空写真家(熱気球カメラマン)の「八戸耀生 写真展」が2014年10月~2015年3月まで行われた。冒頭のIT企業家八戸朗夫氏と写真家八戸耀生氏が同一人物であることは、氏の近くの人物でなければ知らないだろう。ITの企業家から航空写真家への転身は直に話を聞いてみると、その転身がなるほどと思えるところがある。「朗夫」と「耀生」は共に「てるお」と読み、名前を変えてもつながりがある点が、転身の前後のつながりを象徴している。
 1960年生まれの八戸氏は、札幌の高校時代から空を飛びたいと思っていた。熱気球も自作している。日本における熱気球の歴史は比較的浅く、1969年にイカロス5号が北海道の真狩村で飛行したのが最初とされる。現在熱気球は日本気球連盟が発行する熱気球操縦士技能証の取得が求められている。八戸氏はその北海道での第一号であるので、北海道大学の探検部と並んで、北海道の熱気球の草分け的存在である。
 熱気球を飛ばすだけでは生活ができないので、1981年北海道電子計算機専門学校卒業後帯広市にある「日本甜菜製糖」に3年間ほど勤め、1984年冒頭に書いた会社を創業している。仕事はハードウェアを手掛け、牛の体重測定器などを手始めに作っている。PCの黎明期に当たっていて、アイディアが次々とハードウェアの形になってゆき、最大の売れ筋の製品は、エプソンのノートPCにカラーディスプレイをつなぐアダプタである。この儲けで自社ビルを建設するまでになり、このビルは資金源調達の経緯から別名「カラーアダプタビル」とも呼ばれた。
 時代はハードウェアから高機能のPCへのアプリケーションソフトやインターネット対応へと変わっていく。この頃八戸氏は無人ロボット船をインターネットの端末として利用することを考え、無人船の太平洋横断プロジェクトを温めていたが、これは実現されなかった。時代の流れに沿って会社の製品をハードからソフトに移行させ、機能を包む機器のデザインに力を注ぐ。“文化臭”のする企業を目指したようであるけれど、結果には結びつかなかった。
 近年、新聞や雑誌等のメディアに紹介される八戸氏は世界を飛び回る熱気球写真家である。ある意味紆余曲折を経て“文化臭”のする仕事に辿り付いたのかもしれない。写真家故清水武男氏の常設展示会場のイコロアート・ギャラリーで、期間を区切って八戸氏の航空写真の作品が並べられ、写真展会場になっている。会場で八戸氏から熱気球から撮ったパノラマ写真動画などをPC画面上で動かして見せてもらう。この動画を撮るテクニックの解説も聞く。プロの写真家の仕事である。
 熱気球からの写真と対極にあるような昆虫の拡大写真もある。深度合成技術で虫の複眼が鮮明にPC画面に広がる。写真のみならず虫に関する造詣が深い。これは単なる虫好きの領域を超えている。その理由は、写真展の会場を後にして南区中ノ沢の街外れにある氏の作業場を覗いてみてわかることになる。
 八戸氏は現在「ダウンロードフォト」という会社を立ち上げているけれど、Nature Scienceの商標で昆虫標本の製作もしている。昆虫の色が鮮明に出るように処理が施された昆虫が、防腐され瓶詰めにされる。この標本を目の前にして、昆虫の驚くべき能力の話などを聞く。自分の身体の何百倍の動物の死骸を、後日自分らの餌にするため地中に埋めるシデムシの知恵は初めて聞くものである。ついでに昆虫の極微の世界の写真の撮り方を、実際の撮影装置を前にして説明を受ける。
 ITの機器から昆虫の標本という、八戸氏の作り出す製品の変わりように驚く。大空に浮く熱気球から俯瞰する大画面の世界から、顕微鏡写真の昆虫の極微の世界まで、写真家八戸氏は縦横無尽である。


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(イコロアート・ギャラリーで自分の作品と熱気球ゴンドラの前に立つ八戸氏)

2015年02月10日

HPFhito92・博士論文の化身話の研究を思い出ださせてくれた来札した徐軍君一家

 徐軍君は1966年7月に中国赤城県で生まれている。赤城県第一高校から瀋陽工業大学計算機学院に入学している。この計算機学院の創立に力を貸した経緯があり、同大学から北大の博士課程に5,6名の留学生や研究生を招いて、筆者の研究室で面倒をみたことがある。
 徐君は1990年に来日し、研究生となり、1991年の4月から博士糧に進学した。博士課程での研究テーマは「“化身話”コミュニケーション」に関するものである。ここで“化身話”というのはコンピュータ空間でのアバター(化身)が会話する言語(Avatar Language)といった意味で、筆者の造語である。このテーマで研究室の博士課程の留学生の何人かが博士号を取得しており、徐君もその内の一人である。
 外国人留学生を受け入れると生活費等の手当てに頭を使うことになる。徐君の場合、博士課程1年目で国際電気通信(KDD)の外郭団体である国際コミュニケーション基金の研究助成金支給者に選ばれて助かったことがある。この助成金の余禄で、徐君と一緒に九州旅行をした記憶があるのだが、場所ははっきり覚えていない。
 徐君は博士課程入学の3年後の1994年に博士号を取得している。学位論文題目は「知的通信方式による手話画像伝送の研究」である。この時研究室に同期生として居た中国人留学生の張善俊君の指導も行っていて、徐君と同時に博士号を取得している。張君の博士論文題目は「A Study on Two/Three Dimensional Medical Image Processing」であった。
 徐君は博士号取得後NTTグループ企業に就職し、東京で勤務し、その後外資系のアクセンチュアに入社し、大連で2年間ほど仕事をする。同社の上海にある会社に移り現在に至っている。大連に勤めている頃大連で会ったおぼろげな記憶があるだけで、その後徐君との音信は途絶えていた。
 その状況で急にメールが届く。やはり研究室で博士号を取得してニコンに勤めている劉真さんから筆者のメールアドレスを聞いてメールを出したということで、2日後に札幌に行くので会いたい旨のメッセージがある。家族と一緒に「さっぽろ雪まつり」見物を兼ねているようである。
 待ち合わせ場所は札幌グランドホテルのロビーを指定する。お互いかなり変わっていて、当方も徐君を見てすぐには気がつかず、徐君も同様である。しかし、改めて見ると確かに徐君である。グランドホテルのロビーで開かれていたデザインの個展の会場を借りて、徐君一家のパノラマ写真を撮る。
 その後日本料理屋で夕食となる。徐君の奥さん崔蓉暉さんは日本で生活していた関係で、日本語会話には不自由しないようである。上海では絵を通して子ども達の能力を引き出す塾を持っていて、手持ちのPCで仕事の内容のデモを行ってくれた。
 大きくなった息子が二人居て、長男思博君は東北大学の燕山分校で自動制御を専攻し、次男思楊君は中学生で高校受験を控えている。日本生まれで、日本で過ごした経験のある思博君は日本語会話には困らないようである。
 かつての研究室の留学生の事や色々の日中の話題が出て話は尽きないところではあったけれど、未だ雪まつりを見ていないとのことで、夕食会は切り上げて大通公園の雪まつり会場まで行く。ここでも一家のパノラマ写真を撮ってみたけれど、ライトアップされた大雪像を背にしての写真では、顔が暗くなってよく写らなかった。


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(札幌グランドホテルロビーのギャラリーでの徐軍君一家)

2015年02月04日

HPFhito91グレート・ジャーニー痕の写真展を開いた元北海道新聞記者の名和昌介氏

 「パノラマ写真で巡る北海道の駅」カレンダー30部のうちの売れ残り2部を紀伊国屋書店札幌本店に取りにゆく。ついでに、NHK札幌放送局ギャラリーで開かれている写真展「人類の進化と拡散の痕を訪ねて」を覗いてくる。写真家は名和昌介氏である。ついでという感じで、写真展会場で名和氏のパノラマ写真を撮る。
 準備した上での取材ではなく、紙片はあっても筆記用具を持ち合わせていない。名和氏からボールペンを借りてメモする。名和氏はギャラリーに来る予定の客を待っていて、10分間にもならないインタビューである。当方の名刺も出さず、名も告げずの立ち話のようなインタビューとなる。
 名和氏は1949年7月生まれで、2015年現在で65歳である。丸瀬布町(平成の大合併で遠軽町になる)出身で、北見高校から北大に進学している。理系の学部を卒業して北海道新聞社に入社する。理系から文系の新聞社に入社した動機の質問には、新聞社は大学でどんな専攻をしたかは問題しないで試験だけで採用するので、といったような答えであった。
 紋別、帯広、釧路等の支局での記者生活を送り、この頃仕事で写真を撮るようになったとのことである。本社では学芸部や出版局でも仕事をして、道新退職後(早目の退職と聞いている)今回の写真展のテーマである人類の進化と拡散(グレート・ジャーニー)の痕を訪ねる海外旅行の生活に入り、これまで20数か国を訪ねて写真を撮っている。
 この辺りまで聞いたところで名和氏の予約の客が会場に現われ、インタビューは終わりとなる。データ不足を補おうとして帰宅後名和氏の名前で検索すると、名和氏は「屯田兵の末裔が行く」というタイトルのブログの主であり、今回の写真展に関する投稿記事がある。紋別郷土史研究会「郷土誌」の表紙になった名和氏制作の“きり絵”も見つけた。
 北海道新聞の夕刊コラム「魚眼図」の世話役であったらしく、このコラムに関する執筆依頼者とのやり取りのメールがネットに載っている。ここまで来て思い出したのは、名和氏は筆者が「魚眼図」の執筆者だった頃、一時期担当者ではなかったか、である。名和氏の名前は記憶にあるような無いようなといった塩梅で、随分昔のことではっきりしない。なお、筆者が「魚眼図」を書き始めたのは1979年の11月からである。
 尻切れトンボのようなインタビューであったけれど、会場に貼られていた写真展に関する名和氏のコメントが印象的だった。「地球上のヒトの文化は多様性に富んでいます。その一方で、人種・民族は違っても普通の人(貧乏人)の生活は、どこでもよく似ている、というのも実感です」同じ民族であるけれど、貧乏人名和氏と筆者の生活も似ているのだろう。


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(写真展のギャラリーに立つ名和昌介氏)

2015年02月02日

HPFhito90・おにぎりと梅干の好きな駐札幌米国総領事館首席領事ジョエレン・ゴーグさん

 肩書のいかめしい首席領事のジョエレン・ゴーグ( JoEllen Gorg)さんに初めてお会いしたのは昨年(2014年)の12月である。さらに前の年(2013年)に筆者は北海道功労賞を受賞している関係で、2014年度の受賞式に招待され、その受賞祝賀会でゴーグさんの近くに居合わせた。
 こういう席ではどんな方に遭遇するかわからない。気楽に話ししていて、米国総領事館の首席領事と知って驚いた。これは良い機会と、筆者が主宰している勉強会「eシルクロード大学」の講師をお願いしたらあっさりと引き受けていただいた。年明けの翌月には「日本とアメリカ~私たちはつながっている~」のテーマで○×の質問方式の講義をしていただいた。気さくな話し方で、出席者は日米のつながりを再認識した有意義な1時間半であった。
 ここまで来ると、これまで気が向いたら取材を続けている「パノラマ写真風土記-人物編」に是非ご登場願いたいと、円山にある米国総領事館まで出向いてインタビューを行う予約を取り付ける。しかし、総領事館はセキュリティのチェックが殊の外厳しく、カメラの持ち込みはできない。仕方ないので、パノラマ写真は後で領事館の外で撮ることにして、インタビューを先にする。
 気になっていたのはゴーグさんの名前のJoEllenで、何で文字「E」だけを大文字表記するのかを聞いてみる。これは「E」の文字の前に「O」があり、母音が二つ続くとアメリカ人は二重母音の発音になり「E」をはっきりと発音してもらえないために「E」を大文字にするとの事である。これで思い出したのだが、筆者の名前も「Aoki」と二重母音で、カナダに留学中に「エオキ」とかに近い発音で呼ばれることがあった。
 ゴーグさんは知日家で親日家である。札幌の姉妹都市のオレゴン州ポートランド市出身で、高校2年の時ロータリー交換留学生として青森県むつ市にある大湊高校に1年間留学している。この留学時代が楽しかったようで、現在の赴任地まで抱えてきた高校時代の卒業記念アルバムを出したてきて説明してくれる。
 日本との縁はその後も続いて、1993年ミネソタ州にあるカールトン大学に入学し、日本語を専攻する。大学2年生の時同志社大学に交換留学生として来日している。大学卒業後はむつ市でJET (Japan Exchange and Teaching) プログラムに携わり3年間仕事をする。1998年にカリフォルニア州にあるモントレー国際大学大学院で国際政策学を専攻して修士号を取得し、2002年に米国国務省に入省する。入省する前に米国平和部隊に入隊してネパールで1年間奉仕活動をしている。ネパールの首都カトマンズで国務省入省のテストを受けて採用された。
 日本の外務省での外交官を目指して採用されるためには、上級国家公務員試験をパスせねばならず、海外で平和部隊に参加している若者に、赴任地で日本の外務省が採用試験を行うなど考えられず、日米のキャリアの登用の仕方の大きな差である。グローバルな政策を展開し実行するアメリカは多様な人材を求めており、経済的な海外展開を志向する日本の外交とでは、人材登用の方法でも違いがあるのだろう。
 仕事を離れた日常では何をするのか聞いてみると、冬はスキーなどをしているとのことである。少し前に三浦雄一郎氏とスキー場で一緒だった話などが出てくる。大倉山でのジャンプ競技の観戦もするそうである。夏はウォーキングのようで、総領事館に接している北海道神宮境内が好みのウォーキングコースのようである。北海道神宮の宮司とも知り合いらしい。アウトドア派のようである。
 好きな日本の食べ物はと聞いて、外国人から返ってくる定番の鮨、刺身、北海道ならジンギスカンを想定していたら「おにぎりと梅干」には意表を突かれた。確かに、山歩きなどをすると「おにぎり」は手軽でおいしいし汗をかいた後での塩分補給は理に適っている。
 応接室の本棚には新渡戸稲造に関する著作が並んでいるので、この太平洋の橋にならんとした札幌農学校出身の人物に興味があるようである。前述の勉強会で、ゴーグさんが紹介した、利尻島に上陸して捕えられ長崎で日本で最初の英語教師になったオレゴン州出身のラナルド・マクドナルドの話が思い出された。ゴーグさんが札幌に居る間に、筆者の発行する爪句集に何か作品を、と思っているけれどこれはどうなることやら。
 総領事館内は勿論、館の前でも建物が写る写真撮影は禁止ということで、ゴーグさんには札幌市長公邸跡に設置されたワグナー・ナンドールの「母子像・ふるさと」の前までご足労願って、パノラマ写真撮影となる。その後は近くにあるMoma-placeの店舗に入り、3階のギャラリー「レタラ(Retara)」で石彫が展示会があって、ここでもパノラマ写真を撮らせてもらった。ゴーグさんは京都に留学していたので竜安寺の石庭も知っていて、石彫の作家も加えて石庭の話などをした。筆者の個人的な依頼のパノラマ写真撮影にも気軽に応じていただいて、感謝である。


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(円山公園ナンドールの彫刻前でのジョエレン・ゴーグさん)

2015年01月24日

HPFhito89・キコキコ商會で豆本制作に入れ込む一匹狼の工芸家末木繁久氏

 爪句集豆本シリーズを出版しているので、豆本と聞くと興味が湧く。大丸藤井セントラルのギャラリーで開催の豆本の展示会の新聞記事を目にして、パノラマ写真風土記の取材も兼ねて出向いてみる。会場で豆本制作者の末木繁久氏にお会いする。初対面である。
 まず豆本の出版元になっている「キコキコ商會」の名前の意味から聞いてみる。答えは、何となく響きがよいから付けた名前で、特に意味がある訳ではない、との事である。どうも質問と答えはこの調子のところが多く、豆本を作り続ける目的は、には目的といったものはなく好きだから、と答えが返ってくる。
 仕事や人生も目的を定めてそれに向かって進むといった考えからずれている雰囲気である。豆本を作るきっかけを聞いても、小学生の頃、豆本もどきを作って、それが現在につながっているとのことで、豆本作りのための専門知識を学ぶとか誰かについて技法の取得をするとかいったことがなく、独学で現在に至っている。その経緯もあり、一匹狼の工芸家である。
 ここで、この工芸家という肩書もあまりしっくりこない。氏の豆本は企画、デザイン、編集、製本を一人で手掛けている。こういう仕事に携わる人のジャンルは何になるかと考えて、豆本を手造りの工芸品に近いとみれば工芸家かな、と強いてこの肩書を使ってみる。本人の紹介パネルにも、工芸家や他のジャンルの職業名は書かれていない。本人も自分がどんな分野の職業人かあまり気にしてはいないようである。
 末木氏は1969年に札幌で生まれているから、現在(2015年)45歳である。2000年に「キコキコ商店」の出版部門(等豆社)で豆本制作を始めており、もう15年も豆本を作り続けている。この間に80点の豆本を作り出してきた。
 機械印刷で豆本爪句集を出して大きな赤字を抱える筆者の経験から、末木氏の豆本作りに関する一番の関心事は経費のことである。豆本作りで何とか生活している秘密は探りを入れても答えてはもらえなかった。他にも仕事はしているようであるけれど、財産を食いつぶすとかいったことではなく、曲りなりにも豆本制作で生計を立てている、との話を聞くと疑問は深まるばかりである。
 豆本を本として読む場合の難点は文字の小ささである。筆者の出版した豆本のうち「札幌秘境100選-中国語版(eSRU豆本)」(共同文化社、2007・9)が札幌市電子図書館の貸し出しランキングで2位(2015年1月時点)になっている。中国語を読む読者がそれほど居るとは思われず、拡大鏡無しでは読むのが難しい日本語対訳をネットで拡大して読めることも手伝って読まれているのが、ランキング上位になっている理由だと推定している。
 末木氏にこのネットに公開して読者の利便性を図る話をしてみるが、氏は紙にこだわっていて、豆本の内容よりは工芸品の側面を重視しているようで、話は進展しなかった。もっとも内容で勝負する本なら豆本は選ばないだろう。
 手作りの大変さを確かめるため制作日数を聞いてみる。45 mm x 55 mmのサイズの豆本を30~100冊のロッドで制作に入り、30冊を約1か月で豆本にするそうで、単純計算で1日1冊ということになる。印刷されたページを豆本のサイズに切り分けるのもカッターによる手作業と聞くと、これは大変な作業と思われる。このようにして出来上がった豆本は平均的なもので2500円程度の値段がついている。月に何冊売れれば幾らかと頭ではじいても、これで生活できるとは思えず、またまた疑問の渦に巻き込まれる。
 豆本の展示会場は他のジャンルの工芸家とシエアしているにしても贅沢な使い方である。豆本自体は小さなものなので、80点を並べたところで長テーブル2脚で済んでしまう。会場の広い空間には天井から吊り下げた豆本が空中に浮かんでいる。都心部のギャラリーの会場代も半端な借り賃ではないはずなのに、豆本を売ってそれが出来るとは、会場経費に関する疑問でも、底なし沼に落ち込むようである。


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(大丸藤井セントラルギャラリーでの末木繁久氏)

2014年11月30日

HPFhito88・若き日に「日高のケネディ」と呼ばれた新ひだか町長酒井芳秀氏

 新ひだか町の役場の応接室で同町の酒井芳秀氏にお会いし、パノラマ写真撮影後インタビューとなる。酒井町長は2004年に旧静内町長に選ばれ、現在の新しい町名の町長となって三期目を務めている。
 新ひだか町は、旧静内町と旧三石町が合併して2006年に現在の町になり、役場は旧静内町の建物を引き継いでいる。この合併時には隣町の新冠町も加えた合併構想があり、もし三町が一緒になると日高管内唯一の市への昇格ができ、日高町があっても現在の町名から「新」を除いて市名として「日高市」あるいは「ひだか市」とする案があったと酒井町長から伺った。しかし、この目論見は、新冠町が合併に加わらなかったので町名から市名への変更は立ち消え状態である。しかし、町名変更の底流は続いていると酒井町長が漏らしていた。
 酒井氏は1944年三石の歌笛の生まれで、インタビュー時には70歳である。浦河高校と北大を卒業しており筆者の後輩にあたる。しかし、かなりの後輩と思っていたら、年齢は3歳しか違わない。その訳はインタビューの話から納得する。
 酒井氏の生家は「酒井建設」の会社経営を行っていて、酒井氏は同社の後継者と目されて育った。高校卒業後東海大学に入学する。しかし、相模原にある同大に入学してみると土地柄が合わず、その他のこともあり半年ほどで退学する。退学後一念発起で札幌の予備校に入学し、北大を目指す。しかし、最初の北大入試には失敗し、予備校を変えて翌年1965年に北大に合格する。実質2浪したことになり、このタイムラグが影響して、筆者よりかなり後輩だと思っていた。
 北大では土木工学科に進み、1969年の卒業後は父親の跡を継ぐべく酒井建設に専務として入社する。入社後は日高管内で主に橋梁建設現場で仕事をし、この間推されて自民党の日高支部の役職にも就く。この頃アメリカではJ.F.ケネディが大統領に就任し、彼への憧れが政治の舞台で活躍する素地を作っている。政治家になってからは「日高のケネディ」のニックネームで呼ばれることにもなった。
 34歳の時に転機が訪れる。道議会の日高管内選出の自民党の長老議員が辞めるという意向を受けて選挙に出ることを決意する。会社は弟に任せての転身である。しかし、辞める予定だった長老議員が方針変更で再出馬したため、この時の道議選で酒井氏は次点で落選する。
 捲土重来で4年後の道議選を目指して選挙区内を回り、8,9割方の戸別訪問を達成する。その甲斐もあって、1983年道議初当選となる。この時38歳であった。道議会の議員で活動し、2001年に道議会議長に選出され、議長職にあった2003年に議長職を辞任し知事選に出馬する。
 この知事選は、3期目を目指していた堀達也知事が自民党の北海道選出の大物国会議員の意向で身を引くことになり、この国会議員が官僚出身の知事候補を推挙してきたことに酒井氏が反発し、酒井氏自らが知事選の候補として名乗りを上げる。勿論自民党員としての立候補するつもりであったところ、前記の自民党候補と票が割れることを恐れた自民党が酒井氏を除名することになる。結果として、無所属で出馬した酒井氏は知事選で敗れた。この辺の事情については当事者として語っても語り尽くせないこともあるようだが、過去の話でもあるとふっ切れた様子も伺えた。
 知事選敗北後、2004年に選挙地盤であった旧静内町の町長選があり、2期目に入る現職の静内町長を破って当選する。現職を相手に当選できたのは、過去に築いた選挙地盤が強固であったためだと本人自らの解説である。
 政治家としての仕上げは合併後の新ひだか町の発展に尽くすことで、まずは産業振興である。現在軽種馬の生産が30億円規模で、続いて黒毛和牛が14億円、ミニトマト8億円、デリフィニュームの花卉栽培7億円等と数字が口から出てくる。最近の町長は政治家に加えて経営者のセンスが求められるようである。
 パノラマ写真にも写っている「涼夏少雪の郷」は酒井町長が捻り出した言葉で、町を売り込む言葉にしている。軽種馬の産地の町長ということもあって馬主でもあり、忙しい公務の合間に競馬の観戦に行くこともある。他に趣味を聞いてみると、音楽だそうで、高校ではクラリネットやドラムの奏者から指揮者の役に転向し、持っていたクラリネットを手放して手にしたレコードで、音楽鑑賞は今でも続く趣味とのことである。
 議会の合間の昼食時を利用しての駆け足インタビューである。帰り際に、未だ見たことにない同町の観光名所「二十間道路桜並木」を、来年はパノラマ写真撮影で訪れると酒井町長と約束して役場を後にした。


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(新ひだか町応接室での酒井芳秀町長)

2014年10月13日

HPFhito87・おせっかいな本屋のおじさんは書店一筋40年の久住書房社長久住邦晴氏

 くすみ書房店主の久住邦晴氏のインタビューには下心があった。「パノラマ写真で巡る北海道の駅」という2015年のカレンダーを初めて制作し、その店頭販売の書店として同店にお願いする目的も兼ねて、地下鉄大谷地駅の商業施設キャポ大谷地に入居している同店を訪ねる。
 くすみ書房は以前西区役所の近くにあった。その頃からマスコミに取り上げられる同店の話題は耳にしていた。地下鉄琴似駅から地下鉄が延伸して、客の流れが激変したのが引き金となり、一時は閉店も考えた経緯があり、現在の場所に書店を移している。実際にくすみ書房の店内を見てから店主久住氏のお話を伺って、久住氏のアイディアマンぶりを確かめることになった。
 売れない本を逆手にとって「なぜだ!売れない文庫フェア」という企画で、売れない本を売ってしまう。この本を読みなさい、などと大人からおせっかいが入れば、中学生の年頃は返ってその本を敬遠したくなるところを、堂々と「中学生はこれを読め!」のコーナーを書店内に設ける。高校生、小学生にも同じおせっかい振りである。客を、本を買う側から売る側への思考回路につなぎ替え、客が推薦する本の売り場を作ろうとする。
 久住氏がアイディアマンにならざるを得ない書店を取り巻く状況がある。本はネットで買える時代で、わざわざ本屋に足を運ばなくてもよくなってきている。それ以上に、活字離れと言われ、本そのものが読まれなくなってきている。今までの本代はネット代に消える。さあ本屋はどうするか。こうなると書店一筋40年の経験を基に久住氏がアイディアを絞り出さざるを得ないのは必然の帰結かもしれない。
 久住氏は1951年に札幌に生まれている。当初琴似で紙の店を営んで、後に本屋になる家が実家である。札幌西高から立教大学経済学部に進学し、卒業後札幌に戻りそのまま家業を継いでいる。書店を取り巻く環境は前述のインターネットの発展で激変してきている。地方の町から書店は姿を消し、札幌のような大都会では書店の大規模店化が進行している。中小規模の書店は、本を売るだけではネットと大規模店に呑み込まれてしまう。
 商品として見た場合の本は、門外漢から見ても無駄が多い。毎月多数の新刊書が出て、書店に並べられる。しかし売れなければ数か月で姿を消していく。久住氏に返本率を訪ねたところ平均30~40%ではなかろうか、とのことで、当然返本の経費は書店持ちとなる。返品のきかぬ食料品などと比べると、流通的観点から無駄の大きな商品である。
 ただ、本が食料品と異なる点は販売量が必ずしも人口に比例しない点がある。食料品は一人ひとりの食べる量が決まっていて、消費の総量はおおむね人口に比例する。この点知識欲といったものは、個人でどこまでも伸ばせる。逆に本を読まなくても生活はできる。これは本の消費が必ずしも人口に比例しないことを意味する。
こうなると本を単なる商品として売るだけでなく、本を素材にしたイベントと組み合わせるアイディアが出てくる。店内での本の朗読や講演もそれらのアイディアの一つだろう。久住氏の名刺の裏には「ソクラテスのカフェ」や「くすみ英会話スクール」が印刷されていて、書店との連動のビジネスのようである。
 さらに、本を読みたくなる環境を作り、読書の習慣づけをすることが、本の売り上げに結びつく。久住氏が小学生や中学生に「この本を読め」とおせっかいを焼くのは長い目で見て若い世代と共に書店が生き延びていく戦略でもある。
 インタビューの合間に久住氏が現在支援を手掛けているプロジェクトが話題になる。書店の無い日高の浦河町に書店を復活させるプロジェクトである。浦河町で地域おこし協力隊をしている武藤拓也氏と協力して、六畳一間に本を並べることから始める「ロクジーショボウー(六畳書房)」である。今年(2014年)の11月からオープンの予定であると聞く。高校まで浦河町に住んでいた筆者は、この「奇跡の本屋」になるかもしれないプロジェクトに少しでも協力しようと、冒頭に書いたカレンダーを浦河町で売り、売上金の一部をこのプロジェクトに寄付しようと考えている。


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(くすみ書房売り場での久住氏)

2014年09月03日

HPFhito86・発明装置ヘッドレストの模型を手にしたエイブルソフト社長森成市氏

 地下鉄東西線南郷通7丁目駅から歩いてエイブルソフトビルにエイブルソフト社長の森成市氏を訪ねる。森氏とはもう30年を超す知り合いなのに、会社の社長室に入ったのは初めてである。
 森氏が1982年現在の会社(当初の社名は「森コンピュータビジネス」)を立ち上げた翌年の12月に、千歳のホテルで記念講演会が催され、筆者はその講師に招かれた事で森氏とご縁ができた。取材中の話で、この講演会の講師の話は「ハドソン」、丸井今井デパート、東芝の三社で創った新会社「ディテール」の社長に就任した小林健夫氏からの紹介でまとまったそうである。小林氏は当時ハドソンの専務であった。マイコンやパソコンの黎明期の話になると、この産業の勃興期の景気の良かった話で尽きることがない。
 森氏は1953年1月15日に恵庭で生まれ、成人の日と父豊市氏から一文字ずつ採って「成市」と命名された。札幌東高校から早稲田大学の商学部に進み、商社マンを夢見て「東京貿易」に入社する。当時はオイルショックの影響で、大手の総合商社の就職が厳しかったので、専門商社を選んでの入社となる。入社後の1980年、通産省貿易大学(院)の海外との人材交流事業に採用され、サンフランシスコ大学経営大学院に1年間の留学をする。国際マーケティングを専攻し、この1年間が人生で最も充実していたと森氏は語る。
 帰国後色んな経緯があり、恵庭市に戻って起業している。当時オフイスコンピュータが普及し出した頃で、OAブームに乗り、東芝情報機器を通じてパッケージソフトの注文が全国から入ってきて、急成長していく。旧北海道拓殖銀行の「たくぎんどさんこ技術開発奨励賞」の3回目で受賞している。筆者はこの賞の審査員側にいて、当時の成長株のベンチャー企業を横目で眺めていた。同賞の1回目がハドソン、2回目が「ビー・ユー・ジー」であった。ハドソンは既に会社は無く、ビー・ユー・ジーは創業者が去り、本州資本の傘下で「ビー・ユー・ジー・森精機」と社名を変えている。企業寿命30年説というのがあって、エイブルソフトはその寿命の壁を乗り越えている。
 森氏は千歳青年会議所理事長や日本青年会議所北海道地区協議会会長などでも活躍している。その関係から、小沢一郎氏との対談が地元の政治・経済誌にも取り上げられている。小沢氏からは政界入りを勧められたが、政治の道には進まなかった。早稲田大学のOBで組織されている「札幌稲門会」の幹事長を務めている。取材中、小保方晴子氏の早稲田大学の博士論文問題も話題になる。
 ビジネスに関してはアイディアマンで、アイディアを実行に移す行動力がある。筆者の記憶に残るものは「サンプルプラザ」を立ち上げた時で、この時も頼まれて創業開店のテープカットの来賓者の一名として加わった。街の中で宣伝のために新商品のサンプルを配るのを一カ所に集約して、客に無料のサンプルを提供するというものであった。無料ということになれば口コミで人は集まる。札幌中央警察署の向かい側にオープンした店の横には人の長い列ができ、歩道をふさいだ。中央警察署からも警告が来る。これほどの人数に配るサンプルを企業から集めるのも限度がある。森氏が最初に考えたことは、ほどほどの人数で、サンプル品であるからリピータも無いだろう、という予測であった。しかし、無料のものは列に並んで何でも持っていくという「おばちゃんパワー」に負けて、1年で共同経営から撤退する。
 これからの仕事の抱負に話を向けると、最近特許取得をしたヘッドレスト装置「セイフメット(仮称)」をマネキンの頭部に装着したモデルを手にして説明してくれる。これは自動車が衝突した時、シートベルトで身体が固定されているため、頭部が前に飛び出て頸椎の部分が損傷するのを防ぐ装置である。衝突時に額の部分にベルトが出て抑える仕組みになっている。使い方によっては居眠り運転防止にもなる。ただ、商品化に向けた装置の開発はこれからとのことで、試作品の製作や機械設計などと多くの課題があるうようだ。
 マネキンの頭を手にして座ってもらい、社長室でのパノラマ写真撮影となる。同席していた福本工業の福本義隆社長は撮影の間は席を外した。取材を兼ねて、筆者が企画している来年の鉄道駅カレンダー(会社名入り)の注文をお願いすることになり、パノラマ写真サイトの「パノテツ本舗」を運営していて、森氏と長年の交友関係にある福本氏も同席しての取材となった。(2014・9・2)



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(社長室でヘッドレストのモデルを前にしての森成市氏)

