2011年01月31日
雪の中に残っているツリバナの果皮
ツリバナの実は面白い変化をする。最初、赤い果皮で覆われた球状の実が枝にぶら下がる。次にこの果皮が割れ、赤い仮種皮に包まった種子が吊下がる。この種子は鳥に食べられるか地面に落ちてしまう。果皮の方も大方は落ちるかして消えてしまうのに、雪景色の中で、取り残されてように枝から下がっているものがある。5裂に割れた果皮が、雪の他に目に入るものもない積雪の上にある。こんな状況で上から写真を撮ると、果皮が黒ずんで写るので、笹の葉を下に置いて撮ってみる。
笹の葉で 雪の輝き 消して撮り
ツリバナの 果皮青空に 赤く見え
2011年01月30日
朝日に照らし出される街と山
日の出を狙って、小高いところから西野の街と、その先に広がる札幌の西区と北区方面の街並を撮ってみる。西野の街を囲むようにしてある三角山の、山の外れの方から朝日が上ってくる。屋根に雪を乗せた家々はまだ山の影の中にある。雪が舞っているせいか、空中に白いものが浮かんだようになって写っている。平地の街の方には、既に朝日が届き始めていて、都心部の高いビルは朝日の中にある。札幌の北の彼方の山塊が、シルエットになって、大都会の朝の景観を構成している。
山陰で 日の出遅れて 西野の地
北の方 遠き山塊 シルエット
赤ら顔の猿の居るオオカメノキの葉痕
オオカメノキの名前は、葉の形が大きな亀に似ていることからきている。白い花が集まって咲き、中央は小さな花でその周囲を大きな装飾花が囲んでいる。小さな花の方は両性花で赤い実が生るのに対して、装飾花の方は実が生らない。オオカメノキの葉痕は、赤ら顔の猿であろうか。それも顔全体が赤いのから目鼻の辺りが赤くなっているものと様々である。細い幹にある葉痕を接写するのは、骨が折れる作業である。何度もカメラで撮ったせいで、猿の顔を赤らめさせたみたいである。
亀名木に 赤ら顔猿 棲みて居り
撮影が 目鼻の周り 赤くさせ
2011年01月29日
枝に残るエゾノコリンゴの萎びた実
果肉の水分が飛んだ、萎びた実を委縮実とは表現しないだろう。しかし、雪の季節なのに枝に残り、果肉が消えて皺の皮のみの実を表現する適当な言葉がないので、委縮実としておく。名前の通りリンゴの仲間で、夏に白い花が密に咲き、秋になると小さな実が生る。大方の実は落ちてしまうけれど、枝に下がったまま委縮実になるものがたまにある。背景が一面の積雪だと、実の赤色がきれいに写らないので、笹の葉で積雪からの照り返しを軽減させながら、赤が冴えた実を撮ってみる。
果肉消え 委縮実なれど 色の冴え
花柄(かへい)消え コリンゴの実の 空に浮き
クリオネにも見えるオニグルミの葉痕
若木では、猿か羊の貌に見えるオニグルミの葉痕は、幹が太くなっていくに従って幹の表面で拡大して行く。この段階では幹に羽根を広げて止まっている蝶か蛾のようにも見える。良く知られるようになった、オホーツクの冬の海に棲むクリオネのイメージにも重なる。さらに幹が太くなると、葉痕も薄れて、輪郭だけが残っている。こうなると、体が透けた感じで、ますます透明な体のクリオネみたいになってくる。クリオネはクリオネ・リマキナの学名の動物性プランクトンである。
葉痕を クリオネ見立て オニグルミ
クリオネの 透明体が 幹にあり
2011年01月28日
隠れたようにあるアジサイの葉痕
アジサイは草花の印象が強く、木の感じがしない。しかし、葉が落ちてしまっても茎が残り、これからまた芽が出て葉が広がり、花が咲くので、木には違いない。アジサイの葉痕は、冬芽の近くに隠れるようにしてある。維管束の跡が目鼻になり、葉痕の輪郭が猿の貌に似た形を作っているのは、多くの葉痕に共通している。アジサイの細い茎に現れる猿の貌は目鼻が小さく、小猿と表現してよさそうである。雪の中、枯れ木に見えるアジサイには、早くも冬芽が成長し始めていている。
冬芽下 小猿隠れて アジサイ花(か)
輪郭を はっきりさせて 小猿貌
マメ科を証明するようなイタチハギの実
イタチハギは原産地が北米とメキシコで、落葉低木である。花が咲いた時動物のイタチの色に似ていることからの命名であるらしい。土木工事などで生じた法面(のりめん)の緑化に用いられて広まった。花は遠くから見ると黒褐色に見えるけれど、近寄ってみると、紫の筒状の花に褐色の蕊(しべ)(葯)が顔を出している。マメ科の植物であり、花が全部実に成っていく。雪道で実をたわわにつけたイタチハギの写真を撮ってみると、確かに鞘豆が枝に鈴なりに生っているようである。
花よりも 実がイタチ色 イタチハギ
鞘豆の 鈴なりに見え マメ科なり
2011年01月27日
雪まつりの雪像造りレポート
札幌市の観光公式サイト「ようこそさっぽろ」のブログの書き手の一人で、ボランティアで取材と原稿書きを行っている。ブログなのに、原稿提出からブログに記事が載るまで2週間ほどかかる。
筆者の原稿を最初に受け取った企業の担当者が、体裁を整え、これをFAXかメールで市の担当者に送る。市の担当者は原稿をチェックして(検閲ですな)、何か不都合を見つけて、最初の担当者に戻す。その担当者から筆者に照会がきて、筆者が書き直すなり、新しい写真を加えるなりして戻す。これをまた中間の担当者が見て、市の担当者の了解を取って、記事としてブログに載せることになる。
さて、何かのイベント、例えば2月7日から始まるさっぽろ雪まつりの状況をレポートしようと、例え祭りの初日に原稿を提出したとしても、ブログに載る頃はイベントは終わっている。ブログの目的は、札幌市を訪れる観光客にイベントの様子でも伝えて、見どころを回ってもらうことにあるから、これでは意味がない。
イベントの予定を知らせて、昨年までの写真を使って宣伝するなら、ボランティアの書き手に頼むまでもない。こうなると、イベントの記事を書くなら、イベントの1~2週間前にイベントの準備状況でもレポートするしかない。
ということで、今年の雪まつりの大雪像が途中まで出来ているところを写真に撮ってきて原稿書きである。この原稿だってOKになる保証はなく、「中途半端な雪像の写真はNG」なんてチェックが入るかも知れないのである。さて、そうなったどうなるのか。雪まつりが始まってから改めて写真を撮り、原稿を書いて、雪まつりも後片付けが終わった頃に、昼行燈みたいなブログ記事が載るのかな。
赤味を帯びたハリエンジュ(針槐)の葉痕
ハリエンジュはニセアカシアの別名である。若木には鋭い棘があり、対になった棘の真ん中に葉柄が突き出していて、この葉が落ちると棘に挟まれて葉痕が現れる。棘が魚のエイが鰭(ひれ)を広げて、空中を泳いでいるようにも見える。本格的な冬に入る前は、棘は黒紫色であったものが、写真の撮り方にもよるけれど、赤味を帯びている。赤く写った写真葉痕と棘が、赤ら顔のマントヒヒの貌にも当てはめられそうである。ニセアカシアの花は、白い花が木全体を覆うようにして咲く。
