2008年05月31日

薄緑 古き学舎を 引き立てて

 新緑の頃の構内で、写真の対象として最も人気のある景観は、芝生や樹木の緑が木造の建物を引き立てている中央ローン一帯ではなかろうか。現在「交流プラザ」の看板の出ている平屋の建物は、かつての昆虫及養蚕教室で、緑に囲まれた白壁と格子窓の建物は、往時の雰囲気を醸し出している。この建物を二階建てにしたような古川講堂は、マンサード屋根に特徴があり、中央の屋根の赤く塗られて部分が、周囲の緑の中でアクセントとなっている。写真の被写体として絵になる景観である。

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洋式は 緑加わり 絵の景観

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2008年05月30日

篠津の産業史跡

 篠津村の開拓記念碑には、篠津の屯田事業が1881年(明治14年)に青森・岩手・山形の東北三県からの屯田兵により始まったと記されている。篠津太と呼ばれた石狩川沿いの地区には開拓使勧業課が養蚕室及び付属施設を設けて、北海道に養蚕業を興そうとした試験地があった。

 屯田兵は氏族を対象にして募集されていたが、養蚕に関しては経験のある農民を募集して篠津で養蚕試験事業に携わらせた。桑の育成が北海道の気候に合わないことや労働集約産業で人手を確保できないことなどから、結局養蚕業は北海道の産業とはならなかった。

 江別太の試験養蚕室の史跡が篠津旧道路脇に立っていて、辺り一帯は畑地である。篠津は早くから屯田事業が始まったけれど、村落が大きくなり町や市としての市街地が形成されることはなかった。養蚕室史跡の近くには馬頭観音像もあって、いかにも開拓の地の史跡という雰囲気である。

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 篠津は1920年(大正9年)に石狩大橋が架けられたことにより、1927年(昭和2年)に開業して当別の農産物や木材を江別に運ぶための江当軌道が敷設されている。その史跡の標識が、石狩大橋を越えて篠津側の道道139号線沿いに目立たないように立っている。

 この軌道は石狩大橋で石狩川を越えることができたけれど、当別川を越えることが出来なかったため、当別と江別を結んで物資や人を輸送するには難点があり、国鉄札沼線の開通により利用者が減少して1936年(昭和11年)には廃止されている。わずか10年の歳月でこの11.2kmの線路は消滅してしまった。

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 この軌道史跡の標識の傍に現代の農業に関わる事業「国営かんがい排水事業」の展示があるのが目に留まった。公園風のスペースに用水路の流れで水車が回っていた。これは農業水産省直轄事業で、江別市、当別町、月形町、新篠津村を事業地域として1985年から2006年にわたり600億円の巨費を投じて完成したものである。江別と当別を結ぶ軌道の史跡を見つけるのも困難な場所に、新しい水車のモニュメントが回っているのが印象的であった。 

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2008年05月29日

都市秘境巡りー円山

 都市の秘境巡りの講座全10回のところ6回目になり、円山の頂上まで登ってきました。円山は登山口に大師堂があり、四国の八十八ヶ所にならって観音地蔵が登山道に置かれています。その1番目の写真です。江別の有志が奉納した八十八番目の観音地蔵の写真はこちらまで。

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 226mの山頂までゆっくり歩いて30分ぐらいです。山頂には「山神」碑があり、これも秘境のテーマの一つです。講座参加者と山頂で記念撮影です。日頃の運動不足ではこの遊歩道の山道もきついかも知れません。

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 よく晴れた日で、札幌と近郊が一望のもとに眺めることができました。前日まで雨模様の風が強い日であったのに、登山日は快晴になるとはお地蔵さんのご加護です。

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 円山を下りて北海道神宮境内の各社と島義勇の史跡などを巡りました。講師としてにわか勉強で判官島義男と説明していましたが、受講生から「義勇(よしたけ)」であると指摘されました。「勇」の字から「マ」を抜かして「男」にして覚えていました。これぞマ抜けです。受講生の方が札幌の地理も歴史も良く知っていたりして、講師役の当方が教えられることがあります。島判官はコタンベツ(現在の円山)から札幌の地を眺めて、道都の構想を練ったとされています。


2008年05月28日

田園地帯のラジオ送信所

 江別市の田園地帯にはラジオ放送の送信所が点在する。出力は50~500kWの大出力であり、平野部で見通しが良く、人家の密集しないところでかつアクセスの容易なところとして江別の田園地帯が選ばれているのであろう。遠くからも視界に入ってくるこれらの送信所の高いアンテナを秘境のテーマに加えて、近づいて見ることにする。

 STV(札幌テレビ放送)の送信所は江別の角山地区にあり、国道275号線から西1号線に分かれて進むと到達する。住所としては江別市角山264である。畑に囲まれて高いアンテナの鉄塔がワイヤーで支持されていて、アンテナの傍に施設の建屋がある。STVのJOWFのコールサインが建屋の壁に見える。50kWの出力で北海道道央一円をカバーしている。

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 HBC(北海道放送)の送信所は道道139号線の石狩大橋で石狩川を渡り、篠津旧道路沿いに石狩川の下流方向に向かうと道路沿いにある。住所は篠津846-1である。コールサインはJOHR、出力50kWで、この送信所も道央全域をカバーしている。

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 NHK札幌放送局の送信所は第一と第二の二つが江別太563と579のお互い近いところにある。ここは国道337号線からわき道に入っていくと辿り着く。いずれの送信所も平地に高い鉄塔があり、遠くから確認できるので、その方向に車を走らせると近づくことができる。

 NHK第一はコールサインはJOIK、出六100kW(減力放送時10kW)で石狩、空知、後志をカバーしている。第二の方はコールサインJOIB、出力500kW(減力放送時250kW)で放送対象地域は全国となっている。

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 大出力のAMラジオ放送では、このような大規模なアンテナを含む送信設備が必要で、経費もかさむだろうと思われる。最近は都心部に小規模な放送設備を備えたFM局が放送を行う時代になってきている。加えて、インターネットを利用すれば、個人レベルでの放送局ともいえるものを可能にしている。さらに、衛星放送という技術革新もある。デジタル放送に統一される流れもある。従来の大規模設備のAMラジオ放送の象徴である高いアンテナが、江別の田園地帯に立っている景観がこれからも続いていくものだろうかと思ったりした。