2014年07月18日

HPFhito85・札幌の自然の豊かさを実感する毎日新聞北海道支社長川口裕之氏

 ホテルでの朝食会に新しく加わったメンバーと隣り合わせになり、名刺交換となる。名刺の主の川口裕之氏は毎日新聞の北海道支社長として6月に札幌赴任で、赴任後未だ1か月も経っていないとのことである。札幌については知らないだろうと話し掛けると、新聞記者になって最初の勤務先が札幌だったそうで、その後も札幌で仕事をされているので、こちらが札幌の説明をあれこれする状況でもなさそうだ。話の流れで、初対面の当日にパノラマ写真撮影とインタビューを申し込み、即実行である。
 毎日新聞北海道支社は道庁の北側のビルの2Fにある。通された応接室から道庁の庭と建物が良く見える。川口氏に道庁の見える窓際に立ってもらいパノラマ写真を撮る。撮影後、短いインタビューとなる。筆者の方は、現役時代には新聞記者からインタビューを受けるのが普通だったのに、最近は新聞人を相手にインタビューし、ブログの記事を書いている。
 川口氏は神奈川県伊勢原市出身で、1956年生まれである。伊勢原市は大山(1252 m)がシンボルとなっていて、大山詣りで知られている。落語の演目にも「大山詣り」がある。川口氏は落語好きであり、この演目も鑑賞しているかも知れない。伊勢原市縁の太田道灌の話などが出て来て、道灌が詠んだ歌「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」が話に織り込まれる。
 秦野高校から明治大学に進学して法律を専攻する。卒業後の1981年に毎日新聞社に入社する。どうして新聞社を就職先に選んだかを聞いてみると、中学生の頃新聞に投稿して記事として掲載され、新聞には興味があったことを語ってくれた。入社後の最初の勤務地が札幌となる。
 札幌では中央警察署が持ち場で2年間勤め、その後小樽、また札幌に戻り道庁回りをして、計6年間の北海道勤務となる。本社に戻り、社会部の記者として仕事を続け、48歳の時報道部長として再び札幌勤務となっている。
 本社では環境庁での仕事に携わったことで、環境問題をテーマとするようになる。本社に「水と緑の地球環境本部」が創設され、その本部長を勤め、ノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイ女史の「MOTTAINAI」キャンペーンに賛同する。これは同女史が日本語の「もったいない」を取り込んだ環境保全の運動である。
 川口氏に仕事以外にする事などを聞いてみる。前述のように落語が好きで、谷中界隈に出向き、鈴本演芸場で落語をよく聴くそうである。札幌には常設の演芸場はないけれど、来札の落語家の興行があれば足を運ぶことになるのだろう。
 以前の勤務時代と比べて、札幌の印象を聞いてみる。街の変化はそれほどでもない一方、夏の緑が東京より鮮やかに感じられるとのことである。札幌での住居のある中ノ島から中島公園を通って、歩いて職場まで来ることもあり、その時目にする札幌の景観は札幌の自然の豊かさを実感させてくれ、環境問題を考える上でも示唆に富むものであると語られた。


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(毎日新聞北海道支社応接室の川口裕之氏 2014・7・17)

2014年07月16日

HPFhito84・ベロタクシーを運行させる「エコ・モビリティ サッポロ」代表栗田敬子さん

 パノラマ写真風土記の人物編の取材を続けていると、女性パワー、それも主婦の新しいものへの挑戦が目立つと感じる。札幌の街角で時折目につくベロタクシー(VeloTaxi、Velo=ラテン語で自転車)の運行を行っている運営組織代表者が女性であると知って、意表を突かれた。その運営組織のNPO法人「エコ・モビリティ サッポロ」の代表が栗田敬子さんで、栗田さんがどんな経緯でこの事業を始めたのか取材に出向く。
 三輪自転車とはいえ客を運ぶタクシー業であり、営業終了後は車庫に駐輪させておく。車庫は札幌卸センター1号館にあり、事務所もそこにある。朝9時半、仕事に向かうベロタクシーのドライバーたちとミーティングがあるので、その前に栗田さんのパノラマ写真撮影とインタビューを行う。9時前に出勤してきた栗田さんは(主婦+キャリアウーマン)/2といった、感じの良い方である。
 栗田さんは1964年の札幌生まれである。静修短期大学(現札幌国際大学)に進学する。専攻は大多数の学生が専攻する秘書科、幼児教育学科等ではなく、ごく少数が選ぶ心理学科だったそうである。大方の人がやることから距離を置くやり方のようである。
 心理学がその後役に立ったか聞いてみる。内心役に立たなかったとの答えが返ってくるかと思ったら、役に立ったとのことである。大学卒業後住宅メーカーの営業に就き、客にセールスを行う時、心理学で学んだことが生きたそうである。この営業の仕事は2年間ほどで、その後人材派遣業のコンサルタントなどを経て、主婦業に転職である。
 主婦になり立ての頃の28歳の年に、夫君と一緒にJICA(国際協力機構)の仕事で2年間ケニアに滞在したのが、現在の環境問題に取り組む原点になっている。自然と野生を想像して同国を訪れると、首都のナイロビは近代的なビルが立ち並ぶ。その一方でスラム街が広がる。近代文明の産物のプラスチックは土に還らず、消えないゴミとなって地面に散乱する。それを目の当たりにして環境問題が帰国後のメインテーマとなる。
 環境問題のサークルを立ち上げ、天ぷら油の廃油から石鹸を作ること、エコバックの普及、コンポスト利用の生ごみ処理等々に取り組む。CO2排出が北海道では全国平均の1.3倍であることを知り、少しでも排出削減につながる交通手段として、ドイツが発祥の自転車タクシーに目をつける。
 普通のビジネス感覚では、積雪で約半年は営業ができない札幌で自転車タクシーを導入するのは、最初から問題外で処理されるだろう。そこが主婦の底力なのか、実現してしまう。ベロタクシーを営業車として走らせるための組織を2007年に立ち上げ、2008年には前記NPO法人の認可を取得し、同年
から営業を開始している。
 日本での需要が少ないため国産メーカの車体が手に入らず、輸入する車体は1台170万円する。現在は5台保有して営業を行っている。年間(約半年)の利用客は約8000人で、利用客は観光客を想定して始めた。しかし、現在の利用客の半数は札幌市民で、これはうれしい誤算となった。さらに最近は介護で利用されるケースも目立ってきていて、高齢者向きに、かつての生活した場をたどるコースを設定し、認知症予防にも役立てるメニュー等を用意している。
 このようなメニューでは、ドライバーは体力の他にコミュニケーション能力も要求される。雪が無く、寒さもまあまあな4月末から10月末までがドライバーとしての仕事の期間で、残りの半年は別の仕事をする必要がある。こうなるとドライバーとして仕事に就ける人に制約が加わり、経験を積んだドライバーが育っていかなければ、新しいメニューの利用が拡大しないだろう。事業展開の将来的課題でもある。
 営業を軌道に乗せてここまでくるには大変なこともあったようである。ある意味車の流れを悪くする新種の交通手段の登場に対する車の運転者からのクレームなどもある。それに対処する栗田さんは、昔取った杵柄の心理学を活用しているのかどうか、そこら辺を聞きそびれてしまった。


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(エコ・モビリティ サッポロのオフィスでの栗田敬子さん 2014・7・15)

2014年07月11日

HPFhito83・自転車と二人三脚のサッポロバイクプロジェクト代表太田明子氏

 太田明子さんは「私設北海道開拓使の会」事務局長や「札幌BizCafe」事務局長を歴任されている事もあり、旧知である。しかし、ここ数年は会う機会も無いと思っていたら、最近自転車製造と販売を行っていると小耳に挟んだので、時間を合わせパノラマ写真取材に出向く。場所は新車モデルのSapporoBikeが展示されている東急ハンズである。
 太田さんは大阪市生まれで、名古屋女子大学短期大学部を1983年に卒業して伊藤萬に入社し、1993年に北海道に移住している。札幌を活動の舞台にして前記の仕事に携わり、2002年には「太田明子ビジネス工房」を立ち上げている。女性起業家支援の仕事などで講演のため全道を回った経験の持ち主である。蛇足ながら、出身地の関係で阪神タイガーズの熱烈ファンである。このような経歴で、何で自転車に関わるようになったのか聞いてみる。
 太田さんはここ3年ばかり変形性股関節症で入退院を繰り返してきた。この病気は女性に多い疾患で、先天性のものであるらしい。病状が悪化すると、股関節の痛みで歩くのがままならなくなる。大学病院で手術とリハビリを終え、股関節に負担がかからないようにと自転車を利用するようになる。嘘みたい話であるけれど、自転車の振動で患部の軟骨組織が増えている珍しいケースだと、かかりつけの医者から言われたそうである。
 病気から健常者の生活戻るための自転車利用で、自転車がママチャリに代表される低価格の実用車と機能性とデザインを重視した高価格のロードバイクの二極化に気付く。太田さんはこの二極化にあって、その中間の自分に合った自転車作りを考えた。考えるだけでなく、自転車のメーカーとなり販売を行ってみようとしたところに、これまで女性起業家に指南してきた事を自ら実践することになる。価格が手ごろで、機能性とデザインに満足でき、都市生活者の足として愛用できるものを試作する。価格は3万円台(約4万円)で、100台限定販売で、販売に先立ち東急ハンズにデモ車を展示している。
 東急ハンズの売り場担当者に頼んで、デモ車を店の前に置き、太田さんに立ってもらいパノラマ写真撮影を行う。宣伝のパネルも一緒に並べての撮影である。店に出入りする客が写らないようにするため、手早く撮影を済ませる。
 東急ハンズにデモ車を展示できたのがラッキーで、インタビュー時には約6割の注文が来ているとの事である。この分では完売の見込みは出てきたようである。新しい商品を開発・販売する苦労話もインタビューの節々に語られる。これまでの仕事の人脈を生かしてプロジェクトのメンバーに多方面の人に加わってもらっており、プロジェクト成功への原動力になっている。病気を逆手にとって、自転車と二人三脚で、女性起業家の道を走り続けている。


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(東急ハンズ前で 2014.7.10)

2014年07月10日

HPFhito82・脳と身体の動きの関連を語る北海道練功十八法協会代表師範藤岡龍峰氏

 円山公園で行われた「練功」の練習を近くで見たことがある。指導者は藤岡龍峰氏で、氏は道新文化センター講座「練功十八法」でも教えている。同センターで講座のある日に予約無しで訪ねて、パノラマ写真撮影とインタビューを行う。
 「練功」とは中国武術の流れを汲む健康体操と表現してよいだろう。良く知られた少林寺拳法等は長い歴史があるけれど、練功は比較的新しく、文化大革命が終息した後の1975年に始まっている。発祥の地中国では、「中国ラジオ体操」、「太極拳」と共に中国三大国民体操とされている。藤岡氏は上海に本部がある上海市練功十八法協会の理事で国際指導員でもある。道新文化センターのスタジオでの講座終了後、スタジオで藤岡氏のパノラマ写真を撮影してから色々聞いてみる。
 藤岡氏は岩手県洋野町で1956年に生まれている。生家は曹洞宗の寺で、氏は一等教師の資格を持つ僧である。しかし、僧を職業にはしておらず練功を教えることで生計を立てている。そこら辺の事情を聞くと、現状の仏教とは距離を置いて、生活者の健康な暮らしに役立つことの実践を、宗教活動に優先させていためであるとの答えである。練功を教える毎日で、生徒数は400名台にのぼるだろうとのことである。
 練功の神髄は何かと聞いてみる。健康のため自分の身体を知る事だとの答えである。運動を介しての医療行為でもあるようだ。身体がどんなメカニズムの下にあるのかをちょっとした身体動作で確かめさせてくれる。指相撲で藤岡氏の親指を抑えつける。一生懸命抑えているつもりなのに親指を抜かれてしまう。筆者が逆の立場で同じように親指を抜こうとしても駄目である。今度は両手で相手を引っ張る。藤岡氏は筆者を自分の方に引っ張ることができるのに対して、筆者はそれができない。力の差ということでなく、何かコツのようなものがある。藤岡氏の解説では、人間力を入れる時と力を抜く時があり、その力の抜く時を狙って相手に自分の力を伝える。
力を入れたり抜いたりするのは脳の働きで、この働きが筋肉に伝わるにはタイムラグがあり、訓練によりそのタイムラグを利用できるようになるのだそうである。このような話になると理解が及ばない。しかし、実際に力で相手に負けてしまう。ここら辺が武術の神髄に通じるものがあるらしく、指一本で相手を倒したりできる例があるらしい。
 氏は1987年に練功を初めて、57歳になる現在も毎日訓練している。それでも新しい事に気付く日々であるそうだ。人間65歳ぐらいまでは成長するそうで、氏の練功も現在成長の過程にあるようだ。


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(道新文化センタースタジオで 2014・7・10) 

2014年07月04日

HPFhito81・立ちながら仕事をするムラタオフィス社長村田利文氏

 北海道新聞(2014・7・2)に「札幌ビズカフェ15年目の挑戦-先駆者たちのその後」の記事が掲載されていて、ビズカフェ(BizCafe)初代代表の村田利文氏の顔写真も載っている。早速パノラマ写真取材を申し込む。3代目ビズカフェのオフィスと村田氏の「ムラタオフィス」のある都心部の「日の出ビル」の9階のコワーキングスペース「ドリノキ」を訪ねる。
 出迎えてくれた村田氏は立ったままで、オフィスには椅子が無い。村田氏は立ったままパソコンを操作している。自宅でも立ったまま仕事をするらしい。これは最初見るとかなり驚く。どうして立ったまま仕事をするか聞いてみる。店の売り場やその他作業場では立ち仕事は普通に行われていて、デスクワークは必ずしも座ってする必要はない。座って眠くなるより立って仕事をする方が、能率が向上する。最初は疲れるけれど、馴れれば身体にも良い。言われてみるとそんな気もする。しかし、真似する気にはならない。
 札幌ビズカフェは村田氏らが中心になって1999年に札幌北口のプレハブの建物内に開設された。ビズカフェの精神は「New business from new style」で、この言葉を筆字で書いた看板が掲げられていた。この看板は現在も引き継がれていて、ドリノキの別の場所に置かれてあった看板を運んでもらい、村田氏と一緒にパノラマ写真撮影である。
 ビズカフェは設立当時全国的に知られる存在となり、2001年には平成13年度の情報化促進貢献企業・団体として経済産業大臣表彰を受賞している。2代目ビズカフェは伊藤組110年記念ビルにオフィスが移り、3代目が現在の場所に移っている。
 村田氏は1956年江別市の酪農家に生まれている。札幌南校から北大に進学し、学部は電子工学科に移行している。学部と修士課程でマイクロコンピュータと出合い、同学年の3名と一緒に修士課程の時ベンチャー企業「ビー・ユー・ジー」を興している。この会社は札幌の情報産業勃興期の成功譚として語られた。
 その後ビー・ユー・ジーを離れ、VoIP技術の開発を手掛け1997年「ソフトフロント」を設立している。この会社はナスダック・ジャパン(現ジャスダック)に上場した。村田氏は同社の社長、会長を勤め、現在は最高技術顧問となっている。2009年に「ムラタオフィス」を設立してプロジェクト・マネジメントやコンサルタント業を行っている。札幌のIT企業数社の社外取締役も兼務している。
 仕事以外の趣味を聞いてみると、意外にも彫刻である。安田侃氏の彫刻講座に参加したのがきっかけで、石彫を手掛けている。石彫は時間がかかるので、最近はワイヤーアートにも手を伸ばしている、とのことである。作品展でもやらないのかと聞いてみると、まだそこまでする自信はないとのことである。
 村田氏は本を集めることも好きなようで、自宅を新築した時書庫を造った。現在、この書庫は5千冊の本で埋まっているとのことである。そろそろいっぱいになるのではないかと聞いてみると、1万冊の蔵書にも耐えられるとのことで、蔵書の点から言えば人生折り返し点に居ることになる。(2014・7・4)



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2014年07月03日

HPFhito80・銀行員から転職し仕事に恵まれた北海道公営企業管理者伊藤邦宏氏

 旧北海道拓殖銀行(拓銀)が主催し、1986年に結成された「米国先端産業集積地域調査団」に筆者はコーディネータという役回りで参加したことがある。団長は拓銀副頭取加藤忠義氏(故人)、企画・立案は団員の拓銀常務石黒直文氏で、事務員として拓銀行員の伊藤邦宏氏が加わった。1986年には、新しい情報産業団地札幌テクノパークの中核施設となるサッポロエレクトロニクスセンターが同団地内に竣工している。当時拓銀は今後発展が期待されるIT産業に関わる地元企業を育成する目的のため、30名からなる同調査団でアメリカ各地で視察旅行を行った。
 札幌におけるIT企業は、黎明期からいくつもの成功譚が語られて成長していった。しかし、1997年バブル崩壊で拓銀が破綻する。同行の行員の多くは、拓銀の営業権を引き継いだ北洋銀行に移ることになった。その他の同行転職者のため、北海道も行員の受け皿として社会人枠を増やして道職員として採用した。ただし、原則40歳以下の採用で、採用年の1998年当時44歳であった伊藤氏の採用は稀なケースであった。
 伊藤氏は道に採用された後、課長登用試験に合格、IT産業推進、食と観光産業振興、企業誘致と、その時々の道の産業政策の要となるところで仕事をして、2013年には道の特別職の北海道公営企業管理者になっている。転職後仕事に恵まれたといえる。2013年「北海道功労賞」を受賞した筆者の祝賀会で、伊藤氏に挨拶をしていただいた。
 伊藤氏は1953年の札幌生まれで、札幌西高から京大に進学している。同大法学部卒業後拓銀に入行している。どうして拓銀を選んだかを聞いてみると、戻りたかった札幌に軸足を置いて、東京や海外での仕事ができる職場としての拓銀に期待したためとの答えである。願い通りニューヨークや東京での勤務が続き、東京では大蔵省を相手にしたモフタン(MOF坦)を勤め、企画・調査がメインの仕事であった。その行員生活は前述の拓銀破綻で終わりを告げた。
 伊藤氏に趣味の事なども聞いてみる。山登りだそうで、今でも暇を見つけて登っている。登山するようになったのは、運動部所属の息子と藻岩山に登った時に体力の無さに気づいたのがきっかけとのことである。道内の山はテントや自動車で寝泊まりしながらかなりの座数を登っている。登山することで森林とか地質等にも興味の対象は広がった。
 アメリカ旅行で伊藤氏と初めてご縁が出来てからもう30年近くになろうとしている。札幌における情報産業の企業と人も随分変わってしまった。これからも変わっていくだろうと思いながら、最後に伊藤氏の執務室でパノラマ写真撮影を行い、取材を終えた。(2014・7・3)


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2014年07月01日

HPFhito79・仕事・スポーツ・合唱と充実した生活を送る遠藤興産社長遠藤隆三氏

 ススキノの中心南6条西5丁目に塀を巡らせた大邸宅がある。門には「愚象庵」の表札が掛かっている。その家の現当主が遠藤興産社長の遠藤隆三氏である。同社の初代は隆三氏の父の象三氏で、名前の「象」を採って表札にしたそうだが、意味や謂れはよくわからないと隆三氏の言である。親子の名前に「三」がついているけれど、遠藤家の命名の流儀らしく、隆三氏は長男である。
 この屋敷は外側から内の様子がわからないので、通りすがり人は色々推測するようである。以前、道新文化センターの都市秘境巡り講座で、参加者と共に屋敷の内を見学させてもらったことがある。1919(大正8)年に完成したと伝えられている家屋は、北海道の住宅には見られない造りがあり、見学者には都市の中の秘境として記憶に残ったはずである。
 この「愚象庵」内で隆三氏のパノラマ写真を撮り、インタビューをする。隆三氏は1976年にこの家で生まれている。北海学園大学法学部に進み、卒業後不動産の仲介業の三井リハウスに4年間勤め、遠藤興産に入社する。遠藤家は木材、ゴムなどを扱う仕事から象三氏の時に不動産業の現会社を興している。隆三氏が同社の社長に就任したのは、東日本大震災の起こった2011年で、当時35歳の若さであった。
 遠藤興産の本社は道銀ビルの9Fにあり、隆三氏はこの自宅から毎日本社に通う。会社の方は社員が10名前後、パートも同数程度居る。若くて社長に就任して大変だろうと推測してみるけれど、本人の口から大変そうな話は出てこない。それよりも、このままの人口減少が続けば、不動産業を始め北海道の経済に与える未来が話題になる。しかし、深刻な未来をそれほど気にする様子でもなく、楽天的な性格のようでもある。
 仕事以外に話題を向けると、趣味の範囲が広い。スポーツが好きなようで、大学時代はラクビーとスキーをやっていた。大学生以前には水泳、剣道を、社会人になってからはサーフィンやスノウボードをやっている。サーフィンは、夏は苫小牧の海岸、秋には留萌近辺の海に行くそうである。自宅庭にサーフィンのスーツが干してあり、頻繁に出かけている様子である。
 全くの体育会系かと思っていると、オペラが好きで大学時代にはミュージカルにも出演しているというから、体育会系でも毛色が変わっている。現在は合唱団に加わっていて、札響の合唱団や男性合唱団「ススキーノ」のメンバーでもある。それにしても仕事と掛け持ちでこれだけのことをするのは若さのなせる業である。趣味に打ち込む経済人が多くなれば、札幌の経済や産業の厚みが増すと感じた。(2014・7・1)


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2014年06月30日

HPFhito78・ラーメン大好きの札幌丸井三越社長竹内徹氏

 ホテルでのメンバー制の月一の朝食会で、新メンバーに加わった札幌今井三越社長の竹内徹氏が、伊勢丹新宿本店のメンズ館のリモデルに関わった経験談を話されたのを聞いたことがある。男性化粧品は従来女性化粧品売り場の隅にあったけれど、男性が女性に交じっては買い難くかろうと、男性用化粧品の売り場を別に設けたらこれがヒットした、などの話が頭に残っている。現場を観察していると、新しいことが見えてくるとのことである。
 前記朝食会の別の日に竹内氏にパノラマ写真撮影とインタビューをお願いすると、朝食会後に札幌今井三越の社長室での撮影ということになる。ホテルから会社まで歩きながらのインタビューである。
 竹内氏は1960(昭和35)年東京都の生まれである。氏の生年は安保闘争で全国が騒然としていた年である。早稲田大学商学部に進んで、大学時代にラクビーに打ち込んだ。大学卒業後も社会人リーグで活躍されたそうである。話で、ラクビー、柔道、レスリング等のスポーツをやった人の顔をみるとわかるそうで、耳が押しつぶされたように頭についているとのことである。確かに氏の顔を見るとそうなっている。これから初対面の人をみたら、耳の特徴を見てみようと思った。
 大学を卒業して伊勢丹に入社する。1990年にはマレーシア・クアラルンプールに伊勢丹マレーシア店を立ち上げるために赴任している。4年間のマレーシア滞在後シンガポールの伊勢丹に3年間勤務して、帰国後前記のリモデル・プロジェクトに携わり、2013年札幌に社長として赴任している。
 初めて入る札幌今井三越の社長室の廊下には、以前は今井家の歴代の当主の胸像があったそうで、今は今井家の発祥の地である新潟県三条市の方に送られて残っていない。会社の今井家の記憶は、新社名にかつてのライバルデパートの三越と連記されて残るぐらいである。
 社長室の竹内氏が座っている机にはラーメンの丼ぶりが置かれている。本物ではなく作り物であるけれど、自称B級グルメの竹内氏はラーメン大好き人間である。1年前札幌に赴任してから、味の三平を皮切りにもう77軒は食べ歩きをしたそうである。道内も積極的に歩き回っていて、食べ物のおいしい北海道を満喫しているようである。
 札幌赴任で目指すことは、JR札幌駅の大丸札幌店を中核にした駅前地域に対抗して、大通地域を盛り立てることである。現状ではなかなか難しいことでもあると思われるけれど、ラガーマンの根性で、チームでこれを推進しようとしているのが短い会話から伝わって来た。(2014・6・19)


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2014年06月12日

HPFhito77・「オペラ狂」と自己紹介するリストランテ・トレノ経営者比良嘉恵氏

 道新文化センターの都市秘境散策講座で小樽は何回か訪れている。北海製缶小樽工場の見学は、小樽観光大使の光合金製作所会長井上一郎氏の紹介で、同工場長江川享氏が案内してくれる。工場見学後手宮洞窟まで足を延ばし、暗く、狭い洞窟記念館内に入ってみる。手宮洞窟は小樽市総合博物館の近くにあり、同博物館の敷地内に列車再利用のリストランテ(イタリア語のレストラン)「トレノ」があり、ここで講座参加者全員のランチ会となる。このレストランも前記井上氏の紹介であった。
 ランチ会終了後、レストラン経営者の比良嘉恵氏のパノラマ写真を撮り、短いインタビューを行う。比良氏は小樽生まれである。東京で就職し、マーケティング関連の仕事をする。小樽に戻ることになったのは親の介護のためで、食に対する関心もあってレストラン業を始めた。
 イタリア帰りの腕の良いコックを3年間契約で雇い、イタリア料理のレストランを開業している。場所は小樽市高島の日本製粉小樽工場の敷地内で、旧国鉄が競売にかけた列車を買い取って内部をレストランに改装している。列車の買い取り価格は300万円であったそうである。列車レストランは23年間続いて、2008年に小樽市総合博物館敷地に移動した。最初の列車移動は、日本製粉小樽工場への引き込み線が利用できたけれど、2回目の移動はクレーン車と大型トレーラ車を用いた大掛かりのものとなる。この移動は鉄道ファン間で話題になった。
 レストランを経営してから30年にもなると、比良氏は小樽活性化のキーパーソンになり、現在は解散した「おたるエコマネー実行委員会」や「伊藤整文学賞の会」(会長井上一郎氏)の会員として活動して来ている。特に1990年に第一回が始まった前記文学賞の会は初回から関わっておられる。この会は2014年に第25回目を持って幕を閉じた。トレノの店内に「伊藤整文学賞25年の歩み展」のポスターが貼ってあった。
 商売柄、イタリア旅行は良くするそうで、もう20回は行っているとの事である。旅行に不自由しないイタリア語は身に付けた。仕事柄イタリア料理を作るので、比良氏のイタリア行はイタリア料理と食材を訪ねる旅だろうと予想していたら、それに加えてオペラも楽しんでくるとの事である。自称「オペラ狂」と話が及んでも、当方オペラには無縁で、さらに突っ込んだ話にはならなかった。


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(リストランテ・トレノでの比良嘉恵氏 2014・6・11)

2014年06月08日

HPFhito76・多くのプロジェクトを手掛ける「いきたす」代表理事江口彰氏

 北大祭で模擬店の並ぶ構内のメインストリートを歩いていると筆者の名前を呼ぶ声が耳に入る。見ると江口彰氏が模擬店の前で客の呼び込みを行っている。客に出しているものはスープカレーである。以前、社会人入学で北大の大学院生となったのは耳にしていたけれど、もう卒業しているはずで、大学祭に関わっているのは何故かと聞いてみる。
 模擬店は、現在江口氏が責任者となって活動を行っている「カタリバ北海道」が出店している。この団体に関係する大学生が居ることから大学祭に参加しているようだ。模擬店の利益はこの団体に寄付すると言っているけれど、模擬店は黒字になるものだろうか。
 江口氏の現在の活動にはあまり詳しくないけれど、江口氏の顔を見ると最初の出会いとなる「三浦・青木賞」が頭に浮かぶ。札幌のIT企業のまとめ役の立場にあった三浦幸一氏が2000年の3月に亡くなって、三浦氏の思いを生かそうと前記賞が新しく設けられ、同年11月には第一回目の選考会と授賞式が行われた。江口氏は翌年の第二回目で学生の部門の特別賞に選ばれている。江口氏はこの時旭川大学経済学部の学生であった。
 江口氏は1975年旭川市生まれである。三浦・青木賞を受賞したことも契機となり、旭川大学を卒業後「コミューナルネット」を設立する。事業内容は国際交流事業で、国際的な人的交流を手助けすることを目的にしていた。しかし、イラン戦争やSARSの流行で国際交流が停滞し、加えて経験や資金不足で会社経営をストップする。
 新たな活動として「北海道塾」を始め、2006年には北大の教育学部修士課程に入学して勉強のし直しとなる。北大では「北大映画館プロジェクト」で日本初の学内映画館実現を目指した活動を行っている。短編映画「銀杏の樹の下で」制作に関わったりもした。
 北大の大学院卒業後はNPOカタリバ(東京)と出合い、その北海道版の普及に努めている。「カタリバ」とは文字通り「語り場」で、高校生を対象とした対話型のワークショップを柱にしている。人生での動機付けの学習プログラムを教育改革の一助にしようとしている。活動を続けるためビジネスの形態も模索していて、オフィスは札幌市の施設である「Lプラザ」内にある。
 学生達と一緒に大学祭の模擬店に居る江口氏は、留年数の多い学生かと錯覚するけれど、もう40 代が目の前である。もらった名刺には特定非営利活動法人「いきたす」代表理事の肩書がある。「いきたす」とはアイヌ語の「iki(行動)」と「as(成長)」を組み合わせ、“北”の音を取り込んだ造語であると、カタリバ北海道のHPに説明が載っている。活動の場をまた一新しようとしているようである。プロジェクトを途切れなく起こしていくことが、三浦・青木賞で評価された江口氏の持ち味のようで、その持ち味は模擬店のスープカレーにも反映されているのだろう。


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(2014・6・6 北大祭での江口彰氏)

2014年06月07日

HPFhito75・パチプロの経歴の持ち主レトロスペース・坂会館館長坂一敬氏

 国道五号に面して坂栄養食品の坂ビスケット売店がある。自転車で時たま通る時、この店に寄って割ビスケットを買う。何せ1袋100円なのでその安さの誘惑に負けてしまう。同社のブランド品は「A字ビスケット」で、この歴史のあるビスケットは道民には馴染みのものだろう。「英字」ではなく「A字」なのだが、ビスケットはアルファベットの形をしたものが袋詰めになっている。袋によっては肝心のA字が欠けていたりする。
 このビスケット売り場につながって「レトロスペース・坂会館」がある。下着、ヌード写真、猥雑な人形と並んでいて、大人の玩具を集めて並べているかと、冷やかし半分で店内のパノラマ写真を撮っていた。何回か訪れるうちに、この無料の資料館の持ち主のパノラマ写真を撮ってみたくなり、約束無しで店番の女性に頼んでみる。すると館長に取り次いでくれ、館長の坂一敬氏が現れる。坂氏は坂栄養食品を経営しているのではなく、現経営者は坂氏の甥ご氏である。
 坂氏と二、三話してみて、これは普通の経歴の持ち主ではないと感じる。女性の裸に目くらましを食らっていたけれど、坂氏自らが撮ったという安保闘争の写真が経歴の一端を語っている。ここら辺の事情は深入りして聞けない雰囲気なので、少年時代について話を向ける。1943年の大戦の最中に上標津村に生まれている。祖先は奈良県十津川からの移住者とのことである。
 物心ついた頃は戦後となり、右翼の少年になっていて月刊「丸」などを読み耽ったらしい今でも戦前の日本の戦艦の名前がすらすらと出てくる。ゼロ戦や人間魚雷回天の話、ゼロ戦とアメリカの戦闘機グラマンの比較等々とこれらの話題が続きそうなので、話をそれとなく本題に戻す。
明治大学の文学部と法学部で学んで、学生運動(闘争か)に入ったいきさつは色々ありそうなのだが、深入りするとまたはまりそうなので、社会人になった時の話を聞いてみる。
 どんな仕事をしたのかと尋ねてみると、定職には就いていなかった、とのことである。どうして生活していたのかと聞くと「パチプロ」だった話になる。パチンコで生活費を稼ぐのである。今度はパチプロになるための講習のような話しとなる。まず台を見る。台が前後に傾いているのはダメで、台の傾きを見分ける目を養うことから始める。指打ちの場合、コンスタントに続けて打てるポイントを決める。店に嫌われないようにするためと疲れにも対処するため、500発(玉1発2円の時代)を上限にする。この玉数だと1~2時間で仕事を切り上げられる。店の通りに面した場所に客寄せのため出る台が並んでいる、等々と続く。
 今パチンコ店に日中から通っているのは主婦が多いそうである。何故主婦がパチンコにはまるのか、パチンコ店の戦略を聞くとある意味恐ろしい。しかし、職業としては認められていない(従って職業としての納税申告は必要ない)パチプロで生活してきた人の話を聞くと、世の中いろいろな人がいるものだと感じ入る。
 話はいよいよ本題に入る。どうして物を集めるようになったか。ある時道端に裸のマネキンが捨てられていた。何か国家が国民を捨てているイメージと重なって、マネキンを拾ってきた。ここら辺の感覚が、過去に学生運動(闘争)を行ってきた感性が出ている。マネキンが何体にもなってきて、下着を着せて並べてみた。すると、下着が結構盗まれる。現在マネキンは2階に移動させていて、曇りガラス越しにマネキンが並んでいるのが目に留まる。
 マネキンの首や下着、普通の人形や緊縛人形、ヌード写真、ポスター、タバコ、マッチのラベル、ライター、時代物のテレビ、カメラ、銀塩フイルムのケース、仕事着から下履き、紙幣やコインとまあ多岐にわたる品々が並んでいる。中には貴重なものもあって、つい最近泥棒が入って小判やコインのコレクションがごっそり盗まれたそうである。金を出して購入したものなら、買い直すこともできるけれど、蒐集品は寄贈されたものも多く、そのようなものが盗まれたことの心の痛手が大きいとのことである。
 この資料館は1994年6月6日にオープンしていて、取材に訪れた日の翌日が偶然にも20周年記念日である。店内には豆本の蒐集品もあり、最近寄贈品の盗難に遭った事、20周年記念日に居合わせた偶然性も手伝って、筆者の爪句集豆本と都市秘境本を寄贈することにした。
 翌日の20周年記念日に寄贈本を抱えて訪れると、花瓶に挿した大きな花束が置かれてあり、20周年おめでとうの言葉が添えられていた。花と寄贈本の傍に坂氏に座ってもらい再度パノラマ写真を撮る。寄贈本に筆者の署名ということになり、署名本は三浦綾子の署名本と一緒にこのレトロスペース内に並ぶことになりそうである。


