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2020年01月31日

夕張鉄道線の名残

 今や財政再建団体で全国に知れ渡っている夕張市は、かつては北海道における最大の炭都として、日本のエネルギーを支えていた時代があった。掘り出されて石炭は列車で運ばれ、そのための夕張鉄道線が1926年夕張、栗山間の30.2 kmで開通している。さらに1930年には栗山と野幌間23kmが開通し、石炭ばかりではなく農産物の輸送も担った。旅客列車も運行され、夕張から従来の国鉄を利用するよりは短縮された距離で札幌、小樽、旭川方面へ行くことが可能となった。

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 しかし、石炭の減産がこの鉄道の撤退をもたらし、1974年には旅客列車の廃止、1975年には全面的廃止に追い込まれた。線路跡は農道となり、その後自動車道として整備されて現在に至っている。JR函館線の野幌駅近くの夕張鉄道線路跡に昔の腕木式の信号機が残っている。丁度腕を伸ばした手に持った旗を上げ下げするような信号機で、今から考えると実に素朴な信号機である。

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 この信号機は現在のJR函館本線から野幌駅を通過した辺りで昔の夕張鉄道線へと分かれていくところに設置されていて、現在は空知南部広域農道の名前になっている自動車道の始点(終点)付近の脇に立っている。信号機のあるところから道路を越えたところにはマンション群があり、その反対側の信号機ある側には工場の敷地が隣接している。この工場は北海鋼機の工場で、かつては野幌駅から始まる夕張鉄道線の「北海鋼機駅」のあったところである。次の駅は「上江別」、さらに「下ノ月」駅と続いてゆく。

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 雪の消えた頃、この自動車道を車で走って夕張鉄道線の車窓から見えたであろう景色を想像するのも、都市秘境探検上必要かな、と思っている。

2008年12月12日

道新夕刊記事

 12月11日(木)の道新夕刊に「江別・北広島秘境100選」の出版に関する記事が掲載されましたのでアップしておきます。新聞に紹介されると、本の売れ行きに結びつくので、よかった、よかったです。

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 拙著を「81歳の日常生活」のブログで紹介してもらっています。ブログはこちら=>で。

2008年12月09日

書店巡り

 新刊の「江別・北広島秘境100選」が書店の店頭に並んでいるのを写真に撮るため、書店巡りである。巡りといっても、オフィスに行く道すがらに立ち寄っているだけではあるけれど。書店内撮影禁止のところを、フラッシュをOFFにして、密かに撮影である。JR札幌駅内にある弘栄堂書店は、入口近くの低い棚のところに平積みされてあった。

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 JR札幌駅の近くの紀伊国屋書店札幌本店では、通路に特別の棚が設けられ、そこに置かれてあった。これまでの秘境本と爪句の豆本も一緒に並んでいた。なかなか良い場所に並べてもらっている。 

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 北大構内の南端にある北大生協の書籍店でも、小樽の秘境本と今回の秘境本、さらに豆本も平積みで置かれてあった。

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 これらの秘境本が置かれているのを見ていると、秘境本と爪句の豆本コーナーが出来ているような塩梅で、コンスタントに新刊を出版できて、ある程度売れるならば、秘境本&豆本爪句本コーナーが定着するかも知れないと、期待を膨ませている。

2008年08月01日

ブランドのトマトケチャップはケチャップへ

 食のブランドは口コミから始まるところがある。食と口コミとなるとおかあさん達である。ここに目をつけた江別市が第1回サンデー&サタデーマーケット「かぁーさん江別ブランド 手作り品大集合!」という企画を2007年12月に実行した。普段はほとんど訪れる人もいない河川防災ステーションの活性化も念頭に、江別産の食材や食品を並べた。

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 この直売会で主役を務めていたのが「巴農場」の“かぁーさん”達であった。マーケットには巴農場で生産されたものや、加工された食品が並んでいる。その中に巴農場産のトマトケチャップがあった。瓶詰めにされていて、トマトのキャラクターが記憶に残っていた。春になり巴農場の風景写真を撮りながら自転車で走っていると、壁にこのケチャップのマークが壁に表示してあるプレハブがあった。ここが手作りケチャップ農家と分かったので、夏になって改めて出向いてみる。

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 突然の訪問に対応してくれたのは、はるちゃんのトマトケチャップ代表の岡村恵子さんである。ケチャップの手作りを行っているプレハブ横に、トマト栽培のビニールハウスがある。トマトケチャップ用に育成を試験的に行っているというシシリアンルージュとかサンマルチーノの品種が収穫前の青い小さな実をつけている。

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 トマトケチャップはトマトの収穫後に煮込んで、リンゴ、玉ねぎ、ニンニク、生姜などを入れて作るそうである。生食で美味しく感じるトマトは糖度が高い反面、水分も多く煮詰める過程で果肉の目減りが大きい。この点ケチャップ加工用トマトは生食には適していないけれど、煮込んだ時の果肉の歩留まりがよく、過熱によりグルタミン酸、リコビン酸が増加する。さらにリンゴを加えることで甘味や酸味が増し、βカロチンが一般のケチャップの3倍程度までになる。ケチャップの赤さが鮮やかになる利点もある。

 ここで、リンゴを加えるのが食品のカテゴリー表示との関係で問題を指摘されたそうである。つまり、トマトケチャップとはトマトだけに少量の香辛料に相当するのを加えたものという定義があり、リンゴを加えたものをトマトケチャップとして表示・販売する点で問題ありと指摘があった。江別のブランドとして年毎に倍増の売れ行きになると、指摘の点にも対応せねばならず、今年(2008年)からは「はるちゃんのケチャップ」で「トマト」を除いた新しいラベルを作成して貼る方針である。

 昨年度で瓶詰めを2000本以上を作ったとのことで、瓶のキャップも熱した状態で手作業で行う。手作りも人気が出て大量生産になって行くと大変なことであり、江別の食のブランドはこの大変さの上に成り立っている。

2008年07月30日

健土健民ブランド

 酪農学園大学の視察に加わった時、大学で作られているパックの牛乳が出され、それに「健土健民」と書かれてあった。この言葉はこの大学の建学の精神であり、大学の創始者黒澤酉蔵の目指したものである。それが大学製乳製品のブランド名になって目の前にある。

 黒澤は足尾鉱毒事件を糾弾した田中正造の思想的弟子にあたる。鉱毒事件に関連して刑務所に入れられた時に聖書を読み、キリスト教に入信している。黒澤が北海道の酪農の範にしようとしたデンマークにキリスト教徒グルンドービーが居て、この偉人の、神を愛し、人を愛し、土を愛する「三愛精神」の具体的目標が健土健民であるともいえる。同学園に属する「とわの森三愛高校」の名前はこの「三愛精神」に由来する。

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 黒澤は健土健民実現の方法論として酪農の「天地人」循環農法論を提唱していて、この図は黒澤記念講堂の中に布に描かれて飾られている。天は太陽のエネルギーがもたらす自然であり、地は食べ物を生み出す大地であり、人は家畜を飼いながらその排泄物を土に戻し、牧草を育て、家畜の餌にして、乳製品や肉を得る、という一連の循環が途切れないようにする。短絡的で長続きしない収奪農業からの脱却を目指している。

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 土作りは堆肥作りでもあり、工夫した堆肥場造りの例を、研究を遂行している同大学のエクステンションセンター長の干場信司先生に案内してもらった。廃棄された電柱を組み合わせてそれにシートを張った簡易屋根の堆肥場である。電柱が堆肥場に利用されているとは想像もできなかった。

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 この堆肥場の近くに雄牛の飼育場があった。学外からの雄牛を学生が世話をして大きくして持ち主に戻す。肉になった一部は世話をした学生達が食べることになる。自分達が世話をした牛の肉を口にすれば、他の生き物の命をもらって人間が生きている実感を得る良い機会なのかも知れない。

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 健土健民ブランドにつながる他の乳製品も大学内で造られている。アイスクリーム、チーズ、肉製品等々とある。大学の生協を覗いてみるとこれらの製品が並べられている。酪農学園大学のブランド名のソーセージもあった。同大学で行われている研究に、霜降り牛の豚版で、サシのある豚肉を飼料で作り出すというのがある。これなんかが確実な技術になれば、同大学の肉製品のブランドは高まること請け合いである。

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2008年07月29日

埋蔵物文化財復元の現場

 北海道埋蔵物文化財センターは野幌森林公園の北西の端に位置し、文京台小学校に隣接している。同センターのHPにある沿革によれば、1979年に発足し、1999年に北海道教育委員会の委託を受け埋蔵文化財の公開を開始したとあるので、これに合わせてこの建物が出来たらしく、新しい施設である。建物内は立派な造りで、一階ホール部分にパネルと発掘物の展示が並んでいて、奥まったところに事務室と思われる部屋がある。

 常設展と各種活動に利用される部屋はさらに奥まったところにあって、そこへの通路部の外側にはガラス越しに発掘現場を復元した展示を見ることができる。展示用に作られた巨大な黒曜石のやじりなどが目をひく。展示室には発掘された多くの土器や石器、木器が並べられている。子供たちに昔の生活に興味を持ってもらおうという意図で、発掘した生活用具を手にとって体験するコーナーなどもある。ただ、平日は見学者は少なさそうである。

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 展示に供されている復元された土器を見て、復元作業の現場を見たくなった。急な申し出であったけれど、別棟にある同センターの整理作業所を見学させてもらった。そこで目にしたものはジグソーパズルの作業である。まず出土した土器片を同じ土器のものと同定して、土器片のつながりを平面的に並べていく。

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 次に、これらの土器を立体的に再構成しながら組み立ててゆく。作業の途中では写真のようにテープで仮止めし、最終的には接着剤で固定する。当然欠けた部分が出てくるけれど、そこは補填して、もし土器に文様があれば補填部分の表面にも推定した文様を描く。

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 出土した土器の表面の文様も記録に残す。これは手書きで文様を一種図案化して描いてゆく。昔論文の図面制作で利用したロットリングペンを用いた作業が行われていて、懐かしいものを感じた。現在は図面書きはコンピュータによるところが多く、このような土器の復元作業でのコンピュータ利用を聞いてみる。答えは不可能に近いとのことである。やはり人間によるパターン認識と再構成能力に追いつく人工知能は現状では無理のようである。

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 廊下に積まれた土器片のボックスを見て、これは膨大な作業であると思った。これからも土木工事や建築工事が行われて、その都度遺跡が発見される可能性があり、持ち込まれる土器等の復元作業は終わりが無く続くように思われた。このような作業が毎日秘かに行われているこの作業現場は都市秘境に当てはまるものである。

2008年07月20日

江別の産地直売

 田畑や牧場が広がる江別市では、農産物や乳製品の産地直売が行われ、江別市民のみならず大消費地札幌からの客も集めて観光にも一役買っている。江別の観光パンフレットにも直売所の案内が出ている。そのようなものの一つに「のっぽろ野菜直売所」がある。

 案内によると登録生産者は170名を数え、品揃えが豊富であるとのことで、セラミックアートセンターに行くついでに、センターの近くの直売所に寄ってみる。規模は小さいながらも近隣で作られた野菜が並んでいる。ひょうたんの細工物も下がっていて、ここら辺ではひょうたんも産するのかと意表をつかれた感じである。

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 地元で取れる原料を加工して売っている例もある。手作り食品の販売イベントでケチャップの瓶詰めを手にしたことがある。ラベルにトマトのキャラクターの絵が描かれていたのを記憶していた。それから日が経って巴農場を自転車でえ回った時、この絵が建物の壁に描かれているのが目に入って来た。ここでくだんのトマトケチャップが作られているのを産地で確かめることになった。

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 江別の大豆で毎日豆腐を作って販売している豆腐屋の前を偶然とおりかかり、中に入ったことがある。暖簾に江別産大豆と書かれていて、豆腐作りの作業場を覗くことができた。豆腐製品を買ったら、おからをおまけにつけてくれ、これは食品作りの現場での直売でこそのサービスである。

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 農産物ではなくても、ハム・ソーセージの製造と直売もある。トンデンファームのハム・ソーセージ工場の作業の現場をガラス越しに覗かせてもらった。思ったより人手のかかる作業のようである。ここまで見学したからには直売コーナーで火に炙っているソーセージを買い求めて食してみた。品質は同じでも、都会の店で買うより産地直売のものがなんとなく美味しく感じるのは、思い込みの錯覚といわれると、そうかもしれない。

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2008年07月16日

火薬庫のレンガの刻印「S」を探して

 江別市はレンガの街とも呼ばれる。その象徴的建物は屯田兵用火薬庫で、現在はJR江別駅の近く、江別小学校と道路を挟んだ緑地に設置されている。建物は(明治19年)に建てられ、その後江別小学校の前身の小学校の御真影と教育勅語を納めておく奉安殿となっている。

 この火薬庫には幾度も訪ねている。季節は冬から桜の季節、緑の濃い夏と、一度みれば特別見るところもないこの小さな建物を何度も訪れたのには理由がある。建物の横の史跡の説明板には、札幌白石の鈴木煉瓦製と思われる刻印「S」が確認できる、という記述がある。この記述を鵜呑みにして、火薬庫のレンガの一枚、一枚を目で確かめるのだが、刻印は見つからない。時には二つの目では不十分かと、運転手役の目も借りて四つ目で探しても駄目である。

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 この状況の打破とばかり、火薬庫を知っている人に聞くとアバウトな位置を教えてくれる。そこでまた機会を見つけては火薬庫に出向いて探してみるのだが無駄足である。札幌からわざわざ出向いても収穫がないのも癪な話で、近くの江別小学校のレンガの建物と桜の花、火薬庫の三テーマを写真に収めてもみるけれど、仕事を遣り残した気分である。

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 本書の原稿もほとんど揃った時点で、もしレンガの刻印が見つかるならこのテーマを採用しようと、双眼鏡、望遠のカメラ持参で、何回目になるのか覚えていない火薬庫詣である。今度は事前の準備として郷土資料館まで出向いて、刻印の件について聞いてみる。資料館には刻印の写真があり、資料館の関係者が撮影者に電話で場所を聞いてくれる。

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 三ヶ所ほどあるそうで、その場所を頭に叩き込んで最終回の刻印探しである。一ヶ所は土台の近くのレンガが逆さまになっている部分で、これは教えてもらわねば建物の表面を見ているだけでは絶対に見つからない。ここはカメラをレンガの下に差し込んでの接写撮影である。