2008年05月27日

木の間から 芽を出す如き 子等見えて

 大学の構内なのに、幼い子供達が遊んでいても、並んで歩いていても違和感がない。これは北大構内の持ち味の一つではないかと思っている。研究の府であるけれど、幼稚園児も大人も観光客も、構内の自然の中に居場所を見つけているようである。緑が戻ってきた木々の間から芝生に遊ぶ子供達が見え、春に吹き出した木の芽が動きまわっているようにも見える。先生に連れられて歩いている園児達は、先に行ったり遅れたりで、何か研究者達の遅速のある研究状況を連想させる。

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先行く子 遅れる子あり 研究府

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2008年05月26日

外輪船上川丸の模型を探して

 北海道に鉄道が無かった時代に人や物の輸送の大動脈は石狩川で、船腹に取り付けた水車により進む外輪船が活躍した。外輪船の始まりの契機は、樺戸(現月形町)集治鑑に囚人と物資を運ぶためで、1884年(明治17年)に神威丸と安心丸が就航している。

 航路の延長と一般旅客利用の拡大で、1891年(明治24年)には江別-空知太(現砂川市)と石狩川に江別で合流する千歳川を利用して江別-漁太(現恵庭市)の航路も整備され、神威丸と安心丸に上川丸も加わっている。後に「空知丸」も加わることになる。

 外輪船が活躍した時代、江別は石狩川の交通の要衝であった。千歳川河口付近に江別の行政、金融、運送等の機能が集まっていたのはこのためである。現在は元の機能を失ってしまった石造り倉庫群が千歳川の岸に並んでいる。川を挟んで、向こう側には河川防災ステーションの名前がついた、現代の河川行政の申し子の場所がある。

 このステーションの二階が石狩川や千歳川に関する展示場となっていて、実物大の上川丸の模型がある。上川丸は江別のかつての江別の繁栄のシンボルともいえ、この模型を散見する。上川丸の模型を探すささやかなプロジェクトは進行中で、今まで目にしたものを載せておく。他にも模型の存在の情報があればご一報いただくと有難い。

 江別市の郷土資料館に上川丸の模型が展示されている。模型の説明には、1889年(明治22年)東京石川島造船所で造られ、総トン数60トン、長さ23.3m、幅4.1m、67馬力、定員60名とある。東京で造られ、海を航海して石狩川までやって来て、約二年後に本来の仕事に本格的に就くことになったのだろう。

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 江別市長の部屋を訪れる機会があって、ふと部屋の窓際をみると上川丸の模型があった。ガラスのケースに入ったべっ甲製の立派なものである。三好昇江別市長にケースの戸をはずしてもらって写真を撮った。誰がどんな状況でこのモデルを製作し、市に寄贈したのか知る由も無いけれど、上川丸の模型が市長の応接室にあるのが、この船と江別市の関係を表している。

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2008年05月25日

牛の像を訪ねて

 大抵の市は、市の花や木を定めている。江別市の場合、市の木はナナカマドで市の花はキクである。市の鳥を制定している市もある。札幌の市の鳥はカッコウで、小樽はアオバトである。しかし、江別市は市の鳥は制定していないようである。
 市制定の生き物は鳥ぐらいまでで、動物とか魚、昆虫は聞いたことがない。江別の市の魚(正確には魚ではないけれど)となれば、これは市のマンホールのデザインにも採用されているヤツメウナギに決まりであろう。

 大都市は動物とは縁遠いせいか、市制定の動物というのは聞いたことがない。もし、江別市制定の動物として候補を挙げるとすれば、最右翼にくるのは牛ではなかろうか。これは江別市には町村牧場のような名前の通った牧場があり、酪農学園大学のように酪農業を教育・研究の対象にした大学があることにもよる。

 江別市で牛を見ようとすれば牧場や酪農大学に行くとよく、牛は馴染みの家畜なので秘境のテーマに取り上げるまでもない。しかし、牛の大きな置物となると、江別市ならではのところがあるので、目についたものを写真に撮ってみた。

 江別いずみ野にある旧町村牧場には由緒ある牛のブロンズ像がある。1959年米国カーネーション牧場から輸入した「ローヤル・ヒット・パレード」と名づけられた牛で、1974年に死ぬまで優秀な乳牛の子孫を残している。牛の像の製作者は峯孝である。

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 町村牧場は1992年には石狩川の対岸の篠津に移り、残された牛舎はそのまま展示場となっている。酪農に使われた農機具などが展示されていて、無料で見学できる。しかし、ここでは生きた牛を目にすることはない。その代わり大きな牛の置物が展示牛舎内に置かれている。本物の大きさで出来もよいもので、ぼんやりしていると急に本物の牛が現れたかとびっくりする。篠津に移った町村牧場には牛の置物が芝生の上に設置されていて、訪れた観光客の写真撮影用になっている。

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 酪農学園大学の施設には「乳絞り体験」の文字を背負った牛の乳房部分の置物があった。係りの人も居なかったので体験することはできなかったが、傍には牛を象ったベンチもあって、子供には喜ばれそうな牛達であった。

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 国道12号線から酪農大学方向を見ると、広い芝生の向こうに大学のサイロがあり、その横に大きな牛の絵がある。牛が出迎えてくれる江別市であれば、市の動物を制定するとしたらやはり牛である。

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2008年05月24日

北の世田谷美術館

 江別の角山(かくやま)地区は札幌の東区と接し、この地区を走る真っ直ぐな国道275号線沿いに、ところどころ工場があるか、さもなくば畑が広がるだけの代わり映えのしないところである。江別の往復にここを通過しても、ここに都市秘境スポットがあるとは到底思えなかった。

 ところがふと目にした江別の案内書に「北の世田谷美術館」の文字がある。角山地区に美術館とは、と行ってみることにする。ここで東京にある世田谷区の地名がここにあるのは、1945年の終戦直前に世田谷区からの入植者の一団がこの地区にやって来たことによる。国道沿いのバス停の名前も「世田ヶ谷」となっている。

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 このバス停から伸びる一本道を北西方向に向かって走ると、「北の世田谷美術館」の傾いた門柱が目に入り、かなり秘境の雰囲気である。牛舎を改装したと思われる建物の入り口のところに美術館の立派な表札がある。おそるおそる戸を開けて入ってみるのだが、誰もいない。絵が壁一面に展示されていて、美術館には違いないのだろうけれど、個人の住宅の雰囲気でもある。

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 この美術館は山形トム氏が描いた絵を展示している。後で現れた娘さんの話では、山形氏の父親が「エノケン」一座の役者で、山形氏も子役を勤めていた経歴の持ち主である。角山で以前は酪農、現在は畑作の農業を営む傍ら、北陽会に属し油絵を描いている。納屋にも絵が無造作に置かれていて、生活用具や農機具と一緒に牛や裸婦の絵がある空間は秘境の条件を満足している。