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(レトロスペース・坂会館内での坂一敬氏 2014・6・5)

2014年06月06日

HPFhito74・多くの公職を抱える秋山記念生命科学振興財団理事長秋山孝二氏

 秋山記念生命科学振興財団理事長の秋山孝二氏は多くの公職を抱えておられる。その一つに伊藤組100年記念基金の評議員があって、同じ評議員として評議委員会で席が隣になった。これは良い機会だと秋山氏のパノラマ写真撮影をお願いする。
 前記財団のオフィスは北1条宮の沢通に面していて、オフィスの隣の「かんてんぱぱショップ宮の森店」を道新文化センターの都市秘境散策講座の受講生と訪れたことがある。しかし、店の隣の建物が秋山氏のオフイスであることは露知らずであった。
 財団のオフィスということで、事務所の雰囲気を予想して行ったのが、立派な邸宅風であったのが意外であった。後で聞くと旧「秋山愛生舘」の4代目社長であった秋山喜代氏が晩年住んでいた家とのことである。この喜代氏個人の出捐金2億円で現在の財団がスタートしている。孝二氏は同社の5代目社長で、喜代氏は孝二氏の伯母に当たる。
 秋山孝二氏は1951年に札幌市で生まれ、札幌南校から1970年千葉大学教育学部に進学している。大学進学の年は大学紛争で東大、東京教育大の入試は行われなかった。大学卒業後東京江戸川区立鹿本中学校の理科の教諭になっている。1979年秋山愛生舘に入社し、1992年に同社社長、1998年に(株)スズケンと合併し同社副社長、2002年に退社している。
 秋山氏が退社した翌年2003年の4月には札幌市長選が行われ、7名が立候補した。市長選に一番先に名乗りを上げたのが秋山氏であった。混戦の選挙は政令指定都市初の再選挙となり、上田文雄現市長が当選した。秋山氏は再選挙には出なかった。選挙後、秋山氏は秋山不動産有限会社の社長となり、2013年には会長となっている。
 ネットで秋山氏の公職のリストを見て、ワグナー・ナンドール記念財団理事長というのを見つける。円山公園に隣接してあった市長公邸が解体され、跡地にハンガリー人のワグナー・ナンドールのブロンズ像の作品「母子像・ふるさと」が寄贈され設置されている。時々目にする彫刻で、同氏と彫刻家の関連を尋ねてみる。女系家族の秋山家の長女が喜代氏、3女が孝二氏の母の寿美氏、4女のちよ氏が同彫刻家と結婚している関係で、孝二氏が栃木県益子町にある前記財団の理事長に就いている。
 2年前の2012年7月に秋山氏に勉強会「eシルクロード大学」の講師をお願いしたことがある。テーマは「エネルギーと環境」で、北海道経済同友会幹事の秋山氏が原発を止めて「自然エネルギーアイランド北海道」を提唱されていたのが印象に残っている。北海道市民環境ネットワーク理事長の立場で考えた末の結論だったのだろう。
 これだけ多くの公職を抱えていれば趣味などに使う時間もないだろうとは思ったけれど、一応は趣味についても聞いてみる。案の定、仕事が趣味のようで、この話は続かなかった。それにしてはパノラマ写真撮影後、色々と話し込んで時間が過ぎていって、人と話をするのが氏の趣味なのかも知れないと思った。


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(財団オフィスでの秋山孝二氏 2014・6・5)

2014年05月28日

HPFhito73・著述業で忙しい北海道医薬総合研究所会長本間克明氏

 「ばんけい峠のワイナリー」社長の田村修二氏から札幌のIT産業に関する話を聞きたい、という申し出があり出かける。聞き役は田村氏の他に北海道医薬総合研究所会長の本間克明氏と書記役の喜多晴香さんである。田村氏が30年ほど前に著した「北海道産業論序説」の復刻版を本間氏が出版し、田村氏がその続編を考えていてIT産業も参考にしたい、とう話の流れである。
 田村氏の方はパノラマ写真を撮って取材は終えていたので、今度は本間氏の取材を申し込み、田村氏のところを訪れた翌日に撮影と取材を行った。本間氏の会社は地下鉄東西線24軒駅の近くにある。本間氏にオフィスで机のところに座ってもらいパノラマ写真を撮る。
 本間氏は1954年旭川市生まれである。旭川の高校から北海道薬科大学に進学する。同大学の第一期生として卒業をしたが、病気のため就職せずに修士課程に進んでいる。修士修了後は当時の秋山愛生舘に勤め、1990年には室蘭で薬局として独立する。翌年には札幌に進出している。その後「なの花薬局」で知られる会社と合併して出来たファーマホールディングスの代表取締役会長も勤めている。同社は九州の会社とも合併し全国332店舗(内道内110店舗)を擁する全国規模の薬局となっている。
 本間氏の名刺には薬剤師の他に薬学修士と経済学修士が記されている。2000年に北大経済学部が新制度として発足させた社会人枠の修士課程に入学した。個人経営の薬局なら薬剤師の資格だけでやっていけるが、多くの薬局に目を配らねばならなくなると、経営とか経済の仕組みとかの知識が必要になると考えて、経済学修士号取得となる。
 現在力を注いでいるのは、薬局経営の資格を取得するためのテキスト作りである。既に「薬局薬剤師における在宅業務マニュアル」(㈱コムファ在宅推進委員会)等のテキストとその改訂版を出版してネットで販売している。「登録販売者合格教本」(本間克明、本間技術評論社)などの著作もあり、著述業でも忙しいようである。
 話を趣味に向けると、すかさず男性合唱団「ススキーノ」の公演ビラが出てくる。ビラには第10周年記念とあって、ススキノでの飲み会から始まったこの合唱団は10年間続いている。ビラにある惹句「俺たち青春の真っ只中」をやっておられるのだろう。


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(オフィスでの本間克明氏、2014・5・27)

2014年05月25日

HPFhito72・スペイン名誉領事の元北海道知事堀達也氏

 無名会というホテルでの朝食を摂りながらの勉強会に出席している。主宰者は元北海道拓殖銀行常務の石黒直文氏である。会のメンバーの一人に元北海道知事の堀達也氏がおられ、時々顔を出される。堀氏が出席の回でたまたま席が隣り合わせたので、パノラマ写真撮影を依頼する。勉強会が終わってから同氏のオフィスに出向く。
 都心部のオフィスビルの2Fに氏のオフィスがある。このオフィスとつながって、在札幌スペイン名誉領事館の部屋があり、堀氏はスペイン名誉領事を務めている。現在の堀氏の公職は道体育協会会長、道森と緑の会理事長、北方領土復帰期成同盟理事長などで、このオフィスはそれらの公職のために用意されたものなのだろう。
 オフィスでパノラマ写真撮影後短時間のインタビューに入る。生まれは1935年で、出生地は樺太(現ロシアサハリン州)である。終戦と同時に遠軽に引上げて、遠軽高校から北大に進学している。引上げ時は10歳であったので、樺太の記憶はあり、サハリンを訪問した機会を利用して生地ボロナイスクを訪れて見たかったそうである。しかし、州都ユジノサハリンスクから生地までは遠く、訪問の機会を逸したとの話である。
 北大農学部林学科卒業後北海道庁に入庁して林務部で仕事をし、知事室長、道公営企業管理者、横路孝弘知事の下で副知事、1995年に北海道知事選に出馬して当選する。この時の選挙戦で争った相手は衆議院議員伊東秀子氏である。当時筆者は堀氏よりは伊東氏に面識があった。
 知事時代にもっとも印象に残った出来事はと聞くと、やはり拓銀の破たんとの答えが返ってくる。知事を2期8年務めて知事職を辞し、その後札幌大学理事長、北海道開拓記念館長等を務めている。知事時代の回想録の執筆はしないのか聞いてみると、インタビューに応じた「北海道知事という仕事」が出版されていた。1万部印刷されたそうで、道内出版物としては部数が多い。しかし、この著作は読んではいない。
 ゴルフが好きなようで、ゴルフを話題にすれば話は発展するのだろうけれど、当方ゴルフのクラブも握ったことはないので、話を向けるのは無理である。若い頃の仕事が森林に関する事であったので、北海道の山は至る所分け入っているそうである。しかし山登りで頂上を極めるといった事ではないようである。70才頃まではゲレンデスキーを楽しんでいた。
 ネットで検索して堀氏の記事を読むと、政治家としては当然ながら、毀誉褒貶がある。ここら辺の事を聞いてみたい気もしたが、目的はパノラマ写真撮影なので、インタビューは世間話程度で終える。パノラマ写真を合成してみて、笑顔の堀氏が写っていて安心する。 


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(2014.5.22 オフィスでの堀達也氏)

2014年05月16日

HPFhito71・湿原の生態を研究する北大植物園長冨士田裕子教授

 今年(2014年)4月から始まる道新文化センターの「身近な都市秘境を歩いてみよう」は11期目になる。今期の講座の見学先の一つとして「道立アイヌ民族文化センター」を候補にして交渉していた。見学場所がこの一つでは参加者は満足しないかと、近くの北大植物園内にある北方民族資料室も見学先に加えることにする。
 下調べで訪れた植物園は冬期休園中で、温室だけが開放されている。温室で植物園長の冨士田裕子(ひろこ)教授の名前を聞いて、予約無しで訪ねてみる。冨士田先生の部屋は前述の資料室と同じ建屋にあった。部屋の内はいかにも大学の先生の部屋らしく、本や資料の山である。こういう雰囲気をパノラマ写真に撮りたいと思ったけれど、これは断られるだろうな、とも予想できた。
 初対面の冨士田先生に見学とパノラマ写真撮影の件をお願いする。見学の方はOKで、指定の様式の見学依頼書を送ることで片がつく。パノラマ写真取材の方は、4月下旬の開園後、日を改めて園内の適当な場所で、ということになった。
 5月の中旬、受講生を連れて植物園を訪れる。資料室の説明は植物園のスタッフの加藤克(まさる)助教にお願いする。加藤先生は北大文学部から博士号を授与されている。植物園に文学博士のスタッフとは、事情を知らないと奇異に感じる。加藤先生は元々歴史の研究をしており、植物園内には北方民族資料室の他にも博物館があり、植物そのものも歴史的研究の対象になる、と聞くと少し納得である。
 講座参加者が資料室を見学している短い時間に、植物園の初代園長の北大教授宮部金吾の記念館横に立ってもらい、冨士田先生のパノラマ写真撮影である。バックにライラックの大きな株が花を咲かせようとしている。このライラックは、北星学園に発展したスミス女学校を創設したアメリカ人宣教師サラ・スミスが故郷から運んだものである。札幌最古のライラックのお墨付きの名木である。
 冨士田先生のインタビューは、先生に植物園を案内してもらうついでに立ち話程度で行い、後はネット情報で補強する。生まれは仙台市である。東北大学の農学部農学科を卒業してから同大学院理学研究科博士課程に進学し、理学博士号を取得している。その後新潟大学の助手、1989年に北大農学部の助手として植物園勤務となり、助教授、先月4月(2014年)に北大教授となっている。
 植物園の園長だった故辻井達一教授の下で研究に従事していて、辻井先生の専門の湿原の生態や環境に関するテーマを引き継いで研究を続けている。研究の性格上、湿原でのフィールド研究が多いようで、パノラマ写真撮影の日の前日まで、女満別の網走湖付近の湿原調査に行っていたとのことである。
 2010年には、尾瀬湿原を保護する活動を行っている尾瀬保護財団から第13回「尾瀬賞」が贈られている。同賞を受賞するのは女性としては初めてである。絶滅危惧種の動植物や消えて行く自然環境を対象にした研究は息の長い仕事で、持続力のある女性の研究者に向いているのかも知れないと思ったりする。
 猿払湿原などにも足を延ばして調査研究をされている。北海道の地図を広げて、猿払の地名を追い、この辺地に広がる湿原を想像しても、訪れた経験が無いのでリアリティに欠ける。北海道の広大な土地に広がる渺茫とした湿原を研究対象に選んだ研究者から見ると、植物園の手入れされた環境は人工の塊に見えてくるのではなかろうか。そこら辺のところを聞いてみるには時間切れであった。


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(北大植物園での冨士田裕子教授、2014・5・14)

2014年05月15日

HPFhito70・地域政策の提言をする北大公共政策大学院副院長石井吉春教授

 道新文化センターの講座「身近な都市秘境を歩いてみよう」を受け持っていて、長いこと続けていると未訪問の見学先を見つけ出してくるのに苦労する。「秘境」の言葉を冠しているけれど、人跡未踏の意味の秘境ではなく、一般市民が足を踏み入れることの少ない都会の中の場所、といった程度の定義である。
 この定義なら、北大の研究室ならどこでも都市秘境になりそうである。そこで顔見知りの先生達に研究室や施設の見学をお願いしている。北大も組織や機構改革でどんどん新しい大学院や研究機構ができている。10年前(2004年)に公共政策大学院と共に法科大学院、会計大学院が北大にも設置されていている。以前の学部と大学院が一体化した大学組織から見ると、秘境的大学院に見えなくもない。
 北大の公共政策大学院副院長の石井吉春教授と朝食会を介して顔見知りであったので、前述の都市秘境巡り講座の2014年春コースでの見学をお願いしていた。その石井先生にクラーク会館でばったり出会ったので、その場で石井先生の教授室でパノラマ写真撮影と簡単なインタビューをさせてもらう。
 石井先生の部屋に入って意外だったのは、室内がすっきりと片付いている事である。大学の教授室は押しなべて本や資料、理系では実験器具や用具、なかには趣味に使う道具と、乱雑と表現してもよい雰囲気にある。石井先生は実務を教えるということで銀行から転身してこられたので、銀行時代の整理整頓の習慣が身についているせいかと推測してみる。
 石井先生は1954年生まれの仙台市出身である。大学は一橋大学商学部を卒業し、1976年北海道東北開発公庫(現日本政策投資銀行)に入庫している。日本政策投資銀行の四国支店長から2005年北大の教授として赴任した。北海道との縁は1998年に小樽商科大学非常勤講師、2001年旭川大学非常勤講師、2002年北大大学院非常勤講師と続いていて、最終的に北大人として勤務することになった。
 講義や研究テーマは地域財政金融論に関わるものである。大学院の名前の通り修士生を教えている。しかし、理工系の修士課程の学生のように、研究室に属して修士論文を書き上げることで修士号を取得するのとはかなり異なる修士課程のようである。学生が研究室に属することはなく、修士論文を書く必要もないらしい。学生が履修した専門を尋ねられることがあるけれど、ここの大学院修了生は大学院に進学する前の学部の専門を挙げるそうである。確かに、公共政策学といっても他の人には漠然とした学問である。
 実務を教える立場での石井先生の話は、現場の地方公務員や首長に即役立つもののようである。各種の学外の委員会の委員を務め、インタビューを受け、提言を行って、精力的に学外に発言しているのを新聞、雑誌でみている。平成の大合併に関する先生のインタビュー記事を読むと、地方自治の問題点が見えてきて、なるほどと思う。
 仕事の他に好きでやっている事なども聞いてみる。テニスを週1回ほど楽しんでいるとのことで、自分で行うスポーツが好きなようである。頂いた名刺には高知県観光特使と刷られていて、こちらは趣味というより仕事の延長のものであろう。
(北大公共政策大学院教授室、2014・5・12)


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2014年04月30日

HPFhito69・ビール文化を語るサッポロビール北海道本社代表高島英也氏

 月1回の勉強会「eシルクロード大学」をサッポロファクトリーの会場で行っている。勉強会終了後は同商業施設にある「ビアケラー札幌開拓使」でビールを飲んでいる。サッポロビールの北海道本社はサッポロファクトリーに入居しており、同社代表の高島英也氏のパノラマ写真インタビューの待ち合わせ場所は、このビアケラーの名前のつくレストランであった。なおビアケラーとはビールを保管しておく地下室の意味のドイツ語である。
 ビールで思い出す国はまずドイツである。札幌の姉妹都市のミュンヘン市もビールで名高いドイツの都市である。今回高島氏の取材で、在札幌ドイツ連邦共和国栄誉領事事務所がサッポロビール北海道本社に併設されているのを知る。高島氏の名刺には書かれていないけれど、高島氏はドイツ連邦共和国名誉領事ということになる。ただ、この名誉領事事務所は、以前北海道電力内にあったものが最近サッポロビール北海道本社の方に移ってきている。
 高島氏は本社に自分の部屋は特に持っておらず、大部屋に社員と机を並べているので、名誉領事事務所でパノラマ写真を撮らせてもらう。インタビューの方は、前述のビアケラーで北海道限定のビールを飲みながら行う。
 高島氏は1959年に福島県保原町(現伊達市)に生まれている。東北大学に進学し農学部農芸化学を専攻し、卒業後サッポロビールに就職している。就職時にはサッポロビールの他に他社の選択肢もあったけれど、サッポロビールを選んでいる。他社でなくサッポロビールを選んだ理由を聞いてみる。面接でサッポロビールの社長の耳を見ると、ラクビーをしたことのある人の耳に似ていて面白そうであったから、といったような話をされた。因みに氏は学生時代にラクビーの選手であった。社員とスクラムを組んで力で相手企業を押し込む現在の立場は、ラクビーの試合を続けている気持ちであるのかもしれない。
 高島氏の企業家としてのこだわりは、同社発祥の地の北海道に収れんする。大麦、ホップ、銘柄によっては米を全て道産のものを用いて造る。道民に愛飲されるビールにして、販売でも北海道地域ではシェアのトップを堅持する。ビールに道産米というこだわりも他社では聞いたことがない。銘柄によっては、米に豊富なデンプンをビールの副原料として用いるとのことである。高島氏はビールの製造部門に長らく携わってきており、氏にビールの話を聞くとビール通になりそうである。
 高島氏は日本ビール文化研究会を立ち上げている。この研究会では「日本ビール検定」も行っていて、北海度の受験者は高成績を収めているとのことである。
ビール文化についても話は展開する。会合で最初の飲物は決まってビールになる。乾杯でもビールのコップを片手となり、最初の飲物がビールと決まっているのは一つの文化かもしれない。文化とは暗黙の了解事項が要素を構成している。ビールに合う料理となれば食文化につながっていく。ただ飲むだけではなく、ビールをもっと知る必要がありそうだ。ビール検定もそう思った人が受けているのだろう。
 現在54歳の高島氏に退職後にしてみたい事をきいても的外れ思いながら聞いてみる。意外なことに幼稚園を経営してみたいとの答えが返ってくる。氏の幼稚園時代の原体験が、幼い頃からの人材養成をしてみたい、という思いにつながっているようである。動物を見るのも好きで、時間が取れると円山動物園に行き動物を眺めるそうである。シマフクロウの話も出ていて他から薦められた訳でもなく、一人で考えて「北海道シマフクロウの会」に入会したそうである。今度フクロウの写真を撮って、俳句もどき(爪句)と説明文の原稿を集めて最終的には爪句集豆本を出版する話をしたら、原稿を出してもらえそうであった。


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2014年04月24日

HPFhito68・趣味は仕事という弁護士の馬杉榮一氏

 弁護士の馬杉榮一氏は、大通西9丁目の大通公園に面したビルに馬杉榮一法律事務所を構えている。弁護士をやっていく上で弁護士事務所は重要な要素だそうで、家賃の高いこの場所で長らく仕事を続けて来ている。弁護士には縁がなかったけれど、今回パノラマ写真撮影とインタビューで同事務所を訪問する。
 馬杉氏は1946年静岡県浜岡町生まれで、東京教育大付属中・高校から東大の経済学部に進んでいる。大学卒業後に直ぐ司法試験に合格し、法曹の世界に入ることになる。経済学部出で何故弁護士なのかとちょっと聞いてみる。世の中を渡って行くには手に職を、あるいは資格を持つのが良いとの考えのようで、堅実な方のようである。
 もう一つ、北海道に縁がないのに何で札幌に住み着くようになったのか質問してみる。こちらの方は堅実な考えとはかなり離れている。司法試験合格後法曹界で仕事をするためには、司法修習生として希望する地で経験を積む必要がある。馬杉氏の時代には2年間、現在は1年間に短縮されているこの研修制度は、以前は国から給料に相当するものが支給され、現在は奨学金のように後で返還する必要がある。2年間希望の地で経験を積むということで、氏の時代には列車と連絡船で来る東京から遠いところなのに、札幌は人気の地だったそうである。
 司法修習生の2年間を過ごした札幌が、その後40年以上もの弁護士生活の地になっている。結婚も札幌である。当時北海道では弁護士の居ない地方もあったので、弁護士は貴重な存在であったらしい。その点を改善する制度変更で、現在は弁護士が供給過剰気味だそうで、札幌市だけでも700名程度の弁護士が居るとのことである。弁護士や事務員を抱えて弁護士事務所の経営を行っていくのも大変そうである。馬杉氏は年齢も考え、抱えていた弁護士を独立させ、現在は事務員3名で身軽にしてやっていると話していた。公職や弁護士以外の仕事も減らしているようで、北洋銀行社外取締役や北大医の倫理委員会委員などは現在も続けている。
 書籍や資料が本棚に並んでいるところで氏のパノラマ写真を撮る。撮影後、近くのホテルのレストランでの昼食時にもインタビューは続く。話は司法全般に関するものになる。司法の世界は根幹のところで専門性というものが影を潜める。裁判官の仕事は、法律によるチェックという前段階はあるものの、灰色のものに対する白黒の最終的判断では素人の立場で対応する、と氏の話で気づかされた。例えば、医療過誤の問題が裁判に持ち込まれた場合でも、最終判断を行うのは医療プロの医者ではなく、医学に素人の裁判官である。したがって裁判官員制度で、素人の市民を無作為に選んで、裁判の最終判断に立ち会わせてもおかいことにはならないとの考えに結びつく。普通の職業では考えも及ばない。
 弁護士も同様に、抱えた案件の専門家ではない。もし、技術的な係争案件ならば、自分の経験に頼ることが出来ないので技術者の意見を聞く。何か台本家、役者、カメラマンを率いて演劇を行うとか、報道番組作るプロデューサーに似ているな、と思ってしまう。ただ、裁判官も弁護士も最終判断に至る過程で、素人状態からその分野の玄人に近づくことは当然ながら考えられる。すると、弁護士の仕事は勉強の連続という側面もあって、勉強家には飽きない仕事なのかもしれない。
 馬杉氏に趣味はと話を向けても、特に趣味に関する話にはならない。仕事が趣味というのも、前述のように素人がプロに近づいていくところに趣味の面白さがあることを考えると、仕事が趣味という馬杉氏の姿勢に納得する。2010年発行の「翔(はばたけ)」の氏の近況報告のパンフレットを渡されて見ると、旅行をしたりゴルフをしたりで、仕事がばかりしているのでもないことが垣間見えてくる。(2014・4・22)



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2014年04月13日

HPFhito67・「天寿がん」を語る札幌がんセミナー理事長の小林博先生

 公益財団法人の「札幌がんセミナー」(SCS)から同法人の定期刊行物の「SCSコミュニケーション The Way Forward」が送られてくる。表紙の絵は、一目で画家金井英明氏のものであることがわかる。金井氏はこの風土記人物編でインタビューしていて、絵を目にし、顔見知りのSCS理事長小林博先生のパノラマ写真を撮ることを漠然とした予定の中に入れておいた。
 SCSは大通西6丁目にある北海道医師会館に入居している。建物の前を通ったついでにアポイント無しで訪ねてみる。小林先生は居られるだろうか、と期待半分で開いているオフィスのドアから覗き込むと、先生が机に向かって仕事中である。この時のインタビューで知ることになったのだが、先生は毎日この部屋に来ているそうである。そして、毎日きちんとした仕事があることが何より長寿に寄与している、との話を伺った。
 小林先生はがん学者として長年研究と教育に携わってきた。1927年に札幌で生まれているので今年(2014年)で87歳になられる。札幌第二中(現札幌西高)から北大医学部に進み、医学部の病理部門でがんの研究を行い、1965年には教授に昇進している。教授になったのは37歳の若さである。1991年に北大を定年退職し北大名誉教授となり、北海道医療大学教授や北海道医師会道民教育センター長などを歴任している。受賞も多く、日本医師会医学賞(1986年)、紫綬褒章(1990年)、日本癌学会吉田富三賞(2000年)、第一生命保健文化賞(2008年)などとある。
 小林先生との話は当然ながらがんに関するものになる。素人の興味で、がんとは戦うな、との持論を展開する慶応大学医学部の近藤誠先生の話題などを持ち出してみる。小林先生は、近藤先生は勇気があり、近藤先生も理にかなったことも言っているとのことで、近藤理論の全面否定の立場ではなさそうである。近藤先生との立場の違いは、放射線治療の近藤先生は画像を見てのがん治療で、小林先生は病理の立場から、実際のがんを肉眼で確かめての治療経験がある点の差であるらしい。
 ご自分でもガンに罹った経験がある。1990年に日本癌学会会長に就任した時期に肺がんが見つかり、会長職を全うしてから手術したそうである。それから20年以上健康で居られるのは、がん治療のお蔭ということになる。しかし、年を取ってからのがん治療は必ずしも良い選択でもない、といった意味の話もされる。「天寿がん」という言葉を持ち出されていた。天寿を全うするのに、死期の予測できるがんは好都合かもしれない。末期のがんによる痛みは薬でコントロールして、予測される余命ですることをやって、めでたく人生を終わる。
 よく人生の終わり方の理想に「PPK」(ピンピンコロリ)が言われるけれど、大概はそうならず、大方の人は、最後は身障者として生を終わる。小林先生は「PPK」は「ピンピン枯れる」で、枯れる手伝いをがんがしてくれる、と話されていた。それにしても小林先生はお元気である。健康の秘訣を聞くと、冒頭の話の、毎日SCSのオフィスに通ってやる仕事があることだそうである。その他には、毎朝シャワーを浴びて30分ほど体操をすることぐらいが健康法と言えるかもしれない、とこれといった特別の健康法を実践しているようでもない。寿命だから、という言葉が重みを増す。
 インタビューを終えてパノラマ写真を撮る。パノラマ写真を回転していくと、SCSが毎年行っている「がん特別セミナー」のポスターや海外でのボランティア活動の写真などが並んでいる。これらは写真撮影時にはよく見もせず、写真を合成してから見ている。


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(SCSのオフィスで仕事中の小林博先生、2014・4・10)

2014年04月11日

HPFhito66・太古の海牛に魅せられた札幌市博物館活動センター学芸員の古沢仁氏

 札幌市には正式な市立の博物館が無い。以前同市に博物館を新設する話があり、検討が行われたのだが予算の関係で計画は凍結されたままである。しかし、将来の博物館建設を視野に入れて、博物館の「活動」を行うセンターがあり、展示物を市民が自由に見学できる。場所は北一条通に面した旧札幌市立病院の建物内である。この建物は2年後には取り壊される予定で、活動センターは平岸の児童発達センター「かしわ学園」の移転跡に移る予定である。
 活動センターは都心部にあることも手伝って、ときどき覗いてみる。ここの一番のお宝は、当時小学生だった女の子が豊平川で発見して「サッポロカイギュウ」と名付けられた大昔の海牛である。その海牛に関する研究を続けて来ている学芸員の古沢仁氏を訪ね、インタビューとパノラマ写真撮影を行う。
 活動センターには市の職員の学芸員が二名居り、古生物学専門の古沢氏と植物学専門の山崎真実さんである。古沢氏は1956年札幌生まれで、北海道札幌北陵高校(1期生)から北海道教育大学に進学する。大学では自然科学科の地学を専攻した。卒業後札幌市手稲中央小学校の先生として赴任したけれど、1年間で勤務先を変えることになる。深川市でのクジラの化石の発掘調査に関わり、滝川市でも同様な化石が発見された時、これをクジラの骨と見立てた。しかし、これは海牛の化石で、この誤認から滝川市が博物館施設を創る計画に乗り学芸員として滝川に移り、滝川カイギュウの研究を行った。
 滝川市での仕事も一段落し、今度は旭川市の高校の夜間の教師となり、昼間は旭山動物園でのプロジェクトに関わったりしながら、自宅での古生物の研究を続ける。そうこうしているうちに沼田町で海牛化石が発見され、昼間は沼田町での作業、夜は旭川での教師の生活となる。この状況で沼田町の学芸員の声が掛かったのを機に沼田町に勤めて研究を続け、1998年に札幌の現在の職場に移っている。札幌では前述の市の博物館新設の計画・検討に加わった。
 インタビュー中の古沢氏の口から古生物の名前がチラリと出てきても、聞いたこともない名前である。古沢氏は2002年度に鹿児島大学から論文博士で学位を授与されている。博士論文を見せてもらうと論文題目は「海牛目ジュゴン科(Sirenia:Dugongidae)絶滅した2亜科(HalitherriinaeとHydrodamalinae)の系統と進化」で専門用語が並び、会話に用語が出てきても素人にはどんなものか理解が及ばない。
 パノラマ写真は、現在研究中の豊平川から掘り出されてきて、クリーニングが終わっているクジラの骨格化石の一部の横に立ってもらって撮影する。現在のクジラの骨と比較して、数倍も大きな骨の化石を説明してくれる。この化石はほぼ一体分が見つかっていて貴重な標本であるらしい。以前、道新文化センターの都市秘境散策講座で講座受講生と一緒にここを訪れた時、大きな岩石の塊から化石を取り出す作業を見学しているけれど、このクジラの化石だったようだ。それにしても遠い昔に生きていた海中の動物の化石を相手に、研究を続けていくのは気の遠くなる話である。
 古沢氏は趣味として絵を描くそうである。沼田町の仕事場で絵を描いているところが出版社の編集者の目に留まり、福音館書店の「月刊たくさんのふしぎ」の第172号(1999年7月号)の「時をながれる川」の絵本として出版されている。絵と文は古沢氏である。沼田町を流れる幌新太刀別川で発見される化石から、大昔この川や周囲の山が海の底にあった時代に、海牛やクジラが泳いでいた様子が描かれている。絵本を見た子供たちが時を遡り、想像の翼を広げる様子が見えてくる。教員として小学校の児童は教えられなかった代わりに、学芸員の目を通した絵本を出版して、児童に太古の物語を語り聞かせている。


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(クジラの化石の横に立つ古沢仁氏 2014・4・10)