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 軒下近くのレンガの刻印は教えられた場所辺りにやっと見つけることができた。こちらは望遠のカメラでの撮影で、光の具合で撮影がうまくいかないところ、どうにか刻印を認めることができる写真を撮ることができた。ここまで取材を徹底させると、この火薬庫の秘境度は高まる。秘境はそこに在るものではなく、見つけ出すものだ、と都市秘境の定義を新にしている。

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2008年07月12日

極小漁業共同組合

 ヤツメウナギの取材で江別に漁業共同組合があるのを耳にした。海の無い市での漁業協同組合というのも秘境のテーマに近くて、一度訪れてみようと思っていた。しかし、所在地や連絡先が分からない。インターネットにも出ていない。江別市の電話案内で聞いても漁業組合で届けは出ていない、との返事である。道の水産関連部局で教えてもらった電話番号に何度電話してもつながらない。

 で、あきらめていたところ、江別ヨットクラブの取材時に、ヤツメウナギの漁場でヨットを走らせるため、江別漁業協同組合から許可を得る、とう話を耳に挟んで漁業組合の場所の大まかな情報を得た。この情報を頼りに探しに行ってみる。

 場所はJR豊幌駅近くの、石狩川に沿ってある石狩川ゴルフコースの入り口付近にあった。漁業共同組合というからにはそれなりの建物の中にでもあるかと思っていると、これはプレハブだった。ドアには確かに「江別共同組合」のプレートが貼ってある。土曜日でもあったせいもあり、ドアは開かず誰もいない。一週間のうち月曜日だけ開いていると聞いたのが、この状況では本当らしい。

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 この漁業共同組合は石狩川のヤツメウナギ漁を対象にしていて、近年の漁獲量の激減を考えれば漁業共同組合の活動の範囲は自ずと決まってきて、プレハブで週1日の対応になるのも不思議ではない。それにしても極小の漁業共同組合であると思った。夏場はヤツメウナギの禁猟期間で、生きたヤツメウナギは水槽の中でしか見ることができない。先月、JR野幌駅近くでヤツメウナギ料理を出してくれるこじま本店で料理前に生きたヤツメウナギが水槽内で居たのを撮った写真を載せておく。ヤツメウナギ料理については以前江別河川防災ステーションのレストランで食した話を書いている。

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2008年07月08日

牧場の手作りチーズ

 江別の角山地区でチーズの手作りをしている牧場があるというので行ってみることにする。以前取材したSTVラジオ放送のアンテナを横に見て、この道をさらに進むと米村牧場のチーズ工房プラッツにたどりつく。後で聞いた話で、プラッツとはドイツ語の広場を表す言葉からのネーミングだそうである。酪農業にはつきものの臭いを感じながら、レンガ造りの工房に入ってみる。

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 小さな店内で出迎えてくれたのが米村千代子さんで、同工房のチーズ作りの元締めらしい。熟成チーズの試食品を口にしながら、チーズの作り方や、販売するまでになったいきさつなどを聞いてみる。元々は酪農学園大学での手作りチーズ講座を聴講して、趣味のチーズ作りが販売品まで成長したとのことである。現在は江別の大手農場でもチーズ造りを手がけるようになって来たそうであるけれど、江別のチーズ作りの元祖はこの米村農場にあるようだ。

 フレッシュチーズを寝かせて熟成させたものが熟成チーズとなり、その際の熟成菌と加工過程で手作りチーズの独特な味が生み出されるので、チーズ作りは雑菌が入らないように気を使う仕事らしい。この工房は喫茶店にもなっていて、チーズの他に絞りたての牛乳や手作りケーキが楽しめる。注文したケーキは江別で栽培が行われているアロニアの実を使ったもので、醍醐味(古代日本のチーズの味ではなかったかと言われている)を体験した。

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 チーズに目を奪われてしまったけれど、米村農場は堆肥作りで先進的なようである。これは農場主の米村常光氏の研究成果が結実しているようである。客が我々だけだったので、店番の千代子さんの案内で堆肥作りの現場、牧草をロールに巻く機械、先ほど食したアロニアの小木を見せてもらった。アロニアは白い花が残っていたけれど、既に実に変化していて、実が十分熟したところで摘み取るのだそうである。

 米村夫妻、息子夫婦に手伝いの学生一人の計5名でこの農場を経営しているとのことである。80頭の牛の世話、チーズ造り、日曜日の工房の開店、豚の世話、農作業、アロニアの収穫、その実を使ったケーキ作りと、ちょっと想像しただけで怠け者の著者には気の遠くなる作業量であると感じた。

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2008年07月06日

木製井戸枠と現代の水道

 江別駅前広場に面して江別水道庁舎がある。レンガ造りの概観で、佐藤忠良氏制作の「少女」のブロンズ像が設置されていて、この部分の景観はなかなかのものである。この建物の一階ロビーに過去の水道事業に関連した遺物が展示されている。それは木製の井戸枠で、1981年庁舎建設に際しての発掘調査で出土したものである。この井戸枠の他に竹製樋や鉄管なども見つかっており、それらの出土品の一部も並べられている。

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 江別の地質の構造から、火山灰、粘土層による自然ろ過作用でよい水が得られた土地柄であった。水道庁舎のある場所は萩ヶ岡で、この地区に水源涵養林があり、井戸が掘られて生活用水や酒造にも利用されていた。井戸組合も形成され、井戸水の管理が行われた。

 しかし、近代化により地下からの水は飲料水として利用されることは、他都市と同様行われなくなった。何が流れ込んでいるか分からない都市周辺の地下水ほど危ない飲み水はない、との浄水場の関係者の話は説得力がある。1956年に上江別に浄水場が設けられ、ここから上水道による水が市民に供給されるようになった。

 その現代の水道水の造られ方を駆け足で見てくることにした。浄水場は江別駅から自転車で5分程度、早苗別川の近くにある。急な見学申し込みであったけれど、係りの方が対応してくれ、一通り現代の水造りと供給をこの目で確かめることができた。


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 ここの浄水場は千歳川からの川水をろ過して造っている。千歳川からの川水の混濁度を常時水槽でモニターしていて、水槽の中にはウグイが泳いでいた。取込んだ川水に粉末状の活性炭をホッパーから水に注入して、不純物を活性炭粉末に取り込んでろ過していく。ろ過に使う活性炭は椰子がらを原料にして日本で作られるものだそうである。

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 浄水場内には沈殿プールがあり、きれいになった水取り込まれている様子を見ることができる。飲み水としての殺菌のため次亜塩素酸ナトリウムの注入や水道水のPH値を制御するために消石灰の注入を行う処理過程を経て、ポンプにより給水が行われる。これらの一連の工程は監視室で監視・制御されている。

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 見学した日にはちょうど小学生の見学日と重なっていて、玄関には小学生達の靴が並んでいた。毎日自分達が飲み利用する水道水がどのように造られているのかを見て理解するのは大切なことで、それが広く行われるようになれば、浄水場は都市秘境のテーマから外れることになる。

2008年07月05日

対雁百年記念碑

 江別市には対雁(ついしかり)地区があって、道路の標識にもこの文字がある。しかし、初めてこの名前の漢字を示されては、正しくは読めないだろう。この地名は津石狩(ついしかり)の当て字で、石狩川の鮭漁や運輸の拠点として世田豊平川河口に津が栄えたことに由来しているらしい。かつてここには番屋も設けられていた。

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 ロシアとの千島樺太交換条約で、明治政府が樺太(現在のサハリン)で使役していた樺太アイヌを対雁に強制的に移住させた歴史がある。この樺太アイヌの子弟の教育に1877年(明治10年)仮の教育所が設けられ、1878年には開拓長官黒田清隆が同校を訪れている。この時黒田長官が揮毫した「対雁学校」の扁額が郷土資料館に残されていて、黒田のもうひとつの扁額「富貴在苦学労力」と共に江別市指定文化財になっている。1880年には校舎が落成している。

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 対雁学校は現在の対雁小学校につながっていくので、この小学校は江別では一番古い学校であり、1978年には開校100周年を記念して、「開校百年」碑が同校の前庭に設置されている。今年(2008年)は130周年を迎えたことになる。

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 鉄道が開通して、交通が石狩川の船から内陸の鉄道に移るにつれて対雁は寂れていく。現在はかつての対雁の一部は工栄町となり石狩川に沿った対雁通の南側には工場群が並び、昔の面影はない。この工栄町の世田豊平川に沿って目立たない榎本公園があり、公園内に「対雁百年碑」がある。

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 碑文から、1871年(明治4年)に宮城県からの入植者により対雁村が出来たので、1971年に対雁百年碑を建立している。さらに碑文には、この地に対雁神社があったことが記されている。石狩川治水工事のため対雁神社が解体され、そのご神体の天然石がこの碑の中に埋め込まれていることも碑文から知ることができる。対雁神社の額は残っていて、これは郷土資料館で目にすることができる。

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 それにしても「津石狩」がどうして「対雁」になったのかわからない。一方、札幌市には雁来(かりき)という地名がある。これは対雁の住人が札幌に来て村落を作ったことに由来しているようだ。この地名も最初は正しくは読めない難読地名である。

2008年06月30日

石狩川のディンギーヨット

 江別ヨットクラブという団体があって、会員は石狩川で川ヨットを楽しんでいるらしい。ホームページ(HP)にアクセスすると、6月の末には石狩川での初心者の講習会があるとのことで取材を申し込む。

 このHPにはヨットについての簡単な説明がある。ヨットは外洋で航行するキャビン付きのセイリングクルーザーと川や湖を主体にして楽しむディンギーヨットに分かれる。ここでディンギー(dinghy)とは小さな船の意味らしい。ヨットの走る原理の説明もある。小型のヨットなので、船体を自動車に積んで移動できる利点があり、川や湖が近くにあれば手軽に楽しめる。

 石狩川のヤツメウナギ漁を邪魔しないようにとの配慮で、6月~8月の3ヶ月ヤツメウナギ漁の禁漁期間中が石狩川でのヨットのシーズンとなる。ヨットは江別市河川防災センターの倉庫に保管されている。シーズンが到来すると倉庫から取り出され、川まで運ばれる。この日は2名の初心者が居て、ヨットの試乗に適当な場所ということで、ヤツメウナギ漁の船着場までヨットを自動車に載せて移動する。

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 ヨットの船体が自動車から降ろされ、マストが取り付けられ、セール(帆)が張られる。見ていると二、三十分で準備完了である。メンバーの一人が携帯電話で警察と消防署にヨットの練習の旨を知らせている。これは、ヨットが転覆して消防車に通報が行っても、川で溺れている訳ではない事を事前に知らせておくためとのことである。さらに、前もって江別漁業共同組合にヤツメウナギの漁場でヨットを走らせることの許可を取っておく。

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 陸地からヨットの写真を撮るだけでは満足できず、乗せてもらうことにする。センターボードという板をヨットの中央部分の船底の隙間から水中に下ろす。これはヨットが風で横流しにならないようにするためのものである。そもそもヨットが風上に進むことが出来るのは、帆のふくらみに沿って流れる気流が生み出す揚力を利用していて、センターボードがなければ風で横向きになってしまう。

 風を捕まえ、風向きの左右方向45度外の範囲で進路を制御しながら進む。つまり風上に向かっては45度方向に進路を変えながらジグザグに進む。この帆の張り具合、舵の取り方はヨットに同乗のクラブのメンバーの方にお願いして、川の中のヨットから写真を撮るのに専念する。風と波の感触だけの世界が広がり、ヨットは秘境の空間をつくり出している。


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2008年06月27日

トンデンファームのダチョウ

 高速の道央自動車道の江別西ICから道道110号線に入り、江別の8丁目通を過ぎてすぐにトンデンファームがある。ここは田園地帯にあるハム・ソーセージを生産している工場に、直売所を主体にした観光施設が併設されている。休日にはマイカーで来る家族連れが目立つ。

 ここで思いがけない鳥に出会った。鳥というより二本足の動物という感じのダチョウである。どうしてここにダチョウが飼われているのかはわからない。飼育係りに聞くと、卵や肉を採るためではなく、人集めのためのようである。子供達に人気の山羊、兎、馬なども敷地内で飼われているのだが、ダチョウはこれらの日本の動物とは確かに毛色が異なっている。

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 ダチョウは二匹居て、金網の中で立ったり、座ったりしている。金網の上から顔を出すダチョウは気分次第で目を開いたり、閉じたりする。写真を撮るため、目を閉じたダチョウの目を開かせようと声をかける。目を覆うシャッターの皮膜(適切な用語がわからない)が上がったり下がったりして、面白いので何度も声をかける。

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 ダチョウの卵が展示されている。これは大きい。飼育係りの人にダチョウの顔のところに近づけてもらって写真撮影である。ダチョウの頭より大きな感じである。販売コーナーでダチョウの卵の重さが表面に記されてものが展示されていたけれど、重さは1.234gで並びのよい数字である。この重さなら使用しているノートパソコンの重さより少し重い程度か。卵焼きにすれば何人前になるだろうか。

 国立大学の工学部電気工学科で教授となった同期生の研究が卵の生理に関するもので、実験に利用する卵としてダチョウの卵の場合もあるという話を聞いたことがある。卵が孵る過程で各種の状態を計測してデータを得るらしく、こんな大きな卵を相手にしていたのかと、ふと思った。

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 トンデンファームの敷地内に放し飼いにしてある山羊がかなりの交通量の道道110号線脇で草を食べている。交通事故が心配になったけれど、山羊はこの環境に慣れているのだろう、大型ダンプの通過にも目もくれず悠々と草を食んでいた。

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2008年06月24日

野幌開村記念碑

 江別市は入植初期に屯田のため土地を直線で分割した名残で、碁盤の目状に道路が走り、道路名に丁目と番地がついている。例えば、石狩川に並行に走る道路は、3丁目通、4丁目通といった具合である。この道路の呼び名に従えば、6丁目通から10丁目通りまでには野幌屯田の入植が1885年(明治18年)に始まっている。江別屯田は野幌屯田より石狩川に寄った部分である。

 当別の伊達家の例もあり、北海道の開拓は東北地方からの入植者が圧倒的かと思っていると、野幌屯田は九州・中国地方出身者がほとんどであったとは意外である。野幌開村から30年を経て開村記念碑が建立され、開村記念碑が8丁目通に面する野幌開村緑地に建っている。

 碑には「開村記念碑」と「野幌兵村」の大きな文字がある。この地への入植者の出身県も碑の前面に彫られている。出身県を碑面の文字から判読すると鳥取、鹿児島、石川、佐賀、熊本の各県である。