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 夫人の山形文子氏は農業の傍ら歌を詠み、その歌碑が敷地内に設置されている。歌碑に刻まれた歌からは、酪農業と向い合いながらの創作活動であるのが伝わってくる。短歌誌「個性」に拠って創作活動を続け、1983年には短歌集「江別酪農三家」を長谷川みよ子氏、丸山陽子氏らと共に出版している。

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 山形夫妻とは取材時に顔を合わす機会は無かったけれど、その後電話で取材の目的についての話をして、トム氏とは声の方で出会っている。

2008年05月23日

羽広げ 飛ぶ妖精や すみれ花

 妖精(エルフィン)の擬人化したものは、トンボのような透き通る羽をつけた、人間(特に女性)の身体を持つものが一般的である。そのイメージが頭にあると、写真のスミレは妖精の花バージョンに見えてくる。スミレの花はスプリング・エフェメラルには入らないのだろうが、この言葉で分類したい花でもある。

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 エンレイソウは花が葉に比べて小さく、形を擬人化すると頭は小さく、首が長く、下半身の豊かな女性のイメージでもある。

花の影 広き葉に落ち エンレイソウ

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2008年05月22日

江別のレンガ工場

 江別のレンガ工場の発祥は1898年(明治31年)に設立された北海道炭鉱鉄道野幌煉瓦工場に遡る。明治時代の煉瓦生産は、傾斜面に焼成室を並べた登窯で行われた。その登窯の史跡がJR野幌駅の近くにあり、説明板で江別における煉瓦生産の一端を知ることができる。

 煉瓦を焼く燃料として薪が不足して石炭になり、登窯から輪環窯、トンネル、キルンと変遷をたどることになる。それに従ってレンガ工場も新旧交代があり、現在江別にあるレンガ工場は「北海煉瓦」、「北海道農材」の野幌セラミック工場、「米澤煉瓦」の三社である。

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 このうち北海煉瓦は創業八十年を超し、最も古い歴史を持っている。JR野幌駅から野幌東町を通って真っ直ぐに伸びる1号線が道央自動車道の下をくぐる手前近くにあり、由緒のありそうなレンガの煙突が目につく。土曜日でもあったので、煙突の写真を取らせてもらい、創業年数などの簡単な話を聞いただけである。

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 北海道農材は本社が札幌にあり、野幌には野幌セラミック工場がある。道央自動車道の近くで、北海煉瓦の工場からも遠くない。1963年にセラミックブロックの製品化に成功して、この分野で全国一の実績を持っている工場である。工場内の様子の写真撮影を頼んだのだが、近くこの工場は美唄に移転するとのことで、煙突のところだけの撮影になる。

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 米澤煉瓦は一番通と道央自動車道が上下で交わる元野幌にある。この会社は1939年創業で、年間200~250万個のレンガを生産している。敷地内にレンガが積まれ、レンガを運ぶショベルカーが動いていた。丁度出会った会社の人に話を聞くと、いろいろなタイプのレンガを作っているとのことで、アッシュブリックが積んであるのも見せてもらった。

 レンガを積んで建物を造る際の建築基準法は木造、鉄筋コンクリート造等と並んで「組石造」のカテゴリーに入るそうである。組石造の基準で、レンガの厚さを基準値以上にすれば鉄筋を入れなくてもレンガの建物は許可になるのだけれど、コスト高になるため、過去の建物は基準値以下の厚さのレンガで造られていたりする。これが歴史的レンガ建築を再利用する際のネックになり、行政も取り壊しても再利用してもお金のかかるレンガ建造物をどうしようかと頭を痛めることになる。

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2008年05月21日

JR江別駅前広場

 一般に都市の駅前は都市の秘境と対極にある。大型店が郊外に進出して駅前の商店街がさびれていく話はあちらこちらで耳にする。しかし、JR江別駅前はその商店街が軒を接してつながっているというのでもなく、不規則な角度で分岐した道路が駅前広場から伸び、焦点が定まらない駅前の広場となっている。

 GWの日曜日の正午近くの時間帯にこの広場には人通りがない。休日で駅前広場に沿った江別市水道局の庁舎が閉まっているのは分かるとしても、広場に面した商店もシャッターを下ろしている。広場の中央のあるレンガのモニュメントのある芝生にもその周囲にも人影がない。

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このモニュメントは「ふれあいの滝」と命名されていて、滝をイメージして水が上から落ちている。デザインを凝らしたこのような都市の広場の造形は、周囲に人がいると引き立つのだろうが、見る人もいないと余計に都市の無人の状況を強調するようである。名前の「ふれあい」も、人がいなくては反語的ですらある。

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 広場全体の雰囲気を写真に収めようとパノラマ写真の撮影を試みる。写真を撮るのに少々時間がかかるのだが、その間にカメラに捕らえられるのは通り過ぎる自動車が二、三台程度である。写真に写り込む人影は依然としていない。人口12万3千人の都市の表玄関となるJR江別駅は、日曜日のこの時間には秘境感が漂うと感じるのは、筆者がこの都市に馴染んでいないせいであるためかもしれない。

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 行楽の季節を迎えてこの様子であるので、冬場の秘境感はもっと増幅される。駅を出て左側には千歳川方向に向かう道路が延び、この通りを少し進むと、かつては北陸銀行や郵便局の建物が集まった町の中心部であったところである。現在は冬には除雪は行われているものの人通りが途絶え、車の往来もほとんどなく、都会の秘境と表現してよい景観を呈している。

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 江別市の都市の産業構造が流通に依存して、ストックヤードなどを地域興しの柱に据える計画も耳に入ってくる。現代の流通は自動車に依存する部分が大部分で、鉄道の出番が見えないところで、この駅前広場が活気を取り戻す妙案は出てこないところが現実ではなかろうか。

2008年05月20日

ツツジ花 博物館の 広告塔

 博物館前には見事なツツジが正面玄関の左右にあり、ツツジの季節には人目を惹く。このツツジはクロフネツツジで、理学部創立50周年記念で植樹されたものである。ツツジの女王とも呼ばれるだけあって、満開時に桃色の花が木全体を覆っている姿は、博物館の前を通る人の目を惹き、この季節博物館へ誘い込む一番の広告塔にも見えてくる。満開の季節を過ぎると花の散った枝には新緑が顔を出し、地面もまた緑の芝生の上に散った花びらがあり、緑色と桃色が交錯している。

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緑桃(りょくとう)の 色の配色 枝と地に

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2008年05月19日

下の月小学校跡

 千歳川沿いに上の月、中の月、下の月の地名がある。旧夕張鉄道の駅名にも下の月駅があり、1980年に閉校になるまで下の月小学校があった。この小学校の開校は1949年で、学校は31年間しか続かなかったので、短い校史の小学校である。その学校跡を見にゆく。

