石川啄木は一九〇七年九月十四日から二十七日まで札幌に滞在した。時に二十一歳である。この二週間ほどの滞在であるにもかかわらず、札幌には啄木の像や歌碑を散見することができ、今でも人気の歌人である。
啄木の腰掛けた姿のブロンズ像と歌碑が大通公園にある。歌碑には札幌の街を詠んだ三行詩(短歌)
しんとして幅廣き街の 秋の夜の 玉蜀黍の焼くるにほひよ
が刻まれている。「石川啄木歌碑」の揮毫は歌碑建立当時の板垣武四札幌市長であり、歌の文字は札幌在住の書家中野北溟が筆をとっている。大通公園のトウキビ売りは札幌の秋の風物詩になっているけれど、啄木が居た当時の札幌でもトウキビを焼く匂いが街の路地にでも漂っていたのだろう。
写真の啄木像は春先のもので、トウキビの匂いは辺りにはない。「春先は 何がにほふか 枯れ木立」である。この写真の背後にある北海道旧拓殖銀行本店の建物は、北洋銀行大通支店となり、現在は建替えのため取り壊されてない。啄木の像の方はそのままである。このブロンズ像は坂坦道が制作している。坂は、月寒展望台に立っていて、今や札幌のシンボル的像にもなっているクラーク博士像も作っている。
ブロンズ像は、元になる像から石膏で型を取り、ここに銅の合金を流し込んで作るため、何体か同じ像が作られる。大通にある啄木像と同じものが「財界さっぽろ」社の社屋内にもある。大通りの啄木像は雨や雪により緑青が像の表面を覆っているのに対して、屋内にある像は作られた当時の色を残しているようである。
啄木の胸像が街路からビルへの通路部分にあるのはあまり知られていない。JR札幌駅の西口に面した、昔は路面電車が走っていた通りを北に少し進んだところにあるビルの一階のオープンスペースに、ガラスのケースに入った啄木の胸像が置かれている。どうしてこの場所かというと、啄木が札幌を訪れた時の下宿先が北七条西四丁目四番地田中サト方で、胸像の置かれている場所であったことによる。
この像と一緒に、啄木が勤務先の新聞社の「北門新報」に寄稿した「秋風記」の一部が記されていて、「札幌は寔(まこと)に美しき都なり。」の一節がある。現在は、この辺りはJR高架下の繁華街が鼻の先にあって、詩人が美しいと感じた昔の札幌の面影はない。
天神山緑地の平岸天満宮の裏手に、札幌平岸林檎園記念歌碑として啄木の次の三行詩の歌碑がある。
石狩の都の外の 君が家 林檎の花の散てやあらむ
ここで、君が家と歌われたのは、函館で啄木が代用教員をしていた時に思いを寄せた橘智恵子の実家のことである。智恵子の父の橘仁は札幌元町でリンゴ園を経営していて、当時のリンゴ園があった場所にリンゴ栽培の功績を顕彰する「林檎の碑」が建っている。この碑の碑文の最後の部分に上記の啄木の歌が記されている。
歌に詠まれた智恵子とはどんな顔をしていたのだろうか。林檎の碑のあるところから歩いて十分ぐらいのところに、札幌村郷土資料館がある。庭にはこの地に役宅のあった札幌開拓の功績者、幕吏大友亀太郎のブロンズ像や、この地がかつて玉葱の産地であったこともあり、玉葱記念碑がある。この資料館のガラスのケースに智恵子の写真を見つけた。
昔の人の写真なので、現代の女性のメークとは異なっている。しかし、恋多き啄木が思いを寄せた女性であれば美しかったのだろう。啄木の札幌での足跡を辿るようなところに入り込んで智恵子に行き当たり、古い記録や民具で埋まる資料館でこの写真に出会ったときには、ああ貴女が、という思いが強かった。