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 この碑の横には「開村五十年比碑」があり、題字および碑文は北海道帝国大学初代総長佐藤昌介である。碑面の文字は消えかかっていて判読が困難であるけれど、最初の行の「正三位勲一等男爵 佐藤昌介 題並撰」は読める。昔の帝国大学の総長ともなれば肩書きも大層なものであった。

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 碑のある辺りは屯田の公共的場所であったらしい。兵場の史跡の標石もあるので、屯田兵の訓練が行われた場所でもある。この史跡の標石のそばに「ニセアカシア」の大木がある。江別市の保存樹木になっていて、樹高22m、直径80cm、樹齢100年と表記されていた。野幌屯田兵第二中隊本部や、野幌天満宮も開村記念碑の近くにある。

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 野幌開村緑地に接して野幌公会堂の建物がある。野幌の文化活動や産業振興のため1938年に建てられている。概観は縦長の格子窓の板壁に白ペンキ塗りの洋風なものである。期待して内に入ってみると集会室があるだけで、現在は集会場に用いられているのみとの説明を受けた。したがって、館内にはこれといってみるべきものはなかった。

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2008年06月23日

風の門と縄文土器野焼き

 セラミックアートセンターは江別陶芸の里の中核施設であり、洒落たレンガの外観の建物である。庭には原田ミドー作の「風の門」があると観光案内のパンフレットに出ていたので雪の季節に出かけてみる。

 建物の裏庭にはこのモニュメントがあるのを遠くから確認できた。しかし、傍に近づいて見るにも道が無い。雪に埋まりながらモニュメントまで辿りつく準備もしていないので、雪の解けた季節にでも再訪ということで、雪の中のモニュメントがたたずんでいる雪原を写真に収めただけで帰ることになった。

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 夏至の翌日の日曜日に、気が向いて懸案の「風の門」の写真を撮りに行く。今回はこのモニュメントの近くで土器の野焼きをやっていた。これは思いがけないイベントに出くわしたものである。早速風の門から野焼きの様子を写真に収める。「風の門」とは風のみが通る門の意味らしく、風の向こうに野焼きの煙がたなびいているのが見える。

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 形になった土器はすぐには本焼きには入らず、周りをレンガで囲った窯もどき(という表現が適切かどうか分からないけれど)の傍で火にあぶる。いわゆる素焼きに近い工程にあたる。ただ、大きな作品は失敗しないように電気窯であらかじめ素焼きにしているとのことである。薪火である程度温度を加えた後に、窯もどきに入れて本焼きに移る。

 この方式だと目の前で土器が焼きあがっていくのが確かめられて面白そうである。しかし、一日仕事のようなので、本焼きに入る前の様子を写真に撮って、関係者から話を聞いただけで、完成した土器を目にしてはいない。来月行われる江別やきもの市で完成品をみることが出来るとのことである。


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 この野焼きのイベントは毎年は春と秋に行われるのが、夏の今時分に行われているのは、7月上旬に予定されているサミットの会場のホテルに野焼きの土器を飾るためだそうである。この土器に、冷気保存してある桜を咲かせたもの活けて、夏に日本の春を演出する予定と聞いた。外国の首脳が、もしこの演出を見ればどんなコメントを口にするだろうか。サミット会場に飾られた縄文式土器は都市秘境の土器にふさわしい。

2008年06月22日

旧岡田家住宅

 千歳川に並行して伸びる5条1丁目通は、かつて江別随一の繁華街であったろう思われる。今は街外れといった感じのこの通りに面して、木造二階建ての建物があり、「やきもの21」の看板が掲げられている。これはNPO法人の看板で、この建物は同法人の事務所が入っている。

 「やきもの21」は江別が窯業に特色がある点をバックグラウンドにして、街興しや文化・芸術活動の支援や推進を目的とした活動を行っている。江別やきもの市を毎年開催して、10万人を超える人を集めている。やきもの市ではレンガのドミノ倒しが恒例の人気イベントである。

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 この法人の事務所のある建物は雑穀商を営んでいた岡田家の住宅兼事務所で、1935年(昭和10年)に建てられたものである。岡田氏は衆議院議員も務めた経歴があり、かつての江別の政治・経済の舞台であっただろう建物である。この建物に隣接してある石造りの旧岡田倉庫は市に寄贈され、現在はアートシアター「外輪船」に変身している。

 建物は通りから見ると二階建てであるけれど、一階の母屋部分があってこちらが住居であったようである。在来工法の建物で、玄関から廊下が続いている。廊下からガラス戸越しに庭を眺めることができる。廊下と和室は障子戸で仕切られている。

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 部屋には数点の調度品が置かれていて、かつての家主の肖像写真も飾ってある。それらに加えて大きな金庫が置かれているのは、商家の名残である。耐火式の頑丈な金庫であるけれど、今は使われてはいないだろう。一般の見学に開放されている様子もなく、外輪船のイベント時に特別に利用されるようである。

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 江別には旧岡田家住宅と同様な石倉を持つ和式の住宅が残っており、JR江別駅近くの萩ヶ岡にある岩田家住宅と石蔵などがある。これらの時代をくぐり抜けて来た建物が取り残されていて、それが江別の街の現在と重なる印象は否めない。

2008年06月18日

世田豊平川と江別古墳群

 川筋としては厚別川から石狩川につながる世田豊平川がある。流れているというより、遊水地に水が留まっているような川である。この川の名前に豊平がつくのは、かつては豊平川であったものが、河川の改修工事で残された部分を意味していて、それに世田がつくのは、川の流域の角山地区に東京世田谷区から入植者がやって来たことに由来する。

 石狩川と並行して走る国道337号線に樋門があり、世田豊平川は石狩川とこの樋門でつながっている。石狩川への水路の出口辺りにはヤツメウナギ漁の船着場がある。また樋門の近くには石狩川河川敷緑地や榎本公園がある。

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 この川に沿って、懸崖上の平坦部で発掘された西暦七世紀頃からの古墳群があり、史跡に指定されている。道道110号線が道道128号線にぶつかる交差点の丘陵地にある発掘された古墳群は、予想していたより狭い場所である。史跡の標柱を見落として、これが古墳であると教えられないとただの、土盛が並んでいるぐらいにしか見えない。

 これらの古墳群からは土器や装身具の出土があり、出土品は江別市の郷土資料館に展示されている。刀や勾玉は本州からもたらされてものであると推定されていて、当時の律令体制下に関わっていた人々が被埋葬者ではなかったかと考えられている。

 今は雑木林と笹薮に囲まれたこの丘陵地が、かつては北海道でも最も文明の進んでいた場所であったとは、想像を逞しくしても実感が湧かない。ただ、文明が川の周囲から始まるのは北海道の場合も例外ではなく、大河石狩川とその支流の豊平川の周辺に人々が住み着いたのは必然の成り行きである。

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 古墳群の史跡の場所に鳥獣保護の看板が立っていた。読んでみるとアオサキのコロニーが世田豊平川にあるようで、史跡見学では大声や音を発しないようにとの注意書きである。ただ、この場所にそれほど見学者が来るとは思えず、差し迫った注意書きでもなさそうである。アオサギの方は見てみたいものだと思ったけれど、笹薮の中に入って行く気にはならなかった。

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2008年06月11日

逆禁止マークハンティングーその2

 王子特殊紙の取材で出向いた時、工場内への道路の通行止めに逆禁止マークを見つけた。工場内を見学できたのだが、写真公開は断られたので逆禁止マークの移っている工場は入り口付近の写真を載せておく。

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 江別市野幌末広町にある江別市情報図書館は利用したことはないけれど、施設が充実していると感じられた。柱の壁に携帯電話禁止の張り紙があって、これが逆禁止マークであった。この柱の近くに姉妹都市提携20周年を記念して米国グレシャム市から贈られた「本を読む少女」のブロンズ像がある。図書館の前には秋山沙走武(すすむ)の「陽(はる)」と題されたブロンズ像が設置されている。

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 江別恵庭線(道道46号線)を車で走っていたら、農村環境改善センターの所に運転中の携帯電話禁止の看板が逆禁止マークであった。改善センターは市の条例に基づいて作られた施設で、第一条の目的には「農業経営の改善、農村生活の向上及び農業者の健康の増進を図るため、江別市農村環境改善センター(以下「改善センター」という。)を設置する。」と定められている。

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 野幌森林公園の大沢口には駐車禁止の張り紙があり、逆禁止マークであった。この公園入口の写真に、「自然ふれあい交流館」の建物が写っている。

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2008年06月03日

アトリエ陶・風の村

 地図で江別市の元野幌を見ていると、道道110号線沿いに「土器土器工房」・「アトリエ陶」というのが目に留まった。インターネットで検索すると、陶芸教室や体験農業、子供達を集めてのキャンプなどを行っている「風の村」と紹介されている。面白そうなので見に行くことにする。

 携行バッグに自転車を入れてJR大麻駅で降り、3番通を野幌方向に走る。JR野幌駅から真っ直ぐ伸びる8丁目線にぶつかってから元野幌の方に曲がり、110号線の交差点を右折して少し進むとこの工房が現れる。月曜日で駐車場に車が1台あるだけで、人気のない建屋のギャラリー部分に入ってみる。陶器の作品が並んでいるだけである。

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 奥に人がいたのでこの工房の関係者だろうと話かけてみる。体験陶芸というのをやっているとのことで、陶芸が初めての人にロクロを回してもらい2時間ぐらいで陶器の形を粘土で作ってもらう。底の部分の処理と乾燥、釉薬塗りは工房の方で行い、さらに焼き上げて、完成品が出来たら当人に渡すシステムだそうである。

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 電動のロクロを使うのかと思っていたら、手回しのロクロを使った方が形を作る上で練習になるそうで、手動のロクロが台の下に並んでいた。動いていない電動のロクロが置かれた窓際に、飼い犬が座っていて、窓にはこの犬をデザインしたらしいステンドグラスが飾ってあった。

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 この工房は農地を保有していて、体験農業や貸し農園も行っているとのことである。農業も陶芸も物を作るという点では同じで、物作りを子供達に体験してもらうために子供陶芸教室やキャンプを行っているとのことである。

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 話を聞いているうちに、話をしている人がこの工房の主であり、後でもらった名刺から金井正治氏なのだと知る。かなり話してから、金井氏が筆者に「○○先生ではありませんか」と聞いてくる。もう四半世紀近くも昔に、金井氏はソード電算機のPIPSという簡易言語を用いて、勤めていた会社の事務処理を手がけていた。その頃、筆者がPIPSのSTVラジオ講座で話していた記憶がある、と話題は陶芸から情報処理に飛んだのにはびっくり仰天である。どこで昔の人が今に顔を出すのか分からないものである。そのソードの会社本体も札幌の販売会社も、今はない。

 金井氏からは同氏の作品のカップをひとつ頂いて、昔の“土器土器(ドキドキ)”の記憶を呼び覚まさせてくれた工房を辞した。

2008年05月30日

篠津の産業史跡

 篠津村の開拓記念碑には、篠津の屯田事業が1881年(明治14年)に青森・岩手・山形の東北三県からの屯田兵により始まったと記されている。篠津太と呼ばれた石狩川沿いの地区には開拓使勧業課が養蚕室及び付属施設を設けて、北海道に養蚕業を興そうとした試験地があった。

 屯田兵は氏族を対象にして募集されていたが、養蚕に関しては経験のある農民を募集して篠津で養蚕試験事業に携わらせた。桑の育成が北海道の気候に合わないことや労働集約産業で人手を確保できないことなどから、結局養蚕業は北海道の産業とはならなかった。

 江別太の試験養蚕室の史跡が篠津旧道路脇に立っていて、辺り一帯は畑地である。篠津は早くから屯田事業が始まったけれど、村落が大きくなり町や市としての市街地が形成されることはなかった。養蚕室史跡の近くには馬頭観音像もあって、いかにも開拓の地の史跡という雰囲気である。

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 篠津は1920年(大正9年)に石狩大橋が架けられたことにより、1927年(昭和2年)に開業して当別の農産物や木材を江別に運ぶための江当軌道が敷設されている。その史跡の標識が、石狩大橋を越えて篠津側の道道139号線沿いに目立たないように立っている。

 この軌道は石狩大橋で石狩川を越えることができたけれど、当別川を越えることが出来なかったため、当別と江別を結んで物資や人を輸送するには難点があり、国鉄札沼線の開通により利用者が減少して1936年(昭和11年)には廃止されている。わずか10年の歳月でこの11.2kmの線路は消滅してしまった。

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 この軌道史跡の標識の傍に現代の農業に関わる事業「国営かんがい排水事業」の展示があるのが目に留まった。公園風のスペースに用水路の流れで水車が回っていた。これは農業水産省直轄事業で、江別市、当別町、月形町、新篠津村を事業地域として1985年から2006年にわたり600億円の巨費を投じて完成したものである。江別と当別を結ぶ軌道の史跡を見つけるのも困難な場所に、新しい水車のモニュメントが回っているのが印象的であった。 

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2008年05月28日

田園地帯のラジオ送信所

 江別市の田園地帯にはラジオ放送の送信所が点在する。出力は50~500kWの大出力であり、平野部で見通しが良く、人家の密集しないところでかつアクセスの容易なところとして江別の田園地帯が選ばれているのであろう。遠くからも視界に入ってくるこれらの送信所の高いアンテナを秘境のテーマに加えて、近づいて見ることにする。

 STV(札幌テレビ放送)の送信所は江別の角山地区にあり、国道275号線から西1号線に分かれて進むと到達する。住所としては江別市角山264である。畑に囲まれて高いアンテナの鉄塔がワイヤーで支持されていて、アンテナの傍に施設の建屋がある。STVのJOWFのコールサインが建屋の壁に見える。50kWの出力で北海道道央一円をカバーしている。

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 HBC(北海道放送)の送信所は道道139号線の石狩大橋で石狩川を渡り、篠津旧道路沿いに石狩川の下流方向に向かうと道路沿いにある。住所は篠津846-1である。コールサインはJOHR、出力50kWで、この送信所も道央全域をカバーしている。

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 NHK札幌放送局の送信所は第一と第二の二つが江別太563と579のお互い近いところにある。ここは国道337号線からわき道に入っていくと辿り着く。いずれの送信所も平地に高い鉄塔があり、遠くから確認できるので、その方向に車を走らせると近づくことができる。

 NHK第一はコールサインはJOIK、出六100kW(減力放送時10kW)で石狩、空知、後志をカバーしている。第二の方はコールサインJOIB、出力500kW(減力放送時250kW)で放送対象地域は全国となっている。