 夕張鉄道が廃止され、その線路跡が空知南部広域農道(きらら街道)となっている。この道と千歳川に挟まれるような位置関係で下の月地区に小学校跡がある。千歳川の土手近くに防風林の一部が残されたような場所があり、その木立の下に「江別市立下野月小学校」のレンガ造りの門柱が残されている。江別が市になってからの小学校が、校舎も無くなっているから、この学校の薄命ぶりが伝わってくる。

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 門柱の近くには生徒達が製作したと思われるセメント像が残っている。テーマは先生と生徒のようである。その他、ブランコ用の鉄製の支持が錆付いたまま残されている。これらの残されたものが無ければ、ここに小学校があったとは想像もできない。

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 ただ、下の月小学校の名前は今も使われているようで、学校跡に接した道路に避難場所の指示として「旧下の月小学校グラウンド」とあった。しかし、大都会のように建物が密集している訳でもなく、農地が広がり農家も点在する場所で、ここが避難場所に指定されている理由が理解できなかった。

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 この辺りの千歳川の堤防工事が現在進行形で進められていて、工事事務所が小学校跡の近くに設けられていた。江別揚水機場も新しいもののようで、その脇に新しそうな水天宮の神社や「早苗別開発の碑」があった。ここで早苗別川は千歳川に流れ込む小河川で、この川にはホタルが生息している。このホタルのため、早苗別川の改修には特別な工法が採用されていて、ホタル工法と呼ばれている。市街地にある四季の道の夏のゾーンで、ホタルの生育環境を保護しようとする活動と重なる。

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2008年05月18日

飛鳥山

 山の定義がよくわからないのだが、国土地理院の地図に三角点の標高が記されていて、そこに「山」の呼び名がついていると山と言ってよいようである。こうなると山は必ずしも高くはない。因みに日本で一番低い山は大阪市の天保山(標高4.5m)であるといわれ、これで町興しを進めている。

 江別市の飛鳥山公園内の小高いところにある「殉没忠魂碑」の傍に「三級基準点」がある。この場所は飛鳥山と呼ばれているので、ここは山といってもよい。その標高値というと17.5mで、同様の類の低山では日本で15番目、北海道では4番目にランクされるそうである。それでも江別では一番高い山となる。

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 この山(丘)の高い所には前述の忠魂碑の他にも「開村記念碑」、旧競馬場史跡標柱、伊藤音二郎の歌碑等が設置されている。ここには江別神社の前身の飛鳥山神社があり、神社のお祭りに奉納競馬が行われていて、1928年には公認の地方競馬場が設けられ、賑わった。この競馬場はここから元江別の方に移された後、戦争のため1938年には中止されていて、史跡標柱の他に旧競馬場を思い起こさせるものはなにもない。

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 伊藤音二郎は屯田兵の息子として江別に生まれ、上京して口語短歌運動に加わり、江別に帰郷後も短歌を作り続けた歌人である。歌碑には「石狩の原に 一すぢ雪のみち 晴れりや 馬橇の鈴が つづいた」の歌が彫られている。音二郎の歌碑の周りには、丁度遠足にでも来ているのだろう、児童の集団が敷物を広げて座ったり弁当を食べたりしていた。

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 現在、この丘も含めて一帯は飛鳥山公園になっている。ここを訪れた時は春で、丘の斜面には芝桜が咲いていて、丘の下の方には野球場やグラウンドを見下ろすことができた。また、王子特殊紙の工場の煙突もすぐそこにある感じで目に入ってきた。

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2008年05月17日

江別市の小学校の金次郎像

 小樽の秘境のテーマに小学校の二宮金次郎像というのを選んだことがあるので、江別市でも二宮金次郎を探してみた。江別小学校の近くに火薬庫があり、その傍に顔も崩れたコンクリート造りの金次郎像があった。火薬庫が江別小学校の教育勅語を納めておく奉安殿として使われた経緯もあるので、ここの金次郎像は江別小学校のものであると思って間違いないだろう。皇紀2600年を記念して造られたものだそうである。

 この崩れかかった金次郎を最初に見てから一年もしないうちに、金次郎像は真新しい石造りの像に取り替えられていたのには驚いた。何はともあれ、以前の見るに耐えない金次郎像が新しいものに置き変わったのは、見ていて気持ちが良い。

 大麻小学校の金次郎像は石造りのもので、着ているものからして貧乏な様子が表現されていて、本物の金次郎もかくやと思わせるものである。貧困にもめげず、向学心に燃えて努力する金次郎は、現代の生徒には想像の域を越えるものかもしれない。まあ、そのような金次郎にまつわる話は授業の時には出てはこないだろうけれど。

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 江別第二小学校の金次郎像はブロンズ製で、一番立派なものである。1935年に同校の開校五十周年を記念して造られたと紹介されているので、戦後に戦前の修身のモデルの金次郎像が作られたことになる。多分、これは戦前に小学校の校庭に置かれていた金次郎を復元させただけで、特別の意図があった訳ではないだろう。

 いずれの金次郎像も、生徒や先生に関心を払われることもなく、校庭やその近くに、日々の勉強や校内活動には関係のない記念碑の如く置かれていた。

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2008年05月16日

それぞれの 思い写して 春水面(みなも)

 構内のメインストリートに面して、大野池と呼ばれる水辺がある。冬の間は氷と雪で閉ざされていた水面が、桜の花と一緒に現れてくる感じである。池の周りには散策する人、佇む人、本に目を通す人、それらを写真に撮る人と、思い思いの人が集まって来る。穏やかな水辺は人の心を和ませる。風が無く水面が静止していると、池近くの桜や緑の樹木はもちろんのこと、離れてところにある建物でも水面に鏡像となって写し出され、本物と水面の鏡像を同時に眺めて楽しめる。

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鏡像を 楽しむ季節 池の中
 
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2008年05月15日

レンガのランドマーク その2

 国道12号線沿いの文京台交番はレンガ造りであった。小さな建物なので、多分レンガを積んだだけで出来ているのではなかろうか。その他大麻交番も野幌交番もレンガ造りであった。

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 時計塔の例は二番通と五丁目の交差点に設置されている「もとまち恋歌(れんが)塔」で、北海道煉瓦旧事務所の廃レンガを再利用している。この塔には風見鶏の代わりにリスが風を受けて回っていた。時計塔にレンガを用いている例はJR江別駅前のものがある。この塔に用いられているレンガは少ない一方、レンガと同じく焼き物である陶器の展示をするためのガラスのショーケースが、この時計塔に組み込まれていて、焼き物の里江別を演出している。江別第二小学校の建物に時計塔があり、これもレンガ造りである。