2014年04月09日

HPFhito65・IT街工場にエンジニアの理想郷を求めるサイレントシステム取締役中本伸一氏

 技術力を持った中小企業の町工場が集まるエリアで、共同で新技術に挑戦する報道に接することがある。これに対して、IT業界での物作りでは町工場の話はあまり耳にしない。しかし、インターネットが発達してきた現在、街中のマンションの一室が工場のようになって、IT製品が作られているのである。これはIT街工場とでも呼べるだろう。
 (有)サイレントシステムはこのIT街工場である。この会社には、中本伸一氏と岡田節男氏のエンジニアが二人だけ働いている。中本氏がソフト、岡田氏はハードを担当し、コンピュータ及び電子デバイスの製造販売を行っている。会社は2005年に設立されている。
 1956年札幌生まれの中本氏は月寒高校から北大に進学している。工学部電気工学科に移行し、所属の研究室は筆者のところであった。在学中に、後に全国規模のゲームメーカーになるハドソンに入りびたりで、北大を卒業せずにハドソンに勤める。マイコンが出始めの頃はHuBASICを作ったり、後にハドソンの売れ筋のゲームを開発したりした伝説的エンジニアである。会社では副社長にもなっている。
 ハドソンは工藤裕司、浩の兄弟社長で経営されていたが、北海道拓殖銀行の破たんで資金繰りに躓き、コナミの傘下に入り、2012年にはハドソンの社名も消えた。ハドソンが無くなる以前に同社を離れた中本氏は、組織の制約を受けない形で物作りができるエンジニアの理想郷を目指し、前述の会社を設立している。マンションの1室でも工場のようにIT製品を作れると聞いていたので、その現場でパノラマ写真を撮らせてもらう。
 マンションの部屋に入ると、製品開発のためのパソコンや測定器が並んでいる。シンクロスコープ、スペクトルアナライザー、無線の送受信機etcとある。オリジナルな製品を設計し、回路図をネットで送ると出来上がったチップや基盤が郵送されてくる。それを必要部数半田付けし、ケースに入れて完成品にする。販売もネットで行い、会社のHPに製品のラインナップが表示されている。製品としてセンサーボックス、ワンチップサーバー、無線通信モジュールとこれまで開発された数多くのものが並んでいる。
 売上高の規模を尋ねてみると、年商1000万円ぐらいだろうとのことである。中本氏はCQ出版のライターとして原稿の依頼があり、スカイマークのIT監査役を勤めていたりで、収入を全面的に会社に依存している訳でもないようである。技術者として好奇心を満足させてくれる製品を開発している、といったところである。これがエンジニアの理想郷という謂れである。
 中本氏は好奇心旺盛で、現在はビール造りを行っている。地ビールメーカーの小樽ビール肝煎りでビールコンテストがあり、個人が造ったビールの品評会参加が楽しいと言っていた。以前には陶芸に凝っていた時があり、こちらは造形よりは釉薬による色出しが、酸化雰囲気や還元雰囲気でどんな風に変わるかといった、化学の世界に興味があったようである。
 ウォーキングも趣味に入っていて、空知単板工業主催の100キロウォークやオランダのナイメーヘンの200キロウォーク(フォーデーマーチ)参加の話が出てくる。ウォーキングの裏ワザなどを聞いていて、筆者も何かのウォーキングに参加してみたくなってくる。
 考えてみると、大学の研究室に顔も出さず、大学を中退した中本氏であるけれど、大学を離れた中本氏とは時々海外旅行を行っている。北海道マイクロコンピュータ研究会のメンバーで参加した1981年のサンフランシスコでのウェスト・コースト・コンピュータフェア旅行、2000年のソウルでのeシルクロードの日韓の会議、2005年の中国成都市パンダ繁育研究センター視察旅行とある。そしてパノラマ写真風土記にも登場してもらい、この記事を書いていて過去の旅行の思い出が浮かんでくる。


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(サイレントシステムの中本伸一氏、2014・4・8)

2014年04月08日

HPFhito64・北海道のデジタル出版の音頭取りをする中西出版・中西印刷社長林下英二氏

 札幌テレビ放送(STV)のラジオ番組に「ほっかいどう百年物語」というのがあって、時々聴いている。ラジオ放送された北海道の歴史的人物がまとめられ本となり、中西出版(株)から刊行されている。これは同社の売れ筋のシリーズ本になっている。中西出版社長の林下英二氏の経歴を見せてもらうと、STVラジオの番組審議委員を務めておられた時期があった。「ほっかいどう百年物語」がとりもつ縁かな、と推測する。
 中西出版は自社刊行本を新聞広告に出す数少ない札幌の出版社である。社名は聞いていたけれど、これまで訪れる機会のなかった同社に出向き、社長の林下氏のパノラマ写真の撮影をお願いする。林下氏とは紀伊国屋書店札幌本店での自費出版本のフェアでお会いしていた話が出たけれど、筆者はすっかり忘れている。そのフェアで購入されたという筆者の爪句集豆本がテーブルの上に並べられ、筆者も最近刊行された爪句集を贈呈して、出版に関する四方山話となる。
 出版不況が言われてから久しい。地方の中小出版社は出版業だけでやっていくのは難しい。中西出版は中西印刷(株)がグループ企業としてあるので、印刷業の儲けで出版業を支えている構造になっているようである。その中西印刷の社長も林下氏である。林下氏のパノラマ写真を撮ることは後回しにして、パノラマ写真をQRコードで見ることのできる爪句集を前にして、パノラマ写真を素材にした本の出版はどうか、といった話をする。
 中西印刷は一昨年(2012年)創業100年周年を迎えたというから、この業界では老舗である。社史によれば創業者の中西應策は北海道写真製版の元祖と言われている。應策から数えて9人目の社長が林下氏となる。中西印刷内に1986年同社出版事業部が設けられ、それが1988年に独立して出版会社となっている。
 林下氏は1950年に札幌で生まれている。札幌光星高校から慶応大学に進み、法学部卒業後少し間を置いて中西印刷に就職している。林下氏の親戚が印刷に関わっていた影響もあり、印刷業をやってみたいという希望が中西印刷への就職につながる。同社に勤めた林下氏は、2003年に中西出版社長、2005年に中西印刷社長となる。
 林下氏は会社の取り組むテーマを3Pで表している。Printing(印刷)、Publishing(出版)、Planning(企画)である。どれも技術革新が絡むテーマで、具体例の一つとして電子書籍出版がある。林下氏は北海道デジタルデ出版推進協会の代表幹事も務められている。同社では「おばけのマールとまるやまどうぶつえん」(作:けーたろう、絵:たかいれい、2005年)の電子書籍を出版しており、北海道での電子出版の先駆けとして新聞にも取り上げられたのを記憶している。筆者も、パノラマ写真は紙メディアと電子メディアをつなぐ出版物の一つになる、とコメントする。
 目的のパノラマ写真は社長室で撮らせてもらう。社長室のテーブルにフクロウの置物が並んでいる。どうしてフクロウの置物のコレクションがあるか聞いてみる。中西印刷のシンボルマークはフクロウで、中西出版も同じフクロウマークを採用したので、フクロウグッズが集まってきているようだ。出された林下氏の名刺にもロゴマークの本を読むフクロウが印刷されている。
 帰り際に渡された社内誌はフクロウを意味する「あうる(OWL)」が誌名になっている。筆者は昨年(2013年)設立された「北海道シマフクロウの会」の会員になっていて、爪句集豆本のテーマの一つにフクロウを考えていることもあり、林下氏に提言する。何かフクロウに関する写真を撮り、短い説明文と爪句を付けた原稿を書いて、爪句集の共著者に加わらないかと。さてこの爪句集プロジェクトは実現するかどうか、近い将来に成否が見えてくるだろう。


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(社長室での林下英二氏、2014・4・7)

2014年03月31日

HPFhito63・札幌初のワイナリー「ばんけい峠のワイナリー」社長の田村修二氏

 北海道新聞(2014・3・27)に、東日本大地震の津波被災地岩手県野田村の山ブドウで醸造したワインの販売記事が載っている。醸造・販売を行うのは「ばんけい峠のワイナリー」で、社長の田村修二氏の写真入りの記事である。田村氏は顔見知りなので、販売日である3月下旬の日曜日に同ワイナリーに出向いて、田村氏のパノラマ写真取材となる。
 田村氏は札幌市内に住み、ワイナリーには車で通っている。氏の到着少し前にワイナリーの近くに車を止め、夫人と一緒に車でやって来た田村氏を見つける。ワイナリーの開店準備の間、まだ雪に埋もれているブドウ畑とワイナリーの建物のパノラマ写真を撮る。
 ブドウ畑の見えるテラスで田村氏のパノラマ写真を撮らせてもらう。このテラスは昨年(2013年)道新文化センターの受講生らと訪れ、ワインの試飲をさせてもらったところである。例年の雪ならテラスのビニル屋根の雪が落ちるのに、昨年の大雪では屋根の支柱が折れてしまったので、屋根のこう配をもっと急にして雪を落とす必要があると話されていた。
 田村氏は1940年東京生まれである。田園調布高校から東大に進学し、工学部応用化学科を卒業後、通商産業省(通産省、現経済産業省)に勤めた。通産省は、大学の専攻に関連して石油化学産業育成の仕事ができると考えたことによるそうで、国内に石油コンビナートを造るに際し、海外の先進技術導入するためアメリカに出張して技術移転の仕事をされる。
 札幌と縁がつながったのが1984年で、札幌通産局の商工部長として赴任された。札幌で2年間勤務後本省に戻り、その後環境省勤務となりここで定年を迎える。定年後は通産省時代に経済開発機構(OECD)のパリ本部で仕事をしていた経験も生かして、海外技術交流に関わるコンサルタントに携わり、その後北大の客員教授にも招聘され、札幌に生活の場を移している。
 札幌では持論の地場の資源を活用した企業育成の研究拠点として、盤渓峠に土地と研究棟を確保し、フィールドテクノロジー研究室を開設している。北大時代に江部乙のリンゴ農家からシードルが作れないか相談され、大学で実験までしたが醸造の許可が得られなかった。ところがこの研究室の横に買い求めた土地がたまたまブトウ畑で、このブトウを使ったワイン醸造を実現でき、これが現在のワイナリーに発展する。ある意味偶然で、札幌の第1号のワイナリーが誕生したことになる。
 ワインを商品にするワイナリーにはいくつかのバリアを越えなければならない。ワイナリーの許認可権は国税庁にあり、酒税を課す関係から最低6000リットル、720ミリリットルのビン詰め換算で8000本が最低生産量として要求される。田村氏は事業に先立って、この数量のワインが売れ残ったら、夫婦で1日何本飲んだらよいか試算してからワイナリーを始めた、と冗談半分で話されていた。
 ワイナリーは現在の場所に2001年にオープンし、今ではバスの停留所も峠のワイナリーの名前が付けられている。ワインの他に江部乙産のリンゴによるリンゴ酒(シードル)も商品化している。酵母菌を殺菌せずに生かしたままのワインは飲み頃を調節して楽しめる反面、長期保存には向かない難点もある。ワイン通が薀蓄を語ることのできるワインなのだが、ワインにはさほどの知識を持ち合わせていない筆者は、簡単な質問程度しか頭に浮かばない。
 写真撮影の合間に奥様手造りのハスカップの実を挟んだケーキが出され、これが美味しかった。このケーキはこれだけが売られているものではなく、テラスで客がコーヒーを注文した時に出されるものである。訪れた3月の下旬はワイナリー横のブドウ畑は未だ雪で埋まっていたけれど、もう少し経つとブドウ畑も新緑につつまれ、パノラマ写真を撮ったテラスから盤渓の自然景観が楽しめる。その眺めの中でのワインやコーヒーとこのケーキは、隠れ家の“峠の茶屋”の極上の一品である。


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(ばんけい峠のワイナリーのテラスでの田村氏、2014・3・30)

2014年03月30日

HPFhito62・石倉のあるユニークな美術館に作品を展示する銅版画家森ヒロコさん

 小樽市緑1丁目に「森ヒロコ・スタシス美術館」がある。森ヒロコさんは銅版画家であり、スタシス・エイドリゲヴィチウスはリトアニア生まれでポーランドの世界的芸術家である。同館は、国も経歴も大きく異なる二人の作家の名前を冠した、私設のユニークな美術館となっている。館長は森先生の夫君の長谷川洋行氏である。
 森さんは1942年に小樽の質屋の娘として生まれている。現在、美術館の一部として改装されている石倉は、生家の質店の質蔵であった。森さんは小樽緑陵高校(後の小樽商業高校)から女子美大短大に進学し、卒業後はグラフィックデザインの仕事に就いている。しかし、この仕事は自分には向いていないと見切りをつけ、小樽に戻る。28歳の時、小樽の画材店で開かれた小さな講座で銅版画に出会い、その繊細で硬質な表現に夢中になったそうである。
 銅版画家として作品を制作し出してから、全道展知事賞(1972年)、全道展道立美術館賞(72)と受賞が続き、各地での企画展にも作品を出展している。森さんは多くの作品を発表して来ている。森さんは猫がお気に入りのテーマのようである。生計のためにも作品は売られており、筆者の家の者が買ったものはやはり買い物をする猫である。
 長谷川氏は札幌でNDA画廊を経営していた時期があり、森さんはそこで個展を開いたり、銅版画の教室を持って教えていた。筆者は1991年NDA画廊で「コンピュータグラフィックスホログラムとスケッチ展」を開いている。この個展は当時としては先進的技術でもあったので「CGホログラム個展」として北海道新聞(1991.3.25夕刊)に写真入りの解説記事が載った。この個展が森さんを知るきっかけではなかったかと思うのだが記憶ははっきりしない。
森さんは目を悪くして、療養も兼ねて長沼町で自然の中で園芸などに従事していた時期がある。その頃長沼町では芸術家を町内に招いて制作活動を行ってもらうプロジェクトが進行しており、長谷川氏もこれに関連していた。この頃両親が高齢で介護が必要となり、再び小樽に戻る。両親の他界後、長谷川氏の提案で生家の石倉を改築し、NDA画廊を札幌から移している。1998年、通りに面した部分を新しく増築し、現在の美術館の形になった。
 美術館には、前記のスタシスの作品の他にもスロバキアの銅版画家アルビン・ブルノフスキーの作品、ホーランドの絵本作家のユゼフ・ウィルコンの動物のオブジェが館内に展示されている。東欧の芸術家との繋がりがあるのは、長谷川氏が毎年スロバキア国立オペラ座から歌手を呼び、日本各地でオペラ公演をしていることに関係しているようである。
 目の病が癒えてから森さんは精力的に制作活動を続け、カナダ、アメリカ、イギリス、ブルガリアでの展覧会を開催したり作品を出品したりしている。近年は2,3年おきでパリ、オーヴェル、ストラスブールでの作品展を開いており、フランスだけでも5回を数える。
 森さんの仕事場でパノラマ写真撮影となる。銅版画のエッチング法では、銅に防蝕膜を塗り、その上から鉄筆で絵を描き、それを塩化第二鉄で銅の線画部分を腐食させて銅版画の原版を作る。原版の銅の腐食部にインクを含ませ、プレス機でインクを紙に転写して銅版画ができてくる。この根気の要る仕事を長年行ってきた仕事部屋には、用紙やモデルにする小物の素材、資料、作品、展覧会ポスター等が置かれ、貼られ、箱に詰まっている。回転アームのあるプレス機もある。塩化第二鉄を入れる容器も見える。木版画でもそうであるけれど、版画の世界は芸術家と職人を兼ね合わせたところで作品が出来上がってくるので、仕事場を覗くと道具立てが大がかりで、パノラマ写真からその雰囲気が伝わってくる。
 森さんと長谷川館長の現在の懸案事項は美術館の将来である。それ自体が文化財になる石倉と、そこに収蔵されている作品が永く残る何か方策の検討が今から必要である。パノラマ写真ならディスクに収めておけばよいのだろうが、美術品となると事は簡単ではないと、森さんの話を聞いて思った。


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(森ヒロコさんの仕事場で、2014・3・29)

2014年03月29日

HPFhito61・電極作りに精を出す産業技術総合研究所北海道センター主任研究員池上真志樹氏

 世紀の大発見から研究捏造に反転しそうな雲行きのSTAP細胞の研究が行われた理化学研究所は、国が面倒をみている研究所で、今後の特定国立研究開発法人(仮称)の候補に挙がっている。もう一つ、同じ法人組織にするのに名前の挙がっているのが産業技術総合研究所(産総研)で、同研究所の組織の一つである北海道センターが豊平区月寒にある。
 全国にある産総研のセンターはそれぞれの研究領域の部門があって、北海道の場合ライフサイエンス分野の「生物プロセス研究部門」と環境エネルギー分野の「メタンハイドレート研究センター」で研究を行っている。池上真志樹氏は前記研究部門の生体分子工学研究グループの主任研究員である。
 池上氏は筆者の研究室で「合成開口法を利用した超音波影像法の高性能化に関する研究」で1987年に博士号を取得して産総研に就職している。博士課程の時の研究と現在の研究テーマはかなり異なっていて、今回初めて同研究センターを訪れて研究内容を聞き、消化不良の状態で理解している。
 立ち話程度で説明された現在の池上氏の研究は、体内の代謝等に関与する酵素に電子を移動させて酵素の働きを活発化させ、生体情報のモニタリングを行う方法や測定装置の開発に関するものである。このため、酵素と接して電子をより効率的に酵素に移動させる電極、酵素固定化電極の開発を行っている。例えば、血糖値を測るグルコースセンサー等も研究開発の範疇に入る。
 研究の粗筋を書くとこんなところでも、実際の研究は込み入ったものなのだろ。見せてもらった金メッキした電極は、何の変哲もないただの電極にしか見えなかった。しかし、研究上では工夫が凝らされた電極らしい。
池上氏は、博士論文の超音波で物体の映像を映し出す研究に関連した画像計測から、現在のバイオ関係の研究に至るまで、微小重力環境における燃焼研究、3Dプリンタによる臓器モデル製作、光干渉型バイオセンサーと器用に色々な研究に携わってきている。
 池上氏は1958年の東京生まれながら、出身は札幌といってよく、札幌小学校、札幌中学校、札幌開成高校、理科大と進み、大学院で北大に進んだ。筆者は道新文化センターで都市秘境散策の講座の講師を務めていて、産総研を都市秘境に見立て、市民を連れて研究所の見学を予定している。その下見も兼ねて池上氏を訪ね、研究所の建物前でパノラマ写真撮影となった。
 かなり広い構内にいくつもの研究棟があって、研究室の雰囲気を見せてもらった。大学の構内の雰囲気に慣れているせいか、構内にも建屋にも人が少ない、という印象を受けた。何か都市秘境めいているな、と感じて受け持っている講座の見学先にはうってつけかと思われた。


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2014年03月23日

HPFhito60・無名会

 旧北海道拓殖銀行(拓銀)元専務の石黒直文氏が代表世話人の「無名会」と称する朝食会がある。月一回、ホテルに集まり朝食後、1時間程度講師の話を聞く会である。会員は30名ほどで、金融関係、マスコミ関係、コンサルタント関係、大学教授、有力企業の北海道支社(支店)長等がメンバーである。
 2014年の3月20日は、この年度の北海道功労賞受賞者ということで筆者が講師役で、「北海道IT産業の創生と若い世代に未来を託して」と題した話をした。話が終わってから良い機会なのでパノラマ写真を撮る。
 当日出席した方々は、席順不同で石黒直文(元拓銀専務)、山縣尚武(北海道ショッピングセンター顧問)、馬杉栄一(馬杉栄一法律事務所)、松田従三(ホクレン農業総合研究所)、藤田久雄(北海道地域農業研究所顧問)、檜森聖一(北海道二十一世紀総合研究所社長)、土井隆夫(大成建設札幌支社長)、角田道彦(三井物産北海道支社長)、常俊優(ノーステック財団副理事長)、高島英也(サッポロビール北海道本社代表)、曽我野秀彦(日本銀行札幌支店長)、関口尚之(テレビ北海道社長)、近藤誠司(北大農学研究科教授)、加藤仁(日本経済新聞社札幌支社編集部長)、迫田敏高(北洋銀行常務)、岡田実(北海道新聞社専務)、遠藤隆三(遠藤興産社長)の諸氏であった。
 上記の方々のうち幾人かには、仕事場まで押しかけてパノラマ写真を撮らせてもらい、インタビューを行っている。この会は、筆者のパノラマ風土記ー人物編の取材源の一つでもある。


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(札幌グランドホテル 2014・3・20)

2014年03月21日

HPFhito59・銀行の社会貢献に知恵を出す北海道二十一世紀総合研究所社長檜森聖一氏

 「無名会」の名前の朝食会がある。代表世話人は旧北海道拓殖銀行(拓銀)元専務の石黒直文氏である。石黒氏の人脈ということもあり、会員は経済人、それも銀行関係者が多い。その中に北海道二十一世紀総合研究所社長の檜森聖一氏がおられる。この朝食会で筆者がスピーチした日に檜森氏のオフィスを訪ね、パノラマ写真撮影とインタビューである。
 檜森氏は1948年生まれの札幌出身である。中央大学卒業後拓銀に入行し、広報の仕事に長く携わってから京都支店長となった。父君も拓銀に勤めていて、やはり京都支店長であったとのことで、親子での道外支店長は珍しい。社長室の部屋の壁に飾ってある「和気満堂」の書は父君の筆によるものだとのことである。
 本店に戻ってからは公務金融部長で「ドウタン(道担)」役である。一時期銀行の大蔵省(MOF)担当の「モフタン(MOF担)」の言葉が新聞紙上を賑わしたことがあった。その北海道庁版の「ドウタン」の言葉があったとは、檜森氏の話を聞くまで知らなかった。
 拓銀が破綻して北洋銀行に営業権が渡り、檜森氏も北洋銀行に移り、公務金融部長から常務執行役員になった。前記会社の社長を兼務後、北洋銀行を退職して同社長を続けている。同社は北海道を基盤とするシンクタンクで、調査研究、提言、講演による啓蒙活動などが事業の内容である。
 檜森氏は銀行の社会貢献の知恵袋を自認している。これは北洋銀行会長横内龍三氏と二人三脚のとも言える。横内氏が銀行の社会貢献を推進することに前向きで、横内氏の人柄に惚れ込んだ檜森氏が、知恵袋の役目を果たしているようである。
 その一つの例として、横内氏が北海道の絶滅危惧種のシマフクロウの保護を支援するために昨年(2013年)立ち上げた「北海道シマフクロウの会」の事務局を同社に置いており、会報の発行や啓蒙活動を積極的に進めようとしている。
 趣味としてゴルフ、読書にアスレチックスが出てくる。アスレチックスは趣味というより健康管理のためだろう。一時期は100キロを超す巨漢であったそうで、病気もあり体重が減ったのを期に、体重維持のため散歩も併用して動くようにしているとのことである。フットワークを軽くして、歩くことばかりでなく、多くの兼職をこなしている。


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2014年03月19日

HPFhito58・本と資料に埋まる退職を控えた北大経済研究科教授吉田文和先生

 北大正門横にある交流プラザ「エルムの森」でパソコンを操作していたら、顔見知りの吉田文和先生に出会う。パノラマ写真風土記のインタビューを申し込むと、明日からの海外出張があるから、ということで日を改めての取材となる。
 長いこと北大に勤めていて、経済学部の教官棟に足を踏み入れたのはこの取材時が初めてである。メインストリーから見ると非常階段がむき出しで見える建屋の5階の南側に先生の部屋がある。部屋に入ると本や書類の山で、人ひとりが歩ける通路がドアから机のところまで続いている。段ボールの箱も重なっている。ここでパノラマ写真を撮るのはかなり難しいと思いながらの撮影である。
 この部屋の状況は先生の定年退職にも関係している。1950年生まれで、この3月(2014年)北大での35年間の教員生活の区切りをつけ退職する。その後1年間は北大の特任教授を続け、この状況下で本や資料の整理の最中だそうである。本や資料は懇意にしている下川町の町長とのつながりで、同町に寄贈し、文庫を作る計画が進んでいる。
 先生の専門分野は環境経済学である。この分野に進んだのは、東京都立大学卒業後進学した京大大学院経済学研究科が大学紛争で閉鎖状況にあった時、同大工学部の金属工学科に身を置いて、鉱物や鉱山に関する研究に接したことによるそうである。
 京大博士課程を単位取得退学後北大に勤務され、道内の炭鉱や鉱山で経済学の研究者として坑内に入って知見を広めている。研究の性格が学際的であるため、北大では工学部の鉱山関係の研究室、農学部、医学部と研究のための連携相手を広く求めることができ、総合大学の利点を生かして研究できたことがよかったと述懐されていた。
 今後の研究方向を聞いてみると、まず再生可能エネルギーと地域経済活性化で、これが先生の第一番の研究テーマであるようだ。これまでの研究の集大成の「Lecture on Environmental Economics」の論文集を頂く。本のカバー表紙の写真は先生撮影のもので、表は幌延町の風力発電の風車、裏はコペンハーゲンの洋上風車である。写真が趣味の奥さんに付き合って写真を撮ることが多いそうである。
 環境問題は今や原発問題を避けて通ることができない。3.11の福島原発事故発生当日はベルリンに滞在中だったそうである。事故後、英語で著した「FUKUSHIMA A Political Economic Analysis of a Nuclear Disaster」を共著で出版されている。
 脱原発に向けて、日独のエネルギー政策の比較研究を続けてきている。ドイツで実現している脱原発が、現時点では原発がなくてもやっていけると日本国民が知ってしまっていても、どうして日本では脱原発を続けていけないのか、研究者の立場で検証を続けていこうとしている。
 環境問題は公害の問題でもある。近代日本史でもいくつか大きな公害問題が発生している。そのところを環境経済学の研究者の立場から掘り下げてみたいという抱負も語られる。丁度先生の部屋からは北大古河記念講堂の屋根が見下ろせる。この建物は足尾銅山鉱毒事件を引き起こした古河財閥が、贖罪の意味を込めて全国の国立大学に寄付を行い、その資金で建てられた建物である。今は北大の景観の象徴となっている建物を隣に見ながら、吉田先生が環境経済学の研究を続けてきたのは何か因縁めいたものを感じる。


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(研究室での吉田先生 2014・3・17)

2014年03月15日

HPFhito57・借金100億円からの脱出を語るATパブリケーション(株)会長南原竜樹氏

 経済界倶楽部札例会で南原竜樹氏の講演を聞いた。企業家として大成するには一度は破産の洗礼を受けなければならない、という説は氏の話を聞くと本当かもしれないと思えてくる。海外から車を買ってきて国内で販売する仕事で事業が拡大していた時に、外国の自動車メーカーが破産し、100億円から一挙にベンチで夜を過ごす身に転落である。
 しかし、すごいのはそこから這い上がって元の規模の事業まで回復させ、さらに200億円、その先には1000億円企業を視野に入れている。この破産体験は「借金100億円からの脱出…地獄の危機を乗り越える逆転発想経営術」(河出書房新社)の著作として出版されている。
 現在は色々な企業の代表であるけれど、「ATパブリケーション(株)」会長で紹介されていた。出版業は儲からないビジネスの右翼に来るのに、どうして出版業なのか疑問が湧く。答えは至極明快で、出版事業で儲けようとは考えてはおらず、自分の考えを著作にして世に広めたい、という考えを述べていた。
 自分の考えを世に問うなら、このインターネット時代ではブログでもフェースブックでも他のネットの手段でも、そちらの方が手軽で、多くの読者に読んでもらえる可能性もある。しかし、社会的信用力の点ではネットは本に負ける。講演で例として持ち出されたのが、数十万の読者を持つネット管理者がお呼びのかからない会合に、数千の部数の本の編集者が堂々と入り込むことができるそうである。書き手だって、ツイッターのフォロワーが何万居るといっても、売れなくても一冊の本の著者に敵わない雰囲気がある。
 講演会では、当然ながら南原氏はスーツを着込んでいる。しかし、講演のスライドには氏の筋肉隆々の上半身の裸の姿が映し出される。3年間ほどで普通の肉体から訓練でこの筋肉が盛り上がった身体になったそうである。その体験を基に、スポーツ・健康ビジネスを展開しているとのことで、札幌での事業拡大に協力者を求めていた。
 超高齢化社会を迎え、急成長の気運にあるのが棺桶製造業であるそうで、ちょっとしたところに目配りをしてビジネスにつなげようとするのが、破産から得た知恵なのだろう。さすがに棺桶製造業まで踏み込まず、介護・看護の方面に事業を展開している。
 懇親会の席上で講演会参加者と話しているところをパノラマ写真に撮らせてもらう。これまで面識のなかった方なので、2,3言葉を交わして、後に続く名刺交換希望者に話の機会を譲った。



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2014年03月12日

HPFhito56・奇跡の映画館「大黒座」の経営を続ける三上興行社長三上雅弘氏

 浦河町の文化的な施設で町外に知られるものがある。奇跡の映画館といわれる「大黒座」である。地方の町の映画館は全国的にほとんど無くなった。映画館の経営は人口10万人以上の都市でも大変だといわれているところで、浦河町の人口は1万3千人である。この町に映画館が今でも続いているのはやはり奇跡である。
 今回の浦河町行きの目的は、同町の池田拓町長のパノラマ写真撮影とインタビューであった。目的の仕事が終わり、帰りの列車の時刻まで時間があるので、小耳に挟んでいた大黒座に予約も無く行ってみる。日曜日の定時の上映前のごく短い時間に「大黒座」を経営する三上興行(株)社長三上雅弘氏にお会いする。
 予定にはなかったけれど急に思いついて三上氏のパノラマ写真の撮影をお願いする。座席数42の館内のステージの上に三上氏に立ってもらい撮影となる。館内にはすでに最初の客の姿がある。三上氏は客の対応と上映準備があるだろうと、気にしながらの短時間のインタビューになる。
 三上氏が生まれたのは1951年で、今年(2014年)63歳になる。映画館の方は1918年創業で映画館の年齢は95歳であるから三上氏よりはるかに年上である。「大黒座」と映画館より芝居小屋の名前のようであるけれど、実際創業当時は芝居も行われていた。三上氏は映画館主としては創業者から数えて4代目である。この映画館に関わってからは40年は経っているとのことである。映画館の建物は3代目である。
 当然ながら映画館の経営についての質問が口に出る。1日15人も入ればよいかな、というところで、客の居ない日もあるそうだ。映画もフィルムを映写機にかけるアナログ時代から、ハードディスクで送られてくる映像データを、パソコン制御の映写装置で映すデジタル時代に突入している。大黒座も昨年500万円の借金でデジタル映写機を導入したそうである。その借金を返すのは映画興行収入では到底無理である。
 人件費は捻出できないので三上氏の他は、映画興行のもう一方の推進者の奥さんの佳寿子さん、母親の雪子さんがスタッフでやっている。映画館を続けてこれた秘密は、三上氏のクリーニング店にある。クリーニング店の儲けを映画興行に注ぎ込んでいて、これで映画館の灯を消さずにやってきている。
 三上氏の個人的なことについて質問してみる。大学は和光大学で人文学部芸術学科を卒業している。池田町長も和光大学卒で、他にも同町には和光大学出が居るそうで、町内で和光大学の同窓会が開けそうである。三上氏はカメラの趣味や自転車に乗って楽しんでいるとの事である。
 慌ただしいインタビューを終えて映画館を辞する時、丁度前日(3月8日)に札幌で公演があった演劇集団REの「オリオン座最終興行」のチラシを手にした。チラシの写真は大黒座で、館名が写真合成でオリオン座になっている。脚本は多分大黒座を土台にしたものと予想できるけれど、観ていないのではっきりしたことはわからない。地方の小さな町の映画館が劇団員の心を惹きつけたのだろう。



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(大黒座のステージに立つ三上氏、2014・3・9)