空中を 泳ぐエイ似て 対の棘
マントヒヒ 貌を出したり ハリエンジュ
2011年01月26日
キツネザルの貌に当てはめたクズの葉痕
クズ(葛)は蔓が伸び、背の高い木と出会えば木に巻きついて成長する。菱状円形の大きな葉をつける。冬にはこの葉がすっかり落ちてしまい、蔓だけが残っていて、クズと判定するのが難しい。蔓の途中に現れた葉痕を見ると、猿のような狐のような貌つきである。実物を見たことはないけれど、写真で見るキツネザルにどことなく似ているのではないかと思って、葉痕には、無理は承知の上でキツネザルを当てはめてみる。蔓の表面に細かな毛があり、キツネザルの貌を覆う毛のようである。
キツネ目が 葉痕にあり クズの蔓(つる)
フォト比べ どことなく似て キツネザル
枝に半年残るナツツバキ(夏椿)の実の殻
ナツツバキの花は朝に開花して夕方に散ってしまう一日花である。花が咲いた状態で地面に散っていくので、味気ない。一日花と最初から知っていれば、庭に植えたかどうか。雪の季節にナツツバキの枝に殻が残っている。これは実の殻である。花弁の数に合わせて、5枚の殻がある。花が一日で落ちてしまうのに対して、殻の方は半年近くも枝にある。冬の木は枯れ枝ばかりで殺風景なところ、殻でも枝にあれば注意がゆく。近寄って殻を撮ってみると、枝につけたアクセサリーである。
ナツツバキ 一日花で 殻半年
殻なれど 枝に着けたる 装身具
2011年01月25日
雪道でドライフラワーになったノリウツギ
雪の遊歩道を歩いていると、小さな実を囲むようにしてある花弁が、ドライフラワーになって落ちている。ノリウツギの実と装飾花のようである。花が生きている時には、小さな花を囲んで白い装飾花がある。中央の花は実になっても、装飾花は実には変化せず、花のままで残る。これが枝についたまま枯れて、枝ごと地上に落ちたようである。落ちたドライフラワーを近くの木の幹に差し、撮ってみる。撮影モードによる色の調子を変えながらの撮影である。それぞれに趣がある。
雪道で 拾い上げ撮る ノリウツギ
実も花も ドライフラワー 見上げ撮り
雪景色の中のハリギリ(針桐)の冬芽
雪を漕ぎ分けてのウォーキングを行っていると、雪景色の中に鋭い棘のあるハリギリの若木が目に入る。幹の先の冬芽は、黒ずんだ貌に角のある動物にも見えてくる。ハリギリの棘はこの冬芽を護っているかのようであるけれど、冬芽は堅そうで、動物や鳥に食べられそうには見えない。はて、この立派な棘は何を護ってあるのかな、と疑問である。山菜取りの時期、若芽は食用に供されることもある。棘は、人間による食害から身を護っていると考えてみても、それは理屈に合わない。
動物に 見立てた貌(かお)に 角(つの)のあり
ハリギリの 護りの棘の 役不明
2011年01月24日
雪の林で木の幹に現れる顔
雪で笹や藪の覆われた林の中では、積雪の上に高く伸びた木が目に入る。木の葉は落ちているので、夏には見過ごしている、幹の木肌に注意が行く。幹の木肌に、枝のとれた跡や亀裂などがうまい具合に組み合わさって人の顔が現れる。人の顔が様々であるように、幹に表れる顔も様々である。白樺の幹の顔は、白い木肌が白粉で化粧した女性の顔である。木の種類ははっきりしない、縦の皺が目立つ木肌にある顔は、男性の顔である。それも顔の皺から森に棲む仙人の顔にも見えてくる。
白粉を つけたる如き 女性顔
仙人が 幹に現れ 顔の皺
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蔓(つる)植物が作る雪中の芸術
蔓植物とひとくくりで言っても、色々な種類がある。自分自身が木でありながら、木の幹に巻きつき、幹に食い込んでいる太い蔓もあれば、草が蔓状になったのもある。いずれにせよ、蔓は何かに絡みつかなければならない。山の雪の中で見た蔓は、絡みつく対象を見失って、身もだえするかのように、自身が空中で曲がりくねって垂れている。野ブドウの蔓のようにも見えるけれど、はっきりしない。自然にこの形なったのだろうけれど、芸術家の手になる造形のようにも見えてくる。
絡みたき 相手の消えて 蔓もだえ
自然技 蔓の造形 雪の中
2011年01月23日
雪の西野市民の森散策
昨日(1月22日)は天気も良かったので、西野市民の森散策である。宮丘公園に遊歩道の入口があるのだが、雪で覆われているこの季節、遊歩道から外れたところから市民の森にアクセスする。住宅街に隣接した山への道は途中まで雪道がある。
登山靴にスパッツをつけて雪を漕いでゆくので、雪に埋まってしまう。誰も歩いていないので、足跡は自分のものだけである。この辺りで狐を見かけたのだが、カメラを構える間もなく、視界から消えてしまう。
かすかに残っている山スキーの跡を辿っていくけれど、これは道なき道を雪を漕ぎ分けていくみたいなものである。途中、幹から折れた木などが雪を被っている。
見晴らしの良いところから西野の街を見る。望遠レンズで雪に覆われた街を撮ってみる。写真に我が家も確認できる。
途中から本来の遊歩道に出たみたいで、足跡が続いている。この市民の森は「王子緑化」の所有の土地らしく、木に会社のラベルが貼ってあった。
遊歩道の出口(入口)の所には看板がある。宮丘公園まで2000mの距離が記されているけれど、ここから宮丘公園まで通して歩いた人の足跡はなかったはずで、途中でどこかの出入口につながったルートが利用されているのだろう。小屋のようなものはトイレである。遊歩道入口付近には車が駐車していて、歩くスキーや山歩き目的の人達の車のようであった。
野猿が棲むオニグルミ
北海道には野猿は居ない。しかし、雪の季節山歩きで、猿を探すことがある。猿といっても、木に顔だけを出している猿である。オニグルミの枝先や中間部分にある冬芽や葉痕は、猿の顔にそっくりである。これらの猿には位があるみたいで、若木の幹先にある猿は、冠を戴き長(おさ)のようで、中間にあるものは下部の猿と表現できそうである。雪の季節、幹と枝しかない木々は、遠くからは同じようにしか見えないけれど、近づくと猿の顔があったりして、冬の山歩きを楽しめる。
雪道に 野猿が顔出す オニグルミ
位(くらい)あり 下に控える 下部(しもべ)猿
2011年01月22日
どうしん鉄道研究会
すっきりした境内の下野幌八幡神社
厚別川は名前から厚別区を流れているように思われるが、厚別区と接する白石区を流れる川である。厚別区を流れる川は野津幌川と小野津幌川である。野津幌川の東側はもみじ台で西側が青葉町となる。野津幌川の両岸に沿って緑地が整備されていて、青葉町側の緑地の近くの高台に神社がある。
創祀は1891(明治24)年頃に遡り、この地への入植者が稲荷神社を建立したのが始まりである。1900(明治33)年に現在地に社殿を建て、八幡神社になっている。現在の社殿は1978(昭和53)年に建てられたもので、祭神は稲荷神である。