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 大出力のAMラジオ放送では、このような大規模なアンテナを含む送信設備が必要で、経費もかさむだろうと思われる。最近は都心部に小規模な放送設備を備えたFM局が放送を行う時代になってきている。加えて、インターネットを利用すれば、個人レベルでの放送局ともいえるものを可能にしている。さらに、衛星放送という技術革新もある。デジタル放送に統一される流れもある。従来の大規模設備のAMラジオ放送の象徴である高いアンテナが、江別の田園地帯に立っている景観がこれからも続いていくものだろうかと思ったりした。

2008年05月26日

外輪船上川丸の模型を探して

 北海道に鉄道が無かった時代に人や物の輸送の大動脈は石狩川で、船腹に取り付けた水車により進む外輪船が活躍した。外輪船の始まりの契機は、樺戸(現月形町)集治鑑に囚人と物資を運ぶためで、1884年(明治17年)に神威丸と安心丸が就航している。

 航路の延長と一般旅客利用の拡大で、1891年(明治24年)には江別-空知太(現砂川市)と石狩川に江別で合流する千歳川を利用して江別-漁太(現恵庭市)の航路も整備され、神威丸と安心丸に上川丸も加わっている。後に「空知丸」も加わることになる。

 外輪船が活躍した時代、江別は石狩川の交通の要衝であった。千歳川河口付近に江別の行政、金融、運送等の機能が集まっていたのはこのためである。現在は元の機能を失ってしまった石造り倉庫群が千歳川の岸に並んでいる。川を挟んで、向こう側には河川防災ステーションの名前がついた、現代の河川行政の申し子の場所がある。

 このステーションの二階が石狩川や千歳川に関する展示場となっていて、実物大の上川丸の模型がある。上川丸は江別のかつての江別の繁栄のシンボルともいえ、この模型を散見する。上川丸の模型を探すささやかなプロジェクトは進行中で、今まで目にしたものを載せておく。他にも模型の存在の情報があればご一報いただくと有難い。

 江別市の郷土資料館に上川丸の模型が展示されている。模型の説明には、1889年(明治22年)東京石川島造船所で造られ、総トン数60トン、長さ23.3m、幅4.1m、67馬力、定員60名とある。東京で造られ、海を航海して石狩川までやって来て、約二年後に本来の仕事に本格的に就くことになったのだろう。

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 江別市長の部屋を訪れる機会があって、ふと部屋の窓際をみると上川丸の模型があった。ガラスのケースに入ったべっ甲製の立派なものである。三好昇江別市長にケースの戸をはずしてもらって写真を撮った。誰がどんな状況でこのモデルを製作し、市に寄贈したのか知る由も無いけれど、上川丸の模型が市長の応接室にあるのが、この船と江別市の関係を表している。

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2008年05月25日

牛の像を訪ねて

 大抵の市は、市の花や木を定めている。江別市の場合、市の木はナナカマドで市の花はキクである。市の鳥を制定している市もある。札幌の市の鳥はカッコウで、小樽はアオバトである。しかし、江別市は市の鳥は制定していないようである。
 市制定の生き物は鳥ぐらいまでで、動物とか魚、昆虫は聞いたことがない。江別の市の魚(正確には魚ではないけれど)となれば、これは市のマンホールのデザインにも採用されているヤツメウナギに決まりであろう。

 大都市は動物とは縁遠いせいか、市制定の動物というのは聞いたことがない。もし、江別市制定の動物として候補を挙げるとすれば、最右翼にくるのは牛ではなかろうか。これは江別市には町村牧場のような名前の通った牧場があり、酪農学園大学のように酪農業を教育・研究の対象にした大学があることにもよる。

 江別市で牛を見ようとすれば牧場や酪農大学に行くとよく、牛は馴染みの家畜なので秘境のテーマに取り上げるまでもない。しかし、牛の大きな置物となると、江別市ならではのところがあるので、目についたものを写真に撮ってみた。

 江別いずみ野にある旧町村牧場には由緒ある牛のブロンズ像がある。1959年米国カーネーション牧場から輸入した「ローヤル・ヒット・パレード」と名づけられた牛で、1974年に死ぬまで優秀な乳牛の子孫を残している。牛の像の製作者は峯孝である。

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 町村牧場は1992年には石狩川の対岸の篠津に移り、残された牛舎はそのまま展示場となっている。酪農に使われた農機具などが展示されていて、無料で見学できる。しかし、ここでは生きた牛を目にすることはない。その代わり大きな牛の置物が展示牛舎内に置かれている。本物の大きさで出来もよいもので、ぼんやりしていると急に本物の牛が現れたかとびっくりする。篠津に移った町村牧場には牛の置物が芝生の上に設置されていて、訪れた観光客の写真撮影用になっている。

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 酪農学園大学の施設には「乳絞り体験」の文字を背負った牛の乳房部分の置物があった。係りの人も居なかったので体験することはできなかったが、傍には牛を象ったベンチもあって、子供には喜ばれそうな牛達であった。

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 国道12号線から酪農大学方向を見ると、広い芝生の向こうに大学のサイロがあり、その横に大きな牛の絵がある。牛が出迎えてくれる江別市であれば、市の動物を制定するとしたらやはり牛である。

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2008年05月24日

北の世田谷美術館

 江別の角山(かくやま)地区は札幌の東区と接し、この地区を走る真っ直ぐな国道275号線沿いに、ところどころ工場があるか、さもなくば畑が広がるだけの代わり映えのしないところである。江別の往復にここを通過しても、ここに都市秘境スポットがあるとは到底思えなかった。

 ところがふと目にした江別の案内書に「北の世田谷美術館」の文字がある。角山地区に美術館とは、と行ってみることにする。ここで東京にある世田谷区の地名がここにあるのは、1945年の終戦直前に世田谷区からの入植者の一団がこの地区にやって来たことによる。国道沿いのバス停の名前も「世田ヶ谷」となっている。

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 このバス停から伸びる一本道を北西方向に向かって走ると、「北の世田谷美術館」の傾いた門柱が目に入り、かなり秘境の雰囲気である。牛舎を改装したと思われる建物の入り口のところに美術館の立派な表札がある。おそるおそる戸を開けて入ってみるのだが、誰もいない。絵が壁一面に展示されていて、美術館には違いないのだろうけれど、個人の住宅の雰囲気でもある。

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 この美術館は山形トム氏が描いた絵を展示している。後で現れた娘さんの話では、山形氏の父親が「エノケン」一座の役者で、山形氏も子役を勤めていた経歴の持ち主である。角山で以前は酪農、現在は畑作の農業を営む傍ら、北陽会に属し油絵を描いている。納屋にも絵が無造作に置かれていて、生活用具や農機具と一緒に牛や裸婦の絵がある空間は秘境の条件を満足している。

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 夫人の山形文子氏は農業の傍ら歌を詠み、その歌碑が敷地内に設置されている。歌碑に刻まれた歌からは、酪農業と向い合いながらの創作活動であるのが伝わってくる。短歌誌「個性」に拠って創作活動を続け、1983年には短歌集「江別酪農三家」を長谷川みよ子氏、丸山陽子氏らと共に出版している。

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 山形夫妻とは取材時に顔を合わす機会は無かったけれど、その後電話で取材の目的についての話をして、トム氏とは声の方で出会っている。

2008年05月22日

江別のレンガ工場

 江別のレンガ工場の発祥は1898年(明治31年)に設立された北海道炭鉱鉄道野幌煉瓦工場に遡る。明治時代の煉瓦生産は、傾斜面に焼成室を並べた登窯で行われた。その登窯の史跡がJR野幌駅の近くにあり、説明板で江別における煉瓦生産の一端を知ることができる。

 煉瓦を焼く燃料として薪が不足して石炭になり、登窯から輪環窯、トンネル、キルンと変遷をたどることになる。それに従ってレンガ工場も新旧交代があり、現在江別にあるレンガ工場は「北海煉瓦」、「北海道農材」の野幌セラミック工場、「米澤煉瓦」の三社である。

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 このうち北海煉瓦は創業八十年を超し、最も古い歴史を持っている。JR野幌駅から野幌東町を通って真っ直ぐに伸びる1号線が道央自動車道の下をくぐる手前近くにあり、由緒のありそうなレンガの煙突が目につく。土曜日でもあったので、煙突の写真を取らせてもらい、創業年数などの簡単な話を聞いただけである。

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 北海道農材は本社が札幌にあり、野幌には野幌セラミック工場がある。道央自動車道の近くで、北海煉瓦の工場からも遠くない。1963年にセラミックブロックの製品化に成功して、この分野で全国一の実績を持っている工場である。工場内の様子の写真撮影を頼んだのだが、近くこの工場は美唄に移転するとのことで、煙突のところだけの撮影になる。

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 米澤煉瓦は一番通と道央自動車道が上下で交わる元野幌にある。この会社は1939年創業で、年間200~250万個のレンガを生産している。敷地内にレンガが積まれ、レンガを運ぶショベルカーが動いていた。丁度出会った会社の人に話を聞くと、いろいろなタイプのレンガを作っているとのことで、アッシュブリックが積んであるのも見せてもらった。

 レンガを積んで建物を造る際の建築基準法は木造、鉄筋コンクリート造等と並んで「組石造」のカテゴリーに入るそうである。組石造の基準で、レンガの厚さを基準値以上にすれば鉄筋を入れなくてもレンガの建物は許可になるのだけれど、コスト高になるため、過去の建物は基準値以下の厚さのレンガで造られていたりする。これが歴史的レンガ建築を再利用する際のネックになり、行政も取り壊しても再利用してもお金のかかるレンガ建造物をどうしようかと頭を痛めることになる。

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2008年05月21日

JR江別駅前広場

 一般に都市の駅前は都市の秘境と対極にある。大型店が郊外に進出して駅前の商店街がさびれていく話はあちらこちらで耳にする。しかし、JR江別駅前はその商店街が軒を接してつながっているというのでもなく、不規則な角度で分岐した道路が駅前広場から伸び、焦点が定まらない駅前の広場となっている。

 GWの日曜日の正午近くの時間帯にこの広場には人通りがない。休日で駅前広場に沿った江別市水道局の庁舎が閉まっているのは分かるとしても、広場に面した商店もシャッターを下ろしている。広場の中央のあるレンガのモニュメントのある芝生にもその周囲にも人影がない。

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このモニュメントは「ふれあいの滝」と命名されていて、滝をイメージして水が上から落ちている。デザインを凝らしたこのような都市の広場の造形は、周囲に人がいると引き立つのだろうが、見る人もいないと余計に都市の無人の状況を強調するようである。名前の「ふれあい」も、人がいなくては反語的ですらある。

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 広場全体の雰囲気を写真に収めようとパノラマ写真の撮影を試みる。写真を撮るのに少々時間がかかるのだが、その間にカメラに捕らえられるのは通り過ぎる自動車が二、三台程度である。写真に写り込む人影は依然としていない。人口12万3千人の都市の表玄関となるJR江別駅は、日曜日のこの時間には秘境感が漂うと感じるのは、筆者がこの都市に馴染んでいないせいであるためかもしれない。

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 行楽の季節を迎えてこの様子であるので、冬場の秘境感はもっと増幅される。駅を出て左側には千歳川方向に向かう道路が延び、この通りを少し進むと、かつては北陸銀行や郵便局の建物が集まった町の中心部であったところである。現在は冬には除雪は行われているものの人通りが途絶え、車の往来もほとんどなく、都会の秘境と表現してよい景観を呈している。

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 江別市の都市の産業構造が流通に依存して、ストックヤードなどを地域興しの柱に据える計画も耳に入ってくる。現代の流通は自動車に依存する部分が大部分で、鉄道の出番が見えないところで、この駅前広場が活気を取り戻す妙案は出てこないところが現実ではなかろうか。

2008年05月19日

下の月小学校跡

 千歳川沿いに上の月、中の月、下の月の地名がある。旧夕張鉄道の駅名にも下の月駅があり、1980年に閉校になるまで下の月小学校があった。この小学校の開校は1949年で、学校は31年間しか続かなかったので、短い校史の小学校である。その学校跡を見にゆく。

 夕張鉄道が廃止され、その線路跡が空知南部広域農道(きらら街道)となっている。この道と千歳川に挟まれるような位置関係で下の月地区に小学校跡がある。千歳川の土手近くに防風林の一部が残されたような場所があり、その木立の下に「江別市立下野月小学校」のレンガ造りの門柱が残されている。江別が市になってからの小学校が、校舎も無くなっているから、この学校の薄命ぶりが伝わってくる。

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 門柱の近くには生徒達が製作したと思われるセメント像が残っている。テーマは先生と生徒のようである。その他、ブランコ用の鉄製の支持が錆付いたまま残されている。これらの残されたものが無ければ、ここに小学校があったとは想像もできない。

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 ただ、下の月小学校の名前は今も使われているようで、学校跡に接した道路に避難場所の指示として「旧下の月小学校グラウンド」とあった。しかし、大都会のように建物が密集している訳でもなく、農地が広がり農家も点在する場所で、ここが避難場所に指定されている理由が理解できなかった。

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 この辺りの千歳川の堤防工事が現在進行形で進められていて、工事事務所が小学校跡の近くに設けられていた。江別揚水機場も新しいもののようで、その脇に新しそうな水天宮の神社や「早苗別開発の碑」があった。ここで早苗別川は千歳川に流れ込む小河川で、この川にはホタルが生息している。このホタルのため、早苗別川の改修には特別な工法が採用されていて、ホタル工法と呼ばれている。市街地にある四季の道の夏のゾーンで、ホタルの生育環境を保護しようとする活動と重なる。

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2008年05月18日

飛鳥山

 山の定義がよくわからないのだが、国土地理院の地図に三角点の標高が記されていて、そこに「山」の呼び名がついていると山と言ってよいようである。こうなると山は必ずしも高くはない。因みに日本で一番低い山は大阪市の天保山(標高4.5m)であるといわれ、これで町興しを進めている。

 江別市の飛鳥山公園内の小高いところにある「殉没忠魂碑」の傍に「三級基準点」がある。この場所は飛鳥山と呼ばれているので、ここは山といってもよい。その標高値というと17.5mで、同様の類の低山では日本で15番目、北海道では4番目にランクされるそうである。それでも江別では一番高い山となる。

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 この山(丘)の高い所には前述の忠魂碑の他にも「開村記念碑」、旧競馬場史跡標柱、伊藤音二郎の歌碑等が設置されている。ここには江別神社の前身の飛鳥山神社があり、神社のお祭りに奉納競馬が行われていて、1928年には公認の地方競馬場が設けられ、賑わった。この競馬場はここから元江別の方に移された後、戦争のため1938年には中止されていて、史跡標柱の他に旧競馬場を思い起こさせるものはなにもない。