2014年03月11日

HPFhito55・町の舵取りで人間関係学を実践する浦河町長池田拓氏

 筆者は浦河高校の卒業生で、幼少の頃から高校卒業まで浦河に住んでいた。その関係もあり、浦河町長のパノラマ写真を撮りたくなり、予約を入れてJRの「優駿号」で浦河行きとなる。札幌から浦河には高速バスを利用するのが便利である。そこをバスより時間のかかるJRの普通列車(日高線は普通列車しかないけれど)に乗るのは、土日祝日限定の乗り放題の乗車券が利用できるためである。高速バス料金の半額以下で浦河町を往復できる。
 浦河駅は人が居るようだが、改札業務無しの無人駅状態である。駅ホームから跨線橋を渡ると国道に出る。昔は海だったところである。国道を渡ると海の埋め立て地に浦河町役場の庁舎がある。庁舎前辺りで後ろから公用車が来る。浦河駅に筆者を迎えに行った車で、車の迎えがあるとは知らなかった。
 日曜日にもかかわらず町長室で浦河町長池田拓(ひらく)氏と初対面である。池田氏は昨年(2013年)12月に1期目の任期満了を迎え、選挙により再当選し、2期目に入っている。1期目の選挙の時は元町教育委員会管理課長で出馬している。氏は1951年生まれなので、63歳である。
 町長室でパノラマ写真撮影とインタビューを行う。話は同町の抱える課題に及ぶ。道内市町村に共通する人口減少と同町の基幹産業の軽種馬生産の先細りへの対応に腐心している様子が伺える。
 「海と牧場の町」が同町のキャッチコピーであると記憶している。しかし、同町は今や「イチゴ」の生産地に変貌していると聞くと予想外である。イチゴはハウスで作られるので、広い農地は必要でない。流通が確保されていると安定した収入が得られる。浦河町のイチゴは夏・秋物で、東京のケーキ店に出荷される。イチゴの需要は多いけれど、生産に従事する農家が不足状況にあるそうだ。移住者も含め、若者がイチゴ生産者となって同町で働いてもらい、軽種馬生産を補てんする農業に育てていきたいとのことである。
 肉牛生産や昆布を始めとする海産物生産と、浦河町の産業活性化が人口減少を食い止める手段である。しかし、海産物をとっても、海水温の上昇により鮭の代わりにブリが捕れるようになり商品価値が落ちるとか、昆布をを食べてしまう紫ウニが増えている、磯焼けの進行等と問題が起きてきて、一次産業の振興も一筋縄ではいかないようである。
 浦河町のイメージキャラクターも新しく制定し、浦河の名前から女の子の「うららん」男の子の「かわたん」が公募により名づけられた。町長室の隣の会議室にはこれらのイメージキャラクターや浦河町の特産品のイラストの大きなパネルが壁にはめ込まれてあった。
 池田氏は苫小牧工業高校を卒業後、建築会社に就職する。建築方面には向いていないと、和光大学に進学し、人文学部人間関係学科を卒業している。町長職は、いってみれば人間関係学を実践しているともいえ、大学で学んだ事が生かされているのだろう。
 インターネットに載っていた池田氏の紹介に、犬と6匹のカメを飼っていとあり、この点について尋ねてみる。ニュージーランから来て一時期同町に滞在した人が帰国に際して「ミドリカメ」だといって飼育を頼み、引き取ったカメが実際6匹いる。しかし、これはミシシッピアカミミガメで、大きくなってきて大変らしい。趣味は家庭菜園と音楽鑑賞で、レコードをプレーヤーで聴くとのことである。
 昼食は昔筆者の育った小さな商店があったところの向かいに建ったホテルのレストランである。かつての商店のあった面影は消えてしまっていて、感慨深いものがあった。昼食時の話で、浦河町出身の初のオリンピック代表のウィリアムソン師円選手も話題となる。同選手の応援のため、池田町長はソチオリンピックに行ってきており、その際の土産話などが続いた。
(町長室の池田拓浦河町長、2014・3・9)


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2014年03月07日

HPFhito54・研究と研究予算獲得で忙殺される北大情報基盤センター長高井昌彰先生

 北大を退職後は大学で行われる何かの会合にも顔を出さないので、かつては顔を合わせていた先生方とも合うことがない。そんな状況で、たまたま頼まれた北海道地域ネットワーク協議会(NORTH)の特別講演の会場で北大教授高井昌彰(よしあき)先生を見つける。NORTHの副会長をしている関係で、講演会場に顔を出されたようである。日を改めて、北大情報基盤センター長室でパノラマ写真撮影をお願いする。
 同センターの建物は、以前大型計算機センターと呼ばれていた施設と同じもので、パソコンが普及する前にはデータの整理とか解析、シミュレーションはこのセンターの大型計算機が頼りであった。電波や音波を利用したホログラフィーの研究を行っていて、プログラムとホログラムデータをパンチしたカードを預けて計算してもらい、プリンター用紙に打ち出される計算結果を翌日に取りに行くという、今では信じられないやり方で研究を行っていた時代を思い出す。
 センター長室でパノラマ写真を撮り、研究や大学の運営についての四方山話になる。以前高井先生がどんな研究をしていたか忘れてしまっていて、聞いてみる。画像やコンピュータグラフィックスが研究テーマで、筆者が主宰していた「札幌国際コンピュータグラフィックスシンポジウム」に論文を提出されている。帰宅してから約20年前の論文集を見返すと「セル構造オートマトンによる粒子運動モデル」と題した論文があった。
 現在の研究を聞くと画像処理や拡張現実感の研究で、研究の大きな流れは以前からのものである。大学院の学生は工学部の方から配属され、その教育・研究指導を行っている。センター長という立場にあり、大学の経営に首を突っ込み、そちらの方の仕事が大変のようである。
 国立大学は国立大学法人になって、大学の経営というこれまで経験したことのない事を試行錯誤的に行っている。国からの交付金が年ごとに減らされてきていて、それも大学毎の成果が評価され減額の幅がきまる。大型計算機センター時代のように、毎年確実にくる予算内で学内のサービスを行っていればよい時代は去って、旧7帝大に東工大を加えたクループの大型計算機センターが連携して研究を行っている点を文科省にアッピールする必要がある。加えて、学内や道内の高専との共同研究推進も行い、大学の経営陣にも理解してもらう必要がある。こうなると会議の数も増え、大変そうである。しかし、センター長という立場では交付金の大幅な目減りはなんとしても防ぐ必要があり、その責任は重そうである。
 以前は大学の教職員の給料は年毎に昇給していたけれど、今や年齢が上になると減ることがあっても増えることはなくなってきている。大学の先生も年俸制の導入が検討されていて、研究成果によって、給料の差が出てくる時代に入りつつあるようだ。
 高井先生は1960年生まれで今年(2014年)に54歳になる。定年まで後10年で、これからの10年はすぐに経ってしまうなど、年金生活者の気楽さでコメントする。趣味など個人的な事を聞きそびれて、後でインターネットを検索したらクラシック音楽鑑賞とあった。札幌交響楽団のパトロネージュだそうで、そんなサポーター制度があるのを初めて知った。
  インタビュー原稿のチェック時に、高井先生の今の趣味が真空管ラジオの製作であることを知った。このデジタル時代に、周波数カウンタやオシロスコープを5球スーパーやニキシー管で自作するとは、それも真空管やコイル、バリコン等は昭和28年頃製造の骨董品を使っているというから、これはオタクの趣味人である。


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(センター長室の高井昌彰先生、2014年3月5日)

2014年03月06日

HPFhito53・旧北海道拓殖銀行の半沢直樹だった上光証券社長松浦良一氏

 上光証券と聞いて多分東京に本社がある証券会社だろう、ぐらいにしか認識がなかったけれど、この証券会社は札幌に本社があるれっきとした地元の証券会社である。戦前のピーク時には、札幌や道内各地に100社もの証券会社があった。しかし、その証券会社も減り続け、2002年に函館証券が廃業して、上光証券のみが道内唯一の証券会社として残った。
 北洋銀行の小樽中央支店長も勤めた松浦氏は、ある事で筆者の事を知っていたらしい。以前、北洋銀行副頭取であった横内龍三氏のはからいで「小樽・石狩秘境写真展」を同支店ロビーで行ったことがある。その時の話らしいが、同支店長の経験のある松浦氏は、展覧会時には上光証券に移られているはずで、筆者には展覧会での松浦氏の記憶はない。しかし、その話がきっかけでもあり、松浦氏を北1条通に面したビル内にある同社の社長室に訪ねる。
 社長室でまずパノラマ写真を撮る。立った松浦氏の背後の壁には「Hokkaido Super Claster」の2014年度のカレンダーが貼ってあり、地元のIT業界との付き合いがあるのが伺える。
 会社の「上光」は「浄光」名を持つ浄土真宗のお寺さんが「浄」を「上」に変えて小樽で商店経営を始めた。その「上光商店」が証券取引を行ったのが現在の同社のルーツになるそうである。松浦氏は2006年に北洋銀行から上光証券に移っている。
 松浦氏は1951年札幌生まれで、小樽の潮陵高校で地学を志しながら方向転換で、早稲田の商学部を卒業した。三菱銀行も受かったのだが、地元の銀行ということで北海道拓殖銀行(拓銀)に入行している。拓銀時代の話を聞くと、昨年(2013年)TBSの人気ドラマ「半沢直樹」に重なる部分がある。半沢直樹は不良債権回収のため企業の立て直しに奔走する。松浦氏も不良債権の回収という、いわば銀行の後向きの業務に携わることが多かったようで、その筋の客との対応に身の危険を感じたこともあったそうである。
 旧拓銀の半沢直樹のようだと言ったら、ご本人は否定しなかったので、ドラマにあった事と似通った事を体験されて来たのであろう。しかし、不良債権の回収も、旧拓銀の貸出しが5兆円規模のところに1兆1千億にも上る額では万事休すである。旧拓銀は1998年北洋銀行に営業権譲渡で消滅した。それに伴い松浦氏も北洋銀行に移り同行大通支店長などを勤め、常務になり、第三の勤め先の上光証券に副社長で迎えられた。
 社員数が70名程度の地方の証券会社を、地方都市で経営して行けるのはどうしてか聞いてみる。手数料は東京に本社のある大手証券会社の方が安く、ネット証券ではさらに安くなる。ネット取引は手軽なこともある。しかし、顧客の信頼を勝ち得えることで、顧客の満足度は大手の証券会社以上のものがある。そこに地方の証券会社が生き延びる道が見えてくるとのことである。
 会社の自分の席を温める暇もなく、仕事で社内外に足を運ぶ毎日のようである。趣味に類した話はあまり無く、ウォーキングで北海道神宮境内にある旧拓銀の物故者を祭った穂多木神社まで参拝に行くとのことである。以前、札幌の秘境を取材していて、旧拓銀の大金庫の写真を撮ったことや、穂(北海道の北の音に漢字を当てはめている)や多木(拓銀の音から取っている)の謂れを思い出した。


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(社長室での松浦良一氏)

2014年03月01日

HPFhito52・たたき上げ感覚で会社経営をしてきた央幸設備工業(株)会長尾北紀靖氏

 央幸設備工業(株)のメインの仕事は建設設備であるけれど、バイオ事業部があり霊芝(キノコの一種)の栽培を手掛けている。「北海道霊芝」という央幸のグループ会社では霊芝の商品化と営業を、やはりグループ会社の「旺煌」で霊芝の健康食品「旺煌」を販売している。同社の北広島にある工場で霊芝が栽培されている様子を、道新文化センターの講座受講生と一緒に見学したことがある。また、霊芝栽培について、勉強会「eシルクロード大学」で尾北紀靖氏や実際に担当している宮崎稔氏に話していただいたこともある。
 以前、国道12号で菊水から白石中央に行くところの陸橋からLEDの巨大デスプレイを見ることができた。これは今休眠状態にある同社のグループ会社「アルファビジョン」が開発した、当時国内で先端を行っていた大型デスプレイ装置であった。国内の大手メーカーがこの分野に進出したため、この装置のその後の展開は止まった。このデスプレイ装置のあったところに同社がある。
 央幸グループ会社の会長や社長を務める尾北氏と顔を合わせて立ち話はしても、会社を見たことがない。今回パノラマ写真撮影のため央幸設備工業を訪ねる。同社の会長兼社長室でパノラマ写真撮影後、インタビューとなる。
 尾北氏は生まれた年が1940年で筆者より1年上となる。たたきあげの経営者だと自己紹介である。出身地は美唄で美唄工業高校の夜間部を出ている。夜学生時代に昼間は働き、工業高校卒業後は「立川工業」で設備関係の仕事をしている。28歳の時負債で倒産状態の「エスケー工業」を引き受けることになり、立川工業を退社する。3年間で破産会社の負債全額を返却し、会社を立ち直らせている。若くて会社を再生させることが出来たのは、たたき上げの現場感覚があったからだと尾北氏は述懐している。
 会社再生に成功してから社名を新しく「央幸」を冠したものにする。この社名の意味を尋ねると、「央」は中央の意味で、社員が中央に集まって「幸」福になろう、といった意味らしい。もう一つの理由付けは、名前のそれぞれの漢字が左右対称で、裏からみても央幸と読める。裏表に違いの無い会社にしたい、との願いを社名に込めたそうである。
 40年間以上続いている現在の会社は社員数30数名である。リーマンショックも経て、会社の業績はこの7,8年間でV字回復している。仕事も下請から元請の立場に変更してきている。しかし、建築設備の将来を考えると、仕事の柱として別のものも考えておく必要がある、とバイオ事業部を社内に設け、北海道産の良質霊芝の栽培を手掛けてきている。同社の霊芝が、免疫力を高める作用のあるβ-グルカンの含有率が最高のものである分析結果を関係研究所から得ていることや、アメリカの学会での論文発表で注目された事は、前述の勉強会で尾北氏から聞いている。
 霊芝商品の市場開拓に台湾、フィリッピン、韓国、シンガポールと海外出張でも忙しそうである。社長を務める「北海道霊芝」にも人材を充実させようと、この春(2014年)札幌の大学の大学院を卒業する2人の中国人留学生を採用している。将来はアフリカも視野に入れ、マダガスカル出身の社員も居る。たたき上げの人材は今の時代に得るのは難しいところであるけれど、優秀な外国人が入社してくる時代にもなっている。人材という点から、将来の布石を今から打っている。
 趣味を最後に尋ねてみる。見かけによらず多趣味のようで、山歩き、釣り、専門誌の読書、絵、音楽等々で、音楽は真空管のアンプを自作して聞いたら、かすかにトライアングルの音が再現できていたのに感激したとのことである。


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2014年02月25日

HPFhito51・企業寿命30年説を覆すデジック社長中村真規氏

 IT業界は日進月歩の技術革新で、企業の浮き沈みが激しい。企業寿命30年説はこの業界では特に異を唱える話でもない。むしろ、30年も生き延びる企業は珍しいかもしれない。中村真規氏がオーナー社長である「デジック」は、その前身時代から数えて30年以上経っている。
 筆者は「知識情報処理研究振興会」を組織していた頃があって、同会で「北海道ベンチュアランド企業群」という、北海道のIT企業紹介本を1984年に刊行している。あれから30年経って、本に収録している企業や経営者で、現在も続いて仕事をしているのはわずかである。
 業界団体もしかりである。同書に名前を連ねている「北海道マイクロコンピュータシステム工業会」(代表幹事 故北島健一氏)、「北海道ソフトウエア事業協同組合」(理事長 川端貞夫)、北海道ソフトウェア協会(会長 故小林英愛氏)は今は無い。
 中村氏の会社は同書には「NC情報処理(株)」で紹介されている。NCの名前がついているのでNumerical Controlの連想で、そのような業種に関連する会社かと当時思っていた。今回、中村氏のインタビューで、氏の改名以前の名前「中村力」の頭文字であると聞いて、そうだったのかという思いである。中村氏は2001年に「真規(まさき)」と改名して、会社の名前も「デジック」に変えている。
 中村氏は1947年生まれで、青山学院大学経営学部を卒業し、日本ユニシス(旧バローズ)勤務を経て札幌で起業している。現在の会社は運輸や通信の管理システムの開発を行っている。仕事の9割方は東京からのものである。東京の企業が中国などに仕事を発注するオフショアに対して、北海道の人件費が中国よりは高くても、東京よりは低めの優位性を生かしたニアショアでやっているとのことである。中国のオフショアに対する北海道のニアショアの売り込みの決め台詞は、北海道は「反日的ではない」との冗談が飛び出す。
 海外はロシアのウラジオストックで企業連携を行っているとのことである。札幌のIT産業を1兆円の大台に乗せるには、技術者をはじめとする人材を集める必要があるとの持論である。人材養成にも関連して、京都情報大学院大学のサテライト教室を同社内に設けて、自ら同校の教授も務めてている。講義科目を聞くと「IT企業実践論」と答えが返ってくる。
 北海道IT推進協議会の会長を務めたことがあり、現在は北海道情報システム産業協会の会長や北海道コンピュータ関連産業健康保険組合の理事長、その他の団体の役職に就いている。ご本人言では、組織を作るのが好きだとのことである。
 組織作りは趣味には入らないと思うので、改めて趣味は何かと質問すると、カメラと写真撮影かな、との答えである。かなり以前の話になるけれど、中村氏は料理屋も経営していたことがあった。ITと料理屋が結びつかないので質問してみると、自分の好きな物を食べさせてくれる店を探していて、いっそのこと自分で作ってしまえ、と始めたとのことである。この店は今は無い。
 北海道ソフトウェア協会があった頃、会長の小林英愛(ひでちか)氏と副会長の中村氏のコンビが長く続いた。小林氏はワインに凝っていて、ソムリエの資格を持っていたはずである。小林氏が、自分はソムリエではなく「ノムリエ」であると言っていたのを記憶に留めている。その小林氏も今は故人である。


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(デジック社長室での中村真規氏、2014・2・25)

2014年02月24日

HPFhito50・マイコン時代からのつながりの北大水産科学研究科教授飯田浩二先生

 北大学術交流会館でのシンポジウムでの特別講演を終え、隣の建物の北大交流プラザ「エルムの森」で持参PCを操作していた。そこに背後から声が掛かる。函館にキャンパスのある北大水産科学研究科教授の飯田浩二先生が立っておられる。長いこと会っていなかったこともあり、筆者であるかどうか確信が持てずためらっていた、との飯田先生談である。これは奇遇である。
 飯田先生とのお付き合いは1978年頃まで遡る。筆者は、当時世の中に現れてきたマイクロコンピュータ(マイコン)を研究に利用しようと、応用技術開発の目的もあり、学内外の研究者や技術者、マイコン愛好家等を集めて「北海道マイクロコンピュータ研究会」を主宰していた。月1回、研究会の例会があり、時には道内の各地で研究会を開いていた。
 研究会の17回目は1978年の6月に函館の北大水産学部で行っている。この研究会の世話役を努めていただいた飯田先生の研究発表は「マイクロコンピュータによる水中音響測定システム」であった。水産の分野の研究者(大学院生)であった飯田先生が、いち早くマイコン技術を研究に利用しようとしていたのは、筆者の状況と重なる。
 飯田先生は1981年北大水産学部の助手に採用され、講師、助教授を経て1998年教授になられている。主要な研究テーマはソナーを用いた音響海洋資源調査と解析といったものである。音響ホログラフィ技術で、音波や超音波による物体の可視化技術の研究をしていた筆者は、研究上でも飯田先生とのつながりができることになった。
 筆者の研究分野の国際学会に「Acoustical Holography」と銘打ったものが1967年に創設され、その第1回目に筆者も論文を提出している。この学会はその後「Acoustical Imaging」と名称を変えて続いている。この学会に飯田先生との共著の論文を発表したり、同道で参加した思い出がある。1989年にサンタ・バーバラで開かれた第18回目の学会の論文集が手元にあり、飯田先生との共著論文が載っている。論文名は「Three-Dimensional Display Technique for Fish-Finder with Fan-Shaped Multiple Beams」である。
 筆者の研究はその後信号処理やコンピュータグラフィックス、メディア工学の分野に変わっていったので、飯田先生とのつながりは薄れた。今回偶然の再会で、急きょ飯田先生のパノラマ写真を撮る。「エルムの森」店の北大グッズが置かれているところに、筆者の都市秘境本や「爪句集」の豆本が並べられていて、パノラマ写真にも写るように撮影する。
 この原稿を書いていて、研究者としての現役時代には、分野外の人が読んでも(読まれることはあまりなかっと思われるけれど)理解の及ばない研究論文に精魂を込めていたのを思い出す。もうその研究生活には戻れないだろうという感慨がある。今は誰が見てもわかる写真と、写真の説明の域を出ない「爪句」を捻り出す自称爪句作家で、自分も随分変わったものだと思う。その変わり様が顔つきにも出て、飯田先生は筆者であることを、一目では確信が持てなかったのだろう。


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(北大交流プラザ「エルムの森」での飯田浩二先生、2014・2・18)

2014年02月23日

HPFhito49・神棚付近代的オフィスでの大林組札幌支店長田實耕一氏

 大林組札幌支店は日本生命札幌ビルの10階にある。同社札幌支店長の田實耕一氏の話では、同ビル建設の元請が大林組であった経緯があり、店子として入居している。ゼネコンと称される企業では、仕事を請け負った受発注企業間の関係が後々まで続くので、銀行の取引関係はいうに及ばず、会社で調達するビールまで影響が及ぶ話を聞いて驚く。因みに大林組は札幌のアサヒビール工場の建設に関係したので、社内的なビールはアサヒと決まっている。したがって、サッポロビールの親睦団体への加入は遠慮するというから、一般市民には伺い知れない企業間ネットワークがある。
 大林組札幌支店の受付に、大林の名前がデザインされた大きな瓦のレプリカが飾ってあり来訪者の目を惹いている。大阪にルーツのある同社のシンボルになっているようである。支店長の田實氏の部屋に通された時、雪で覆われた北海道庁が窓から見下ろせ、見事な眺めである。同ビルの11階にある三井物産の北海道支社の角田道彦支社長の部屋から見た景色と重なる。
 三井物産は北海道支社、大林組は札幌支店と称している違いが気になる。ルーツの大林店を継承しての支店はわかるとしても、北海道支店ではなく札幌支店としている点を田實氏に聞きそびれてしまった。
 支店長室で目に止まったものに神棚があった。スーパーゼネコンと呼ばれる近代的企業の支店長室に神棚があるのが印象的である。北海道神宮の分祠(表現が適切であるかどうかわからないけれど)で、同神宮の企業内営業所みたいなものかと思う。工事現場の起工式などで神事が慣習として行われるので、ゼネコンのオフィスに神棚があっても不思議ではないのかもしれない。
 田實氏のパノラマ写真を2,3枚撮って、支社長室で雑談的インタビューである。氏は1950年の大阪生まれである。大学は信州大学の工学部というので、大学時代に信州の山にでも登っているのかと聞いてみると、大学時代は山登りとは縁が無かったとのことである。山登りは建設現場を巡る関係もあり、就職後に経験することになる。
 大学時代には陸上短距離をやり、同和問題にも首を突っ込み、子ども達相手のサークル活動を行っていた話が出てくる。北海道では同和問題といっても言葉の意味がわからない。北海道のアイヌ民族問題は、ルーツは異なる民族にあるので話はある程度理解し易い。加えて、最近はアイヌ文化を日本の中の異文化として理解することが進んできている。対して、同和問題は北海道では霧の中にあるようだ。
 大手ゼネコンに勤めているので海外勤務経験があり、シンガポールとタイの支店の行き来をした時代がある。筆者も学会でシンガポールに行った思い出があるので、セントサ島の話など出る。本島とセントサ島に架かる橋の建設にも大林組が関わった。田實氏がシンガポールで勤めていた頃はこの橋は出来ておらす、船で島に行ったそうである。
 札幌支店長として2011年の4月に赴任しているので、札幌での生活は3年間ほどになる。札幌で登った山を聞くと円山だけで、藻岩も手稲も登っていないとのこと。札幌に居る間にオフィスの窓から眺めるだけではなくこれらの山に一度は登るように勧めてみる。
 田實氏の年齢(63歳)になると退職後にすることなどを温めておられるだろうと聞いてみる。予想外の答えは、林業に関することだそうである。林業を関わっている息子さんの影響もあるらしく、国土を拓く立場のゼネコンとはある意味対極にある国土の環境保全につながる仕事を視野に入れている。
 会社に残るよりは、後進に早めに道を譲り、残された時間を確保して、新しいことにチャレンジしたいとの希望を内に秘めておられるようであった。


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(支店長室での田實耕一氏、2014・2・21)

2014年02月22日

HPFhito48・新聞からテレビ業界へ転身したテレビ北海道社長関口尚之氏

 北1条カトリック教会の近くに歩道橋があり、北1条通を跨いだところにテレビ北海道(TVh) がある。建物の壁に「おかげさまで開局25周年」の垂れ幕が下がっている。逆算すれば開局は1989年となる。同社は北海道にある民放5社の最後発の会社である。
 同社社長の関口尚之氏のパノラマ写真を社長室で撮影して、同社設立の経緯を話していただく。テレビ東京系の民放が北海道に無かった時、日本経済新聞(日経)と北海道の財界が中心となり、北海道で5番目の民放会社設立が実現した。このことで、現在の同社の大株主は日経、伊藤組、北海道新聞社(道新)と並んでいる。社長の関口氏は日経から転身し、昨年(2013年)6月に社長に就任している。
 関口氏は生まれは千葉県で、慶応大学法学部を卒業後日経に就職している。経済分野での仕事が主で、記者時代には役所回りをする生活であった。札幌勤務の経験があり、1979年から北海道支社の記者として4年間、2000~02年に支社の編集部長として仕事をされた。北海道での思い出深い事件は、1981年に起きた、北炭夕張新炭鉱ガス突出事故だったそうである。
 民放のテレビはスポンサーからの広告収入で成り立っている。東京を中心とする企業のCMに加え、地元企業のCM、さらに系列親局からのネットワーク料などを収入の柱としている。こうなると、広告収入を上げる営業がテレビ業界では力を持つようになる。新聞では、広告収入のほかに読者が払う購読料も大きな収入となっており、テレビとは収入構造が違う。取材して記事を書き、購読料を支払ってくれる読者に還元する記者陣が中心となる点とはかなり異なるようだ、と関口氏と話していて感じた。
 関口氏にテレビ事業での課題と抱負を質問してみる。放送のデジタル化の移行に伴い、これまで過大の設備投資をしており、経営の安定化を第一に考えるというのは、経営者なら至極もっともなことである。インターネットのような新しい形態のメディアとの競争や棲み分けも課題である。最終的には、社員がTVhに勤めてよかったと思ってもらえる会社にして行きたい、との抱負も語られた。
 趣味の方に話を向けてみると、多趣味のようである。音楽を聞くことが好きで、Kitaraには良く行くそうである。演劇観賞の話も出てくる。仕事柄メディアに関する本も読むようで、「ブレーキング・ニューズ」の分厚い本を出してきて説明される。
 関口氏との話を終えた後、専務の嶋田健氏の案内で同社の放送現場を見せてもらう。嶋田氏は道新出身である。、4月から始まる道新文化センターの講座の見学先にTVhを予定していることもあり、参加者に配布する資料用の写真を撮らせてもらった。


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(社長室での関口尚之氏、2014・2・20)

2014年02月19日

HPFhito47・NORTH創立20周年記念シンポジウムでの辰巳治之先生と久保洋先生

 NPO北海道地域ネットワーク協議会(NORTH)が創立20周年を迎えるということで、記念のシンポジウムが2月(2014年)の中旬に北大学術交流会館で開かれた。同会会長の札幌医大教授辰巳治之先生から記念特別講演を頼まれ、「北海道パノラマ写真風土記プロジェクト」と題した講演を行った。
 以前筆者は北海道コンピュータグラフィックス協会を立ち上げ、1987年に「札幌国際コンピュータグラフィックスシンポジウム」の第1回目を開催した。これは前年に創設された(財)札幌エレクトロニクスセンターの1周年記念行事の一環でもあった。このシンポジウムはその後毎年1回で8回行われ、1995年には「インターメディアシンポジウム」と名前を変えている。国際CGシンポジウムの2回目には辰巳先生も大阪から参加で、この時の先生の所属は阪大医学部となっている。
 同シンポジウムの4回目では辰巳先生の所属は札幌医科大学と記されていて、先生は前年(1989年)には札医大に移られている。医学部での専門分野は解剖学と聞いているけれど、情報やネットワークの分野で活躍されているのが前面に見えてきて、医学部の先生という感じがしない。それでも「情報薬」といった話では、情報通信技術を積極的に用いて患者の治療に当たろうとしていて、本業は医学である点を確認させてくれる。
 今回のシンポジウムは、辰巳先生の医学やネットワーク関連分野の人脈を動員して行われている。種々の団体にも関与していて、「札幌シニアネットワーク」の顧問として同団体を支援している。同団体は会員が600人ほど居て、常時何かの活動が行われているそうである。超高齢化社会に薬効のある「情報薬」の治験とも考えられる。
 講演会前に学術交流会館ホールで辰巳先生のパノラマ写真を撮る。丁度室蘭工大名誉教授の久保洋先生が受付のところに現れたので久保先生にもパノラマ写真に入ってもらう。久保先生は1967年北大工学部精密工学科を卒業していて、筆者は学年では3年上になる。電子工学科と精密工学科は当時新しくできた学科で、事務が共通であった。久保先生とは当時顔を合わせていたことになるけれど、この点に話が及んでもこれといった具体的な記憶がない。
 久保先生とは1985年に北海道拓殖銀行が主催した「米国先端産業集積地域調査団」に団員としてご一緒した。この時の久保先生の所属は室蘭工大産業機械工学科教授である。当時の久保先生の研究テーマがどんなものであったかは知らないが、室工大を定年退職される頃は情報工学科所属で「感性工学」が研究テーマであった。
 室工大退職後は感性工学の研究成果を企業化しようと合同企業「ノースラボ」を立ち上げておられる。同社の商品として化粧水やクリームが並んでいて、感性工学とはこんな範囲にも及ぶものかと意外な感じがした。久保先生は70歳を超えても、研究成果を企業化する熱意は消えていないようである。


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(左端:久保洋先生、右隣:辰巳治之先生)

2014年02月15日

HPFhito46・経済界社長佐藤有美氏と江戸しぐさ伝承者山内あやり氏

 「経済界」という雑誌がある。以前、何度かこの雑誌の取材を受けたことがある。特集のグラビアページにまで取り上げられたのは2001年6月12日号で、特集は「土壇場で見せるか、開拓者精神-「札幌」どん底からの出発」である。プロのカメラマンがやってきて、教授室や講義中の教室、テクノパーク、Bizカフェ、はてまた自宅庭で畑起こしをしている写真まで撮られ、同誌に載った。
 多分、記事が出てから後だと思うけれど、同誌を発行している「経済界」の社長だった故佐藤正忠氏が札幌に来られ、ホテルでの朝食に誘われた。ホテルのレストランでの朝食かと思っていたら、スイートルームでルームサービスの朝食でびっくりしたことがある。書道家の氏は、ホテルでも書の作品制作中でもあり、食事中に書の個展の話になったのをぼんやり覚えている。
 正忠氏は2013年に85歳で逝去されている。それ以前の2001年に同社の社長は長女の有美氏にバトンタッチされていて、有美氏の社長業は、12年間続いている。有美氏は秋田で幼少時代を過ごし、東京で仕事をした後、現在の会社に勤めて20年間が過ぎている。
 今回「経済界」主催の講演会があり、有美氏はそれに合わせて来札である。講演会の講師は、江戸しぐさ伝承者でラジオパーソナリティの山内あやり氏である。講演の方は「いき」と「やぼ」の対立する言葉を取り上げ、西(関西)の「粋」、東(江戸)の「いき」、商売で「野暮」と言われたら「いき(生)」が無い等のイントロダクションから始まる。現代のビジネスに通じる江戸の「思草(しぐさ)」についての解説が続く。道産子には江戸は遠いけれど、日本人の共通のベースでの話であるので、社会生活を送り仕事をする上でもっともな知恵と教えは、具体例でも納得する。
 懇親会の時、これはよいチャンスと有美氏と山内氏に並んでもらい、パノラマ写真を撮る。撮影後有美氏と少し雑談である。有美氏の趣味はゴルフと似顔絵描きである。モデルと描いた似顔絵を並べた写真をケータイで見せていただいたが、絵心があり上手なものである。筆者もスケッチを基に画文集を出しているけれど、1枚のスケッチに1時間以上はかかるので、5分で描ける有美氏の技には驚く。
 山内氏は著書「江戸しぐさに学ぶおつきあい術」を幻冬舎から出版していて、講演会場で販売である。懇親会が著書のサイン会のようになって、著作とサインを求めた講演参加者との話に忙しい様子なので、名刺交換程度で終わる。インターネット情報では山内氏は静岡県出身で、鶴見大学文学部日本文学科卒業、「江戸しぐさ語り部の会」主宰者の越川禮子氏に師事し、NPO法人江戸しぐさ理事である。それにしても「あやり」とは変わった名前である。


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(佐藤有美氏(左)と山内あやり氏(右)、画面をクリックでパノラマ写真)

2014年02月13日

HPFhito45・董事長室の「成都華日通訊技術有限公司」社長莫景猷氏

 十年前の2004年に成都市を訪れている。最初に成都市を訪れたのはさらにその十年前の1994年で、この時は楽山大仏を見て描いたスケッチが残っている。2004年の訪問時に初めて「成都華日通訊技術有限公司」を訪れ、董事長(社長)の莫景猷(Mo Jing You)氏にお会いしている。莫氏は当時研究室の博士課程に在籍していた莫舸舸君の父親である。
 昨年(2013年)成都旅行時に上記会社を訪れ、莫景猷氏の董事長室でパノラマ写真を撮る。莫氏はお元気で、息子夫婦の通訳で札幌からの訪問グループと四方山話となる。会社の仕事は息子夫婦にバトンタッチが行われたようで、大人数となったグループ企業を大所高所から見守る立場にあるようだ。
 莫氏は、元は人民解放軍に籍を置く研究者であった。筆者が立ち上げた「札幌-瀋陽計算機応用国際学術会議」の第2回目は1986年に札幌で行われた。その論文集に莫氏の論文が収録されている。莫氏は札幌まで来ることはできなかったけれど、20年後には息子が北大情報科学研究科で研究生活を送っている。
 第二の経済大国まで成長した中国では多くの成功した企業人を輩出している。莫氏のその中の一人である。氏の夫人の楊治敏さんも又企業家である。楊さんは日本留学の経験があり、日本語に通じている関係で、成都市で一時期筆者が展開したパンダ支援プロジェクトでもお世話になっている。
 莫氏のオフィスで撮ったパノラマ写真を回転して見ると馬の置物がある。莫氏の生まれは午(馬)年で、巳年生まれの筆者が1年先輩に当たる。莫氏の論文の載った論文集を持ち出してきて、論文のページとパノラマ写真を重ねて撮ってみる。莫氏と出会ってからの20年の歳月の流れが、瞬時であったような気もしている。