石段を登ると新しそうな鳥居と、その傍に軟石製の社名の石柱がある。登り坂をさらに進むと社殿が現れる。社殿の周囲に造作物はなく、すっきりした境内である。祭神が稲荷神でも稲荷神社の赤色は視界に入らない。
野津幌の 川を見下ろし 稲荷神
境内に 見るものなくて 八幡社
2011年01月21日
ミイラ化したサクランボの実
冬のサクランボの果樹園を、雪を漕ぎ漕ぎ歩いていると、サクランボの実がミイラ化して枝に残っているのが目に入る。このような状態になった実を何と表現するのか、適切な言葉が出てこない。果肉の水分が飛んで、皮と果肉の干からびたものが残った状態が、木の実のミイラのように見えるので、この表現を用いている。果肉の部分が落ちて、種が剥き出しになって枝にぶら下がっているのもある。実が鈴を下げたように見えるスズカケの木をサクランボが真似したかのようである。
サクランボ 実はミイラなり 冬果樹園
スズカケを 真似したように 種子下がり
川下公園に隣接する川下八幡宮
白石区川下地区に川下公園がある。この公園はライラックの森と呼ばれる樹木園があり、札幌市の木であるライラックが約200種、1700本が植栽されている。園内の施設として、温水プールのあるリラックスプラザやパークゴルフ場、テニスコート、野球場もある。この公園の東側の縁を道路が通っていて、この道路に面して八幡宮の名前の神社がある。
神社の由来が見あたらないので、インターネットで検索すると、1890(明治23)年創祀で、下厚別八幡宮と呼ばれていたようである。神社の裏手に厚別新川が流れており、この川を境にして東側は厚別区の厚別町山本がある。この山本は開拓者の姓に由来しており、厚別区には山本稲荷がある。稲荷社と同様に山本神社であった記載も見えるけれど、地図には川下八幡宮と記されている。
最小限 社殿と鳥居 神社なり
境内は道路脇の広場で、鳥居と社殿が有るだけの殺風景なものである。付属物を除き、ここまで境内を簡素化した神社も珍しい。社殿の正面に掲げられた扁額には、上手とは言い難い書体で、八幡宮の社名が見える。鳥居の向こうには、道路を挟んで川下公園の立木が見えている。ライラックの咲く季節には、この鳥居までライラックの香りが届くのなら、境内の殺風景も救われるのにと思ってしまう。
誰記(しる)す 文字の拙く 八幡宮
2011年01月20日
薬漬け
白内障の手術を受けてから今日で1週間である。手術を受けた左目に少々違和感があるけれど、視力が回復した。裸眼でもパソコンに文字を打ち込める。術後1週間経てば普通の生活に戻ってよいと指示されているけれど、薬漬けである。記録のため、現在1日4回つけている目薬の写真である。
左からカリ-ユニ(老人性白内障治療点眼剤)、フルメトロン(抗炎症ステロイド水性懸濁点眼剤)、クラビット(広範囲抗菌点眼剤)、ジクロード(水溶性非ステロイド性抗炎症点眼剤)である。1回で5分おきに点眼する必要があるので、タイマーをセットしておいて点眼する。細切れの時間なので、細切れに目を通しても支障のない読み物に目を通す。それにしても面倒である。
面倒な事は寝ている時にもあって、特製のプラスチック眼帯を絆創膏で術後の目を覆っておき、寝ている間に目をこすらないように防護する。この奇妙な形の眼帯ともお別れである。外出時には、紫外線から目を護るためのサングラス装着というのもある。病気をすると薬漬け、装置装着で、これからこんな状況は日常の一部になってゆくのかな、と漠然と思っている。
肩身の狭そうな中沼神社
モエレ沼公園を囲むように中野幹線道路と三角点通がつながっている。道路のある地区は東区中沼町である。中野幹線道路沿いに中沼小学校があり、同じ道路沿いに小学校から少し離れて中沼神社がある。神社にも中沼の地区名があるので、昔からこの地区は中沼と呼ばれていたかと思っていると、中沼小学校が地区名の発端になっている。
もともとモエレ沼の西は「中野」、東は「沼の端」と呼ばれていて、1948(昭和23)年この地区に小学校が新築された時、新校名でこの両地区の住民に意見が対立した。折衷案として中沼小学校に決まった経緯がある。この校名から地区名が中沼となり、中福移も含めてこれらの地区が合併し、中沼町となっている。
部落の合併に伴い、中野と沼の端にあった神社も一緒になり、中沼神社となっている。1966(昭和41)年に小学校の新築移転に伴って、神社は現在地に社殿を新しく建て、篠路神社の飛地境内神社となった。祭神は天照皇大神と天香山命である。
路地奥に 肩身を狭め 社(やしろ)あり
神社は保育園と民家の間に挟まれてあり、道路に面した鳥居を見逃しそうになる。狭い路地奥にあるような神社を見ると、肩身が狭い感じが漂ってくる。地区の名前を折衷案で決めた経緯が、この肩身の狭さになって表れているのかとも考えてしまう。手水舎が有るだけで、石碑の類も見当たらない。神社の鳥居からは中野幹線道路の向こうに広がる畑が、雪を被って広がっているのが見えている。
手水舎も 社殿も被る 綿帽子
鳥居見る 中沼畑地 雪野原
2011年01月19日
雪景色の中の木々
雪の無い時に散歩道にしている山道は、深い雪の中に埋もれていては通る人も居らず、どこが道かもわからない。膝まで雪で埋まる積雪を漕いで行きながら、目に留まる木を撮ってみる。白樺の木は雪が木に成長したように見える。葉を落とし幹だけになった木は、一般に黒い幹を晒しているけれど、白樺の白い幹は雪の景色の中で映えている。枝を広げた大きな木があるけれど、葉が無いので何の木かわからない。太い枝に雪が積もっていて、白い衣装をまとっているかのようである。
白樺は 積雪伸びて 白き肌
大雪が 木に贈りたり 雪衣装
碑の目立つ藻岩神社
地図を見てこの神社に行こうとすると、迷いそうになる。神社の裏手にあたるところに幹線道路の中ノ沢南沢通があり、こちらから神社に行こうとすると、坂を下り住宅街を抜けて行く必要がある。神社は東を向いているので、東側からアクセスしようとすると、こちらは迷路のような住宅街を通って神社に辿りつくことになる。神社は裏手の山林に囲まれるようにしてある。
創祀は1896(明治29)年大山祇神を祀ったことに遡り、山之神社と呼ばれていた。1904(明治37)年社殿を造営し、倉稲魂神と猿田彦神を合祀して本通神社に改称している。1942(昭和17)年に藻岩神社と改称して、1970(昭和45)年に現在地に移っている。
境内は東側に広場があり、鳥居の下から登りの石段が続いていて、社殿がある。石段の横には石碑が置かれていて、その一つは社殿の近くの上部が三角形創祀の山之神社碑がある。その他にも猿田彦之命碑や安斉幸作翁顕彰碑もあり、碑の目立つ境内という印象である。
石段が 登りを誘い 社(やしろ)有り
山神碑 山を模してか 三角形