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 学校の門柱やお寺の門柱にレンガが用いられているのを見かけることがある。上江別にある江別高等学校や文京台にある名前を一新した北翔大学の校門はレンガで出来ていた。

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 広告の役目をしているのは「れんがもち」を売っている店舗の前のレンガの煙突を模したものがある。国道12号線に面していてランドマークとなっているといってもよい。

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2008年05月14日

レンガのランドマーク その1

 江別はレンガの街を標榜しているだけあって、ランドマークとしてレンガのランドマークを積極的に配置している。これらのランドマークは単なるモニュメントではなく、何らかの機能を持たせている。それらの機能を分けると1)バス停、2)トイレ、3)電話ボックス、4)交番、5)時計塔、6)門柱、7)広告、などになる。

 機能別に分けたランドマークのうちバス停が一番多く、国道12号線沿いに多く見かける。そのバス停も近くにある大学等に合わせたデザインのものが選ばれているようである。酪農学園大前のサイロ風バス停、ときわの森前の教会風のものなどがある。札幌理工学院前、RTNパーク前、市立病院前、東光町幼稚園前等のバス停もレンガのランドマークになっている。

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 トイレは公園に多く、これは公園の近くの住人でもなければ、目にすることは余りないだろう。トイレをレンガ製にするのは景観を引き立たせるための目的で、観光客や通りすがりの者が目にするという意味でのランドマークの働きとしては今一つである。写真のものは泉の沼公園にあったトイレである。その他RTN公園内や大麻新町公園、旧町村農場のトイレなどがある。

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 電話ボックスは江別市役所前のものがある。豊幌駅前のものは電話ボックスというより、何かの記念モニュメントと思えるほど立派なものである。しかし、ケータイ電話全盛の昨今公衆電話を使うことはほとんどないだろうから、電話ボックスの機能は早晩無くなって、この立派なランドマークの機能の変換を考える必要があるだろう。

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2008年05月13日

新篠津村点描

 現在江別市と新篠津村の合併協議が進行している。「江別・北広島秘境100選」が出版される頃には、合併が正式に発表されるか、合併が実現しているかもしれない。そうすれば新篠津村は江別市の一地区になるだろうから(新しい市名になるとは思えないので)、この村も江別市に加えて取材である。

 人口3800名程度のこの村は石狩川に沿った平坦な農村である。地図を見ると道路が東西南北に真っ直ぐに伸び、碁盤の目のような土地区分を作り出している。例外は篠津運河沿いの斜めに走る道路で、これは石狩川とほぼ平行している。この村を通る国道は無い。

 国道12号線で岩見沢市に入り、「たっぷ大橋」で石狩川を越える。この橋は旧岩見沢大橋の老境化のため新しく建設されたもので、2004年に完成している。この橋の近くで石狩川と合流する幾春別川と石狩川の両河川上に架かる橋で、全橋長は825m、石狩川の部分の斜張橋部分は506mの長い橋である。

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 この橋を渡ると新篠津村となり、同村のカントリーサインが目に入る。米どころ新篠津をデザインしたものとなっている。橋の袂の河川敷は遊歩道やパークゴルフ場になっている。石狩川の改修工事により取り残された三日月湖のしのつ湖の周囲にしのつ公園がある。公園内には展望台があり、展望台から石狩平野の雄大な眺めを360度で眺めることができる。

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 この公園には温泉施設が隣接して二ヶ所あって、村民によく利用されているようである。泉質はナトリウム塩化水素塩泉ということで、茶色に濁った湯である。料金の改定の案内があって、75歳以上は300円に値上げということで、昨今の後期高齢者医療制度開始の余波が及んできたのかな、と思ってしまう。

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 新篠津村から江別市に向かうため、前述の篠津運河沿いの道を選んでみる。この運河は1951年に農業用排水兼用の疎水路として、国家プロジェクトで巨額の費用と19年の歳月を要して完成を見たものである。直線状に伸びる水路には濁った水がかなりの水量で蓄えられているのを目にすることができた。運河の土手に篠津運河の小さな標識があって、それを入れて写真を撮ると、新篠津村の田園風景が広がっているのが写っている。

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2008年05月12日

昔座(ざ)す 牧草畑 牛喰(は)み居

 大学に勤めていた頃、工学部の裏に広がる第一農場は牛舎もなく、牧草地と畑が広がっていた。晴れた日に気が向けば広い農場の縁を歩いて、背の高くなった牧草地に座り込んで、頭上に広がる青空を見たものである。最近はこの第一農場には酪農関係の研究施設が出来てきて、牧草地には電牧柵が張られている。中には牛が放牧されるようになり、以前のように牧草地に出入りできなくなっている。獣医学部の施設の牛の方は、傍にある木が葉を茂らせる速さとは対照的に、のんびりと座っている。

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牛座り 青葉急ぎて 春盛り

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2008年05月11日

千歳川と幌向運河

 支笏湖に源流がある千歳川は、千歳市、恵庭市、長沼町、北広島市、南幌町、江別市と流れて江別市で石狩川に注ぐ。従って、千歳川の河口は江別市にある。この河口付近に王子特殊紙の工場があり、国道12号線で千歳川を跨ぐ時に、新江別橋からこの工場と千歳川の河口部を見ることができる。

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 この千歳川は放水路計画でもめた川でもある。1981年の大洪水の被害により北海道開発局(現国土交通省北海道局)が千歳川の放水路を太平洋側につなげようとする計画を立案した。しかし、放水路の通過地予定地に野鳥のサンクチュアリのウトナイ湖などがあり、自然環境破壊の問題が議論され、反対派と開発局の応酬が続いた結果、1999年に計画は取り止めになっている。

 千歳川は石狩川のような河川改修が徹底して行われなかった結果として、河川の自然環境が守られた川ともいえる。秋になるとこの川にサケが遡上し、千歳市でインディアン水車でこのサケが捕獲され、サケの養殖事業が行われている。五月の上旬にサケの代わりにコイが登場で、河川防災センターから対岸の江別の倉庫群の集まるところにコイノボリの川渡しのイベントが行われていた。この風景はサケの遡上を思い起こさせ、千歳川の自然環境を生かしていこうとする象徴のようにも見えた。

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 千歳川は江別市と南幌町の境界となっていて、かつての夕張鉄道の跡地である空知南部広域農道が千歳川を横切る江南橋付近で、南幌町に延びる幌向(ほろむい)運河とつながっている。付近には親水地として整備された場所があり、南幌温泉もある。南幌町ではこの遺産を保存し活用しようとする活動が行われている。