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2014年02月09日

HPFhito・第一級の眺望を見て仕事をする三井物産北海道支社長角田道彦氏

 角田道彦氏の支社長室に通された時の強烈な第一印象はその眺めの良さであった。角田氏が勤める三井物産北海道支社は日本生命ビルの11Fにある。支社長室はこのビルの北西の角にあり、西側の窓の下には北海道庁、さらに視線を上げると手稲山から三角山、藻岩山と札幌の都心部から眺められる山並みが続く。北側の窓からは近くにあるJRタワーが目に飛び込んでくる。2年前に、シンガポールから札幌に転勤になった時、オフィスから眺められるこの景観を見て社員が英気を養うようにと、オフィスの西側のブラインドは1日に1度は全部上げるように支社長命を出したというのは頷ける。
 暑いシンガポールから雪の舞う札幌への転勤は寒さが堪えるのでは、と尋ねると、雪は好きだとの答えが返ってくる。幼稚園の頃札幌に住んでいた経験があり、横浜国大時代にスキー部で長野辺りに行っていたので、近場にスキー場のある札幌は恰好の勤務地のようである。因みに出身地を聞くと、新聞社に勤めていた父親の転勤で全国各地を動いたので、出身地と聞かれると答えに困るとのことである。強いていえば、最も年月が長かった東京かな、とのことである。
 主な仕事はプラント関係で、海外勤務も多く、カナダ、台湾、マレーシア、シンガポールの支社で働いた経験の持ち主である。カナダのバンクーバー市の駐在の話では、筆者もケベック市のラバル大学に留学していたことがあるので、向こうの生活の感じはつかめる。部屋の壁にはサハリン全図が張ってあり、聞いてみると同社はサハリンの液化天然ガス(LNG)の開発と輸入を行っていて、そのパイプラインが地図に書き込まれている。
 同社は百年先のことを考え、北海道に森を育てているのは初めて聞く話である。森を育てることは林道の整備も同社が行うことになる。商社の扱うものに木材はあるだろうけれど、国産材を今すぐ商売の対象にする、といった話ではない。大きな会社になると、長期の視点で、国土保全といった点からのプロジェクトにも関係するようだ。
 文化面でもそのような試みが行われているようである。部屋の壁にはアイヌ・コタンの写真がある。その写真はある仕掛けの合成写真なのだが、プロジェクトは水面下で検討中であり、社内で正式に承認されていないとのことなのでここに書く訳にはゆかない。しかし、技術者としての筆者の目から見て、そんなことが可能なのだろうか、と思ってしまう。もし、それが実現されるなら、アイヌの象徴空間創造に大いにインパクトのあるプロジェクトだと思った。
 蛇足ながら「角田」は「つのだ」、「かどた」、「すみた」と発音でき、本人を目の前にしてどの発音だったと迷う。実際会話中に間違った発音をしてしまったが、それは度々起こることなのだろな、と思った。


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2014年02月08日

HPFhito43・多くの表彰状に囲まれた光合金製作所会長井上一郎氏

 光合金製作所会長の井上一郎氏は1934年生まれで、この2月には80歳になられる。小樽港町の波止場に隣接する同社本社を取材で訪れた時も相変わらずお元気であった。昨年(2013年)11月、筆者の北海道功労賞受賞祝賀会に井上氏に乾杯の発声をお願いしていて、井上氏も2009年に同賞を受賞しておられる。
 同社は不凍給水栓を製造販売しており、観光地小樽運河からも近い本社は管理・営業部門だけで、工場は小樽市朝里にある。以前「小樽・石狩秘境100選」(共同文化社、2007)を出版した時、朝里工場の取材でお世話になったこともある。
 井上氏は室蘭工業大学を卒業後、小樽商大に籍を置き、その後北大衛生工学科の助手を5年間勤めて現在の会社に入社した。衛生工学科時代には水処理が研究テーマだったので、北大での研究が現在の不凍給水栓の製造に生かされている。
 同社は一郎氏の父親の良次氏が1947(昭和22)年に創業しており、一郎氏が2代目社長、一郎氏の息子の晃氏が3代目社長である。社名にある「光」は戦後の混乱期に「光明あれ」と創業したことによっている。
 木造2階建ての本社の応接室は表彰状で囲まれている。副賞の置物も所狭しとテーブルの上に並べられている。一番新しいものは昨年の「北海道新聞文化賞」で、これは井上氏が中心になって活動してきた「伊藤整文学賞の会」に与えられたものである。同賞で贈呈された安田侃氏の作品のブロンズの置物もテーブルの上にあった。
 井上氏とは随分長いお付き合いで、1985年北海道拓殖銀行が主催した「米国先端産業集積地調査団」の31名の団員に、井上氏も筆者も加わっている。1986年には札幌のIT産業の拠点として、サッポロテクノパーク内に札幌市エレクトロニクスセンターが開設されていて、後にサッポロバレーと呼称される札幌情報産業の黎明期に当たっている。
 筆者は2005年に北大を定年退職し、その後3年間札幌市エレクトロセンターのオフィスで仕事をした。その時ITと関係のない都市秘境探索を開始している。前記のように都市秘境を探して小樽まで取材に行った時、井上氏は小樽観光大使を務められていたかどうか定かではないが、現在は同大使を務めておられる。今回、井上氏から、氏が巻頭言を書かれた「小樽草子」の小冊子を手渡された。この小冊子から、井上氏が本業の傍ら、観光による小樽地域振興にも力を尽くされているのを読み取ることができた。


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(父・良次氏の肖像画の横に立つ井上一郎氏)

2014年02月05日

HPFhito42・JR札幌駅のエカシ像前に立つ鶴雅グループ社長大西雅之氏

 北海道観光の宿泊で評判の高い鶴雅グループを率いる大西雅之社長とは、何かの委員会で顔を合わせている。しかし、かなり以前のことでもあり、どんな会合であったのか記憶が定かでない。最近は北洋銀行会長横内龍三氏の主宰する「北海道シマフクロウの会」の設立総会で、たまたま大西氏の隣の席に座った。その席で、当方の北海道功労賞受賞の記念品として配るものに、北海道らしいもの、例えばシマフクロウに関した小物がないか、と相談している。
 大西氏のパノラマ写真を撮りたいものだと思っていても、氏の本拠地が阿寒町で、加えて出張も多そうで、これは無理かと思っていた。ところが、今年(2014年)の2月2日に、札幌大学副学長の本田優子先生が進めてきたアイヌの長老・エカシ全身の木彫像をJR札幌駅西コンコースに設置するお披露目のセレモニーがあった。大西氏は来賓の一人として出席されていて、北海道観光振興機構の副理事長として挨拶された。
 この機会に大西氏のパノラマ写真を撮ることを試みる。今回のセレモニーの主役の本田先生にも並んでもらって、パノラマ写真によるツーショットである。報道陣や見物人が取り巻くところでのパノラマ写真撮影は難しい。それでも撮影写真を張り合わせて、どうにか見られるパノラマ写真となる。大西氏と本田先生が並んだところのパノラマ写真は記念すべき一枚として残るだろう。
 ホテルは泊まることはあっても、経営に関する知識は皆無で、大西氏にホテル業に関連して問いかける質問は思いつかない。穏やかな人柄で、これはホテル業という性質上そうなのか、職業を離れてまったく個人的なことなのか、判然としない。ホテル業にITを取り入れ、多様化する客のニーズに対応させ、質の向上を目指すこと心掛けているとインターネットで氏のインタビューを読んだ。しかし、それに類する話をご本人の口から直に聞いたことはない。
 日本の人口減少時代に向かって、ホテル業界は地域間競争が激化する。客を呼び込む地域の魅力は何か。北海道が優位に立つ自然と食。文化はどうか。和人の文化は歴史が浅くても、アイヌ文化がある。これをもっと知ってもらい、民族の共生に生かしてゆくことが結果的に観光産業への寄与となって帰ってくる。この点でアイヌ文化研究家の本田先生と共有するものがあり、今回エカシ像を挟んでのパノラマ写真撮影につながっている。


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2014年02月04日

HPFhito41-2・北一已駅の取材に同道のSTVテレビ・デレクターの成田清美さんとスタッフ

 STVテレビに「Do!アンビシャス」という番組があった(2013年3月で終了)。道内で活動しているユニークな人物に密着して取材して放送する番組である。1年前(2013年)番組の制作担当部門から打診され、同番組作りにお付き合いすることとなった。取り上げられたテーマは「爪句」で、パノラマ写真を撮って爪句を捻り出す趣味の世界に焦点が当てられ、1週間ほどにわたっての取材となった。
 番組担当のデレクターは札幌映像プロダクション所属の成田清美さんで、番組作りのためSTVに派遣されていた。札幌円山とか羊ケ丘のような絵になる場所での取材の他に、駅のパノラマ写真を撮っている様子も撮りたいとの申し出がある。そこで留萌本線はどうか、ということで泊りがけでの取材となる。同行者は福本工業の福本義隆社長と同社のパノラマ写真家の山本修知氏である。
 深川駅からパノラマ写真撮影グループはレンタカーで出発する。それをSTVのスタッフが追いかける。北一已駅で雪の駅舎やホームでパノラマ写真を撮影しているところをテレビカメラが録画撮りである。パノラマ写真を撮っている様子をテレビカメラで撮るということは、こちらのパノラマ写真に取材スタッフが写るということでもある。パノラマ写真に写っているカメラマンは喜井雅章氏、音声担当は松本尚也氏であった。
 この日(2013年2月7日)は留萌本線の終点の増毛駅まで行っている。増毛町では国希酒造にもカメラを入れている。増毛駅の隣駅の箸別駅にも寄ってパノラマ写真を撮る。取材初日は留萌市内泊となる。
 翌日は留萌駅を出発して深川駅方向に向かってパノラマ写真撮影となる。大和田駅まではSTVの取材スタッフも一緒についてくる。大和田駅からはSTVのスタッフと別れて、テレビカメラを気にせずにパノラマ写真撮影だけに注意を集中する。
 成田さんの経歴を後で聞くと、24年ほど前にテレビ制作の仕事に入り、出産のため退社、二人の子どもの母親で、現在は「どさんこワイド179」のデレクターを勤めているとのことである。番組の数字179は北海道の市町村数である。平成の大合併により市町村数もかなり減ったものだと気がつく。


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成田さん(中央)とスタッフ。パノラマ写真に離れて写っているのは山本氏。

2014年02月03日

HPFhito40・デジタルモアイ像制作者の彫刻家國松明日香氏

 後に「サッポロバレー」と称されるようになる札幌情報産業の黎明期に、キーパーソンの一人に三浦幸一氏がおられた。「ソード札幌」の役員として同社を立ち上げ、後に「テクノバ」社の社長になっている。惜しむらくは、2000年に57歳の若さで亡くなっている。三浦氏の死が契機で、2000年に「三浦・青木賞」が設けられた。札幌や道内のIT業界の新人を発掘して表彰しようとする目的の賞であった。
 社会人と学生の部門の大賞入賞者には、賞金50万円の他に副賞としてブロンズ像を贈呈することになった。そのブロンズ像の制作を彫刻家の國松明日香氏に依頼した。出来上がった像は抽象的なもので、なんとなくモアイ像に似ていることから、関係者間では「デジタル・モアイ像」と呼んでいた。賞は5年間で終了する予定のプロジェクトで、像のプレートには第1回から5回までの授賞式の日付が彫り込まれるスペースが空けてある。4回目まで授賞式が行われたが、5回目は授賞式の記録がなく記憶も定かでない。確かめたことはないけれど、國松氏はこの小物の作品については、制作したことを忘れているかもしれない。
 國松氏とは「伊藤組100年基金」の評議員や「北海道アートマップ」編集制作検討委員会などでご一緒させていただいている。札幌市立高専の教授時代には同校の先生の研究室を訪問したことなどもある。「カスケード」社の服部裕之社長がイサム・ノグチの作品の蹲(つくばい)を札幌市に寄贈した。2013年11月に行われた贈呈式で、ガラスのピラミッドの会場で國松氏を見つけてパノラマ写真撮影となる。
 國松氏は1947年小樽生まれで、父親は國松登画伯である。長男希根太氏も彫刻家なので、芸術家の家系である。明日香氏の作品は南6条西5丁目の交差点のところにある「出逢い」のような具象作品は初期のもので、鉄製の抽象作品を制作し、札幌市内や道内に多くの作品が設置されている。作品を見るとすぐに國松氏のものであるとわかるものが多い。鉄を素材にすると重くて加工が大変だ、と何かの折に聞いた記憶がある。


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(パノラマ写真はガラスのピラミッドでの國松明日香氏)

2014年01月30日

HPFhito39・親子3代で北大に関係するノーステクノロジー呉敦社長

 ノーステクノロジー社の呉敦氏は中国吉林省長春市の出身である。吉林大学を1981年に卒業して、北大電気工学科大学院に進学、1988年に博士号を取得している。呉氏の父親が北大の医学部を卒業していて、その事もあって北大進学を選択したとのことである。現在、呉氏の娘の里実さんが北大医学部に在籍というから、親子3代にわたって北大のOBと現役生である。なお息子の喬実さんは京大で農学を専攻している。
 呉氏の北大時代の話に及ぶと、氏の博士論文審査の副査の一人で筆者も加わっていたらしいのだが、記憶にない。論文をパラパラとめくってOKとでも言ったのか、その話が時々出てくる。北大に勤務していた時は、中国人留学生の博士論文の主査でかなりの学生の面倒を見ていた。加えて副査もあれこれと頼まれ、提出された論文は斜め読みで、これでは記憶に残っていない。しかし論文提出者の方は副査のことを記憶している。
 呉氏は博士号取得後東芝に11年間勤め、1998年札幌に現在の会社を立ち上げた。情報システムのソフトウェアが仕事の内容である。札幌を創業の地に選んだのは、日本国内では中国東北地方の風土や気候が似通っている北海道に惹かれたせいである。日本での母校の北大の所在地が札幌であることも影響しているだろう。
 中国に精通して中国語ができるので、中国遼寧省大連市に大連北光信息技術公司を創りその理事長でもある。中国の大学の客員教授も勤めている。筆者は2005年上田文雄札幌市長に「eシルクロード親善大使」制度を進言して、同制度が設けられた。親善大使8名の一人として呉氏にも加わってもらった。この制度は親善大使が札幌とアジアの情報産業の盛んな都市の人的交流や情報交換に寄与していくもので、呉氏は適任者であった。同制度の活動のために組まれた予算が無く、8年ほど続いたが現在は無くなっている。
 ノーステクノロジー社は札幌駅北口から近いビルの二階にある。何度か行ったことがあるのだが、パノラマ写真を撮りに行くのは初めてである。社員が仕事をしているオフィスに立ってもらっての撮影である。その後少しばかり話をする。今年(2014年)で57歳になる呉氏は、子ども達も大きくなって、仕事一筋から趣味にも軸足を移してきているようである。釣りとゴルフが好きだとのことであるけれど、釣りもゴルフもしない筆者は、この方面で共通の話題は見つけられなかった。


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(社内での呉敦氏)

2014年01月24日

HPFhito38・ソチオリンピックの聖火トーチを持つ高橋はるみ北海道知事

 昨年(2013年)の11月下旬に、筆者の「北海道功労賞」受賞祝賀会が全日空ホテルで行われた。その時の司会者が「札幌人図鑑」主宰者の福津京子さんである。福津さんとの立ち話で、「札幌人図鑑」500回目は高橋はるみ知事がゲストだと知った。忙しい知事を、私設動画サイトのインタビューに登場させるとは、福津さんは大した行動力の持ち主である。
 この「パノラマ写真風土記-人物編」は「札幌人図鑑」をヒントにしていることもあって、これは知事のところまで行ってパノラマ写真を撮らねばと思った。功労賞の道主催の祝賀会で知事のパノラマ写真をとってはいるけれど、同一のパノラマ写真に、知事が二人写っている。面白いけれど、やはり写真を撮る目的で撮影したものがほしい。
 ただ、福津さんと同様、組織を背負っていない身分で、大した用事でもないことで知事と接触するのは難しい。功労賞の贈呈式に関連して、道庁内で連絡窓口になったところに依頼してみる。しかし、庁内で知事がパノラマ写真撮影に応じる場所はない、との断りの返事が返ってくる。
 年が明け、北海道IT推進協議会新年交礼会に知事が短時間出席した機会を捉えて、パノラマ写真撮を知事に直接依頼する。いとも簡単にOKということになった。この時、JR北海道相談役坂本真一氏が自殺したらしい、という情報は交礼会に出席していたほとんどの人は知らなかったはずである。筆者も知らなかった。が、知事には伝わっていたはずで、そのせいか予定の時刻をずらしての知事挨拶になった。生きておられたら、面識のある坂本氏にもパノラマ写真の被写体に、と何となく考えていたこともあり、この事件には非常に驚いたし、残念でもある。
 知事ともなると、北海道のキーパーソンの動静から、筆者の訳のわからないような依頼まで、同時進行で処理しまければならない。知っていても何事もなかったかのように振る舞わねばならぬこともあるだろう。知事職とはストレスのかかる、なかなか大変な仕事であるのには違いない。
 高橋知事のパノラマ写真撮影は知事応接室で行われた。まずパノラマ写真がどういうものかの説明のため、スマホでQRコードを読み込んでパノラマ写真を示す。座っての撮影は面白味に欠けるので、寄贈品を手にしてもらっての撮影である。知事が手にしているのはソチオリンピックの聖火トーチで、汚れ具合からみて、多分北海道内のリレーで使われたものだろう。不死鳥「火の鳥」の羽をデザインしたものである。写真のアングルが適当でなかったのでデザインを今一伝えることができない。今回の世界を巡る聖火リレーでは、火を消したトーチだけが国際宇宙ステーションまで運ばれ、地上に戻ってきている。
高橋知事は寄贈された縄文太鼓も叩いてみせてくれる。これもパノラマ写真に収めた。多分、重要案件を処理したり、大切な面会者もあったりで、パノラマ写真撮影に割く時間も限られている。挨拶や説明を加えて、3枚のパノラマ写真を撮って10分間程度で終える。手持ちのカメラで撮るパノラマ写真は、下手をすると出来損ないの写真となる。プロのパノラマ写真家でないからその点は気楽なところがあるのだが、プロならこれはストレスの貯まる仕事だろう。
 最初の話に戻って、「札幌人図鑑」でご自分語っていた高橋知事の健康法は、規則正しい生活で、三食をしっかり食べ、充分な睡眠を取ることだそうで、これは健康の正攻法の着実な実行である。知事職もその延長上で、奇を衒ったことは避け、正攻法でやっておられるのだと感じた。


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(ソチオリンピック聖火トーチを持つ高橋はるみ知事)

2014年01月21日

HPFhito37・中国企業との連携を進めるサンクレエ社長森正人氏

 今年(2014年)の北海道IT推進協会新年交礼会で、同協会長森正人氏にパノラマ写真撮影のお願いをした。大寒の日に札幌市中央卸売市場の鼻先にある森氏の会社「サンクレエ」を訪ねる。卸売市場を見下ろす眺めの良いビルの5階にある同社の社長机のところで森氏に立ってもらいパノラマ写真撮影となる。
 撮影後森氏と立ち話である。以前に同社を訪問した時にも聞いた記憶はあるのだが、すっかり忘れている「サンクレエ」の社名の意味を聞く。「サン」は会社独立前の所属企業「日藤」の頭文字を英語にしたもので、「クレエ」はフランス語の創造(クリエイト)を意味するそうである。何故ここにフランス語が登場するのかは聞き漏らした。
 親会社「日藤」から1989(平成元)年に独立しているので、会社創立からもう四半世紀近く経っている。ソフトウェア会社で主力は機関業務のパッケージソフトである。札幌のソフトウェア業界は、以前はパッケージソフトを独自開発する企業が多かったのに、現在多くの企業は受託開発にシフトしてきている。その中で、パッケージソフトでビジネスを続けてきているのは、企業の活力を維持していくノウハウの蓄積があるからであろう。
 そのノウハウの一つは中国瀋陽市の企業との連携である。連携というより支援かもしれない。パノラマ写真の隅の方に中国人社員が写っている。同社には3名の中国人社員が勤めており、連携している中国の会社に派遣されていている。現在そのうちの1名が札幌に来て仕事をしている。中国の連携会社は「瀋陽技盟信息技術有限公司」である。現在の日中関係の状態悪化が業務に支障を来しているか、と森氏に聞いてみる。状況は以前とまったく変わらない、との森氏の返事である。新聞の国全体を対象にした報道と、草の根の日中のビジネス交流はかなりのずれがあるようである。
 以前人件費が安いことで中国向けのオフショアが盛んであったのが、今や東京から発注する場合、中国と札幌はほぼ同じ単価であると聞いて、時代は変化していると感じた。オフショア先は中国からベトナム、タイ、ミヤンマーへ移って来ているとのことである。そのベトナムも人件費が高くなって、これから数年で安い人件費のメリットは薄れるだろうとのことである。
 ベトナムの話が出て、以前「さっぽろ産業振興財団」主催のベトナム視察団に森氏も加わっていたことを思い出した。視察団は2008年1月中旬に3泊5日の深夜番組(森社長談)みたいにして行われた。筆者が発行していたeSRA広報誌「eシルクロード」(March 2008)に森氏が「ベトナムオフショアビジネス視察会」の一文を寄稿している。視察先のホーチミン市で森氏が撮った、電柱に幾本重なって架かっているのかわからない数の電線束の写真が添えられてあった。



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(札幌市中央卸売市場を見下ろすオフイスでの森正人社長)

2014年01月01日

HPFhito36・北海道新聞文化賞に輝く初音ミク

 2012年度の北海道新聞文化賞は画期的なものであった。実在の人物ではなくヴァーチャルなキャラクター(ボーカロイド)が著名人や団体と伍して受賞している。受賞対象の団体や会社は法人とも呼ばれ、こちらも法で認められた架空の人格とはいえ、建物があったりそこで働いている社員が居たりで、実在のものである。これに対して、初音ミクはコンピュータ内やネット空間に存在するアイドルなのである。
 文化賞推薦に当たり、初音ミクを生み出したクリプトン・フューチャー・メディア社の伊藤博之社長を受賞対象と考えて打診した。伊藤社長からは、自分より初音ミクを推薦してほしいとの意向が返ってくる。この申し出にはかなり戸惑った。いくらなんでも実在しない人物に賞とは、推薦規定を見ても受賞対象は個人とか団体とかは書かれていても、「実在」のという断りはない。改めて書くまでもなく、賞の対象は実在するものとは暗黙の了解事項である。
 この推薦は門前払いだろうと思いながら2011年に推薦書を送った。案の定この年は受賞には至らならなかった。受賞にならなかった理由など審査内容は一切外部に漏れてこないので、実在人物でないのが受賞に届かなかったのかどうかを知る術がない。
 前年の経験があるので、2012年に推薦を再提出するかどうか迷ったことも事実である。しかし、推薦書を大幅に書き換える必要もないので、ダメモトで2年目の書類提出である。これが認められ、初音ミクは道新文化賞初のヴァーチャルキャラクターの受賞に輝いた。賞のカテゴリーは特別賞である。
 ホテルで行われた授賞式にはパノラマ写真にある初音ミクの等身大のパネルが受賞者の席に置かれた。表彰状や故佐藤忠良氏作のブロンズ像が贈られるのだが、これは初音ミクが受け取ることができない。スケジュールの関係で都合のつかなかった伊藤社長に代わって、同社の社員が代理で受け取っていた。
 受賞祝賀会の席で小耳に挟んだのだが、選考過程でやはりヴァーチャルな人物に賞を与えることには議論があったようである。しかし、初音ミクの全国的な、そしていまやアジア的な知名度の持ち主である点が受賞を決定つけたようである。
 授賞から1年以上も経ってから、受賞式に出席した初音ミクにクリプトン・フューチャー・メディア社の応接室に立ってもらいパノラマ写真撮影である。受賞式でもらったブロンズ像を一緒に並べてもらうのを失念したので、それは筆者の自宅にあるものを重ねて写真に収めた。「ジーンズ」と題されたこのブロンズ像は2012年を持って贈呈は終わったようで、2013年からは新しく安田侃氏の石彫が賞として贈呈されている。


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2013年12月31日

HPFhito35・道内温泉地99%で湯に浸かった林克弘氏

 林克弘氏のブログ上でのハンドルネーム(HN)は温泉マンである。本業の方は日研コンピュータ㈱の社長で建設業関係のコンサルティングを行っている。温泉マンを名乗るだけあって、北海道の温泉地(温泉宿ではない)は99%は制覇しているとのことである。
 仕事柄もあって、北海道の各地を車で回っていて、温泉地のみならず各地の見所、駅、店、地産品、イベントなどにも詳しい。特に出身地の妹背牛を中心にした空知地方は我が庭といった感じのようである。イベント仕掛け人でもあり、留萌本線の恵比島駅(明日萌駅)で2014年に鉄道イベントの提案を行うため林氏が沼田町に行く時、福本工業社長の福本義隆氏と一緒に同氏の車に乗せてもらう。
戦前に中国から連行され、沼田町に在った明治工業昭和鉱業所で働かされた故劉連仁氏は、同鉱業所を脱走し足掛け14年間北海道で生き延びている。その劉氏に福本氏が興味を抱き、沼田町で劉氏の痕跡でもないかを調べるのが沼田町行きの動機である。
 劉氏は最終的には石狩当別町で発見された。その生還記念碑があるので、それも見て行こうということになった。そこで林氏の出番で、めったに人の訪れることのないだろう記念碑の場所をネットで調べて、我々を連れて行ってくれた。
 記念碑の場所は地図では道道527号を宮本農園の付近で直角に折れ、東北方向に向かい、田淵農園の近くである。上記場所の説明通りには行かなかったけれど、田舎の田園の道を車で走って「劉連仁生還記念碑」の立て看板があるところに着く。
 記念碑は劉氏が冬季に篭った洞穴を思わせるような石で囲まれた空間に劉氏を象徴しているかのような球体が置かれている。制作者は彫刻家故丸山隆氏である。ここを訪れたのは11月の下旬で、辺りはもう冬景色である。
 小雨の中で林氏に立ってもらいパノラマ写真を撮る。林氏の立つ周辺は一方に山林、開けた方は雪で覆われた水田と鉄骨だけになったビニールハウスがある殺風景な景色である。生還碑があるということはこの付近の山に隠れていた劉氏が発見されたことなのだろう。パノラマ写真には同行の福本氏が熱心に碑文を読む姿が写っている。


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2013年12月30日

HPFhito34・ホッキョクグマの双子を誕生させた円山動物園飼育員清水道晃氏

 円山動物園には中国からパンダを借りてくる話を持ち込んだことがある。政治的な動物であるパンダの実物が見られなくても、成都市にある「成都大熊猫(ジャイアントパンダ)繁育研究基地」からのライブ映像を円山動物園で見られるようにするのはどうか、という提案も行っている。
 このパンダプロジェクト実現のため、2005年頃、当時前記研究基地には設置されていなかったパンダ監視システムを、札幌のIT企業「ビー・ユー・ジー」社の協力も得て寄贈している。その見返りとして成都から札幌までのライブのパンダ映像伝送する覚書きを、研究基地の余建秋副主任と取交わしている。
 筆者が会長となり新しく立ち上げた「CSパンダの会」の副会長には余主任と、成都市で研究基地との間を取り持ってくれた日本語の堪能な会社経営者楊治敏さんになってもらった。楊さんは筆者の研究室に留学していた莫舸舸君の母親である。
パンダプロジェクトに関連して余主任を札幌まで招待したことがある。当然余主任と同道で円山動物園も見学している。円山動物園側の対応は記憶に残っていない。余主任を旭川の旭山動物園にも連れていっている。結果的には成都からのパンダのライブ映像が札幌に送られてくることはなかった。
 円山動物園はホッキョクグマの繁育研究基地の様相を帯びている。昨年(2012年)12月に母親ララが双子のポロロとマルルを出産し、二頭とも元気に育っている。この時キャンディというメスも出産したけれど、死産となった。このホッキョクグマの出産と飼育に携わっているのが飼育員の清水道晃氏である。
 清水氏は昨年ホッキョクグマ担当になる前は熱帯の動物エランドの担当であった。飼育員は担当する動物が固定しているのかと思うとそうでもなく、結構園内で担当する動物が変わっていく場合もある。清水氏は、今年は前記のキャンディが妊娠しているのかどうか、ホッキョクグマ館の近くのプレハブ内で、寝室内のキャンディのモニタ映像と睨めっこである。その様子は、かつて成都市で日本からの寄贈の監視カメラでパンダのライブ映像を職員が見ていた光景と二重写しになる。
 清水氏のパノラマ写真取材を行った12月下旬の時点で、キャンディが妊娠しているのかどうかは判断できない状況にある。キャンディは繁殖のため豊橋総合動植物公園から借りてきているので、今年の妊娠・出産を清水氏は祈るような気持ちで待っている。
 ホッキョクグマの出産のため、静かな環境を保つ目的で熊館の近くは見学中止である。動物園は、園内で人を集めるホッキョクグマの親子を見せることと、新しい出産の可能性につなげるための見学中止の板ばさみになっている。
 清水氏にホッキョクグマの看板のところに立ってもらいパノラマ写真撮影となる。広い園内に客はまばらであったけれど、天気次第では年末年始には来園者が増えるのだろう。



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2013年12月29日

HPFhito33・来園者増に心を砕く円山動物園長見上雄一氏

 公共施設は設置目的があり、いくつかの目的の軽重は施設を運営する主体の性格で随分とイメージが変わってくる。札幌市内にある動物園と植物園を比べてみる。動物園は札幌市が管理・運営していて、市民が遊びに行く場所というイメージが強い。一方、植物園は北大に所属する研究施設であり、何か植物に関する研究が行われていると漠然と思われていて、事実そうである。
 動物園でも種の保存のために人工授精や飼育の研究の側面はある。しかし、国内初の何かの動物の人工飼育に成功したことがニュースになっても、それが論文で発表されることはないようである。動物園で働く飼育員は論文を書いて成果とする研究者からは遠い。動物園の経営という点からは、国内初の人工飼育がニュース報道され、来園者が増えることが主な関心事だろう。
 市の施設で動物園や青少年科学館は採算のとれない施設であることは傍目にもわかる。これは施設の目的が、教育やレクリエーションにあるので、そのために市の予算が投入されるので採算は二の次というところがある。そうは言っても、余りにも赤字が拡大する施設を維持するのは難しい。札幌市の職員から、何年か毎に送り込まれる円山動物園の園長は、この点に最優先の問題意識を持っているはずである。
 昨年(2012年)新しく就任した円山動物園長の見上雄一氏にとっては、来園者を増やし、動物園運営の経費の赤字が増えないようにするための方策を考え、実現することが最大の目標だろう。アジアゾーンの施設が新しく設けられたので、これを来園者増加の起爆剤にしたいところである。前部署が交通局で事務方であれば、利用客増への努力は習い性になっているのではなかろうか、と推測する。
 1984年に小樽商大の商学部商学科を卒業して札幌市役所に勤め、色々な部署の仕事をしてから動物園長となったので、来園者へのサービスにアイディアを出し、体当たり的に園長自ら実行することで園長職を果たそうとしている。しかし、動物の研究者でも動物園を経営してきた経験も長くはないので、多分アイディアは試行錯誤的なものなのであろう。
 パノラマ写真撮影を申し込んだら気軽に応じてくれて、園長室や園内で短時間の撮影である。歩きながらの取材で、園内でカラスに手に持った物を取られた客がいて、直ぐに寄っていって何か話していた。来園者への気配りを大切にしている様子が見て取れた。