2011年01月18日
カラマツのあるモノクロームの世界
手稲山の裾野の西野の地に住み始めた頃は、近くのカラマツ林も林と形容しても違和感がなかった。それが林の周囲に家が建ち始め、それに反比例してカラマツの本数が減ってゆき、今では立木の集まりぐらいで、林とは呼べそうにもない。雪の季節には白黒撮影の方が味が出るかと、モノクローム撮影のモードを選んで撮ってみる。黒々としたカラマツの向こうに、雪に埋まった街が見え、さらに街の彼方に三角山や盤渓のスキー場が見えている。この風景に緑が戻るのは未だ先である。
カラマツの 林を食いて 家迫り
カラマツの 樹間遠くに 雪斜面
丸千坂のある札幌藤野神社
藤野と簾舞の地区が隣り合うところで、国道230号と豊平川の間に道路がある。国道が出来る以前の旧道で、簾舞通行屋もこの道路沿いにあった。通行屋は旧黒岩家住宅として保存、展示されている。この道路の藤野側に藤野神社があり、藤が丘高台公園にある藤野神社と区別して、こちらは札幌藤野神社と呼ばれている。
神社は道路から坂を登ったところにある。この坂には看板があって、坂の名前が○で千の字を囲んだ丸千坂となっていて、その由来が記されている。この屋号を持つ松沢松之助が、1883(明治16)年、この地で開拓に着手した由来からの命名である。
立看に 丸千坂の 由来あり
坂を登って行くとまず木の鳥居がある。鳥居の傍の看板にある神社の略記によれば、設立は昭和36(1961)年で、祭神は北海道神宮と同じ4祭神である。神社としては新しいものである。木の鳥居に続いてコンクリート製の鳥居があり、その奥に朱塗りの屋根と扉の社がある。狛犬は居らず、目立ったものの無い境内である。境内の隅に「藤野開基百年記念碑」が設置されている。
藤野は「藤の沢」と「野々沢」の頭文字を採って新しく命名された地区名で、1944(昭和19)年に地区名に採用されている。かつて、この地で伐採された木材で漁船が造られ、その船が石狩の海での漁に利用された歴史がある。
社(やしろ)屋根 朱塗りが冴えて 藤野の地
2011年01月17日
フクロウの置物のある札幌御嶽神社
中央区宮の森と西区小別沢は小別沢トンネルでつながる。このトンネルから小別沢に出て、福井地区に抜ける途中にこの神社がある。御嶽神社は吉野金峯(きんぶ)山寺蔵王権現堂を総本社にしたものと、木曽御嶽神社の分社・末社があり、前者は「みたけじんじゃ」、後者は「おんたけじんじゃ」と呼び方で区別している。札幌御嶽神社は「おんたけ」と発音しているので、木曽御嶽神社の系列につながるのだろう。
社殿正面に社名と祭神名の看板がある。祭神は、主祭神が御嶽大神(おんたけおおがみ)で、他に大己貴命(おおなむちのみこと)、国常立命(くにのとこたちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)である。これらの看板の下に、狛犬ならぬ、木彫りのフクロウが置かれている。神社を護るための置物か、単なる飾りかははっきりしない。
祭神が 看板にあり 御嶽社
フクロウは 飾り護りの 役不明
社殿から鳥居を見ると、鳥居の彼方に階段状の採石場跡のある五天山が見える。現在はこの山裾の福井側は五天山公園になっている。五天山の右側には手稲山が見えている。神社が小別沢の小高いところにあるので、境内からの眺めが良いのが印象的である。
西見れば 鳥居にかかり 五天山
雪で覆われたモエレ沼公園
モエレ沼公園は夏と冬では景観が随分と違ってくる。夏の芝生の緑と水の流れが一面の雪野原に変化している。雪で覆われた大地とその上に広がる空の境目に松並木が続いていて、これが天地を分ける境界線を太めに描いたようになっている。この境界線が緩やかなカーブを描いて盛り上がり、人造のモエレ山の稜線になって行く。木も造形物も無いモエレ山の山腹に、幾筋もの滑降の跡がある。スキーやソリに興じてできた跡で、雪遊びを楽しんでいる人たちが点のように見えている。
空と地を 分ける地平の 松並木
山腹に 滑り筋見え 雪遊び
2011年01月16日
灯篭の鹿が護る十軒神明宮
東区と北区の区境を横切る伏籠川は、南東から北西に流れる直線状の川である。この伏籠川に並行して道道273号の花畔札幌線が延びており、道路に沿って北区上篠路の十軒こまどり団地がある。団地の近くで、道路と伏籠川の中間に神社の十軒神社の境内がある。
社名の石柱には十軒神社とあるけれど、鳥居のところには神明宮の額があり、十軒神明宮が正式の神社名のようである。神社名に「宮」がつくのは、天満宮はときどき目にするけれど、神明宮は珍しい。創祀は1898(明治31)年に遡り、篠路村十軒地区の入植者が篠路神社の祭神の天照大神の分霊を祀ったことにある。1926(大正15)年に社殿を造営し、現社殿は1981(昭和56)年に新築されてものである。
境内には「十軒開基120年」碑が建立されてある。碑文には、南部藩士の家族十軒が、1871(明治4)年にこの地へ入植したとある。地名の十軒はこの入植者の軒数に由来している。琴似八軒、二十四軒などにも、入植者の軒数が地名として残っている。
神明宮 鳥居に架かり 上篠路
境内には札幌市の保存樹木があって、樹齢90~100年のイチョウ、100年以上のキタコブシがある。保存樹の他に目につくものは、鹿の浮き彫りのある軟石製の石灯籠がある。狛犬の代わりに、鹿が神社を護っているようである。神社に隣接して、地区住民の交流センターになっている十軒会館がある。境内の周囲には畑地が広がっている。
狛犬に 変わりて鹿が 社(しゃ)を護り
今朝の一枚(2011年1月16日)
ヤマガラの 朝食見たり 梢上
曇り空であるけれど風がなく、この2,3日では温かい朝である。梢に鳥がいる。見た目では判定出来なかったけれど、撮った写真と野鳥図鑑を比べると、ヤマガラらしい。木の芽でも食べているらしく、数羽が枝々をせわしなく飛び交っている。
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- by 秘境探検隊長
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冬のモエレ沼公園
冬のモエレ沼公園に写真を撮りに出向いてみる。雪の季節には、公園の芝生は雪で覆われ、見渡す限りの雪原に変わっている。この雪原は、冬のスポーツや遊びの場所にもなり、歩くスキーや雪漕ぎをする人の姿が近くに遠くにある。雪原を背景にしたガラスのピラミッドが、氷で造られた構造物のようにも見えてくる。建物のガラスが青空を反射させると、青空を掬い取った容器とでも表現したくなる。晴れた冬の休日、この公園では、市民が思い思いの方法で冬を楽しんでいる。
滑る人 氷建物 目に捉え
青空を ガラス容器で 掬い取り
2011年01月15日
力石のある福住厳島神社