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 北海道四大運河と称されたこの運河も現在は水運の役目を終えている。しかし、整備された親水地付近に水を湛える運河と、辺りに広がる田園風景は先人の開拓で得られた現在の北海道の風景であると思った。この風景をこれからも伝えていくところに北海道の未来があると感じた。

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2008年05月10日

美原大橋と石狩川の碑

 江別の観光案内図に「石狩川の碑」のポイントの記載がある。大雑把な地図の観光案内図に美原大橋付近に碑の位置が示されている。自動車で見つけるのは自信がないこともあって、自転車で行くことにする。交通量の多い国道12号線を避け、もえぎ野から江別太に出て美原大橋の河川敷に近づいてみる。

 石狩川に架かるこの橋は、1995年に着工し2005年に完成しているので新しい橋である。国道337号線にあり、江別市の美原と江別太をつないでいる。全長972m、主塔の高さは80mある。斜張橋と呼ばれる形式の橋で、札幌のミュンヘン大橋も同様な構造である。ただし、美原大橋の方は橋げたの両脇ではなく、逆Y字形の二本の主塔からケーブルを伸ばし、一面だけで橋げたを釣っている構造となっている。

 橋げたの下に立つと、この橋の大きさが実感できる。石狩川の遠景に江別の王子特殊紙の工場の煙突群が見える。美原大橋付近の河川敷には石狩川の流れがあるだけで、特別なものはない。ここには石狩川の碑はないようである。

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 国道12号線に戻り、江別方向に進み、美原大橋から分岐してきた道と国道の合流点近くで探している碑を見つける。見つけてしまうとかなり大きな碑である。「石狩川」の文字の横に原子修氏の詩が彫られている。書は北溟とあり、これは北海道を代表する書家中野北溟氏である。

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 詩の方は「時は流れ 水は流れ 千の苦悩 万の悔恨 億のコトバは流れ去っても 石狩の川はあり 石狩の野はあり 此に生きる者の ギラリと輝く 意志がある」と読める。豊平峡ダムの「ひふみみはなめ」でも原子氏の豊平川の詩が、ナレーションによる音での展示があったので、北海道の河川に関しては、北海道開発庁御用達の詩のようなところがあるな、という感じがした。

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 碑は石狩川の堤防の少し高いところにあり、周囲の情景をパノラマ写真に収めてみる。ここから西側に石狩川や樋門、王子の工場群、東側に美原大橋や旭川方向に伸びる国道12号線などが目に入る。国道12号線をひっきりなしに自動車が通過していき、江別が道路を核にした流通の要衝にある点がこの光景から理解できる。

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2008年05月09日

越後神社の花と木

 越後神社は、国道12号線で千歳川を新江別橋で横切り、夕張川に架かる江別大橋の手前のところの国道沿いにある。ここからは石狩川に架かる美原大橋の主塔部分も目に入る。神社から石狩川方向に少し進めば石狩川を眺めることができる。

 この辺りは江別太と呼ばれている。境内にある碑のうち一番あたらしそうな「江別太開基百年 越後村入植之地」と大書された碑の碑文を読むと、1886年(明治19年)越後からの十戸、石見の農民七戸が入植して開墾が始まっている。その開拓の過程で、郷土の地名を冠した越後神社が建立されたのだろう。最初は泥炭地で開拓は困難な作業であったが、昭和40年(1965年)代には近代機械化営農が定着するまでになっている。

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 越後神社の方は、国道12号線からは何の変哲ものない雑木林に見えるところに、林に隠されて小さな社と鳥居がある。車で通り過ぎるだけなら、ここに神社があるとは予想だにしない。しかし、春先この神社の境内は草花で覆われ、山野草の愛好家なら一見の価値がある場所となる。

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 春の到来が早いと言われた五月の上旬に訪れた時には、神社の境内には紫色のエゾエンゴサクや白い三枚の花びらを開いたオオバナノエンレイソウが一面に咲いていた。境内の花案内には、手書きで「ヒメオドリコ草」、「ムラサキキケンマ」の名前も記されていたので、季節をずらして訪れるとこれらの花もみることができるのだろう。

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 この境内にある樹木もいわれのあるもので、立て札にある「永山武四郎 お手植松 明治二八年十月二七日 屯田兵本部長 陸軍少将 永山武四郎」の文字がかろうじて判読できる。この松とはイチイ(オンコ)で、高さは3.5m程度で横に枝が這うように10mほども伸びている。この木は樹齢120年を越すと推定されていて、江別の保存樹に指定されている。

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 開拓時代にはこの神社の回りを木々が取り囲み、鎮守の森の静かさを保っていただろう。しかし、現在は道央を貫く幹線道路の国道12号線を走る車の音が伝わってきて、神様もこの騒音には閉口しているのではなかろうか、と思われる。

2008年05月08日

豊幌の三日月湖

 暴れ川の石狩川の治水は、北海道開拓の根幹であった。石狩川の蛇行部分をショートカットする(捷水路)工事が中流から下流領域で行われ、切り離された旧石狩川が川や湖として残った。江別の豊幌と旧北村(現岩見沢市)の境界を流れていた石狩川が、この捷水路工事で旧石狩川として残された馬蹄形あるいは三日月形の湖がある。この湖の正式名称が何であるかはっきりしないのだが、一応三日月湖と呼んでおく。

 この三日月湖と石狩川で区切られた部分が巴農場である。農産物が巴農場産で売られていて、最初個人の農場名かと思っていたら、これはこの地域の呼び名であり、農場名というよりは土地の名前である。「巴」の字は地主制度時代に三つ巴の地主が居た、地域の形からこの字が当てられた等の説がある。

 三日月湖に沿って自転車を走らせてみる。石狩川の堤防の近くに「お茶の水排水機場」がある。排水機場とは地域の排水を大型ポンプによって強制排水するための施設で、大雨などにより石狩川の水位が上昇し、三日月湖の自然排水が困難になった時点で、三日月湖が溢れないようにするため大型ポンプで排水する。この排水機場に「お茶の水」の名前がついているのが何故かは分からない。

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 湖沿いの道路の中間辺りに石碑が建っている。碑文に「水と稲と我等の護り」の文字が見える。五月の上旬でここら辺は農作業が開始されたばかりである。巴農場側の道路から旧北村側を見ると、春先で雪解け水が増えたせいか、かなりの水量の湖に見える。