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2013年12月28日

HPFhito32・建築中の新社屋前の莫舸舸君と鄒宏菁さん

 莫舸舸君は筆者の研究室で研究生活を続け、博士号を取得後本州の企業で修行して成都市に戻った。博士論文の研究は道路標識の認識に関するもので、昨今の自動車の自動走行にも関連する画像認識技術である。
 故郷の四川省成都市には、父親の莫景猷氏の経営する無線システムを製造する会社の「成都華日通訊技術有限公司」があり、そこでソフトウェアの別会社「有限会社華日東升公司」を経営した。取引先は日本で、莫君が日本語が出来る強みを生かして仕事を日本から受注していた。莫君の母親の楊治敏さんは慶応大学に留学した経験があり、成都市で企業を経営している。莫君の家族は企業家一家である。
 莫君が成都市で会社を経営するようになってから、成都市を訪れパンダの仔を抱いたことがきっかけで、筆者は「CSパンダの会」を立ち上げた。CSとは成都(Chengdu)と札幌(Sapporo)を意味している。ゆくゆくは成都市の「成都大熊猫(ジャイアントパンダ)繁育研究基地」からのライブ映像を札幌まで伝送できるようにと目論んだ。莫君の助けも借りて、成都のパンダ研究基地に監視カメラの寄贈なども行ったことがある。このプロジェクトはパンダ研究基地で生まれた仔パンダに「曄友(イエヨウ)」という名前をつけたぐらいの成果しか出せなかった。
 莫君の奥さん鄒宏菁さんも日本への留学経験があり、山梨大学から北大の大学院に進学している。莫君とは山梨大学で知り合ったと聞いている。鄒さんは北大の文系の博士課程に進学して、莫君が博士号取得後鄒さんは博士課程を退学して莫君と結婚して成都で一緒に会社の仕事を行っている。日本語の堪能な鄒さんには「爪句@思い出の都市秘境」(共同文化社、2010)に2句投稿してもらっている。
 今年(2013年)数年振りに成都市で会った莫君は父親の会社も引き継いで大きな会社の社長になっていた。主な取引先は中国国内で、日本とのビジネスでの関係は無くなっているようである。新社屋も建築中で11階建ての自社ビルは2014年の夏には完成予定で、このビルに社員数400人程度の華日通訊集団を入居させる計画と聞いている。
 北大博士課程在学中は家に引き篭もりがちの莫君が、若くして大きな企業を引っ張っていく会社経営者になるとは、時の流れを感じさせる。今度成都市を訪問する機会が得られれば、新社屋で仕事をしているところを見せてもらえるのだろうと、楽しみが残った。


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(建築中の自社ビル前での莫君(右)と鄒さん)

2013年12月27日

HPFhito31・新会社「ウチダシステムズ」道支社長の山下司氏

 山下司氏は「ウチダシステムソリューション」の社長であった。今年(2013年)同社は分割され、環境システム事業部が内田洋行関連会社3社と統合し「ウチダシステムズ」となり、山下氏は新会社の北海道支社長となった。
 内田洋行の関連会社で構成するウチダグループは札幌でユビキタス協創広場U-calaを運営しており、ウチダグループの活動や製品紹介のみならず産学連携の場としても活用されている。無料ということもあり、大学の研究者が主催するイベントにも利用されている。筆者が主宰する月1回の勉強会「eシルクロード大学(eSRU)」も毎回ここが教室となる。この会場を紹介してくれたのが前記の山下氏である。
 勉強会eSRUは2006年に始まっている。第1回目は札幌コンベンションセンターで筆者が講師となって行われた。その後は地下鉄東札幌駅に近い札幌市産業センター内のセミナールームを会場にして、主にITの関連分野のキーパーソンが講師になり行われた。しかし、無料で使用させてもらっていたこのセミナールームが、同センターの指定管理者が変更されたことにより有料となり、別の場所を探さねばならなくなった。
 この時期、山下氏は北海道IT推進協会副会長を務めていて、同協会の新年会で教室探しの話が出て、当時内田洋行北海道支店にあったU-calaを利用させてもらうことになった。その後、この支店のビルの老朽化のため、支店は今年(2013年)サッポロファクトリー1条館に移転し、U-calaも新しくなった。
 eSRUの講義日に山下氏が顔を出したので教室の横のスペースでパノラマ写真撮影である。仕切りの向こう側がウチダグループのオフィスになっている。内田氏は勉強会に出席する意向を示してくれているが、忙しいらしくて実現されてはいない。毎回の世話役は内田洋行の渡辺裕司氏に行ってもらい、パノラマ写真に渡辺氏の後姿が写っている。


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2013年12月25日

円山動物園内の見上園長



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HPFhito30・学芸員の資格を持つ中国画廊館長國岡睦史氏

 大通西21丁目に中国画廊の看板の出ている3階建ての建物がある。昔中国総領事館が札幌に開設された時、建物のオーナーが申し出て、中国総領事館がここに間借りしたことを知る人はほとんど居ないのではなかろうか。
 建物のオーナーは東京宅地㈱の國岡氏で、会長の茂夫氏と息子の睦史氏がこの会社を経営している。札幌にあるのに何で会社名に「東京宅地」がついているのか、聞いたような気もするけれどすっかり忘れている。総領事館が建物を建て移った後に「中国画廊」が開設された。
 画廊は中国人アーティストの作品を展示し、販売も行っている。これからの中国人アーティストを世に出すお手伝い、という性格の画廊である。講座「身近な都市秘境を歩いてみよう」の講座でも受講生と共に訪れたことがある。館長の國岡睦史氏が対応してくれた。文字通り都市の秘境の画廊という感じがする。
 この画廊には別件でお世話になったことがある。筆者は中国長春市でスケッチ展を開催したことがあり、共催した中国人画家馮長収氏が来札するのに力を貸した。大作の中国絵を運んできた馮氏と今度は札幌で二人展を行ったのだが、販売を目的とした馮氏の絵は売れなかった。そこで帰国するのに際して、大きな絵を1枚中国総領事館に寄贈することになり、その仲介を國岡睦史氏にお願いした。絵は無事総領事館に収まったけれど、その絵のその後の顛末については知らない。
 國岡睦史氏に画廊の絵をバックにして立ってもらいパノラマ写真を撮る。聞いてみると氏は玉川大学の通信教育で博物館学芸員の資格を取得されている。私設の小さな博物館や美術館で学芸員が居るのは珍しい。
 今年(2013年)に88歳になられる茂夫氏は、「日中佛教文化交流中心」に関係しておられ、任意団体の平等院大慈寺を組織して写経活動を行っている。寺の名前はあっても宗教法人ではなく、出家僧も居ない。在家の有志がやっている擬似寺である。宗教法人になって生活(経営か)が安定すると宗教は堕落する、という氏の言葉が耳に残った。


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(画廊に立つ國岡睦史氏)

2013年12月24日

HPFhito29・海が好きだったシステム・ケイ社長鳴海鼓大氏

 IT企業の社長という点では、鳴海鼓大(たかひろ)氏の経歴は少し変わっている。富山商船高等専門学校航海学科卒業後20~21歳に船に乗って国内、海外を巡る船上生活を送っている。海が好きだったようで、後年設立した会社の社屋の壁や応接室の壁に人魚や魚の絵が描かれている。
 航海生活から陸に上がって電力会社やソフトウェア会社に勤務する。会社勤めに満足せず、コンピュータ専門学校に通い、1991年にシステム・ケイを設立している。会社名にある「ケイ」は「K点」の意味である。スキージャンプ競技でK点を超えることが競技者の目標で、IT企業でもこの業界で評価を受けるK点超えを目指す、という意気込みが社名に表れている。
 かつてeシルクロード親善大使をお願いしていて、時たま勉強会で講義してもらうことがあった。講義で、ビジネス展開での自分の強みは、言葉が通じない外国人の誰とでも友達になれる点だ、との話が記憶に残っている。中国、台湾その他の海外でパートナーを得てビジネスを展開してきている。
 本業とは関係のなさそうな事にも手を出している。一時、液体の燻製というのをやっていたことがある。飲み物や液体調味料を燻製処理すると旨みが増す。そのための燻製装置を開発して、大学に燻製液体を持ち込んでテストしてもらう、といった話を記憶に留めている。
 現在のメインの事業はインターネットカメラである。動画配信や監視を小型のカメラとインターネットを利用して行うシステム開発やサービスを行っている。ロボット型ヘリにも着目していて、インターネットカメラと組み合わせると、上空からの動画を取り込んで各種のビジネスに生かすことができる。
 会社の応接室(社長室兼用か)でパノラマ写真撮影である。各種の表彰状と一緒になって、オードリー・ヘップバーンの写真が目に付き、鳴海氏は彼女のファンのようである。入口近くの壁に貼ってあるeシルクロード親善大使の顔写真入りのパンフレットは、制作したことがあるのですぐにわかった。Biz-Caféのカレンダーもあり、この組織の資金作りに協力している。
 北海道新聞夕刊(2013年12月7日)に鳴海氏の提言が掲載されていたのが目に留まる。ホワイトハッカーを札幌に結集して、「サイバー攻撃と戦う街に」しようとのアイディアは、実現性はともかく、面白いものであった。新聞の紙面と鳴海氏のパノラマ写真を重ねてみる。


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(新聞の提言記事とシステム・ケイ社応接室での鳴海鼓大氏)

2013年12月23日

HPFhito28・円山動物園のカリスマ飼育員本田直也氏

 NHKの番組「つながる@北カフェ」のコーナー番組「札幌ハコモノ探検」のコメンテータを務めていたことがあった。番組の何回か目に札幌円山動物園が探検先となり、「は虫類・両生類館」を取材した。この時取材に応じてくれたのが飼育員の本田直也氏である。
 本田氏の受け持ちは爬虫類・両生類と猛禽類のフリーフライトである。特に爬虫類ではヨウスコウワニの繁殖に国内で初めて成功しており、動物園の発展に寄与した人に与えられる「高崎賞」を受賞している。ヤドクガエルのような珍しいカエルの繁殖なども手がけており、カリスマ飼育員とも呼ばれ、円山動物園の“人類”の顔である。
 一般的に爬虫類の好きな人は数が少なく、大方の人にとって蛇などは触れたくない存在である。しかし、本田氏は爬虫類が子供の頃から好きだったという。爬虫類館の中央にバックヤードがあって、来館者が外からこのバックヤードを覗き込める設計になっている。このバックヤードで毎日餌を作るのが本田氏の仕事であるけれど、そこで平気で蛇に触れている。
 動物園の秘境はこのバックヤードにある。蛇とかカエル、その他の生き物には生餌を与える必要がある。バックヤードの地下の階には餌さ用の大量のラットやコオロギが飼われている。動物園は小動物や虫の命で維持されている側面があり、ただ動物を眺めている時には気がつかない。それにしても、生餌の管理にも年中気を配らねばならない飼育員は、好きでなければ出来ない仕事であると思った。
 鷹匠の本田氏が鷹を飛ばせるところを見たかったのだが、冬場に北極熊のお産のため園内の環境を静かにせねばならず、鷹を飛ばす場所の除雪をブルトーザーで行うことができず中止しているとのことである。一度鷹匠の腕前を見てみたかった。


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(は虫類・両生類館バックヤードで仕事中の本田直也氏)

2013年12月21日

HPFhito27・高品質印刷への特化を目指すアイワード社長木野口功氏

 アイワードは印刷会社で、各種印刷を手がけていて、当然本作りも行っている。本作りといっても多様な作業があり、データの入力から編集・校正、印刷・製本を行って本が出来上がる。印刷・製本に着目すると、大型の印刷機や製本機を揃えて仕事をしてゆくので、装置産業ともいえる。しかし、データ入力やデザインは人手に頼るので、労働集約産業でもある。
 いずれにせよ、今や印刷業ではコンピュータ利用が不可欠である。しかし、以前の印刷業は、印刷機を相手に職人の技で仕事をしていた。印刷業のコンピュータ化はパソコンが広く普及してきてからである。そのパソコンの前段階のマイコンと呼ばれた技術が急速に広まり出した頃、会社名を「共同印刷」と名乗っていた同社に、筆者の手作りマイコン装置を持ち込んで社員に講義したことがある。
 今や印刷業はデータ入力と処理が仕事の根幹にあり、狭義の意味の印刷は最終工程のものでしかない。豆本「爪句集シリーズ」の印刷を頼んでいることもあって、時々顔を出す同社で木野口功社長にパノラマ写真撮影を申し込んだ。永山記念公園の近くに同社の社屋のビルがあり、ビルの地階にあるデータ入力作業室での写真撮影となる。木野口社長の周囲では、お揃いの制服姿で、全員パソコンを前にして、受け持ちの原稿の入力と手直し作業を行っている。
 ここで仕上がった原稿は石狩市にある同社の大きな印刷工場に送られ、印刷物となる。同工場にはドイツのハイデルベルグ社から導入した高速、高品質のカラー印刷機があり、これで印刷される原稿も多い。この高価な印刷機械導入は、競争の激しい印刷業界にあって、高品質印刷に特化して企業の生き残りを謀るための木野口社長の経営戦略の要である。
 北海道新聞社刊の「トップの決断 北の経営者たち」(2012年)に北海道を代表する経営者の一人として取り上げられ、優れた経営者としての評価も定まってきている木野口氏である。そして、次に控える課題は後継者へのバトンタッチであろう。技術革新の激しいこの業界にあって、次代を担う経営者を育てるのは、当初業績が芳しくなかった同社に外部から入って、現在の会社までした木野口氏が経験した事とは別の難しさがあるように思える。



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2013年12月20日

HPFhito26・札幌勤務1年を迎えた日銀札幌支店長曽我野秀彦氏

 銀行内では原則カメラはご法度である。北海道銀行のカウンターの奥の方に北海道を代表する作家の共同制作によるレリーフがあるけれど、これをカメラに収めるのは条件付きの許可を取る必要がある。許可を得てこのレリーフのパノラマ写真を撮ったことがあるけれど、多分このレリーフのパノラマ写真撮影を敢行したのは、自称パノラマ写真家としての筆者しかいないのではなかろうか、と思っている。
 日本銀行は都市銀行よりさらに厳しい感じを受ける。ホテルの朝食会で知り合った日本銀行札幌支店長の曽我野秀彦氏に、支店内での氏のパノラマ写真撮影を申し込んだら、意外に簡単に承諾してくれる。最初は銀行内の様子が伝わってくるような場所を考えていただいたようだけれど、やはりそれは無理で、一般市民が出入り出来る展示室での撮影となる。
 この部屋は、以前道新文化センターの講座「身近な都市秘境を歩いてみよう」の受講者を連れて訪れたことがあるので、知っている場所である。展示物の内容は以前のものとほとんど変わっていない。この部屋で曽我野氏に立ってもらい撮影である。1万円札を大きくして、福沢諭吉の顔の部分に自分を顔を出して記念撮影を行う看板に、曽我野氏も顔を出してサービスに応じてくれる。
 写真撮影後の短時間の雑談で、曽我野氏は札幌支店長就任から1年経過したのを知る。北海道新聞の「けいざい寒風・温風」のコラムの執筆者で、つい先ごろの回では全国的にみて北海道の経済は好調と書いておられた。今回の景気回復のキーワードは「建設」、「消費」、「観光」で、北海道は三拍子そろった地方になるそうである。
 しかし、喜んでばかりもいられない。現在銀行は収益につながる投資先が少なく、余った資金で国債を買っている状況で、銀行は預金されても困るのではないかとの質問に、近い将来地方の銀行は預金集めに苦労する時代を迎える話をされた。遺産相続をする子供たちが大都会に住むようになり、高齢者の資産(お金)が大都会に移ってしまう。少子化は地方で顕著で、その点からも貯金に回るお金は見込めない。
 人気テレビ番組「半沢直樹」はどこまでリアリティがあるのか、といった筆者の質問に関する話もあったけれど、空き時間を利用しての撮影で、ほんの立ち話(座ってはいたけれど)程度であった。曽我野氏は来年(2014年)4月からは北大でも講義を持たれるとのことで、北大生に面白い話をされるのだろうと思った。


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2013年12月19日

HPFhito25・元北大留学生の西南交通大学准教授侯進さん

 筆者の研究室で博士号を取得した中国人留学生は20名近くになる。そのうち今でも連絡があるかつての学生は数名である。その数少ない元中国人留学生の一人に侯進さんがいる。現在は四川省成都市にある西南交通大学の准教授になっている。
 小柄な女性の侯さんは頑張り屋である。語学の才能もある。日本に留学して日本語が達者なのに、母校に戻ってからは英語で論文を書く方法とか発表する方法についてのテキストを作成して講義している。そのテキストを見せてもらって、意外なテーマを講義しているものだと驚いたことがある。
 侯さんの北大での博士論文研究は、インターネット空間で動き回り、コミュニケーションを行うアバタに関するものである。異なる国のアバタ同士がサイバー空間で遭遇したら、どのように相手の国籍を認識し、どんな言語で交信するか、等が研究テーマであった。アバタ(化身)が話す言語としての化身話(Avater Language)の筆者のコンセプトに添った研究成果を出しくれ、博士号を取得した。現在の侯さんの研究室でもその流れの研究がメインとなっている。
 侯さんは双子の母親でもある。大きくなった息子達を連れて札幌を再訪したこともある。侯さんは筆者を西南交通大学に招待してくれ、その渡航費、滞在費を研究費から出してくれている。昔の中国では考えられないことで、中国も金持ちになったものだと実感する。
 侯さんから西南交通大学での講演を頼まれ、2013年の10月の終わりから11月初めにかけて久しぶりの成都訪問である。大学のキャンパス内にある大学経営のホテルに投宿する。以前にも泊まったことがあるので勝手はわかっている。
 侯進さんの指導する学生を中心に、集まった聴衆を前に講演会となる。この大勢の学生を一人で指導しているというから、日本の研究室では考えられない。講演はパノラマ写真に関するもので、壁に映し出されたスライドは高橋はるみ北海道知事のパノラマ写真である。パノラマ写真撮影の実演を行い、撮った講演会の様子である。
 侯さんの横には一緒に講演を行ったオーストラリアに帰化した中国人の南クイーンズランド大学のJianming Yong(雍)先生が居る。ずーと以前、侯先生が発表を行ったハワイの学会でYong先生にお会いしていて、先方が筆者を覚えているとの話をされていたが、こちらはすっかり忘れていた。
 日本から同道のメディア・マジック社の里見英樹社長、北大情報科学研究科の青木直史助教の顔も見え、それぞれ講演を行った。大連で働いている里見氏のご子息の翼君の顔もパノラマ写真に写っている。


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2013年12月17日

HPFhito24・バンコクで息抜きをするメディア・マジック社長里見英樹氏

 メディア・マジック社はエヴァンゲリオンのキャラクターのライセンスを受けて、ケータイに利用するサービスで知られた会社である。最近はエヴァンゲリオン展を札幌で行って人気を博している。同社の里見英樹社長には「eシルクロード親善大使」をお願いしていることもあって、勉強会「eシルクロード大学」で何回か講義していただいた。
その講義で知ることになったのだが、氏はアマチュア無線が趣味で、アマチュア無線で培った知識を、本職のパソコンのソフト作りに応用した頃があった。ここまでなら技術系ではあり得る話である。しかし、聞くことが稀の話として、氏にはマダガスカルでアマチュア無線を広めた最初の外国人の経歴がある。
 マダガスカルは、ここでしか見られない珍しい動物を観察できる自然の残る国である。写真も趣味の里見氏は、これらの動物の写真を撮りにマダガスカルに渡航した。ちなみに氏の写真の趣味は、筆者の著作「札幌の秘境100選」(マップショップ、2006)に採用した旭山公園から撮影した札幌の夜景や、豊平川の「おいらん渕」の魚眼レンズを使った写真に結実している。
 マダガスカルに通うことが増え、マダガスカル通となった里見氏から同国を旅行するお誘いを受ける。バオバブの大樹のパノラマ写真が撮れる良いチャンスと、マダガスカル行きを決め航空券も入手した。出発直前に里見氏からの電話で、日本への戻りの飛行機がキャンセルになった事を告げられる。バンコク経由でマダガスカルの首都アンタナナリボ行きの予定であったので、急遽バンコクまで行きタイ見物に切り替える。
 里見氏の会社の社員旅行にはバンコクが選ばれたこともあるほど、氏はバンコクにも詳しい。バンコクの観光名所を一緒に見て歩き、パノラマ撮影三昧となる。暁の寺の「ワット・アルン」の高い仏塔の上からのパノラマ撮影には肝を冷やした。「ワット・ポー」の金無垢の巨大涅槃物を観光客に遮られながらのパノラマ撮影も行った。タイ王室の寺の「ワット・プラケオ」のパノラマ写真には、里見氏とマダガスカルに行き損ねた娘さんが並んで写っている。
 里見氏はバンコクでお隣の国カンボジアのアンコール・ワット旅行の手配を済ませる。タブレットを片手に、旅行先で次の旅行スケジュールを立ててゆく氏を見ていると、旅行代理店もやってゆけるのではないかと思われた。初めてのアンコール・ワットでも多くの遺跡のパノラマ写真を撮ることが出来、マダガスカルは遥か彼方であったけれど、収穫の多い旅行であった。
 2ヶ月後には、里見氏と今度は中国四川省成都市を旅行することになる。この時は氏の息子さんが勤め先の大連市から成都市までやって来ている。


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(ワット・プラケオで娘さんと一緒の里見英樹氏)

2013年12月15日

HPFhito23・「守・破・離」を説く北大情報科学研究科教授山本強先生

 TEDxSapporoという、2013年に札幌で行われた日本語版TEDのプレゼンテーション・ショウで山本先生が説いていたのは「守・破・離」である。これは元々芸事や禅の教えにあるもので、「守」は従来からの形や教えを受け入れること、受け入れたものに工夫を加えて「破」っていくこと、そして教えられたことや自分の工夫からも「離」れて、新しいものを創りだしていくこと、といった意味がある。
 山本先生は電子工学や情報工学の技術者としての才能を発揮し、大学院生だった1970年代半ば頃からマイクロコンピュータ(マイコン)の技術を自家薬籠中の物として、研究に応用し周囲にこの新しい技術の移転を行っていた。修士を修了して一度企業に就職後大学に戻り、超音波ホログラフィーのテーマで博士号を取得している。その研究にマイコン技術が生かされている。
 山本先生の研究をトレースすると「離・破・守」かも知れない。新しく世に現れたマイコンというコンピュータ技術を身につけるやり方は、従来の大型コンピュータの世界から「離」れていて、独学の世界である。そこで身につけた技術や知見で、従来のコンピュータ技術の枠を「破」って新しい応用の展開を試みている。
 マイコンからはCGの研究に移行し、日本では先駆的な研究者の一人でもある。CGの研究でも、最初は師に付いた訳でもなく従来の研究から「離」れて、試行錯誤でこの分野の研究常識の壁を「破」って来た。今や情報工学の応用分野での権威になっていて、「守」りに入った感がしないでもない。
 山本先生や後輩の学生達がマイコン技術を核としてベンチャー企業を興し、後年「サッポロバレー」と全国に喧伝された、札幌や北海道の情報産業育成に貢献したことで筆者は2013年に北海道功労賞を受賞した。その記念誌発行にあたり、筆者の功績を紹介する長文の原稿は山本先生にお願いした。山本先生は、今や札幌という地方都市のIT産業史として定まってきている、マイコン産業勃興当時を顧みて執筆できる数少ない書き手の一人である。
 執筆のお礼も兼ねて、山本先生を教授室に訪ねる。一昨年まで北大情報基盤センター長を、昨年からは産学連携本部副本部長を兼任していてかなり忙しそうである。短時間雑談で、電話のかかって来たのを潮にパノラマ写真を撮る。秘書の方も写り、色々なものが詰まった部屋の全部が写るパノラマ写真では、山本先生からクレームが届きそうである。クレームがあれば、もう少し舞台装置を整えたところでのパノラマ写真に差し替えるつもりである。


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2013年12月14日

HPFhito22・“りゅうさん”に魅せられた福本工業社長福本義隆氏

 福本工業社長の福本義隆氏が文章入力で“りゅうさん”とパソコンに打ち込むと「劉さん」か「硫酸」かのどちらかが変換の第一候補と第二候補で出てくるとのことである。この二つの単語はまったく無関係と思われるけれど、福本氏の頭の中ではつながっている。
 「劉さん」とは中国人劉連仁さんのことで、中国山東省から1944年に日本に強制連行され、沼田町にあった明治工業昭和鉱業所で働かされた。終戦間際の1945年7月にここを脱出し、1958年2月に発見されるまで足掛け14年間を北海道の野山で生きながらえた人物である。雪で埋まる期間は地中に穴を掘り、そこでじっと座ったままで冬を越したというから奇跡に近い逃亡生存者であった。
 一方、福本氏は今やブームの感がある節電に挑戦している。太陽電池のパネルを自宅に取り付け、これから供給される電力だけで生活ができるかどうかを、身をもって試している。節電の最も効果的方法は電力を消費する生活と縁を切ればよい。冬は暗い穴倉のようなところで生活すれば電気はいらない。しかし、これでは精神が持たないだろう。
 という状況で、福本氏は劉さんの歴史的事実を知ることになる。自分とは比べものにならない無電気生活で北海道の冬を生き延びた先達が居る。これを考えれば、乏しい電気の生活は大した苦でもない。ここは一つ劉さんが働かされていた炭鉱のあった沼田町に行って、何か過去を振り返る資料でも探し、昭和鉱業所の跡でも訪ねてみよう。そして、それを省電力耐乏生活の精神的拠りどころしよう、と沼田町町役場まで劉さんの記録を求めて行く。
 沼田町役場で対応してくれたのは、町興しに熱心な町職員の亀谷良宏氏である。しかし、この負の遺産を調べ直すのは町としては乗り気ではなさそうである。それでも保管されている劉さん関係の新聞資料や昭和鉱業所の過去の写真などを見せてくれる。
亀谷氏は昭和鉱業所の跡に続く林道まで案内してくれたけれど、林道は閉鎖されていて、鉱業所の廃屋の写真を撮ることはできなかった。なお、この沼田町行きはイベント仕掛け人林克弘氏が沼田町に鉄道イベントの提案を行う目的もあって、林氏の車で行った。
 話しは戻り、福本氏の太陽光発電だけで一応最低限の文化的生活を行うには、大容量の蓄電池が必要との結論に達した。市販で手に入る蓄電池は停電に対処して大電流を放電するのもであって、少量の電流を長時間流す電池には不向きである。それも、夏季に蓄電して冬季に使うなどといった長期間にわたって働かせる目的のための蓄電池が必要だ、と福本氏は自作の電池開発に乗り出す。鉛電極を希硫酸につける鉛電池の原理から始まって、大容量鉛電池の自作と実験である。ここで登場する単語が「硫酸」なのである。この電池はまだ実験段階で所期の目的にはほど遠い。
 「劉さん」と「硫酸」は福本氏の頭の中では化学反応を起こしている。しかし、その化学反応はエコ生活、節電生活、老後の生きがい、といった触媒が作用したものである。今は手を引いているみたいであるけれど、福本氏はパノラマ写真に凝った時期がある。その衣鉢を受け継いだのが筆者である。


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(沼田町町役場会議室で左から福本氏、林氏、亀谷氏)

2013年12月13日

HPFhito21・時の人のクリプトン・フューチャー・メディア社長伊藤博之氏

 合成音声でユーザの好みに合わせて歌わせことのできるボーカロイド技術から生まれたヴァーチャル歌手「初音ミク」がブレークしてから、初音ミクを生み出したクリプトン・フューチャー・メディア社の伊藤博之氏は時の人になって多忙の身である。
 伊藤氏の会社は効果音などを輸入して売ることも仕事にしていた。札幌市長が委嘱する「eシルクロード親善大使」制度を2005年に提案した時、10名ばかりの親善大使の一人として伊藤氏にも加わってもらった。その事もあり、2006年4月には伊藤氏と共に韓国・大田広域市にあるエマシス社(金豊民社長)やETRIでの講演や視察旅行を行っている。この時は、エマシス社が開発したケータイ用の3次元音源を、日本のケータイ・キャリア会社に売り込むため、伊藤氏の会社でその音源データを作るような話が進行していた。その時は「初音ミク」は未だ生まれてはいなかった。
 筆者はIT技術者向けの日本語会話のテキストを中国語、韓国語の対訳つきで作るプロジェクトも立ち上げ、日本語の読みはプロの司会者に発音してもらった。その録音と編集を伊藤氏の以前の会社のスタジオを使わせてもらい、テキストを出版したこともある。
こんな関係で伊藤氏にはお世話になっていて、勉強会「eシルクロード大学」で講師として何回か話してもらっている。そうこうして効果音、楽音や音声を商品化する過程で「初音ミク」が生まれる。これはCGM(Computer Generated Media)のコンセプトに基づいていて、メディアの受け手がメディアの作り手にもなれる技術であったこともあり、急速に世の中に受け入れられていく。札幌が発信元で全国に通用する、そして今はアジアで人気のヴァーチャル・アイドル歌手に成長してきている。アメリカやヨーロッパにも名前が知られるようになっている。
 北海道新聞文化賞に「初音ミク」を推薦して、初めてヴァーチャルな人物が実在の人物と伍して2012年の文化賞の特別賞を受賞している。その授賞式も伊藤氏は前からの約束の講演会か何かで出席できぬほどスケジュールが込んでいた。受賞式には等身大の「初音ミク」のパネルが置かれていた。
 最近、札幌駅近くの日本生命ビルの11階の1等地に会社を移転している。伊藤氏の時間の取れるところで短時間パノラマ写真撮影に出向く。社長室といってよいかどうか、狭い自分の部屋でパソコンを相手に仕事をしている。会社の机だけでは殺風景なので、前述の北海道新聞文化賞の佐藤忠良制作のブロンズ像を机の上に置いて撮影である。
 技術やサービスの革新よる企業の変化は目を見張るものがある。しかし、人の方はそんなに変われるはずもなく、相変わらずの伊藤氏がそこに立っていた。


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2013年12月12日

HPFhito20・役員室廊下での北海道新聞社専務岡田実氏

 筆者は以前に北海道新聞の夕刊コラム「魚眼図」や朝刊に掲載される「朝の食卓」の執筆者であったことがある。さらに同社出版センター(以前は出版局)から都市秘境に関する本も出版しており、北海道新聞社はご縁のある新聞社である。同社の顔見知りは新聞記者や編集者といったところで、新聞社の上層部とは仕事の上で知り合いになる機会はなかった。
 札幌市内の都心部のホテルで月1回行われる朝食会のメンバーに北海道新聞社専務の岡田実氏がおられ、講師で新聞の将来に関するお話をされたことがあった。来年(2014年)春に予定されている消費税アップで、3千円台にかろうじて留まっている購読料が、消費税をそのまま上積みすると4千円台になってしまう。この値上げの心理的効果が大きく、販売部数減少に拍車がかかるのではないか、との心配を吐露されていた。
 その岡田氏にパノラマ写真の説明するため、役員応接室に出向く機会があった。前から役員室のフロアには彫刻や絵画の美術品があると漏れ聞いていたので、それを取材するのも訪問の目的に加えて出かけた。役員室のあるフロアに入るのは今回が初めてである。
 役員室につながる廊下部分は広く彫刻が並んでいる。応接室にも佐藤忠良や安田侃の作品が置かれてある。岡田氏や各部局の責任者が並んで座っているところでパソコンやスマホを使ってパノラマ写真の説明を行う。部屋に入ってすぐにパノラマ写真の説明に入ったので、彫刻や絵の取材をする余裕は無かった。
 新聞が技術革新で抱え込んでいる課題として、紙の新聞と電子新聞の棲み分けをどのように行っていくかがある。多分紙と電子のハイブリッド新聞が現れてきて、パノラマ写真などもそれを補強する技術の一つではなかろうか、等の説明を行った。説明のついでに筆者の人間三脚方式のパノラマ写真撮影の実演を行う。
 帰りがけに役員室がつながるフロアで岡田氏を入れたパノラマ写真を撮る。筆者の話を聞いてもらった小野秀司氏、佐藤淳治氏、山本潤氏らもパノラマ写真に写っている。今回はパノラマ写真に関する話で精一杯で、フロアに並んでいた彫刻や絵画の取材は出来ず仕舞いであった。次の機会があれば、これらの作品に近寄ってパノラマ写真撮影を行ってみたいものだと思った。


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(役員室前廊下での岡田実氏)