地下鉄東豊線の始点駅の福住駅から南方向に福住中央通が延びている。この通りと羊ヶ丘通が交わるところにこの神社がある。鳥居と社殿があり、由緒を書いたプレートが設置されている。それによると、創祀は1884(明治17)年に広島県厳島神社と稲荷神社の二神を祀ったことに始まっており、1903(明治36)年に諸事情で月寒神社になった。本家の厳島神社と名前が一緒にならないように、社名に冠されている福住の地区名は、1944(昭和19)年に生まれている。
現在の神社は、1992(平成4)年改めて広島県厳島神社、札幌伏見稲荷神社、さらに1996(平成8)年京都北野天満宮より分霊を受け、祭神としている。現存する社殿は1900(明治33)年の建立で、改修部分はあるけれど、福住地区の最古の建物である。境内に隣接して開拓記念館があり、地区の歴史を語る展示物が並べられている。
新しき 造作も見えて 地区最古
境内には狛犬も居らず、これはといって目に留まるものはない。そんなところに、「とよひらふるさと再発見」の指定を受けた力石があった。明治時代に作られた各種青年の団体の行事での力比べに使われた石である。石の表面に二十八貫の文字があるので、105 kgの重さである。この重量の石を持ち上げられるものかと思って見ると、力石の台座のところに、肩まで持ち上げに成功した人の名前が刻まれている。力持ちが居たものである。
石一つ 力比べの 娯楽なり
ようこそさっぽろブログ更新
札幌市の観光公式サイト、「ようそこそさっぽろ」のブログの担当部分の、今年最初の更新がありました。花から都市秘境のテーマにして、琴似の屯田兵屋を取り上げてみました。ただし、都市“秘境”の言葉はチェックが入り、没です。
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- by 秘境探検隊長
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2011年01月14日
クラークの 見つめる先に 学未来
北大の象徴的な一画は、中央ローンの北西の角にあるクラーク像の周辺一帯である。正門から中央ローン沿いに来ると、クラーク像前のロータリーに入る。南方向にはクラーク会館への道、西側に農学部の建物、北側にはメインストリートが延びている。近くには明治42(1909)年に建てられて古河記念講堂もあり、明治の名残を残している。学内の交通の要衝で見張りをしているかのような像になったクラーク博士は、北大の進路の方向を示す存在として、ここにあるようにも見えてくる。
象徴の 一画撮りて 雪光り
クラークの 見つめる先に 学未来
北海道開拓の功労者を祀る開拓神社
北海道神宮の末社で、社殿は神宮の境内にある。北海道長官の提唱で1938 (昭和13)年に建立され、北海道開拓の功労者が祀られている。祀られている諸神は37柱を数え、日本史上の歴史的人物が名前を連ねている。
祭神の中には、樺太探検で間宮海峡の名前を留めている間宮林蔵、日本全国の地図を作った伊能忠敬、ロシアと交渉を持った廻船問屋の高田屋嘉兵衛らの名前がある。北海道開拓の立役者としては、初代開拓判官島義勇、開拓長官黒田清隆、初代北海道庁長官岩村通俊、屯田兵の父永山武四郎、家臣団と当別に入植した伊達邦直、十勝開拓功労者依田勉三らの名前がある。例祭日は8月15日で、この日は蝦夷地から北海道と呼び名が変わった日であり、祭神の一人の蝦夷地探検家の松浦武四郎の提案「北加伊道」に由来している。
社殿は本殿の前に壁の無い、柱と屋根だけの部分があって、普通の神社の作りとは異なっている。雪の季節には、積もった雪が屋根の輪郭を際立たせている。開拓時には難儀の対象であったろう雪を、屋根の雪で象徴させているかのようである。壁の無い屋根の下からは、北海道神宮境内の道行く人を見ることができる。神社の入口を横切り、瞬時に視界から消える人の影の写真を撮ってみる。
象徴は 雪積み屋根で 開拓時
社殿から 撮る人影の 瞬時像
2011年01月13日
雪外套をまとったナナカマドの実
雪の季節の木々は黒い木肌を晒している。雪の作り出す白い背景の中の黒い木肌は、モノクロームの世界の役者たちである。その中にあって、例外的な存在はナナカマドである。雪の季節が進行しても、赤い実が枝から下がっている。木肌が家の壁に近い色だと、枝が壁の色で隠され、ナナカマドの実が雪を被って空中に浮かんだように見える。実に雪が積もってくると、ナナカマドの実が着けているものは、白い外套のようで、外套に包まった赤身が、わずかに見えているようになる。
降る雪を 赤い実受けて 浮飾り
雪外套 赤身隠して ナナカマド
三角山から探す我が家
冬は、山道に沿った立木の葉が落ちてしまっているので、下方に広がる街並みが、枝の間からよく見える。自宅から良く見える三角山であれば、逆に登山道からは自宅が見えることになる。しかし、山は全体が大きく見えるのに対して、山から見下ろした自宅がどれであるかはっきりしない。望遠レンズを使って撮影した画像を、帰宅後にパソコンで見ると自宅が確認できる。さらに拡大した画像を見ると、自宅前の道路を歩いている人の姿も確認でき、このレンズの性能には感動する。
我が家を 見下ろし探す 目の泳ぎ
感動は 人影認め 拡大画
2011年01月12日
雪の花咲く三角山
成人の日の翌日は天気が良く、三角山に登ってみる。世間では、三連休後の今日から仕事が始まっている。その日の思いつきで行動ができる身分であれば、予定の心配などなく、即山登りである。この山の登山者は多いようで、登山道の雪道は固まっている。登山者も目に入る。木々の枝に雪の塊が張り付いていて、まるで雪の花が咲いているようである。標高311 mの文字のある頂上の標識から、大都会札幌を見下ろしてみる。雪化粧の街は彼方で、雪の花と見分けがつかなくなっている。
好天が 山に誘いて 雪の花
雪の花 境をぼかし 山と街
三角山から見る山々
三角山からは色々な山が望める。近くに大倉山、円山、少し離れて藻岩山を下に上に眺めることができ、山見の山とでもいえそうである。遥かに見下ろせる山に、東区唯一の山である、高さ62 mのモエレ山がある。イサム・ノグチが設計したモエレ沼公園の中心的な造形で、望遠レンズを用いて撮った写真には、雪で覆われた円錐形が写っている。モエレ山の横には、雪化粧のプレイマウンテンの隆起も見える。西野や平和の街に覆いかぶさるようにしてある、1024 mの手稲山も視界に入る。
ビルよりも 低き山なり モエレ山
山頂見 可・不可反芻 冬登山
2011年01月11日
カップルの神社巡りに出会った札幌鑛霊神社