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 湖を一周して旧北村側に抜ける湖の先端辺りで白鳥が一羽いるのに気がついた。近くに居た人に聞くと、仲間の白鳥から離れてここに残った一匹だそうである。この湖は渡り鳥の中継地点で、少し前には白鳥が群来してその鳴き声がうるさい程であるとのことである。居残った白鳥はこれからここに留まるのか、夏場は暑くて困らないのか、少し気がかりであった。

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 地図上で三日月(馬蹄形)状の湖も湖岸ではその一部しかみることができないので、全体の形は自転車で湖に沿って走った感じで掴み取るより外ない。ただ、旧北村側の見晴らしのよいところからの眺めでは、湖が曲がっていく様子が少しばかり分かる。

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2008年05月07日

JR豊幌駅

 江別市と岩見沢市の市境界にもなっている三日月湖を見るため豊幌駅まで電車で、駅からは自転車で行くことにする。GWの後半の日曜日の朝で、行楽に出かける人で車内は込み合っているかと思うと、江別駅終着の電車はほとんど人が乗っておらず、江別駅では乗客は筆者だけかと思うくらいである。それをよいことに、携行バックに収めた自転車を誰はばかることもなく電車の通路に置いて写真撮影である。何か電車の内が秘境風である。

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 JR函館本線で江別市から岩見沢市の境目の駅で江別市側が豊幌駅、岩見沢市側が幌向(ほろむい)駅となる。札幌から岩見沢行きの普通列車で豊幌駅に降りることになるのだが、江別駅が終着の電車に乗ってしまうと、江別駅から岩見沢行きの普通列車に乗り換える。江別駅でも乗客はほとんど居ないのに6両編成(8両ぐらいあったかもしれない)ぐらいの電車がやって来て、これは回送電車なのかと思ったりする。

 豊幌駅の駅舎と反対側のプラットホームに降る。駅構内に電車が停車していると、乗客は遮断機に遮られて待ちぼうけである。のんびりしているといえばのんびりしている。自転車を抱えている身には、跨線橋の階段を昇り降りしなくて済む分助かる。

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 この駅は江別駅から6kmほどのところにあり、1956年に開業している。1989年に駅舎が建て替えられ、ステンドグラスの飾りなどがあって小さいながらも洒落た駅舎である。

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 駅舎には自動改札機があるのだが、何かの理由でこの改札機は動いていない。改札機の前には使用済きっぷ集札箱があって切符を入れて出ることになる。無人駅ではなくて駅員も居るのだが切符をチェックするでもない。これもまたのんびりしたものである。

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 駅舎の外に出るとレンガのモニュメントが目につく。何の建物かと近づいてみると、これは電話ボックスである。電話機が設置されていたけれど、今時この電話機を使う人がいるのだろうか、と思ってしまう。レンガのモニュメントは駅舎と合わせて景観創りに腐心した結果であって、電話ボックスの機能はつけたしなのだろうと思いながら、そばを走る国道12号線に沿って三日月湖に向かい自転車を走らせた。

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2008年05月06日

故町村忠良氏の蝶のコレクション

 江別市の郷土資料館を見学していたら、蝶のコレクションの展示室があった。他の展示物とは異質の展示で、覗いてみると説明があり、これは故町村忠良氏の寄贈の標本を資料館で保管、展示しているものであると書かれている。

 町村農場があることからも分るように江別市は町村家とは深い関わりがある。町村信孝現官房長官もこの町村家の出身で、故忠良氏は官房長官の兄に当たる。忠良氏の方は東大の法学部を卒業後、三菱商事に勤めた。同社で南米での仕事にも関わり、社内の蝶の愛好家グループの一員でもあり、生前南米の蝶のコレクションを行った。

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 展示室には故町村忠良氏の収集した南米の蝶と日本の蝶が並べられている。南米の蝶は15科、1万頭におよぶ収蔵コレクションの一部が展示されており、日本のものは国蝶のオオムラサキを始め日本各地の蝶が並べられている。寄贈された蝶のうち、整理がついているものだけが展示に回されている。展示されていないものの閲覧を頼み込んだら、未整理ということで写真のファイルの方を見せてもらった。

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 1990年9月享年49歳で町村忠良氏が亡くなり、その一周忌に合わせて1991年に「南ブラジルの蝶」という町村忠良遺稿追悼文集が「ふくべ書房」から出版されている。非売品ではあるけれど、インターネットで見るとこの遺稿集には12600円の値段がついていて、気安く購入できるものではなさそうである。郷土資料館を再訪した折に町村忠良氏の資料がないかと尋ねてみて、この追悼文集を見せてもらったことがある。

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 追悼集の顔写真を見ると、毎日のようにTVや新聞に顔の出てくる弟の信孝氏と良く似ている。顔から確かに兄弟であるといえる。蝶そのものよりは、生前に弟である現官房長官との関係に興味が湧くところであるけれど、先の追悼文集にもこの点に関してはこれはといった記述もない。兄弟とはそういうものなのかも知れない。何も手がかりはないけれど、政府の中枢にいる官房長官の弟と、南米で趣味の蝶のコレクションに情熱を傾けた兄の、名門町村家の兄弟の対照的な生き方に興味が湧いてくる。

2008年05月05日

エルフィンを探して

 北広島市が市のシンボルの一つとしてエルフィン(妖精)を採用した経緯はよく分らない。緑豊かな市のイメージとして森の妖精に出番が回って来た、といったところらしい。このイメージ・キャラクター(といった用語があるかどうかは分らないけれど)は、森や林の中を抜けて自然と親しめる環境を生かした、北広島市と札幌市をつなぐサイクリングロードの愛称「エルフィンロード」の名前に採用されている。

 この自転車道を中心にエルフィンの姿を探してみることにする。線路と並行に走る自転車道が北広島駅に近づくと、街路灯の飾りにエルフィンが顔を出す。丁度桜の季節で、透かしの妖精の体の向こうに桜の花が見え、ここで春にはエルフィンは桜の精のようである。

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 道路に目を転じると、マンホールの蓋にエルフィンが居る。エルフィンには羽が4枚あるようで、羽の枚数では蝶やトンボと同じである。マンホールの遠方に写っているのはJR北広島駅で、線路を跨ぐ建物のガラスの天蓋のある建物である。

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 この建物は「エルフィンパーク」の名前がついている。大きなガラスの天蓋の下の広場になっている。自転車道に続く斜道で自転車を押してこの広場に入り、線路の反対側に抜けることができる。名前の通りエルフィンの姿がところどころにあるのだけれど、あまり目立たない。