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 伊藤音二郎は屯田兵の息子として江別に生まれ、上京して口語短歌運動に加わり、江別に帰郷後も短歌を作り続けた歌人である。歌碑には「石狩の原に 一すぢ雪のみち 晴れりや 馬橇の鈴が つづいた」の歌が彫られている。音二郎の歌碑の周りには、丁度遠足にでも来ているのだろう、児童の集団が敷物を広げて座ったり弁当を食べたりしていた。

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 現在、この丘も含めて一帯は飛鳥山公園になっている。ここを訪れた時は春で、丘の斜面には芝桜が咲いていて、丘の下の方には野球場やグラウンドを見下ろすことができた。また、王子特殊紙の工場の煙突もすぐそこにある感じで目に入ってきた。

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2008年05月17日

江別市の小学校の金次郎像

 小樽の秘境のテーマに小学校の二宮金次郎像というのを選んだことがあるので、江別市でも二宮金次郎を探してみた。江別小学校の近くに火薬庫があり、その傍に顔も崩れたコンクリート造りの金次郎像があった。火薬庫が江別小学校の教育勅語を納めておく奉安殿として使われた経緯もあるので、ここの金次郎像は江別小学校のものであると思って間違いないだろう。皇紀2600年を記念して造られたものだそうである。

 この崩れかかった金次郎を最初に見てから一年もしないうちに、金次郎像は真新しい石造りの像に取り替えられていたのには驚いた。何はともあれ、以前の見るに耐えない金次郎像が新しいものに置き変わったのは、見ていて気持ちが良い。

 大麻小学校の金次郎像は石造りのもので、着ているものからして貧乏な様子が表現されていて、本物の金次郎もかくやと思わせるものである。貧困にもめげず、向学心に燃えて努力する金次郎は、現代の生徒には想像の域を越えるものかもしれない。まあ、そのような金次郎にまつわる話は授業の時には出てはこないだろうけれど。

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 江別第二小学校の金次郎像はブロンズ製で、一番立派なものである。1935年に同校の開校五十周年を記念して造られたと紹介されているので、戦後に戦前の修身のモデルの金次郎像が作られたことになる。多分、これは戦前に小学校の校庭に置かれていた金次郎を復元させただけで、特別の意図があった訳ではないだろう。

 いずれの金次郎像も、生徒や先生に関心を払われることもなく、校庭やその近くに、日々の勉強や校内活動には関係のない記念碑の如く置かれていた。

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2008年05月15日

レンガのランドマーク その2

 国道12号線沿いの文京台交番はレンガ造りであった。小さな建物なので、多分レンガを積んだだけで出来ているのではなかろうか。その他大麻交番も野幌交番もレンガ造りであった。

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 時計塔の例は二番通と五丁目の交差点に設置されている「もとまち恋歌(れんが)塔」で、北海道煉瓦旧事務所の廃レンガを再利用している。この塔には風見鶏の代わりにリスが風を受けて回っていた。時計塔にレンガを用いている例はJR江別駅前のものがある。この塔に用いられているレンガは少ない一方、レンガと同じく焼き物である陶器の展示をするためのガラスのショーケースが、この時計塔に組み込まれていて、焼き物の里江別を演出している。江別第二小学校の建物に時計塔があり、これもレンガ造りである。

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 学校の門柱やお寺の門柱にレンガが用いられているのを見かけることがある。上江別にある江別高等学校や文京台にある名前を一新した北翔大学の校門はレンガで出来ていた。

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 広告の役目をしているのは「れんがもち」を売っている店舗の前のレンガの煙突を模したものがある。国道12号線に面していてランドマークとなっているといってもよい。

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2008年05月14日

レンガのランドマーク その1

 江別はレンガの街を標榜しているだけあって、ランドマークとしてレンガのランドマークを積極的に配置している。これらのランドマークは単なるモニュメントではなく、何らかの機能を持たせている。それらの機能を分けると1)バス停、2)トイレ、3)電話ボックス、4)交番、5)時計塔、6)門柱、7)広告、などになる。

 機能別に分けたランドマークのうちバス停が一番多く、国道12号線沿いに多く見かける。そのバス停も近くにある大学等に合わせたデザインのものが選ばれているようである。酪農学園大前のサイロ風バス停、ときわの森前の教会風のものなどがある。札幌理工学院前、RTNパーク前、市立病院前、東光町幼稚園前等のバス停もレンガのランドマークになっている。

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 トイレは公園に多く、これは公園の近くの住人でもなければ、目にすることは余りないだろう。トイレをレンガ製にするのは景観を引き立たせるための目的で、観光客や通りすがりの者が目にするという意味でのランドマークの働きとしては今一つである。写真のものは泉の沼公園にあったトイレである。その他RTN公園内や大麻新町公園、旧町村農場のトイレなどがある。

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 電話ボックスは江別市役所前のものがある。豊幌駅前のものは電話ボックスというより、何かの記念モニュメントと思えるほど立派なものである。しかし、ケータイ電話全盛の昨今公衆電話を使うことはほとんどないだろうから、電話ボックスの機能は早晩無くなって、この立派なランドマークの機能の変換を考える必要があるだろう。

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2008年05月13日

新篠津村点描

 現在江別市と新篠津村の合併協議が進行している。「江別・北広島秘境100選」が出版される頃には、合併が正式に発表されるか、合併が実現しているかもしれない。そうすれば新篠津村は江別市の一地区になるだろうから(新しい市名になるとは思えないので)、この村も江別市に加えて取材である。

 人口3800名程度のこの村は石狩川に沿った平坦な農村である。地図を見ると道路が東西南北に真っ直ぐに伸び、碁盤の目のような土地区分を作り出している。例外は篠津運河沿いの斜めに走る道路で、これは石狩川とほぼ平行している。この村を通る国道は無い。

 国道12号線で岩見沢市に入り、「たっぷ大橋」で石狩川を越える。この橋は旧岩見沢大橋の老境化のため新しく建設されたもので、2004年に完成している。この橋の近くで石狩川と合流する幾春別川と石狩川の両河川上に架かる橋で、全橋長は825m、石狩川の部分の斜張橋部分は506mの長い橋である。

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 この橋を渡ると新篠津村となり、同村のカントリーサインが目に入る。米どころ新篠津をデザインしたものとなっている。橋の袂の河川敷は遊歩道やパークゴルフ場になっている。石狩川の改修工事により取り残された三日月湖のしのつ湖の周囲にしのつ公園がある。公園内には展望台があり、展望台から石狩平野の雄大な眺めを360度で眺めることができる。

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 この公園には温泉施設が隣接して二ヶ所あって、村民によく利用されているようである。泉質はナトリウム塩化水素塩泉ということで、茶色に濁った湯である。料金の改定の案内があって、75歳以上は300円に値上げということで、昨今の後期高齢者医療制度開始の余波が及んできたのかな、と思ってしまう。

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 新篠津村から江別市に向かうため、前述の篠津運河沿いの道を選んでみる。この運河は1951年に農業用排水兼用の疎水路として、国家プロジェクトで巨額の費用と19年の歳月を要して完成を見たものである。直線状に伸びる水路には濁った水がかなりの水量で蓄えられているのを目にすることができた。運河の土手に篠津運河の小さな標識があって、それを入れて写真を撮ると、新篠津村の田園風景が広がっているのが写っている。

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2008年05月11日

千歳川と幌向運河

 支笏湖に源流がある千歳川は、千歳市、恵庭市、長沼町、北広島市、南幌町、江別市と流れて江別市で石狩川に注ぐ。従って、千歳川の河口は江別市にある。この河口付近に王子特殊紙の工場があり、国道12号線で千歳川を跨ぐ時に、新江別橋からこの工場と千歳川の河口部を見ることができる。

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 この千歳川は放水路計画でもめた川でもある。1981年の大洪水の被害により北海道開発局(現国土交通省北海道局)が千歳川の放水路を太平洋側につなげようとする計画を立案した。しかし、放水路の通過地予定地に野鳥のサンクチュアリのウトナイ湖などがあり、自然環境破壊の問題が議論され、反対派と開発局の応酬が続いた結果、1999年に計画は取り止めになっている。

 千歳川は石狩川のような河川改修が徹底して行われなかった結果として、河川の自然環境が守られた川ともいえる。秋になるとこの川にサケが遡上し、千歳市でインディアン水車でこのサケが捕獲され、サケの養殖事業が行われている。五月の上旬にサケの代わりにコイが登場で、河川防災センターから対岸の江別の倉庫群の集まるところにコイノボリの川渡しのイベントが行われていた。この風景はサケの遡上を思い起こさせ、千歳川の自然環境を生かしていこうとする象徴のようにも見えた。

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 千歳川は江別市と南幌町の境界となっていて、かつての夕張鉄道の跡地である空知南部広域農道が千歳川を横切る江南橋付近で、南幌町に延びる幌向(ほろむい)運河とつながっている。付近には親水地として整備された場所があり、南幌温泉もある。南幌町ではこの遺産を保存し活用しようとする活動が行われている。

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 北海道四大運河と称されたこの運河も現在は水運の役目を終えている。しかし、整備された親水地付近に水を湛える運河と、辺りに広がる田園風景は先人の開拓で得られた現在の北海道の風景であると思った。この風景をこれからも伝えていくところに北海道の未来があると感じた。

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2008年05月10日

美原大橋と石狩川の碑

 江別の観光案内図に「石狩川の碑」のポイントの記載がある。大雑把な地図の観光案内図に美原大橋付近に碑の位置が示されている。自動車で見つけるのは自信がないこともあって、自転車で行くことにする。交通量の多い国道12号線を避け、もえぎ野から江別太に出て美原大橋の河川敷に近づいてみる。

 石狩川に架かるこの橋は、1995年に着工し2005年に完成しているので新しい橋である。国道337号線にあり、江別市の美原と江別太をつないでいる。全長972m、主塔の高さは80mある。斜張橋と呼ばれる形式の橋で、札幌のミュンヘン大橋も同様な構造である。ただし、美原大橋の方は橋げたの両脇ではなく、逆Y字形の二本の主塔からケーブルを伸ばし、一面だけで橋げたを釣っている構造となっている。

 橋げたの下に立つと、この橋の大きさが実感できる。石狩川の遠景に江別の王子特殊紙の工場の煙突群が見える。美原大橋付近の河川敷には石狩川の流れがあるだけで、特別なものはない。ここには石狩川の碑はないようである。

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 国道12号線に戻り、江別方向に進み、美原大橋から分岐してきた道と国道の合流点近くで探している碑を見つける。見つけてしまうとかなり大きな碑である。「石狩川」の文字の横に原子修氏の詩が彫られている。書は北溟とあり、これは北海道を代表する書家中野北溟氏である。

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 詩の方は「時は流れ 水は流れ 千の苦悩 万の悔恨 億のコトバは流れ去っても 石狩の川はあり 石狩の野はあり 此に生きる者の ギラリと輝く 意志がある」と読める。豊平峡ダムの「ひふみみはなめ」でも原子氏の豊平川の詩が、ナレーションによる音での展示があったので、北海道の河川に関しては、北海道開発庁御用達の詩のようなところがあるな、という感じがした。

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 碑は石狩川の堤防の少し高いところにあり、周囲の情景をパノラマ写真に収めてみる。ここから西側に石狩川や樋門、王子の工場群、東側に美原大橋や旭川方向に伸びる国道12号線などが目に入る。国道12号線をひっきりなしに自動車が通過していき、江別が道路を核にした流通の要衝にある点がこの光景から理解できる。

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2008年05月09日

越後神社の花と木

 越後神社は、国道12号線で千歳川を新江別橋で横切り、夕張川に架かる江別大橋の手前のところの国道沿いにある。ここからは石狩川に架かる美原大橋の主塔部分も目に入る。神社から石狩川方向に少し進めば石狩川を眺めることができる。

 この辺りは江別太と呼ばれている。境内にある碑のうち一番あたらしそうな「江別太開基百年 越後村入植之地」と大書された碑の碑文を読むと、1886年(明治19年)越後からの十戸、石見の農民七戸が入植して開墾が始まっている。その開拓の過程で、郷土の地名を冠した越後神社が建立されたのだろう。最初は泥炭地で開拓は困難な作業であったが、昭和40年(1965年)代には近代機械化営農が定着するまでになっている。

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 越後神社の方は、国道12号線からは何の変哲ものない雑木林に見えるところに、林に隠されて小さな社と鳥居がある。車で通り過ぎるだけなら、ここに神社があるとは予想だにしない。しかし、春先この神社の境内は草花で覆われ、山野草の愛好家なら一見の価値がある場所となる。

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 春の到来が早いと言われた五月の上旬に訪れた時には、神社の境内には紫色のエゾエンゴサクや白い三枚の花びらを開いたオオバナノエンレイソウが一面に咲いていた。境内の花案内には、手書きで「ヒメオドリコ草」、「ムラサキキケンマ」の名前も記されていたので、季節をずらして訪れるとこれらの花もみることができるのだろう。

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 この境内にある樹木もいわれのあるもので、立て札にある「永山武四郎 お手植松 明治二八年十月二七日 屯田兵本部長 陸軍少将 永山武四郎」の文字がかろうじて判読できる。この松とはイチイ(オンコ)で、高さは3.5m程度で横に枝が這うように10mほども伸びている。この木は樹齢120年を越すと推定されていて、江別の保存樹に指定されている。

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 開拓時代にはこの神社の回りを木々が取り囲み、鎮守の森の静かさを保っていただろう。しかし、現在は道央を貫く幹線道路の国道12号線を走る車の音が伝わってきて、神様もこの騒音には閉口しているのではなかろうか、と思われる。

2008年05月08日

豊幌の三日月湖

 暴れ川の石狩川の治水は、北海道開拓の根幹であった。石狩川の蛇行部分をショートカットする(捷水路)工事が中流から下流領域で行われ、切り離された旧石狩川が川や湖として残った。江別の豊幌と旧北村(現岩見沢市)の境界を流れていた石狩川が、この捷水路工事で旧石狩川として残された馬蹄形あるいは三日月形の湖がある。この湖の正式名称が何であるかはっきりしないのだが、一応三日月湖と呼んでおく。

 この三日月湖と石狩川で区切られた部分が巴農場である。農産物が巴農場産で売られていて、最初個人の農場名かと思っていたら、これはこの地域の呼び名であり、農場名というよりは土地の名前である。「巴」の字は地主制度時代に三つ巴の地主が居た、地域の形からこの字が当てられた等の説がある。