北海道神社末社のこの神社は、北海道神宮境内にある。由来を書いた看板を読むと、北海道開拓の先駆をなした鉱業に従事し、その発展に貢献してきた殉職者を祀ってある。札幌鉱山局長らの提唱で鉱霊社が建立され、1943(昭和18)年に第1回目の合祀祭が行われている。北海道神宮の末社として同神宮の境内に移されたのは1949(昭和24)年で、現在の社名になっている。
神社は北海道拓殖銀行の物故者を祀ってある穂多木神社と並んでいる。穂多木神社とほぼ同じ規模と造りであるけれど、穂多木神社には金属製の狛犬が居るのに、鑛霊神社には狛犬は居ない。小さな社が橙色に塗られた鳥居と柵に囲まれてある。鳥居を赤くしなかったのは稲荷社と間違えられるのを嫌ったせいかな、と思ってみる。
元日に訪れた時、神社の前に若いカップルが居た。多分、北海道神宮の初詣に来て、境内の末社巡りをしているのだろう。観光の乗りの神社巡りが、若い人にひそかに広まっているとの話を聞いているけれど、案外その手の若者なのかもしれない。
橙色(とうしょく)で 稲荷社避けて 鉱霊社
カップルの 神社巡りは 流行りなり
雪道の続く北大構内
北大の構内は広く、夏は自転車が幅を利かす。しかし、雪の季節にはさすがに自転車は姿を消して、歩きに変わる。恵迪の森からサッカー場、陸上競技場、サークル会館、恵迪寮と続く道は、吹雪くと歩くのが難儀である。しかし、晴れた日に、広がる雪原や雪の花が咲いた林を横切って歩くのは爽快である。除雪が行き届いて、雪に足をとられることがないと、周囲の雪景色を堪能できる。雪道に沿ってあるモミジバスズカケノキやイチョウも、緑や黄葉に代わり、雪が枝を飾っている。
歩く目に 留まる雪原 競技場
スズカケも イチョウもありて 雪の道
2011年01月10日
原始林の端にある恵迪寮歌碑
成人の日の1月10日は、荒れ模様の天気予報に反し、青空が広がっている。この機会を有効に利用しようと、北大まで写真を撮りに行く。恵迪寮の寮歌碑は、構内の原始林の端にあって、歌碑のところから原始林を貫く道が二手に分かれて延びている。除雪もきちんと行われている。歌碑は明治45年度の寮歌であるけれど、別の寮歌に「原始の森は暗くして」の一節がある。しかし、環境整備が進む構内には、今や暗い原始の森は残っておらず、葉を落とした木々のある明るい一画である。
分かれ道 歌碑が要の 原始林
歌い継ぐ 名歌の歌碑や 綿帽子
雪の中の琴似屯田兵村兵屋
地下鉄東西線の琴似駅から琴似栄町通に沿って少し歩き、通りから脇道に入ったところにこの国指定の屯田兵村兵屋の史跡がある。屯田制度が始まって第一番目に組織された兵村の兵屋である。年末まで修復工事をしていたのが完成して、年明けから公開されている。警備員も傍の小屋に詰めるようになって、コストのかかる文化財に生まれ変わったみたいである。以前と比べると、木の壁が黒っぽい色になっている。兵屋の周囲に積もった白雪との対比で、余計壁の黒さが目立っている。
白雪に お披露目なりて 黒化粧
暖房の いらぬ小屋なり 戸窓開き
2011年01月09日
雪の日の北大のメインストリート
北大のメインストリートはキャンパスの南北を貫き、見通しがよい。しかし、雪の日は道の先が霞んでいる。黒い肌のエルムの木々が、薄墨で描いたように視界に入ってくる。遠くになれば、雪でぼかされた薄明の世界に木立も消えていく。通りの傍にある古河記念講堂の白壁も、雪の白世界に溶け込んでしまっている。現代の景観が雪でぼやけて見えるせいか、この建物が建てられた時代にタイムスリップしたような錯覚に陥る。明治の雪景色も、現代と変わらぬものだったのだろう。
遠景の 木立の消えて 墨絵なり
降る雪が 時代をぼかし 明治なり
新雪の山道
8日は雪が降ったり、晴れたりだったので、スノーシューを装着して、新雪の上を歩いて、冬山登山訓練と決め込んだ。しかし、訓練とは程遠い、雪上だらだら散歩である。晴れると景色は良くて、大雪で、上から眺めると家々は雪を被っていて、典型的冬景色である。
行く方向の雪道を遠くから見ると、簡単に歩いて行けそうなのだが、新雪で固まっていな雪道歩行は簡単ではない。
スノーシューをつけていてもかなり深く雪に埋まってしまう。埋まった足を引き出すのに、雪の無い時に比べると、結構余分なエネルギーを消費する。
ちょっと小高いところまで行くのでも体力を使う。水平に近いところを1、2km程度歩くだけでこれだけ大変なら、1000m級の冬山は無理と思われる。冬は精々遊歩道散歩ぐらいか、と考え始めている。
野鳥が目につくのだけれど、撮ってみても木しか写っていない。足元も不安定だし、野鳥を撮るようなカメラを抱えている訳でもないので、野鳥に逃げられても当然である。
野鳥が撮れなければ、白ミンクを撮ってみる。こちらは動く気配がなくて、写真に収まった。スノーシュー訓練も写真撮影も中途半端で、運動不足解消に少しばかり役にたったと、強いて思ってみる新雪山道散策である。
2011年01月08日
産経ニュース(電子版)に都市秘境探検家として紹介されました
雪霞みの中の北大構内
最近はどこの大学でも大学グッズが流行りである。国立大学も法人化後は、大学の収入を少しで増やそうと、大学独自の商品開発を行って売っている。旗に「札幌農学校」とあるのは、北大グッズの菓子である。北大の最初の校名を菓子名にして、盛んに宣伝している。札幌農学校時代に昆虫学及養蚕学教室であった平屋の建物が、降る雪の中で往時の風景を偲ばせている。この建物は以前交流プラザとして、大学の案内センターの役目を負っていて、内では大学グッズが売られていた。
農学校 菓子名になり 雪構内
建学の 記憶の薄れ 雪霞み
2011年01月07日
やはり雪は降ります
北海道神宮の売り子巫女
北海道神宮の回廊には、神社グッズの売り場が設けられている。初詣期間ともなれば、この売り場に縁起物が並び、アルバイトの売り子が並んでいる。売り子は神社で仕事をしているので、巫女と呼んでよいのだろうか。神楽を舞うような本来の巫女ではないので、さしずめ売り子巫女とでも呼んでおく。巫女であることの指導を受けているのだろうか、髪は染めず、日本女性本来の黒髪である。現場主任らしい巫女の装束は、売り子の白装束と異なってピンク色で、髪飾りをつけている。
伝統で 黒髪並び 売り子巫女
髪飾り 売り場で目立ち 主任なり
2011年01月06日
元日の三吉神社境内に咲くみくじ花
三吉神社は都心に近いところにあるので、元日には多くの人が初詣に行っているかと思って寄ってみる。確かに参拝者は居るものの、予想したほどの人出ではなかった。おみくじ結びを行っている初詣の人が居るのは、正月の他の神社と変わらない。この神社には金属製の狛犬が居て、阿形の狛犬の大きく開いた口の上あごに4本、下あごに2本の牙が見える。これが吽形の狛犬の閉じた口には6本の牙が全部上あごから出ていて、これが気になって、元日の狛犬の写真の初撮影である。
元日の 棚に咲きたり みくじ花
狛犬の 牙確かめて 初撮影
行列を成す琴似神社の初詣