2013年12月10日

HPFhito19・炭の家を熱く語った札幌商工会議所特別顧問青木雅典氏

 青木雅典氏にはお世話になっている。日の目を見なかった「風景社印プロジェクト」を企画したことがあった。「風景印でめぐる札幌の秘境」(北海道新聞社、2009)を出版して、郵便局で捺印してもらう「風景印」の企業版を思いついた。企業に風景印に対応したものを新しく制作してもらい、その絵柄について都市秘境をからめて取材し、本の出版を考えた。
 このプロジェクトの参加募集に札幌商工会議所の機関誌「さっぽろ経済」に1ページの広告を載せたことがある。当時同会議所の副会頭であった青木氏に会議所の応接室でお会いして、この訳のわかり難いプロジェクトを説明したことを覚えている。青木氏の鶴の一声で広告は載せてもらえることになり、前書の宣伝も行っている。結局参加企業も少なく、このプロジェクトは頓挫した。現在、青木氏は長年の札幌商工会議所副会頭を退き、特別顧問になっておられる。
 青木氏の本業は「㈱ホーム企画センター」の社長で、筆者が講師役を務めている道新文化センターの講座「身近な都市秘境を歩いてみよう」の受講生と同社を見学したことがある。青木氏は北海道日中友好協会会長やニュージーランド名誉領事を務められ、社内にある名誉領事室で受講生と一緒に名誉領事としてお話を伺った。
 社業の「炭の家」という、始めは馴染みのない言葉の家造りについても説明していただいた。炭の持つ空気洗浄効果を生かして、屋根裏、床下、壁の内側に1トンもの炭を埋め込むことで、室内を空気汚染から護ろうとするコンセプトの家造りで業績を伸ばして来た。実際にビンに炭を入れ、作りだした臭気が消えていく実験も見せてもらった。
 中央で活躍する経済人やオピニオンリーダを招いての定期的な講演会の懇親会に出席していて、青木氏と顔を会わせる。商工会議所副会頭の時、革新系の上田文雄札幌市長と札幌経済界や自民党との交通整理を行ってきた話などが出る。丁度よい機会なので、懇親会場で青木氏のパノラマ写真を撮る。この時の講演会の講師は経済評論家の三橋貴明氏でテーマは「アベノミクスへの直言!三本の矢の真実」であった。


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(講演会懇親会での青木雅典氏)

2013年12月04日

HPFhito18・「北海道シマフクロウの会」設立総会での山本純郎氏

 シマフクロウは時々耳にしていたけれど、アイヌの神様にされている鳥で、山の奥にでもいるのだろう、程度の認識しかなかった。それがちょっとしたきっかけで「北海道シマフクロウの会」に加わることになって、この鳥が絶滅危惧種IAの、北海道だけに棲息する貴重な鳥であることを知った。
 前記の会は、北洋銀行会長の横内龍三氏がシマフクロウの保護の為に2013年9月に立ち上げたもので、会の会長は横内氏、副会長に村田正敏北海道新聞社社長、同じく横山清アークス社長が名前を連ねている。
 会費を払っている会員に設立総会の案内が来て出かけてみる。会場には経済人が多く、顔見知りの大西雅之阿寒グランドホテル社長の隣に座る。役員名簿を見ると、氏はこの会の理事の一人である。
 会の様子のパノラマ写真を撮っておくと後で何かの役に立つかと、会議の邪魔にならないように一番後の席のところで目立たないように身体を回転させながら撮影である。横の方に座っている人は会員なのだろうと思っていた。
 事務的な議題が終わり講演会となる。講師として、根室市でシマフクロウの保護と研究を行っている山本純郎氏が登壇する。どこかで見た顔だなと思って、先ほどパノラマ写真を撮った横にいた口ひげの眼鏡をかけた方であると気づく。偶然に講師がパノラマ写真に写っていた。
 山本氏は京都府宮津市生まれで、大阪でシマフクロウと出会ってからシマフクロウに入れ込み、この鳥のため1982年に根室市に移り住むまでになった。一時期は30個体を割るまでに激減していたシマフクロウは、氏の保護活動や環境省、農林水産省の保護増殖事業で140個体程に回復してきている。
 山本氏はシマフクロウの人工孵化にも成功している。怪我をしたシマフクロウを氏の家族全員で世話をした例も紹介されていた。シマフクロウが怪我や事故死に至るのは、自動車や電線によるものであるのを聞くと、人間の生活の利便性追及がシマフクロウの生存に脅威となっているのに気づかされる。
 山本氏と言葉を交わすことはなかったけれど、シマフクロウの保護や研究は大変であると同時にやり甲斐のある仕事である事が、講演から十分理解できた。


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2013年12月01日

HPFhito17・オンファロス寄贈除幕式の服部裕之氏

 札幌のIT産業史にサクセス・ストリーを刻んだ「ビー・ユー・ジー」社が札幌テクノパークに社屋を新築したのが1988年である。社長として同社を牽引したのが服部裕之氏で、30歳を超えてそこそこであった。
 この社屋に彫刻家イサム・ノグチ作の「オンファロス(omphalos)」の蹲(つくばい)が置かれ、常時水が流れていた。ここに世界的巨匠の作品があることに関しては一つの物語がある。服部氏は、社屋新築に関わった設計会社のパーティで知り合ったイサム・ノグチ氏と札幌市の間を仲介し、これが札幌市東区のごみ処分場利用したイサム・ノグチ設計のモエレ沼公園の誕生につながった。その過程で、巨匠が服部氏に蹲を贈り、これを新社屋の中心に設置した。
元々オンファロスとはアポロの神殿にある世界の中心を表す象徴的なモニュメントである。そこから採られた作品名は、札幌が情報産業で日本の中心、否世界の中心になる願いが込められている。テクノパークの開発やそこに地元IT企業が集積していったこの時期、札幌は全国から情報産業勃興の地として注目を集め、オンファロスの名前を名実ともに具現化する勢いがあった。
筆者は当時北海道新聞のコラム「魚眼図」の執筆陣に加わっており、1989年1月21日の夕刊に「オンファロス」と題した一文を寄稿している。この原稿は後に出版した「魚眼で覗いた微電脳(マイクロコンピュータ)世界」(共同文化社、1999年)にも採録している。
 イサム・ノグチ氏は1988年12月30日ニューヨークの病院で亡くなっており、基本設計を行ったモエレ沼公園の完成を目にすることはなかった。その後バブル崩壊やベンチャー企業育成を支援してきた北海道拓殖銀行の破綻で、札幌のIT企業は困難な道を歩むことになる。ビー・ユー・ジーも2013年には「ビー・ユー・ジー森精機」と社名が変わり、本州資本の子会社に変わった。創業した服部氏らは別の会社を興し、元の会社の経営からは退いた。
 服部氏所有だったオンファロスがモエレ沼公園の中核施設の「ガラスのピラのミッド」に寄贈されるとの新聞記事を目にして、寄贈序幕式に出かけてパノラマ写真を撮った。除幕前の撮影であったため、オンファロスには白布がかけられていた。蹲が置かれた場所は丁度ガラス張りのピラミッドの頂点の真下だそうである。オンファロスは名前の通り場所を得て収まった感じである。
 パノラマ写真に座って写っているのは桂信雄前札幌市長で、服部氏がイサム・ノグチと札幌市の仲介を行った時に市長であった。桂氏は札幌の情報産業育成に理解を示され、サッポロバレーと称された札幌情報産業の展開に対応した行政側の布陣を敷かれた。
 準備中の司会者として写っているのは林美香子氏で、北大農学部卒業後、札幌テレビ放送のアナウンサー・キャスターからフリーランスとして活動、2012年からは北大農学研究院の客員教授として就任されている。


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2013年11月30日

HPFhito16・道立アイヌ民族文化研究センターの本田優子先生

 札幌大学副学長の本田優子先生に初めてお会いしたのは2013年9月の「北海道シマフクロウの会」の設立総会である。絶滅危惧種に指定されたシマフクロウが熊と並んでアイヌの重要な神様であることから、アイヌ文化研究者の本田先生もこの会に名前を連ねていた。
 本田先生は阿寒観光ブランド協議会と連携してシマフクロウの羽をデザインしたペンダントの商品化を進めているらしく、前記設立総会で会長の横内龍三氏ら発起人の方々に銀製の試作品を贈呈した。これを横目で眺めていて、自分の北海道功労賞受賞記念にシマフクロウの羽のタイピンを新しく作ってもらう事を考えた。
 本田先生と連絡を取り、先生に上記の件でお会いしたのは北大植物園の近くにある、道立アイヌ民族文化研究センターである。ここにこんな施設があるのを初めて知った。先生は阿寒町に出向くついでに、筆者の希望を阿寒町在住の作家に伝え、まとまった数の銀製のシマフクロウの羽のタイピンが後日出来上がってきた。
 この記念品制作のご縁で、先生には11月に筆者の勉強会「eシルクロード大学」でも講師をお願いした。アイヌ民族や文化について知らなかったことを分かり易く説明していただき、他の聴講者にも興味の湧くお話だった。学生相手に場数を踏んでいるだけあって、興味をそそる話をする方だとの印象である。
 勉強会で先生の来歴も紹介され、金沢出身の「和人」で、北大の日本史専攻課程を卒業後二風谷に移住し、故萱野茂二風谷アイヌ文化資料館長の助手を11年間続けながらアイヌ文化の研究を行った経歴の持ち主である。この間、「萱野茂のアイヌ語辞典」の編纂などを手がけておられる。
 現在は札幌大学に勤務され、アイヌ文化(語)保存や市民に対する啓蒙活動、アイヌ民族の学生支援等を目的にしたウレシパ(育て合う)プロジェクトを立ち上げ、学生たちと活動を続けて来ている。これら一連の活動が企業の社会貢献と結びついて注目され出してきている。その成果として、来年はJR札幌駅の西コンコースにアイヌ文化を表すオブジェも置かれる事を耳にした。JRの車内誌にも先生担当のコラム「ソンコdeソンコ」が連載されている。
 注文した銀製品が届いた時、受け取りに前記研究センターに取りに行ったついでに、先生が自分の机のところでお仕事をしているところをパノラマ写真に撮ってみた。突然の撮影申し込みで驚いた様子だったけれど、机の上を少し片付けてこちらに笑顔を向けてくれた。


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2013年11月28日

HPFhito15・祝賀会で挨拶する北洋銀行会長横内龍三氏

 北洋銀行会長の横内龍三氏には都市秘境をテーマにした著作の共著者になってもらったことがある。横内氏が副頭取で北洋銀行に迎えられて間もない頃に「札幌秘境100選」(マップショップ、2006年10月)を出版した。この都市秘境本に「札幌市資料館女神テミスの顔面レリーフ」というテーマで執筆されている。
 現在は札幌市資料館になっているかつての「札幌控訴院」の玄関上部にある、法と正義を司るギリシャ神話の女神テミスが、目隠しの顔になっている由来を解説されている。日本銀行から弁護士に転じた氏の、法曹界に関連した都市秘境発見記である。
 今は無き旧北海道拓殖銀行本店が北洋銀行大通支店になっていたこともあり、横内氏の案内で同行内を写真撮影し、その探訪記を前掲書に書いた筆者の原稿もある。この時地下の大金庫室も取材している。当時現役で利用されていた大金庫の扉は、旧拓銀ビルが取り壊され、北洋銀行の本部の建物として新築された時、地階の歩行者通路「チカホ」と接した場所に展示された。
 横内氏は都市秘境本シリーズの2巻目の「小樽・石狩秘境100選」(共同文化社、2007年11月)でも共同執筆者のお一人として加わってもらった。執筆テーマは「金融資料館(旧日銀小樽支店)のシマフクロウのレリーフ」である。同資料館の外壁と内壁に30体あるシマフクロウの彫刻について解説されている。
後年、同行頭取を経て会長職についてから、2013年に「北海道シマフクロウの会」を立ち上げ、絶滅危惧種のアイヌ民族の神の鳥の保護を資金的側面から支援する運動を開始されている。JR北海道の車内誌(2013年11月)にも「シマフクロウたちの森」の特集記事が載っており、同会と横内氏が紹介されている。
 都市秘境本での協力を得た関係もあり、高橋はるみ北海道知事より平成25(2013)年度の北海道功労賞を贈呈された時、贈呈式で受賞者の紹介をする挨拶を行っていただいた。さらに後日、有志による受賞祝賀会でも、冒頭でご挨拶をいただいた。その挨拶時にパノラマ写真撮影である。
 パノラマ写真には受賞記念本の原稿執筆者の札幌市教育委員会教育長の町田隆敏氏や開会での乾杯の音頭を取られた功労賞受賞者の小樽の光合金製作所の井上一郎会長、中締めの乾杯者の前北海道文化放送(UHB)社長新蔵博雅氏も写って居られる。
新蔵氏はスピーチで、くるくる回りながら写真を撮る筆者を、赤塚不二夫のギャク漫画「天才バカボン」に登場する「カメラ小僧」であると絵のコピーを示して話された。爪句作家としての筆者の俳号「曲直」は、本名「由直」に幾何問題を解く際の補助線1本が加わっており、これが筆者の理解の助けになる、という話と合わせて、新聞記者のセンスで上手い喩えを持ち出すものだと感心した。
 司会は札幌人図鑑の福津京子さんで、横内氏の取材について会場で横内さんに仲介した。横内氏も近い将来福津さんのインタビューを受け、札幌人図鑑に登場することになるのだろう。


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2013年11月24日

HPFhito14・教育長室の町田隆敏札幌市教育長

 人は生きるための糧を得るため職業人となる。職業人は社会人と言い換えてもよい。職業人あるいは社会人は他人に自分の仕事を話す時、関わっている具体的対象を主に語るか、組織等における役職を前面に出してくるかに大別できそうである。
 研究者は何を研究しているか、営業マンなら何を扱っているのかがポイントで、研究者とか営業マンとかだけ言われても雲をつかむような話である。何々のプロと表現される人は、その何々についての知識とそれを基にした創造性や実行力があると他からは期待される。
 これに対して組織の長とか経営者は、その立場が先に来て、その組織や会社の内容が後追いでも、その人の立場は理解できる。一般論で、役所では若い時には専門性が要求され、組織の上の方に行くと組織を維持する方に力点が置かれて人が当てはめられる。当てはめられた人はその役どころをこなしていく。
 町田隆敏氏は長いこと札幌市の経済産業分野で仕事をされて来られたので、その方面での人脈がある。特に札幌市が1970年代に地元の情報産業育成に乗り出した頃、市と産業界や大学との接点となる場におられ、経済産業畑の役人のイメージを強く引きずっている。
 筆者が北海道のIT産業の育成に功があったとして、2013年度の北海道功労賞を高橋はるみ北海道知事より贈呈された。その記念誌発行に当たって、筆者のことを紹介する執筆陣のお一人として町田氏に加わってもらった。執筆内容についての打ち合わせで伺った時は、町田氏は札幌市の教育行政のトップに居られた。正直なところ、経済・産業と教育行政がスムーズにつながらない。しかし、組織の長という点では違和感がなかった。
 市の教育行政は教育委員長をトップにした教育委員会があり、それを支えて教育行政組織が存在し、その長が教育長となる。教育委員長と教育長の役割分担など、一般市民にはよくわからない。教育委員会は市庁舎のどこかにあるのだろうと漠然と思っていると、民間の企業の名前がつき、多分その企業が所有するビルの中にあって、意外な感じである。
 札幌市教育委員会の目立つ看板もないビル内で町田教育長とお会いする。長年にわたっての顔見知りで、やはり教育よりは経済・産業の顔を見てしまう。多分近年の教育における問題への対応に頭を使われているのだろうけれど、筆者の方は情報技術に関連した研究者と教育者の顔で話をする。
 筆者の紹介は過去の業績ではなく、退職後始めた「爪句」やパノラマ写真に関連して、生涯学習の観点から紹介してみたい、との町田氏のお話である。教育行政の目配りは生涯教育にも注がれているのかと、人=f(立場)(人の評価の関数値は立場という変数によって決まる)という方程式が頭に浮かぶ。
 教育長室を見るのは初めてなので、執務状況が伝わるようなパノラマ写真を撮る。でも、考えてみると、筆者も今やパノラマ写真家を自称していることもあって、死ぬまで何かの対象一筋の研究を続けるという筋金入りの研究者でもなく、昔の筆者を知っている人は現在の筆者を見て違和感を覚えるかもしれない。


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2013年11月21日

HPFhito13・副市長室の秋元克広札幌副市長

 札幌市や他都市の行政組織では、職員が係長といった役職に留まることは比較的長く続くようで、部署名が変わっても役職の方はそのままというのを多く見かける。これが室長とか局長とかになった人は役職がどんどん変わってくるようで、顔は以前のままでも差し出された名刺で、役所内での立場が大きく変わっているのに気づく。
 秋元克広札幌副市長もそのような一人で、何かの席で急に副市長で現れた感じである。若い時市の経済産業に関わる仕事をされていて、札幌市の情報産業育成に関連してお会いしたような記憶があるけれど、はっきりしたものではない。
 秋元氏が副市長になられてから予期もしていなかった場所でお会いした。夕張市のシューパロダムの建設工事現場である。ダム工事現場が一般に公開された見学会で、秋元副市長は夕張市出身の縁で見学会に参加していた。見学会には夕張市長も来られていて、市は異なるけれど市長、副市長に並んでもらってパノラマ写真を撮る。
 この時の秋元副市長との雑談で、上田文雄札幌市長のパノラマ写真を市長室で撮りたいと打診してみた。副市長は素早く対応してくれて、上田市長のパノラマ撮影が実現した。この撮影日に秋元副市長室にも案内され、この機会を利用して副市長の執務している様子をパノラマ写真に収めた。
 副市長室も市長室より狭いもののスペースのある部屋である。市庁舎10階の南向きなので大通公園を見下ろすことができ、眺めが良い。秋元副市長の統括する局等には経済局や観光文化局が含まれ、あるいはこれからもその分野の何かの会で顔を合わせることになるかも知れないと、頭の隅で予測した。
(札幌市庁舎副市長室、2013・7・31)


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2013年11月19日

HPFhito12・市長室で執務中の上田文雄札幌市長

 「札幌人図鑑」というインタビュー動画サイトがある。札幌人の福津京子さんが組織に頼らず、個人の才覚でプロジェクトを推進している。それも毎日欠かさず、30分もののインタビューを取材から編集まで行ってYouTubeに投稿している。札幌で活躍している人を見つけてきては、その人を際立たせる話をさせている。上田文雄札幌市長も登場している。
 この手法は、ブログとパノラマ写真にのめり込んでいる筆者にとって、示唆に富むものである。インタビュー形式とか毎日といった力仕事にはついていけないけれど、何かこれに類したことができそうである。丁度「パノラマ写真風土記」の構想を暖めていたことあって、その「人」編を考えてみた。
パノラマ写真を撮ろうと思っている人や、たまたま撮影の機会が得られた人について、人となりや写真を採った状況をメモ的に記述する。調べてその人に迫るのは止め、記述はメモ程度に収める。毎日では途中で苦しくなるのは目に見えているので、1ヶ月に10人程度を考える。それでも1年経てば撮影者は100人を超える。
 この企画は頭の隅にあって、これまでも少しは取材をしていて、ブログにも載せておいた。ブログに「パノラマ風土記」のサイトを整備したのを機に、本腰を入れて企画を前進させようとしている。

 札幌市長上田氏は時々何かの機会の機会にお会いするけれど、パノラマ写真を撮る状況ではない。前述の「札幌人図鑑」に上田市長が出演しているのを見て、撮影の機会を狙うのではなく、市長室まで出向いてパノラマ写真を撮らせてもらえばよいのか、と思いついた。しかし、市長秘書室に直接申し込んでも断られる可能性の方が大きい。そこで知り合いの副市長秋元克広氏に頼んで撮影が可能となった。
 上田市長は弁護士から市長になった。桂信雄前札幌市長退任後の最初の選挙では候補者が乱立で、全候補者の得票率が25%を下回り、異例の再選挙となり、上田氏が当選している。現在は3期目に当たる。革新的政策を打ち出して、野党自民党や経済界とせめぎ合いをしている報道を目にする。
 市長室で執務中の様子の写真撮影ということで、机のところに座った写真など何枚か撮ってみる。その中で、立ち上がって近づいて来る写真を採用してみた。この時の写真撮影で上田市長とどんな雑談を交わしたか覚えていない。ただ、エベレストを目指している、という話だけが記憶に残っている。運動不足解消のため、地階の駐車場から10階の市長室まで階段を登るようにしており、その累積距離でエベレスト登山に挑んでいる、とのことである。
 「札幌人図鑑」のインタビューでは冒頭テーマソングを歌う(歌わせられる)ルールがあるけれど、歌うのが趣味の市長は難なくこなしていた。中国でのレセプションと記憶しているが、宴席で市長自らの歌の披露があったのも記憶に残っている。
(2013年7月31日撮影)


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2013年10月23日

HPF11・札幌時計台ギャラリー主・荒巻義雄氏

 今年(2013年)の札幌市の芸術賞に荒巻義雄氏ら3名が選ばれた記事が新聞に出ている(北海道新聞・2013・10・22)。荒巻氏は「艦隊シリーズ」等のSF作家として知られ、札幌時計台ギャラリーのオーナーでもある。美術品のコレクターで、多くの蒐集品を芸術の森の美術館に寄贈している。
 このギャラリーでは時たまスケッチ展や写真展を開いていて、荒巻氏とは顔見知りである。ギャラリーの事務所で、SFの構想の下準備なのか、科学技術に関する氏の薀蓄を聞かされたこともある。事務所には奥様や娘さんが詰めていて、ギャラリーの仕事をされている。
 2013年の7月22日~27日、同ギャラリーで「北海道の駅パノラマ写真展」のグループ展を開催した。その写真展に顔を出した荒巻氏のパノラマ写真を撮った。氏の近くで椅子を勧めているのは、共同出展者の林克弘氏である。受付のところに座ってビールを飲んでいるのは、同じく共同出展者の福本義隆氏である。
 この写真展では「爪句@北海道の駅-道南編1」(青木曲直・共同文化社・2013)の豆本爪句集を販売し、100冊以上売れた。これは福本氏のセールスマンの才能が生かされた結果である。


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2013年10月22日

HPF10・道功労賞贈呈式の高橋はるみ北海道知事

 平成25(2013)年度の北海道功労賞を贈呈されることになった。表彰名目は「IT産業の振興」である。10月16日、ホテル札幌ガーデンパレスで贈呈式が行われ、高橋はるみ知事より大きな額に入った表彰状が手渡された。他の受賞者は「鉄鋼産業の振興」で鈴木俊幸氏、「北海道農業の振興」で矢野征男氏である。
表彰状には「あなたは永年にわたりIT産業の育成に尽力され北海道を日本のIT産業の一大拠点とする源流を作るとともに大学と企業を結ぶ人的技術的交流の活発な活動などにより本道のIT産業の振興に多大の貢献をされました」と記されている。
 祝辞は北洋銀行会長の横内龍三氏より頂いた。受賞者の短い挨拶の際に「高橋知事は北海道経済産業局長時代に『ITとバイオの両輪』で北海道産業牽引構想を提唱しておられました。知事となられてから、私がプログラム委員長となり、札幌学院大学で開かれた全国規模の情報技術に関する学会で特別講演をしていただきました。ここで改めて知事に感謝いたします。」と知事にお礼を述べた。
 贈呈式に続く記念撮影の合間に知事にパノラマ写真撮影をお願いする。知事はパノラマ写真がどのようなものであるか知らなかったので、撮影中に移動して二人の知事になって写っている。一方を消すこともできるのだが、同じ空間に同人物が写っているのも面白いと、あえて消さないで記録した。


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2013年07月31日

HPF8・森ヒロコ・スタシス美術館長・長谷川洋行氏

 昔の質屋の石蔵を再利用した美術館が小樽市緑町にある。森ヒロコ・スタシス美術館で、この質屋の娘だった森ヒロコさんの銅版画とポーランドの画家スタシスの作品が展示されている。館長は長谷川洋行氏である。
 長谷川氏はスタシスを始めとして東欧の芸術を日本に紹介する過程で、スロバキア国立オペラ座と出会い、大衆娯楽としてのオペラを日本に紹介する活動に入った。1999年に同オペラ座の歌手達を日本に招待しての初めての公演を行っている。
 その後も低価格のチケット販売で、経費を節約した同オペラ座の日本公演を続けており、2013年の札幌公演がちえりあホールで行われた。演目はオペレッタ「メリー・ウィドウ」で日本スロバキア外交関係樹立20周年記念公演でもあった。
 オペラが始まる前にちえりあホールの舞台に立ってもらい、長谷川氏のパノラマ撮影を行う。この後開場で、観客を前に長谷川氏が最初の挨拶と演目の紹介を行った。駐日スロバキアの大使も来賓として挨拶していた。公演の準備や大使の接待で長谷川氏は忙しそうで、和服姿の森ヒロコさんが会場で内助の功を発揮しておられた。(ちえりあホール、2013.7.6)


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2013年07月30日

HPF7・イルミナージュ代表取締役・金井英明氏

 伊藤組100年記念基金という広範囲の各種活動に助成を行う基金がある。この基金の評議員同士ということで金井氏と面識を得て、勉強会「eシルクロード大学」の講師をお願いしたことがある。その事前のお願いで金井氏が経営している(有)イルミナージュでパノラマ写真撮影である。
 金井氏はデザイナーとして活動を開始しており、豊平川に架かるミュンヘン大橋の基本デザインや同橋バルコニーのレリーフのデザイン、市立札幌病院のステンドグラス壁画のデザイン等を手がけている。現在は画家として描いた絵を展示・販売するイルミナージュという会社の経営者でもある。
デザイナーや画家とは別に、多方面で活動をして来られた。プロサッカーチーム(Jリーグ)コンサドーレ札幌の設立時に、このチームの運営会社の北海道フットボールクラブ社長を務めた経歴の持ち主であると聞くと、意外である。
 イルミナージュのオフィス内には金井氏のアクリル画やカードが並んでいる。そのなかには金井氏の原画による、郵政省発行の有珠山噴火災害寄付金付き切手や北海道ふるさと切手も展示されている。(イルミナージュ、2013・6・17)


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2013年07月29日

HPF6・札幌花フェスタでの赤岩園芸園主・続木忠治氏

 小樽で赤岩園芸を経営してる続木忠治氏は1983年に日本で最初にヒマラヤの青いケシを開花させている。メコノプシス属のブルー・ポピーはヒマラヤの3000~4000 mに分布する花で、イギリスのエジンバラ王立植物園で開花させることに成功している。続木氏は同植物園と連携して、この珍しい魅力的な花を日本に広める先駆者となった。
 「小樽・石狩秘境100選」(青木由直編著、共同文化社、2007)に取り上げるため、小樽赤岩の北山中学校の横にある同園を訪れたことがある。ヒマラヤの青いケシが数株開花しているのを写真に撮った。同園には約千坪の土地に三千種近くの花があると聞かされた。
 続木氏は「ヒマラヤの青いケシとその仲間たち」(続木忠治、文一総合出版、2008)を上梓している。メコノプシスの花たちの写真集である。写真でもやはり青いケシが目を惹き付ける。
 大通公園を会場にして札幌花フェスタが行われ、毎年赤岩園芸の店が出る。ヒマラヤの青いケシは店頭には並ばないけれど、前述の本が代わりに並んでいたりする。テントの店先で来客に応対する合間に続木氏のパノラマ写真を撮る。(札幌大通公園花フェスタ会場、2013・6・26)


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2013年07月28日

HPF5・イルピーノ経営者・川端枝美さん

 「江別・北広島秘境100選」(青木由直編著、共同文化社、2008)を出版した時、共著者の一人としてイタリア料理店イルピーノの経営者の川端枝美さんに加わってもらったことがある。川端さんは地元(北海道)の食材をイタリア料理に取り入れようと道産小麦を探し、江別産小麦を見出して自信のパスタに漕ぎ着けた話の原稿を寄せてくれた。
 川端さんの店は時計台ギャラリーのあるビルの隣ビルの地下にある。同ギャラリーで「北海道の駅パノラマ写真展」を行い、最終日の打ち上げ夕食会はこの店に関係者が集まりイタリア料理を楽しんだ。
 夕食会の2日前に予約で訪れた時、川端さんに店内に立ってもらいパノラマ写真を撮る。店は2002年に開店ということで、店の年齢は10代に入っている。川端さんは語学の勉強でイタリアに留学し、イタリア料理を学んで帰国した。試行錯誤のレストラン経営が軌道に乗り、札幌で名の通った店にすることに成功している。(イルピーノ店内、2013・7・25)


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2013年07月22日

HPF4・北海道文化放送社長・新蔵博雅氏

 「爪句@札幌街角世界旅行」(青木曲直編著、共同文化社、2012年7月)を出版したことがある。札幌の市内で海外旅行をしている気分に浸れるような場所の写真を撮り、爪句を添えてもらう原稿を募集した。新蔵博雅氏にも原稿を依頼したのだが、忙しいようでなかなか原稿が出てこない。そこで北24条地下鉄駅近くのロシア料理のレストランにご一緒して、取材ということになった。
 新蔵氏はそのレストランの経営者のロシア人女性とロシア語で会話したのには驚いた。新蔵氏は早稲田大学第一文学部ロシア文化科を卒業なので、ロシア語を話しても不思議ではないのだけれど、学歴を知らないと意外な側面を見せられたように感じてしまう。北海道新聞社に入社して、同社専務から北海道文化放送(UHB)の社長に迎えられた。
 新蔵氏には何かのパーティを企画した時には来賓の挨拶を頼んだりしていた。「初音ミク」の北海道新聞文化賞の受賞祝賀会でも祝辞のご挨拶をいただいた。その時司会をしていた福津京子さんは顔見知りであったとは、予想もしなかった。福津さんはUHBテレビの不定期コメンテーターで出演しているので、新蔵氏と面識があってもおかしくない。新蔵氏は福津さんの「札幌人図鑑」を高く評価しており、札幌人図鑑の第一ステージの最終回に当る365回目のゲストは新蔵氏であった。(北海道文化放送社長室、2013・6・19)


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2013年07月20日

HPF3・無名会主宰人・石黒直文氏

 無名会というホテルで朝食を撮りながらの勉強会がある。主宰しているのは旧北海道拓殖銀行専務だった石黒直文氏である。石黒氏の経歴から講師に招かれるのは主に経済畑のキーパーソンである。会のメンバーはビジネス、金融、マスコミ、大学等の関係者である。いわば石黒塾のようなものである。
 石黒氏は「私設北海道開拓使の会」を1994年に立ち上げ、その理事長を務めてこられ、来年は設立20年目を迎える。こちらの会の目的は、本州から北海道への移住者を増やし、移住して来た人の親睦を図るものである。本州に住む人に北海道への移住を勧めるからには、勧める方が北海道大好き人間でなければならない。石黒氏はまさに北海道大好き人間である。
 石黒氏の人的ネットワークは広く、無名会の講師には北海道を牽引してゆく企業のトップなどが顔を見せる。月1回の例会はグランドホテルの一室が会場と決まっている。北海道中小企業家同友会代表理事の守和彦氏の講演が終わった時に守氏と一緒に石黒氏のパノラマ写真を撮らせてもらう(右が石黒氏、左は守氏)。守氏は「ダテハキ」の会長でもあり、会社名は伊達(市)で履物(下駄)を作っていたことに由来する。(札幌グランドホテル、2013・6・17)


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2013年07月19日

HPF2・札幌人図鑑主宰人・福津京子さん

 “初音ミク”は今や札幌を代表する人物の筆頭グループに入るだろう。2012年の北海道新聞文化賞の特別賞を受賞している。その受賞祝いのパーティに、ちょっとしたご縁で司会をお願いしたのが福津京子さんである。主に札幌の特色ある人物と対談して、「札幌人図鑑」というインタービュー・コンテンツをYou-tubeに毎日投稿している。2012年の5月から始めて一日も休まず、2013年の4月30日に365回分を世に送り出している。ファーストステージ終了後1ヶ月の休みを取って、現在はセカンドステージである。そのバイタリティには驚かされる。このインタービューにヒントを得て、北海道パノラマ写真風土記の人物編を考えてみた。福津さんのオフィスは個人や小規模ベンチャー企業が入居するオフィススペース「ドリノキ」にあり、「札幌人図鑑」に出演を依頼された時、訪ねたついでにパノラマ写真を撮ってみた。(ドリノキ、2012・11・30)


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2013年07月18日

弥永北海道博物館長・弥永芳子さん

 道新文化センターの「身近な都市秘境を歩いてみよう」の講座で、受講生と弥永北海道博物館を訪れた。館内を説明してくれたのは、この博物を創設した弥永芳子さんで、お歳94歳とはとても思えず、研究資料として集められた博物館の展示品の数々をよどみなく説明されていた。同博物館は1985年に開館で、収蔵品は9万点もある。若い頃道内の鉱山や山を歩いて砂金や砂白金の産地を調べ上げて著書を上梓している。現在も執筆活動を続けておられる。(同博物館内、2013・6)


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