 三日月湖に沿って自転車を走らせてみる。石狩川の堤防の近くに「お茶の水排水機場」がある。排水機場とは地域の排水を大型ポンプによって強制排水するための施設で、大雨などにより石狩川の水位が上昇し、三日月湖の自然排水が困難になった時点で、三日月湖が溢れないようにするため大型ポンプで排水する。この排水機場に「お茶の水」の名前がついているのが何故かは分からない。

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 湖沿いの道路の中間辺りに石碑が建っている。碑文に「水と稲と我等の護り」の文字が見える。五月の上旬でここら辺は農作業が開始されたばかりである。巴農場側の道路から旧北村側を見ると、春先で雪解け水が増えたせいか、かなりの水量の湖に見える。

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 湖を一周して旧北村側に抜ける湖の先端辺りで白鳥が一羽いるのに気がついた。近くに居た人に聞くと、仲間の白鳥から離れてここに残った一匹だそうである。この湖は渡り鳥の中継地点で、少し前には白鳥が群来してその鳴き声がうるさい程であるとのことである。居残った白鳥はこれからここに留まるのか、夏場は暑くて困らないのか、少し気がかりであった。

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 地図上で三日月(馬蹄形)状の湖も湖岸ではその一部しかみることができないので、全体の形は自転車で湖に沿って走った感じで掴み取るより外ない。ただ、旧北村側の見晴らしのよいところからの眺めでは、湖が曲がっていく様子が少しばかり分かる。

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2008年05月07日

JR豊幌駅

 江別市と岩見沢市の市境界にもなっている三日月湖を見るため豊幌駅まで電車で、駅からは自転車で行くことにする。GWの後半の日曜日の朝で、行楽に出かける人で車内は込み合っているかと思うと、江別駅終着の電車はほとんど人が乗っておらず、江別駅では乗客は筆者だけかと思うくらいである。それをよいことに、携行バックに収めた自転車を誰はばかることもなく電車の通路に置いて写真撮影である。何か電車の内が秘境風である。

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 JR函館本線で江別市から岩見沢市の境目の駅で江別市側が豊幌駅、岩見沢市側が幌向(ほろむい)駅となる。札幌から岩見沢行きの普通列車で豊幌駅に降りることになるのだが、江別駅が終着の電車に乗ってしまうと、江別駅から岩見沢行きの普通列車に乗り換える。江別駅でも乗客はほとんど居ないのに6両編成(8両ぐらいあったかもしれない)ぐらいの電車がやって来て、これは回送電車なのかと思ったりする。

 豊幌駅の駅舎と反対側のプラットホームに降る。駅構内に電車が停車していると、乗客は遮断機に遮られて待ちぼうけである。のんびりしているといえばのんびりしている。自転車を抱えている身には、跨線橋の階段を昇り降りしなくて済む分助かる。

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 この駅は江別駅から6kmほどのところにあり、1956年に開業している。1989年に駅舎が建て替えられ、ステンドグラスの飾りなどがあって小さいながらも洒落た駅舎である。

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 駅舎には自動改札機があるのだが、何かの理由でこの改札機は動いていない。改札機の前には使用済きっぷ集札箱があって切符を入れて出ることになる。無人駅ではなくて駅員も居るのだが切符をチェックするでもない。これもまたのんびりしたものである。

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 駅舎の外に出るとレンガのモニュメントが目につく。何の建物かと近づいてみると、これは電話ボックスである。電話機が設置されていたけれど、今時この電話機を使う人がいるのだろうか、と思ってしまう。レンガのモニュメントは駅舎と合わせて景観創りに腐心した結果であって、電話ボックスの機能はつけたしなのだろうと思いながら、そばを走る国道12号線に沿って三日月湖に向かい自転車を走らせた。

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2008年05月06日

故町村忠良氏の蝶のコレクション

 江別市の郷土資料館を見学していたら、蝶のコレクションの展示室があった。他の展示物とは異質の展示で、覗いてみると説明があり、これは故町村忠良氏の寄贈の標本を資料館で保管、展示しているものであると書かれている。

 町村農場があることからも分るように江別市は町村家とは深い関わりがある。町村信孝現官房長官もこの町村家の出身で、故忠良氏は官房長官の兄に当たる。忠良氏の方は東大の法学部を卒業後、三菱商事に勤めた。同社で南米での仕事にも関わり、社内の蝶の愛好家グループの一員でもあり、生前南米の蝶のコレクションを行った。

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 展示室には故町村忠良氏の収集した南米の蝶と日本の蝶が並べられている。南米の蝶は15科、1万頭におよぶ収蔵コレクションの一部が展示されており、日本のものは国蝶のオオムラサキを始め日本各地の蝶が並べられている。寄贈された蝶のうち、整理がついているものだけが展示に回されている。展示されていないものの閲覧を頼み込んだら、未整理ということで写真のファイルの方を見せてもらった。

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 1990年9月享年49歳で町村忠良氏が亡くなり、その一周忌に合わせて1991年に「南ブラジルの蝶」という町村忠良遺稿追悼文集が「ふくべ書房」から出版されている。非売品ではあるけれど、インターネットで見るとこの遺稿集には12600円の値段がついていて、気安く購入できるものではなさそうである。郷土資料館を再訪した折に町村忠良氏の資料がないかと尋ねてみて、この追悼文集を見せてもらったことがある。

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 追悼集の顔写真を見ると、毎日のようにTVや新聞に顔の出てくる弟の信孝氏と良く似ている。顔から確かに兄弟であるといえる。蝶そのものよりは、生前に弟である現官房長官との関係に興味が湧くところであるけれど、先の追悼文集にもこの点に関してはこれはといった記述もない。兄弟とはそういうものなのかも知れない。何も手がかりはないけれど、政府の中枢にいる官房長官の弟と、南米で趣味の蝶のコレクションに情熱を傾けた兄の、名門町村家の兄弟の対照的な生き方に興味が湧いてくる。

2008年05月01日

王子特殊紙と藤原銀次郎

 石狩川に接して、江別の産業を代表する工場である王子製紙の江別工場は1908年(明治41年)に操業を開始している。従って、2008年は江別工場の創業100周年に当たる。現在この工場は王子製紙特殊事業本部とグループ会社であった富士製紙が統合して2004年に新しくできた王子特殊紙となっている。

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 この長い歴史で、敷地内には百年の年月を経た建物を見ることができ、レンガ造りの変電所などがある。工場で使う電気は江別村にも供給されたようで、その委任状が残っている。委任状には「札幌郡江別市街地ニ電燈及び電力ヲ供給スルニ付其取扱ヲ岡田伊太郎ニ委託シタルヲ以テ之ニ関スル契約ヲ締結スル一切ノ行為」となっていて、日付は大正三年(1914年)で王子製紙の専務藤原銀次郎の名前が見える。

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 ここで藤原は三井財閥の中心人物の一人で、王子製紙の社長を務め、日本における製紙業に貢献した。貴族院議員にも勅選されて、商工大臣や軍需大臣も歴任している。後に慶応大学工学部になる藤原工業大学を私財を投じて創っている。

 王子製紙と深く関わる藤原銀次郎の事跡の展示でもあるかと、江別郷土資料館を訪ねてみたけれど、なにも見つけることができなかった。こんな経緯があって、その後調べもせずに放っておいた。

 春になり、江別の秘境の取材を再開して江別市役所を訪れた時、何気なく庁舎内の市民に開放している小さな史料室で「新江別市史」が目に留まった。思い出したように索引で藤原銀次郎を探し、記述を見つけたので名前の出ている部分を読んでみる。

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 記述によれば、昭和恐慌で生産設備の整理と国内の産業界の再編が急がれ、富士製紙の筆頭株主の死も契機となり、王子製紙、富士製紙、樺太製紙の合併が行われ、新王子製紙が誕生する。この時合併の任に当たったのが藤原である。

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 同市史には不況の中の富士製紙江別工場の写真も掲載されていて、王子製紙と合併する前には富士製紙の工場であったことが分る。戦時中は木製戦闘機も作られた工場であり、キ106戦闘機のモデルが同社の応接室に飾られてあった。百周年を迎えたこの工場はいろいろな出来事があったのだとの思いが強かった。

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2008年03月05日

旧肥田陶管工場

 JR函館本線に沿って、野幌駅から江別駅方向に少し行くと江別の窯業の歴史的工場跡が現れる。レンガ造りの建物で、これまたレンガ積みの煙突も残っている。建物は1941年に創業した肥田陶管(当時)の工場で、1951年から1953年にかけて造られている。会社の「ヒダ」(旧肥田陶管)が1998年に自主廃業して使われなくなった工場を、江別の窯業を代表する歴史的産業遺跡ということで、江別市が土地と建物を買い取っている。

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 この工場跡を有効利用しようということで、2004年に江別市と姉妹都市関係にある米国オレゴン州グレシャム市のアンテナショップを工場跡に設けてる。喫茶店にもなっている店内には、札幌学院大学電子ビジネスセンターが開発した自動翻訳ソフトでグレシャム市のホームページが日本語で閲覧できるPCが並んでいた。しかし、PCの前に座っている人は居なかった。グレシャム市のHPを見るだけなら、自宅で自分のPCを使って、英語もインターネットの翻訳システムを利用すればよく、喫茶を目的で入店してこのシステムを動かしてみる人はほとんどいないのではないか、という印象だった。

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 アンテナショップ以外の工場内には一般の人は入れないところ、喫茶店の係りの人に江別の取材と言ってみたら、特別内部の工場跡を見せてくれた。レンガを焼いた炉や土の整形に用いられて思われるプレス機が手入れもされずに放置されていた。陶管の工場だった名残で、陶管の継ぎ手の部分の製品が出荷されずに残ったものが薄暗い部屋に並んでいた。現在はこの手のものは塩ビの製品に取って代わられているのだろう。

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 江別市は高知県土佐市と友好都市の関係にある。姉妹都市と友好都市の違いがはっきりしないのだが、中国との姉妹都市関係ではどちらが姉で妹はどちらか、といった杓子定規的関係が問題になることを懸念して、全部友好都市としている話を以前に聞いた。友好都市の高知の物産もこのアンテナショップで展示即売されていて、訪れた時には「土佐文旦」の旗が店の前に並んでいた。「土佐文旦」が果物の名前であることをこの時初めて知った。形はグレープフルーツに似ている土佐名物を、取材の謝礼の意味を込めて一つ購入した。

2008年02月20日

新像は 雪像に見え 尊徳像

 江別の秘境探検もしばらくご無沙汰で、冬の間にでも写真を撮っておかねばならぬところもあろうかと、JR江別駅近くのレンガ造りの火薬庫まで行ってふと横を見ると、なんと顔が無くなっていた二宮金次郎像が新しいものに置き換わっていました。白い石で出来ているのでまるで雪像のようにも見えました。最初の金次郎像をみたのが昨年の9月でしたから、それから数ヶ月で新しい像に置き換わったことになり、少々驚きました。

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2008年02月01日

Google Map

 秘境本の発行にあたって意外に手のかかる部分が地図情報である。実際に本を手にした人が秘境の場所まで行ってみたいとの要望に応えようとすると、地図か航空写真を載せておくことが必要である。以前掲載した江別キリスト村碑の場所など地図情報がなければ行くのが困難である。ただ、この場所の地図は道路があるだけで、地図では線(道路)が交差するだけのもので、地図を載せても場所ははっきりしない。この点、航空写真ではあたりの様子が伝わってくる。

 江別市郷土資料館に江別全部を取り込んだ大きな航空写真が壁にかかっていた。そこで碑のある部分を写真に撮ってきたものを載せておく。写真中央の道路が三角形の頂点のようになって四つ集まっている辺りに碑がある。

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 航空写真を使うのであれば、GoogleMapを利用する手もある。秘境サイトとして公開しているサイト(http://www.hikyo-100sen.com/)でもGoogleMapが利用できるので、その拡大航空写真と地図でこの場所を表示したものが次の図となる。碑は写真の拡大スケールの下の「ー」の表示部分辺りである。このくらい拡大すると、この場所に建物があり、産業廃棄物処理場の様子が見てとれる。

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 GoogleMapは便利ではあるけれど、これはインターネットでは使えても、印刷メディアとしては再利用が難しい(許諾の問題で)。まあ、このブログ一例ぐらいならよかろうが、多数の引用になると問題だろう。さて、どうするかを思案中である。

2008年01月28日

木製戦闘機の模型

 木製戦闘機キー106の取材も兼ねて某所に行ってきました。取材の写真の出所が分って別の人の取材依頼に対応するのが大変であるとか、現場の写真撮影禁止とかの制限があるので、取材内容が秘境のテーマになり得るのかどうか判断が難しいところです。
 一応、応接室に飾ってあった木製戦闘機の模型の写真を載せておきます。

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 訪れた場所に逆禁止マークがあったので、こちらの写真も載せておきます。この写真は将来利用できるかも知れないと思っています。

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2008年01月10日

江別キリスト村記念碑

 江別の秘境のテーマ探しで「江別キリスト村」創生の開拓史を知った。今やこの村は存在せず、記念碑が残るのみだということで、この記念碑を探しにゆく。住所は江別市東野幌704番地とだけ記されている。詳細の番地の入った地図を持ち合わせていないので、大まかな地図で見当をつけて現地で情報を得ようと出かけてみる。

 筆者のオフィスのある札幌のテクノパークから立命館啓祥高校の横を通り、江別恵庭線に出て江別の市街に向けて車を走らせる。途中の志文別で千歳川の方向に向かう。この辺りでは千歳川が江別市と南幌町の境界になっている。千歳川の土手の工事が行われていて、工事事務所で番地を聞くのだが、工事用の詳しい番地図にも載っていない。近くの農家で聞くと分るかもしれない、とのことで農家をみつけ二軒目でやっと道順を教えてもらう。

 教えられた場所に着いてみると、ここは産業廃棄物の処理場になっていて、ダンプカーが出入りし、ショベルカーが作業をしている。危険ということで一般の人は立ち入り禁止の看板が出ている。近くの事務所風の小屋に詰めている作業員に聞くと、昔ここは教会があったけれど、碑については心当たりはないとのことである。取り壊されたのでは、とも言われる。

 ここまで来てこのまま帰るのも心残りで作業現場をふらふら探していると、現場監督らしき人がきて、碑の場所を教えてくれる。確かに、これでは見落としそうになるように碑があった。保存運動でもしておかないと早晩この碑は産業廃棄物と一緒に処分されそうな雰囲気である。