札幌市内の神社の元日の風景を写真に撮ろうと出かけてみる。琴似神社の境内には屯田兵屋が保存されているので、元日の兵屋の写真を撮ることを考えていた。しかし、兵屋に通じる門には施錠がしてあって、入れない。これは誤算であったけれど、予想をしていなかった別の風景に出合った。初詣客が、鳥居から拝殿まで、長蛇の列を作っているのである。元日の神社に人が集まることは想定していても、この人の列には驚いた。雪を背負った狛犬が、並んだ参拝者を見つめていた。
人の列 歩みの遅々と 初詣
狛犬も 防寒衣服 雪コート
2011年01月05日
琴似小学校の校木のケヤキ
琴似小学校と西区役所は隣接していて、小学校のグラウンドと区民センターが並んでいる。その区民センター横の通りの中央にケヤキの大きな木がある。何でこの木が道路の中央に残されているかというと、この道路の辺りはかつて小学校の敷地で、ケヤキの木は小学校の校木であった。区画を整理し、新しい校舎を建て道路を整備した時、校木は残そうとした結果である。秋には色づいて見事なケヤキも、冬にはすっかり葉を落として、雪模様の空の下で、黒々とした幹と枝を晒している。
校木の ケヤキ色付き 秋化粧
黒木肌 化粧の雪も 肌乗らず
開拓使ゆかりの札幌祖霊神社
西8丁目通は南7条のところで東本願寺の境内で途切れる。この通りに面して、南5条のところに札幌祖霊神社がある。創祀は1871(明治4)年に開拓使の要請で葬齋場に小祠を建て、開拓使長官黒田清隆の要請により1884(明治17)年改築し祖霊神社となっている。
屯田兵開拓移民の神道への改宗改葬の斎場の役目を持った神社である。1976(昭和51)年には拝殿と霊殿の増改築を行い、1981(昭和56)年鋼製鳥居を新築している。境内にある由緒書きによれば、祭神は天祖参神、天照皇大神、大国大神、産土大神(うぶすなのおおかみ)、天津神、国津神、八百万神で、副祭神は高霊神、各氏祖霊神となっている。これだけ神々が並べば、大方の神が編入されてしまう。第一八百万神となれば全ての神に通じる。
開拓使ゆかりの神社であることは、飾りつけられている幕や提灯に、開拓使の赤い星マークが描かれていることでわかる。社名の彫られた軟石製の石柱と並んで、境内を囲む軟石の柵がある。大きな柵の一つには「神人無別」とある。神と人は別物として分けて考える存在ではない、といいたいのか、どんな神でもどんな出生の人でも分け隔てなく受け入れる、というのか意味が良くわからない。
五稜星 目につく縁(ゆかり) 開拓使
入口に 神人無別 しばし考
他方の柵には「祭政一致」とある。現代の政教分離からいえば、過去の遺物が顔を出している。元日に訪れて写真を撮ったけれど、境内に参拝者の姿はなかった。
軟石に 祭政一致 時代なり
2011年01月04日
町内会館の内にある豊平川神社
豊平区水車町6丁目1番地に、地域住民の集会や活動に利用される旭水会館があり、この建物の中に神社が納まっている。会館の外壁に神社の由来記があり、読んでみる。1887(明治20)年、岩手県からの入植者が豊平川の氾濫防止を祈願して、郷里の水神を祀ったのが神社の始まりである。
1919(明治43)年、札幌神社(現北海道神宮)の宮司が「豊平川神社」と揮毫してからこの神社名が定着した。1971(昭和46)年、神社用地が札幌市の都市計画で道路用地とされたことから、町内会館とともに現在位置に会館と一緒になって移っている。祭神は水波乃命(みずはのみこと)(清い水の流れをいつまでも続くようにする神様)、御井神(みいのかみ)(天地万物の生物に清い水を与える神様)、鳴雷電命(なるいかずちのみこと)(生物の水が不足しない様に雷電によって雨を降らせる神様)である。
豊平川神社のある旭水会館
旭水会館は常時開いているわけでもないので、確実に開いていると思われる元旦に出向いてみる。会館の玄関は開いている。しかし、人影がない。1階の玄関に近い部屋にも人が居らず、2階に上がってみる。しかし、神社らしきものはない。1階に戻り、一番奥の襖を開けると、何と神事の最中である。狭い部屋に氏子が集まって、神主を囲んで元日の催事を行っている。許可を得て写真撮影である。寒い戸外から温かい部屋に入って、カメラのレンズが曇る。何度拭いても曇りがとれず、霧のかかったような写真しか撮れなかった。
元日や 神事を撮りて 霧の中
豊平川神社の額
北広山初登山
チョコのお父シャンことF氏から、スノーシュー訓練で北広山の登山に誘われて、正月三が日の最終日に出かけました。早朝、集合場所に出向く時に朝日が出てきたので、車の中から写真を撮ってみました。自動車を運転しながら写真を撮っている訳ではなく、専属の運転手がついているので、危険なことをしているのではない事を念のため書いておきます。それにしても穏やかな正月三が日でした。
現地の積雪はそれほど深くはなかったのですが、ブログ子のスノーシューの訓練なので、F氏と他の同行のS氏、N氏の皆さんもスノーシューやカンジキ装着です。
北広山の登山口までかなりの距離を歩きました。登山口からもかなり歩いてから緩い上りになります。雪があるとやはり登りはつらい。
やっと白樺平に到達です。ここからは頂上まであと少しです。
やっと頂上です。山名の標識に492.9 Mとあり、藻岩山より少し低い山です。晴れていれば恵庭岳も見られ、日本海と太平洋が同時に眺められるとのことでしたが、生憎曇っていて、期待した眺望ではありませんでした。ただ、無風に近く、登山日和ではありました。
早々と山頂に到着していたN氏が超簡易テントの設営を終えていました。このテントは登山のメインイベントの焼き肉パーティの会場となるものです。
テント内での焼き肉はなかなか美味です。焼き肉とくればビールで、カンを2本空けてしまいました。疲労の後での山頂での飲酒は効きます。体力がないうえ少々酔ったみたいで、下りは千鳥足で、やっとの思いで下山です。ブログ子には初めての冬山で、今冬は1000M級の冬山登山も視野に入っていて、さて500Mでこの調子なら、真冬の1000Mは登山できるのだろうかと、不安なものがあります。
2011年01月03日
絵馬を見る人、書く人
絵馬棚は幸福の掲示板である。不幸を願うことを書いた絵馬なんてなく、全部幸福の願いが手書きにされて架かっている。世の中そうはうまくは行かないとしても、見ず知らずの人の願い事が溢れて、自分の願いと重ねて見ている。大学の合格や仕事がうまくゆくことなど、目前の願い事であったり、好きな人といつまでも一緒に居られるように、あるいは好きな人ができるようにと、未来にわたる願い事もある。絵馬の記入台があり、願い事を書いている姿には、真剣さが溢れている。
見つけたり 同じ願いの 絵馬のあり
願い込め 書くうさぎ絵馬 卯年なり
正月2日の宮丘公園遊歩道