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 ただ、エルフィンパークへの斜道に部分には注意して見ると色々なエルフィンがいる。代表的なエルフィンの身体は女性のものを借りている。これに対して、子供姿の天使の身体を思わせるエルフィンも見かける。

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 JR北広島駅の玄関が面した広場部分にはエルフィンの姿のある時計塔があり、その先に市立図書館の建物が見える。舗道部分にも変形マンホールの蓋にもエルフィンが飛んでいる。この辺り一帯はエルフィンの棲家のようでもある。

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2008年05月04日

これがそう エンレイソウに 声かかり

 北大構内のメインストリートに沿ってファカルティハウス「エンレイソウ」という施設がある。エンレイソウ(延齢草)は北大の校章にもなっている花で、この施設名にも採り上げられているので、建物の横にエンレイソウが植栽されている。

 学生か観光客かこの花を見つけて「これがエンレイソウ」と話している。エンレイソウはいろいろなものがあり、植栽されているものは「オオバナノエンレイソウ」だろう。似たものに「シロバナエンレイソウ」があり、構内を探すとどこかでみつかる。単にエンレイソウと呼ばれるものは紫色の花のものである。

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 ファカルティハウスの横には潅木のオオカメノキが白い花を咲かせている。花はガクアジサイのように周囲に飾り花と呼ばれる部分があり、その内側に小さな花の部分(花序)がある。

花序周り オオカメノキの 飾り花

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2008年05月03日

胡蝶蘭

 4月からオフィスを構えていて、昨日は開所パーティで15名ほどの方々に集まっていただきました。参加された方々、その他オフィス開きに関してご支援いただいた方々にこのブログにお礼の言葉を書き添えておきます。
 ただ、今の時代携帯PCがあればどこでも仕事ができるので、特にオフィスに居なくてもよいのも手伝って、オフィスに詰めている訳ではありません。このような状況でオフィスには私用の机(とシエアしているもう一人の机)があるだけで、ガランとしたところにお祝いの胡蝶蘭が届きました。胡蝶蘭からみると

来てみれば 何もなかりし 新事務所

といったところでしょうか。

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 胡蝶蘭は豪華な花で手入れのためには自宅に置いておくほうがよろしかろうと思っています。庭の芝生に置くと胡蝶蘭の白さが際立ちます。

白誇り 庭に咲きたり 祝い花

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2008年05月02日

エルフィンロード

 千歳線の跡地を利用した「札幌北広島自転車道」は1997年から整備が進められて、2004年には札幌の白石区からJR北広島駅まで一本のサイクリングロードとしてつながった。札幌側は最初「白石サイクリングロード」、2008年には「陽だまりロード」と命名され、広島側は「エルフィンロード」と名づけられている。

 現在のJR千歳線と並行して走るこの自転車道は、札幌市白石区、厚別区、北広島市の緑豊かな緑地と森林地帯を貫く21kmの距離があり、エルフィンロードの部分だけでは8kmとなる。この自転車道は大都会の中で自然と親しみながらサイクリングを楽しめる環境を提供してくれていて、大方の市民にとっては都会の秘境になっているのはもったいない。

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 この自転車道はひたすら自転車を走らせるか、人によっては自らの足でランニングをするか、さらに軽い運動なら散策するのが目的の道である。この本来の目的から外れる施設は、この自転車道にはほとんど無く、自転車道が伸びているだけである。ただ、エルフィンロードの中間あたりに「自転車の駅」と呼ばれる、休息所と貸し自転車のサービスを行うところがある。

 しかし、自転車を借りるためにこの場所までどうやって来るのかの疑問が残る。歩いて来ては貸し自転車を使うまでもない。駅から離れたところにパーキング場とおぼしきところがあって、自動車が止まっていたから、自転車道とは別の自動車道でここまで来られるようなのだが、地図で調べてもよく分らなかった。

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 エルフィンロードの途中には「学習の森」や「水辺の広場」といった場所が設定されていて、自転車を降りて散策できるようになっている。散策路を分け入ると春なら水芭蕉をみることができる。コブシや山桜もところどころに咲いている。近づくことはできないけれど、養鯉場のプールなども自転車道から見下ろすことができる。

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 出発点、あるいは到着点となるJR北広島駅には「エルフィン・パーク」があって、大きな天蓋のある施設内に自転車を入れることができる。北広島市が自転車活用やサイクリングに力を入れているのを示す建物でもある。

2008年05月01日

王子特殊紙と藤原銀次郎

 石狩川に接して、江別の産業を代表する工場である王子製紙の江別工場は1908年(明治41年)に操業を開始している。従って、2008年は江別工場の創業100周年に当たる。現在この工場は王子製紙特殊事業本部とグループ会社であった富士製紙が統合して2004年に新しくできた王子特殊紙となっている。

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 この長い歴史で、敷地内には百年の年月を経た建物を見ることができ、レンガ造りの変電所などがある。工場で使う電気は江別村にも供給されたようで、その委任状が残っている。委任状には「札幌郡江別市街地ニ電燈及び電力ヲ供給スルニ付其取扱ヲ岡田伊太郎ニ委託シタルヲ以テ之ニ関スル契約ヲ締結スル一切ノ行為」となっていて、日付は大正三年(1914年)で王子製紙の専務藤原銀次郎の名前が見える。

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 ここで藤原は三井財閥の中心人物の一人で、王子製紙の社長を務め、日本における製紙業に貢献した。貴族院議員にも勅選されて、商工大臣や軍需大臣も歴任している。後に慶応大学工学部になる藤原工業大学を私財を投じて創っている。

 王子製紙と深く関わる藤原銀次郎の事跡の展示でもあるかと、江別郷土資料館を訪ねてみたけれど、なにも見つけることができなかった。こんな経緯があって、その後調べもせずに放っておいた。

 春になり、江別の秘境の取材を再開して江別市役所を訪れた時、何気なく庁舎内の市民に開放している小さな史料室で「新江別市史」が目に留まった。思い出したように索引で藤原銀次郎を探し、記述を見つけたので名前の出ている部分を読んでみる。

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 記述によれば、昭和恐慌で生産設備の整理と国内の産業界の再編が急がれ、富士製紙の筆頭株主の死も契機となり、王子製紙、富士製紙、樺太製紙の合併が行われ、新王子製紙が誕生する。この時合併の任に当たったのが藤原である。

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 同市史には不況の中の富士製紙江別工場の写真も掲載されていて、王子製紙と合併する前には富士製紙の工場であったことが分る。戦時中は木製戦闘機も作られた工場であり、キ106戦闘機のモデルが同社の応接室に飾られてあった。百周年を迎えたこの工場はいろいろな出来事があったのだとの思いが強かった。

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