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 この「キリスト村」の開墾は西村久蔵によって始められた。西村は昭和初期に札幌駅前で洋菓子店「ニシムラ」の経営で成功しており、キリスト信者であった。しかし、第二次世界大戦に主計将校として協力したことで公職追放となり、これを契機に開拓のため江別東野幌の地に入植した。行動を共にしたのは4戸であった。しかし、この地は泥炭地で農耕に適せず、苦難の末心臓病を患って、信仰と開拓の生活は三年で終わることになった。この頃、賀川豊彦は祈りを核にした共同体「キリスト村」建設の運動を起こしている。この運動と西村の開拓の実践の関係は筆者にははっきりしない。

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 1963年開拓に加わった15戸が解散し、キリスト村計画は幕を下ろした。この地での信仰に根ざした開拓史を物語る唯一の記念碑は、一方は農地として広がる雪原と片方は産廃処理のため動いている重機に挟まれて、誰の目にも留まることもなく佇んでいる。その様子は、キリスト村の開拓史が完全に風化していることを物語っている。

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2008年01月06日

江別の食のブランド

 現代の市場社会において、どこの地域でもブランドの育成に熱心である。江別市の産業で全国ブランドになりうるものは、レンガに代表される焼物と小麦に代表される食材ではなかろうか。特に食に関しては、近年江別産小麦や小麦の加工食品が知られるようになってきている。

 小麦に関して北海道は国内の小麦生産の66%を占める。この状況で、小麦で全国ブランドの地位を占めるものが出てきても不思議ではない。ただ、小麦のように粉食の場合、小麦粉が麺とかパンとかに姿を変えて口に入るため、米のような粒食と比べて小麦そのものがブランドとして消費者に知られるよりは、その小麦を使った食品が広まってブランドの名声につながるようである。

 さらに、小麦を製粉する場合、大量の麦を一度に製粉するため、ある品種の小麦だけのオーダー製粉がこれまで難しく、どこ産のどの品種の小麦であるとの区別にこだわることができなかった点もブランド化の壁になっていた。この点江別製粉が開発したオーダメイド粉は食品加工の段階で好みの小麦を利用できるようにしていて、ブランド化に力を貸している。

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 このような状況で、近年江別の小麦を使った寒干しラーメンやパスタ、江別以外ではあまり知られていないけれど、レンガパンなどの加工食品の開発が盛んになってきて、知名度も上がってきている。小麦の「ハルユタカ」や「ハルヨコイ」はこれらの食品に姿を変えて江別産小麦の評価を高めている。

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 近年の道産米の評価の高さは江別でも例外ではない。江別産の米がイタリア料理のリゾットとして札幌のみならず道外にも売り出されている。写真に写っている巴農場が生産している「おぼろづき」などの米も知名度が高まっている。

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 食のブランドは口コミから始まるところがある。食と口コミとなるとおかあさん達である。ここに目をつけた江別市が第1回サンデー&サタデーマーケット「かぁーさん江別ブランド 手作り品大集合!」という企画を実行した。普段はほとんど訪れる人もいない河川防災ステーションの活性化も念頭に、江別産の食材や食品を並べた。人の入りは上々である。このような地域での地道な取り組みが将来の江別の食のブランド形成につながっていくのだろう。

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2007年12月31日

日本最北端の土偶出土地

 江別市の郷土資料館に対のような二個の土偶が展示されているのが目に留まった。この土偶は縄文時代晩期から擦文(さつもん)時代にかけてのものであるとのことである。ここで擦文時代とは土器による時代区分で、6世紀後半から7世紀初めにかけての北海道独自の土器文明である。続縄文時代の土器には縄目模様がつけられたのに対して、擦文時代の土器の表面には木の“へら”による擦った模様があることからこの言葉が出てきている。

 出土した土偶は江別市指定の有形文化財に認定されている。有形文化財としては最小のものでなかろうか。板状土偶で幼児の墓と思われる土壙から重なり合うようにして出土している。ほぼ完全な形で出土している例は北海道では珍しいということで、市の文化財の指定を受けたものと思われる。

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 出土した場所は江別市大麻にあり、大麻三遺跡と名づけられている。この場所を一度見ておきたいと国道12号線から分かれて、JR函館本線の下をくぐる道路から大麻神社の横を通り、3番線と呼ばれる道路の辺りに出る。車を止めて歩いてみても場所が見つからないので、道路に面した消防署でも聞いてみる。集まってきた署員も出土場所を示す標識は見たことがないという。

 後で知ったけれど、目的の場所はこの消防署から歩いて数分のところにあった。どうも江別市教育委員会の設置する遺跡等の標識の市民の認知度は低いようである。3番通り沿いにあるからにはこの通りを歩いていると行き当たるかと、歩いてみる。道路を境にして中央公園の反対側の道の脇に白い標柱を見つける。近寄ってみると標柱には「史跡 大麻三遺跡 日本最北端の土偶出土遺跡」の文字がある。

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 雪が地面を覆っていることもあって、土偶出土の場所の雰囲気は全く感じられない。住宅地の傍にひろがる空き地に、人目をひくこともなく標柱は建っている。真っ直ぐな道路が伸び、変哲のない住宅地である。近くに谷の形状が認められ、大昔には沢の近くの場所であった感じもする。場所の雰囲気はともかくも、日本最北端と修飾語のつく場所に立てたのは確かである。

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2007年12月28日

旧北陸銀行江別支店内喫茶店

 JR江別駅から千歳川方向に線路と並行に伸びる平和通と名づけられた通りがあり、通りの端に旧北陸銀行江別支店の建物がある。石造り2階建ての建物で、これがかつて銀行の支店であったとは現代の感覚では思いも及ばない。アメリカの西部開拓時代に、新しく出現した村に出来た銀行はかくの如きであったかと思いを馳せる。

 この銀行の建物は十二銀行札幌支店の江別派出所として1919年に建てられた。1934年同行江別支店に昇格し、1943年には銀行の合併に伴い北陸銀行江別支店となっている。1966年支店の移転により、石狩川水運の要衝の地で銀行として果たしてきた役目を終えている。この歴史を背負って、建物は文化庁の登録有形文化財に指定されている。

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 現在建物はOld-eと名づけられた喫茶店とバーになっている。ここでOld-eとは古い江別の意味であることを後で喫茶店の人から聞いた。玄関部分は当時のものがそのまま残ったものらしく、ガラス窓のあるドアは頑丈である。玄関を入ったところに「北陸銀行江別支店」のプレートが飾ってあった。店内には当時使われていたと思われる金庫があり、その周りにこれも当時の調度品と思われるものが置かれている。金庫の上のサッポロビールのビール瓶には古そうなラベルが貼ってあり、これも当時のものなのだろうか。

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 二階も喫茶店の店になっていて、階段を登ったところに北陸銀行の文字が書かれたドアが壁に取り付けられている。ドアがあるからといって、その向こうに部屋がある訳ではない。アンティーク調のテーブルと椅子が並んでいて、天井には大きなプロペラが回転する旋風器が取り付けられていて、一階からの暖気を拡散させているようである。

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 この喫茶店はここに開店してから七年ほど経っているとのことである。文化庁指定の建物内での喫茶店も珍しいことだと注文したコーヒーを啜ってみる。建物は古くてもコーヒーの方は現代的味がするものであった。

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2007年12月27日

ヤツメウナギ漁のマンフォールの蓋

 江別市内のマンフォールの蓋にはヤツメウナギ漁がデザインされたものがある。生憎雪の季節で蓋が濡れたりしていてよく撮れなかったけれど、地面が乾燥した季節に再度写真を撮ってみようと思っている。それにしてもマンフォールの蓋のデザインになるくらいヤツメウナギ漁は江別を代表する産業だったのだ。
追記:マンフォールの蓋のデザインがよりはっきりしたものを撮り直してきました。漁師がヤツメウナギを掴んでいる絵がユーモラスです。

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2007年12月25日

幻のヤツメウナギ料理

 ヤツメウナギはうなぎの名前で、見た目にもうなぎに似ているけれど、いわゆるうなぎとは異なる種類の魚(正しくは魚ではない)である。正式には無顎口網ヤツメウナギ目ヤツメウナギ科の動物となる。体の両側に7個の鰓孔があり、これが目のように見えるため八目の呼び名がつけられている。魚類にとりついて、鋭い歯で魚の体液を吸い取るというから、これは川に生息する大型のヒルみたいなものである。ヒルみたいなやつなんて聞くと、この時点で食欲をなくする気の弱い連中もいそうである。

 石狩川で捕れるヤツメウナギは主に食用に供されてきた。しかし、ヤツメウナギの激減を受けて、資源保護のため江別漁協は2004年から禁漁措置を取ってきている。そのため、江別の郷土料理ともいえるヤツメウナギ料理は幻の料理になりつつある。しかし、細々と漁が行われているらしく、何かのイベントに合わせてヤツメウナギ料理が出されることがある。

 江別の農産品の販売バザーに合わせて、このイベントが行われている河川防災ステーション二階の食堂の入口に、ヤツメウナギ入荷の案内が貼り出されている。この機会を逃してはヤツメウナギ料理を味わってみる機会はそうはないだろうと、早速メニューを見て注文する。

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 ヤツメウナギの唐揚げとヤツメウナギ丼を試してみる。唐揚げの方は身の部分が適当な大きさに切られて揚げられている。ちょっと歯ごたえのある食感で、味はまあまあである。丼物のほうはヤツメウナギの蒲焼がご飯の上に乗っている。こちらの方は生臭い感じがする。よく川魚は泥臭いと評されるけれど、そんな感じで、美味しいかと問われれば首を横に振る。まあ、好き嫌いが出る魚であると思われる。

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 今や江別では幻の川の幸となったヤツメウナギ料理をわざわざ食べに来るのは筆者だけではないようで、料理を食べる前に写真を撮っている客もいた。ヤツメウナギ料理の感想を聞きたかったところであるけれど、不作法なことは遠慮した。運転手も一緒だったのだけれど、歯の治療中でヤツメウナギを敬遠していて、食後の感想は筆者のものだけになってしまった。

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2007年12月24日

木製戦闘機の飛んだ飛行場

 江別の石狩川に接して工場のある王子製紙は、昔から紙を作る会社と思っていた。しかし、第二次世界大戦時には系列の王子航空機製作所が戦闘機を作っていた。それも木製の戦闘機であった。木製にした理由は、戦時中の物資不足が飛行機の胴体や翼に使われるアルミニウムに及んだためである。

 木製の戦闘機はキ-06と呼ばれて、その部品等は戦後最王子製紙に残されていた。しかし、製紙の本業に関係はなく、一方資料的価値はあるため、江別市の郷土資料館に寄贈された。資料館内で、展示されている木製の翼や戦闘機の車輪などを目にすることができる。

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 木製戦闘機を飛ばすには飛行場が必要で、戦時中元江別(見晴台)に飛行場が造られた。造られた木製戦闘機の1号機は札幌の陸軍の丘珠飛行場へ、2号機は東京の福住飛行場にこの江別の飛行場から飛んだ。3号機は格納庫で終戦を迎えた。この木製戦闘機を飛ばすことには役立った飛行場跡は、現在生活道路、住宅地、緑地に姿を変えていて、飛行場の面影は微塵もない。

 飛行場の跡に史跡の標柱が建っているというので、その場所を探しに出かける。飛行場の滑走路は江別第三中学校の横の斜め通りがその一部であったそうで、飛行場そのものは道道110号線の元江別地区の元江別緑地あたりを中心にしてあったらしい。この元江別緑地に目指す史跡の標柱を探すのだが、なかなかみつからない。それほど離れていないところにあるパン屋で聞いても、店の人は首をかしげるばかりである。

 やっとこの地域をよく知っている人に出会って聞くと、探している辺りすぐ近くを教えてくれる。緑地が雪で覆われ、標柱が白い柱であったこともあって、見つからなかったようである。標柱には「史跡 旧飛行場跡 木製戦闘機と戦争」の文字があった。江別市教育委員会が1988年に建てている。翌年の年明け早々に昭和天皇が亡くなっていて、先の戦争のある意味区切りがついた直前のことである。

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 木製の戦闘機は空中戦には参加しなかった。しかし、木製の戦闘機がアルミ製の戦闘機と戦って勝ち目があったのだろうか。似たような話で、終戦直前にベニヤ板で作られた特攻艇が造られ、連合軍艦艇が小樽上陸で現れたら、この特攻艇で攻撃する計画があった。この特攻艇を隠しておく洞窟が小樽港の近くに残っていて、小樽の秘境で取材している。先の戦争は最終段階では「木(キ)」がキーワードになっていたのである。

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2007年12月23日

幻の江別の水運

 江別の生い立ちで石狩川の果たした役割は大きい。北海道の運輸や交通が石狩川に大きく依存していた時代に、江別は石狩川水運の要衝の地であった。北海道で最初の集治鑑である月形町の樺戸集治鑑が1881年に建設され、集治鑑専用の船が石狩川に就航している。この集治鑑は小説にも取り上げられて、初代典獄月形(これが月形町の町名となった)の名と共に有名である。

 この樺戸集治鑑が石狩川の航路の先鞭をつけており、1884年には石狩、樺戸間での客貨の輸送が始まっている。江別はその中継地の役目を担った。民間の汽船会社も設立され、1889年には石狩川汽船会社が営業に入っている。運輸の公共性もあって、北海道庁が経費の支援を行い(命令航路)、会社の経営如何で船が欠航しないように配慮している。この頃、石狩(河口)から江別までの所要時間は上り8時間、下り4時間、さらに江別から樺戸は上り9時間を要している。

 1890年には西田組汽船部も設立され、後に石狩川汽船に吸収された。石狩川水運で活躍したのは外輪船で、神威(かむい)丸、上川丸、空知丸が石狩から空知太(滝川)まで運行していた。この外輪船の上川丸の大きな模型が石狩川と千歳川(江別川)の分岐にある河川防災ステーション内に展示されている。

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 この江別の水運跡を石狩川や千歳川沿いにないかと探すのだが、それらしいものを見つけることはできなかった。ただ、千歳川の土手に史跡の標柱が建っているのを見つけた。標柱には「史跡 石狩川汽船 江別の水運と倉庫群」と記されていて、標柱の建っている場所から旧大久保倉庫や旧岡田倉庫が目の前にある。岡田倉庫は改装され、ドラマシアター「外輪船」として利用されている。