2日は穏やかな日で、元日に続いて宮丘公園の遊歩道を歩いてみる。小高いところから北東方向を見ると、左側にJR琴似駅近くの高層ビルが目に入る。右側にはJR札幌駅のJRタワーが見える。これらのビルの背後の雪をいただいた山々が、どこら辺の山なのかわからない。夕張辺りの山か、もっと遠く大雪あたりまで見えるのだろうか。
遊歩道には野鳥の解説板があるけれど、この時期目につく野鳥はヒヨドリぐらいなものである。それも山ではなく、人里に集まっている。
北から東の方向に雪をいただいた山が見える。ピンネシリを含む山なのだが、正確に山の名前を列挙して対応させることができない。
雪山が 近づいて見え 大都会
北の方向にも山並みがあり、これは浜益、増毛あたりの山塊なのだろう。こちらも個々の山の名前を挙げることができない。手前には西区から手稲区の街並みが広がっている。
見下ろせば 見慣れた街が 続きたり
カラマツの林だろうか。すっかり葉を落として、幹に枯れたような枝を伸ばしている枯れ木の林の傍を過ぎる。
下り坂になると、西野の街の手稲山寄りの住宅街が下に見えてくる。我が家を確かめて写真を撮る。明日の天気はどうなるかわからないけれど、この分では、今年の正月は穏やかな三が日で終わりそうである。
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- by 秘境探検隊長
- at 00:55
- in 爪句 ≫ 爪句@宮丘公園・中の川物語り
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2011年01月02日
高台にある厚別(あしりべつ)神社
厚別川に並行して道道341号の厚別・滝野公園通が走っている。この通りと厚別橋で厚別川を横切ってきた道路が交差する近くに高台があり、その高台が厚別神社の境内になる。地形から、神社には石の階段を登って行くことになる。階段のところには2基の鳥居がある。この神社の境内の周囲の雰囲気と、厚別の社名から清田区のはずれにでもあるかと思ってしまう。しかし、神社の近くには清田区役所もあり、区の中心部に近い。厚別神社は「あしりべつ」神社と発音されていて、厚別(あつべつ)区にはないことを少しでも示そうとしているのかな、と推測もしてみる。
創祀はこの地への入植者が明治7年小祠を建てたことに遡る。1885(明治18)年に厚別川東側に神社が建てられ、1917(大正6)年に現在地に移されている。現社殿は1970(昭和45)年に造営されたものである。社殿は神明造の立派なものである。祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)、大山祇神(おおやまつみのかみ)、倉稲魂神(うがのみたまのかみ)である。
石段が 登りを誘い 鳥居坂
規模の大きそうな神社なので狛犬を期待したけれど、期待はずれである。高床の社殿の前には絵馬棚があるだけで、境内にはこれといって人目を惹くものもない。境内には忠魂碑や「拓」の一字がある清田開基百年碑の記念碑が目につく。その中で「上相撲記念」の文字が彫られたものが気になったけれど、説明がなく、何を記念した碑なのかわからない。「島千鳥」の文字もあって、この四股名の相撲取りを記念した碑かと推測するけれど、本当のところはわからない。
期待した 狛犬見えず 絵馬の棚
「上相撲記念」碑
おみくじ結び
おみくじによるご宣託は当たらないものだと了解しているので、参拝者は気軽におみくじを引く。初詣ともなれば、おみくじ代を奮発する気分にもなる。おみくじに吉とあれば持ち帰り、凶と出れば境内のおみくじ結び棚に結んで、都合のよくないご宣託と縁を切るのが作法のようである。しかし、凶と出るおみくじはほとんどないと聞いているのに、これほど沢山のおみくじが結ばれているところを見ると、おみくじ結びはおみくじ引きと一体になった作法に変化しているようである。
凶結び 吉も結ぶか 真顔なり
吉と出る ケータイ結ぶ みくじなり
原っぱの境内の東米里八幡神社
白石区東米里地区は月寒川、厚別新川、旧豊平川、10号幹道線に囲まれた地域である。地区の中央を東雁来江別線が延びていて、この道路に沿って東米里小・中学校がある。学校に隣接して東興寺があり、さらに東米里八幡神社の境内が並んである。道路脇に大きな石作りの社名標柱が建っている。
原っぱに 社名標柱 威を正し
境内は広いものの、境内には鳥居と社殿、手水舎、由緒板、馬頭観世音碑があるだけで、原っぱが目立つ状態である。境内にある由来を読むと、明治26年に創祀で、入植者が富山県宇佐八幡宮からの分霊を受けて祀っている。社名にある八幡の神は応神天皇の神霊で、これに比売神と神功皇后を加えた三神を八幡神社の祭神としている。鎌倉の鶴岡八幡宮のように、八幡宮は武家の守護神である。古神道の特色である巫女信仰から発しているといわれている。
神社のある辺りは馴染みの薄い場所で、神社の取材でもなければ来る機会のない場所である。しかし、この辺りの開発は進んでいるようで、取材時にも道路の工事などが行われていた。神社の周囲の開発が進めば、原っぱだけの境内の様子も変わっていくのだろう。
社殿横 由来で知りて 宇佐八幡
2011年01月01日
牧草地に囲まれた福移神社
石狩川に並行するように道道128号が走っていて、道道に垂直の線で、東区の中沼町と北区の篠路町福移が接している。その東区と北区の区境に並行して、道道から分かれた道路が石狩川に向かって延びていて、この道路の先に福移小中学校がある。大都会札幌の辺境のような場所にある小中学校の存在が不思議である。後で知ったのだが、この学校は小規模特認校で、自然環境を生かした特色ある教育を行う目的がある。そのためか、立派な校舎の屋上に、望遠鏡用のドームが見える。この辺りでは夜の光が少なく、夜の闇の中での天体観測に適しているのだろう。
観測の ドームが語る 夜の闇
この学校の敷地に隣接するように福移神社がある。福岡県からの移住者がこの地の開拓に当たった意味を地名にしている。神社は福移地区ではなく、中沼町にある。中沼町の地名も、かつて篠路村の中野、沼ノ端、中福移の集落が一つの町になるとき、これらの村落の名前から一文字を取る折衷案で決まった経緯がある。
神社の創祀ははっきりしない。1966(昭和41)年に篠路神社の飛地境内神社として認証され、天照大神を祀っている。広がる牧草地の中に鳥居と社殿が建っている。境内には「開拓五十年碑」の古い石碑と黒御影石の新しい「福移開拓百年碑」が目につくくらいで、狛犬や石灯籠はない。五角柱が一つ建っていて、台座には明治34(1901)年の年号があり、神社の創祀に関係しているのかもしれない。5角柱に記された神々は、天照皇大神、少彦名命、稲倉魂命、埴安媛命、大己貴命で、これは他の場所にある5角柱と同じである。
福移社の 鳥居と社殿 草地中
五角柱 神名連ねて 地鎮なり