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 標柱から千歳川方向に目を転じると、新江別橋が見える。石狩川の水運に代わって、陸の大動脈となった国道12号線がこの橋を通過している。この橋の近くで千歳川は石狩川に注ぎ、その合流点に王子製紙の工場がある。王子製紙も石狩川を利用して紙の原料の木材を江別の地まで運んだ歴史を持っている。

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 対岸に河川防災センターが見える千歳川は、初冬の季節の中で流れの方向がはっきりしないほど緩やかである。この流れに昔の水運の活気を想像するのは、静か過ぎて幻の水運の言葉が頭をかすめるだけである。

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2007年12月22日

石狩川とチョウザメ

 かつて石狩川では川の主としてあがめられたチョウザメが捕れた。江戸時代には刀の鞘などに珍重され、石狩川産のチョウザメは幕府への献上品にもなっている。それが現在は石狩川では絶滅してしまって、1969年に石狩川で捕獲されたチョウザメの剥製が石狩市の市指定文化財になっている。ただし、北海道の沿岸部でチョウザメが時折捕獲されている。

 チョウザメの写真と剥製は石狩市の「いしかり砂丘の資料館」で見ることができる。見た目には鮫にも似てなくもないけれど、鱗が特徴的で、鮫の呼び名がつけられていても鮫の仲間ではない。写真と展示されている剥製でみると鮫ほどではないにしても、かなり大型の魚である。

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 チョウザメを人工孵化して、将来石狩川にチョウザメを蘇らせようという研究が江別市にあるほくでん総合研究所で行われていたことがある。同研究所で行われていたチョウザメの研究レポートに目を通すと、チョウザメは飼育環境下では自然産卵はしないそうである。そこで同研究所ではホルモン注射により産卵を促し、北海道で初めて人工孵化に成功し、1万匹の仔魚を得ている。孵化した仔魚を育て、生存率の調査も行われた。

 このチョウザメの人工孵化の研究は北電の電力事業とは直接関係はないけれど、地域産業活性化の目的に沿って行われた。しかし、研究は人工孵化の段階で終わってしまい、石狩川に人工孵化の仔魚の放流には結びつかなかった。最初に譲り受けた親のチョウザメが外国産であるため、外来種を国内の自然環境に放流するのが出来なかったせいかも知れない。

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 研究は実用化には到らず終結、現在同研究所にはかつてのチョウザメ飼育の水槽が残っている。飼育されていたチョウザメの方は、共同研究を行っていた北大水産科学研究院の方に引き取られて、現在でも七飯にある同研究院の養魚場で飼育されている。同研究院の知り合いの先生に頼んで、このチョウザメを研究のため取り出しているところの写真を送ってもらったものがある。生きたままチョウザメを取り扱うのが大変そうなのが画像から伝わってくる。

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 石狩川ではもう目にすることがなくなったチョウザメを、せめて水槽の中で泳ぐ姿だけでもそのうちどこかで撮影しようと思っている。

2007年12月21日

不死鳥の彫刻

 国道12号線が江別市役所の前を横切るところ、江別市公民館の横に写真の彫刻があります。鳥の像であることはわかります。これは本郷新の「不死鳥」のブロンズ像です。江別市開基90周年、北海道百年の合わせて1966年に設置されています。この頃の江別市の人口は約5万人でした。

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2007年12月18日

消えたヤツメウナギ漁

 江別市工栄町を石狩川に沿って走る国道337号線があり、国道と平行に石狩川の土手道がある。土手道から河川敷方向は緑地として整備され、その向こうに石狩川が流れている。この石狩川に沿ってヤツメウナギの漁場と漁のための舟寄せ場がある。

 ここを訪れたのが雪の降る季節で、係留されあるいは陸に揚げられているヤツメウナギ漁のための舟を見ることはできなかった。ただ、ヤツメウナギ漁に用いられる漁具の「どう」が雪の中に放置されているのを見ることができた。この「どう」は植物のカヤで作られていて「カヤどう」とも呼ばれている。

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 ヤツメウナギ漁は1900年に石狩川のこの辺りで始まったといわれている。新潟県信濃川の漁法が取り入れられたため、「カヤどう」に使われるカヤは新潟から取寄せて作られてきている。1950年代半ば石狩川でのヤツメウナギ漁は最盛期を向かえ、全国漁獲量の6割を占めたといわれている。

 ヤツメウナギは主に食用のため捕獲されている。加えて、加工品、医薬品にも利用されていて、江別や石狩の特産品であった。そのヤツメウナギが石狩川の河川改修の影響を受け激減して2004年から禁漁になって現在に続いている。「カヤどう」も働く場所がなくなって陸に放置されている状況にある。

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 この秘境探検でヤツメウナギ料理を食してみようと密かに思っていたことは、現状では実現が難しい。この状況に地元のヤツメウナギ関係者や一般市民がただ手をこまねいている訳ではなく、関係機関や団体が資源の回復の試みを模索している。恵庭市にある道立水産孵化場でも人工的な孵化技術の開発などの研究を行っている。

 昔、石狩川にはチョウザメも生息していたのが、チョウザメにとっての石狩川の環境悪化により、絶滅している。ヤツメウナギもその二の舞にならなければ良いと思っているけれど、果たして人工的資源回復が功を奏するかどうか。おおよそ8年経ってヤツメウナギが成魚になって川に戻ってくると言われていることを考えると、放置された「カヤどう」がヤツメウナギ漁のため石狩川に沈められる状況を目にしながら取材して、この秘境レポートに載せることは今のところ見込みがない。

2007年12月17日

使われない公衆電話

 江別市役所に行ったついでに、市役所前の国道12号線の歩道脇にあるレンガ造りの電話ボックスの写真を撮って来ました。今や公衆電話はほとんど使われなくなって、以前は並んだ二つのボックスそれぞれに電話器が設置されていたらしいのですが、今や片方のボックスだけにしか電話器がありませんでした。使われなくなった公衆電話(ボックス)も秘境のテーマになりそうです。

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2007年12月16日

人工着雪実験を見守る雪だるま

 北海道のような冬に大量の雪が降る地方の電力会社の悩みの種に、雪による鉄塔の倒壊がある。降って来る雪を手のひらに受けてみて、この雪が鉄塔を倒すまでになるとは到底思えない。しかし、鉄塔や送電線に着雪した雪が融け、それがまた凍って成長していく着雪の重さは、見た目以上のものがある。鉄塔のみならず、建物だって同じ理屈でつぶれる場合がある。

 送電線にへばりついた雪が落ちても鉄塔倒壊の原因となる。雪が落ちることで送電線は反跳して鉄塔間に張られた送電線が共振を起こし、この共振エネルギーを共振が小さなうちに放出できないと、鉄塔は増大しながら振動する送電線を支え切れなくなって倒壊する。雪が送電線から落下したとしても油断できないのである。

 雪による鉄塔倒壊の対策としては、送電線に雪が着かないようにするのがよい。送電線にリング状のものを装着して、着雪が成長しない前にこのリングにより雪を落としてしまう方法もあり、これは実用化されている。送電線を捩ったような構造にして、着雪が起きないような形状にするのも検討されている。

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 降雪期に屋外で考案した送電線のモデルで着雪実験を行うのは天候に左右され、測定装置の設置とかの問題もありそうで、屋内で実験をしたいところである。しかも、年間を通しての実験でなければ研究も進まないだろう。そこで考えことは低温室での人工着雪実験である。多分、この研究所しか見ることのできない送電線の手作り人工着雪装置を見せてもらった。

 ドアのところに「-15℃の雪と氷の体験」の文字を目にして、この部屋の中に入れてもらう。室内は実験は行われていないので、少し低めの室温かな、と感じる程度である。部屋の一方には捩った送電線の模型がおかれ、他方には人工着雪装置がある。実験ではこの人工着雪装置に雪を入れて、これを掻き出しながら送風機からの風で雪を吹き飛ばす仕組みになっている。吹き飛ばされた雪が送電線の模型に当たり着雪が起こる。

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 夏でも人工着雪実験を行うなら雪が必要で、実験室内に大きな冷蔵庫があって、内にはケースに詰まった雪が置かれてあった。冷蔵庫内で雪を見張るように少し融けかかった雪だるまが置かれている。この雪だるまは着雪実験の現場監督のようにも見えた。

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2007年12月12日

ほくでん総合研究所で培養されるマリモ

 江別にはかつて北海道電力(ほくでん)の火力発電所があった。しかし、この発電所は今はなく、発電所のあった敷地には「ほくでん総合技術研究所」が建っている。電力会社の研究所なので、発電、送配電、電力機器や測定装置の開発等の研究が行われているのは容易に想像がつく。この想像に反して、電力会社なのにこんな研究が行われている、といったものが見つかるのを期待しながらこの研究所を訪れてみた。以前この研究所でチョウザメの養殖の研究が行われていた頃に見学した経験もこの期待を膨らませた。

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 石狩川に沿って走る国道337号線が対雁(ついしかり)を抜ける辺りに研究所がある。研究所に入ると一階のロビーには研究成果のパネル展示がある。それを順に見て行くと、マリモの培養の研究が目についた。これぞ秘境にふさわしい研究であると、この研究を一番の優先順位にして見学させてもらった。

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 マリモは最初は糸状の藻が集まり、水の流れ等で球状に発達してよく目にする毬藻となる。人工的にマリモを培養するには、肥料成分を加えた水中で糸状の藻を繁殖させ、これを攪拌して藻の塊を作る。この時の肥料成分を調節して藻の培養率を高め、さらに藻を塊にする装置や方法などが研究の対象らしく、研究依頼元の阿寒町(現在は合併で釧路市)と共同でマリモ培養に関する特許を取得しているとのことである。
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 パネルの写真が示すように、機械で藻の塊を作ってもそのままでは球状にはならない。そこでおにぎりを作るように人間の手で丸めてマリモの形をつくるのだそうである。おにぎりの手さばきでマリモが生まれてくとは予想もできなかった。壁際に水槽があり、培養された小さなマリモが水底に重なっている。この程度の大きさにしたマリモを、土産用の商品として販売も検討したところ、盗掘されて売り物として出回っているマリモとの価格競争に勝てず、商品化は成功していないと説明された。悪貨は良貨を駆逐する、といったところか。

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 九月に研究所公開日があり、この時には列を成す見学者の先着三百名に無料でマリモが配られるとのことである。電力会社の研究所を見学しに行ってマリモがもらえるとは、これはやはり秘境の研究所である。

2007年11月26日

旧江別郵便局内の喫茶店

 江別には煉瓦造りや石造りの倉庫などがあると耳にしていたので、JR江別駅の東側の千歳川の方向に線路沿いに車を走らせてみる。駅の周辺だというのに、辺りは寂れた感じである。この道は直ぐに千歳川の土手にぶつかり、煉瓦や石造りの倉庫らしいものがない。初回の探検時は見るものもないと早々に引き上げた。

 でも気になるので、インターネットで旧江別郵便局の写真をコピーしてから再び行ってみる。すると写真と同じ建物が目に入る。しかし、只の倉庫のようにも見えて帰ろうとすると人がやって来て建物の中に吸い込まれていく。よく見るとこの煉瓦造りの建物の横には入口があって、「ども」の文字が見える。後で分かったことであるけれど、ここは「アートシアターどもIV」の喫茶店の入口で、先ほどの女性はこの喫茶店のお手伝いの人だった。これから開店という時刻にこちらはここから立ち去ろうとしていたのである。

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 そのうち駐車した車の傍に薪を運んでくる男性も現れ、これも又後で知ることになるのだが、喫茶店のオーナーの安念智康氏であった。「ども」は氏のあだ名から採られている。「ドラマシアターども」は劇団名であり、この劇団は1981年に旗揚げして現在に続いている。喫茶店の方は劇団員が集まるスペースでもあり、ここには2006年に移転して来ている。劇団は近くの外輪船と名づけられた石作りの旧岡崎倉庫の建物で公演活動を行っている。

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 喫茶店があるこの建物は、元々は私設の郵便局で、その後小児科の病院として利用され、現在は二階部分が喫茶店とギャラリー、三階部分が安念夫妻の住居と劇団の練習場となっている。訪れた時は筆者らの他には客が居らず、お手伝いのウエイトレスにあれこれ質問するものだから、安念氏の奥さんの優子さんに取り次がれ、現れた優子さんから色々話を聞いた。

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 店先に置かれている女人像にまつわる話などもあって、誰の作かも分からないこの像が地中から出てきて、重い像を引越しの度に連れてきていることや、一度胴体部分が割れて二つになってしまったものをつなぎ合わせて現在に至っている、などの話を聞くと、この像を見る目も変ってくる。

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 さらに、喫茶店から場所を移して一階の安念氏の脚本書きをする仕事場での話を伺って、この喫茶店と劇団の関係、その他のことの輪郭が理解できるようになる。近々韓国からの劇団を受け入れことになっていて、この公演の準備を行わねばならない話から、その公演の切符を手にすることになる。公演を見にまたここに来ることになるのだろうか、とこの時は喫茶店を後にしながら考えていたけれど、実際に韓国からの劇団「DOMO」の公演を見ることになった。

2007年11月18日

アートスペース外輪船での韓国劇団の公演

 劇団「ドラマシアターども」が主催して、韓国・春川(チュンチョン)市の劇団DOMOが江別のアートスペース外輪船で演目「悪夢」を公演したのを観に行った。日韓両国で、めった聞くことのない言葉「ども・DOMO」の同名の劇団があったとは奇縁である。

 石造りの旧岡田倉庫を利用した演劇スペースは、建物内に音響装置が設置されており、屋根部分には照明が並べられている。音響や照明の制御は、観客席の後ろの二階部分で行われることになる。舞台は倉庫の床の部分がそのまま使われるので、観客は高い舞台で演じられる劇を見る訳ではなく、役者の近くで同じ目線で観ることになる。元々は演劇用には造られていない建物を演劇場に転用したため、演劇を間近で観賞することができるという、最初意図していなかった効果をもたらしている。

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 元の倉庫の横に玄関部分を増設しており、ここが劇場への入口となる。切符の販売やチェックはこの玄関で行われる。建物内は半分が舞台、半分が観客席に区切られていて、観客席は床に座る部分と数段の階段状にした椅子席が設けられている。入場時の入口のところに「ドラマシアターども」を主宰している安念智康氏が立っているのが見える。

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 今回の公演の出し物「悪夢」はチャールズ・デッケンズ原作の「クリスマスキャロル」を脚色したものである。この物語の筋は大体知っているので、韓国語のセリフは理解できないけれど、物語の筋に従って場面、場面で演じられるものを理解するのはそれほど難しくはない。言語が違う場合、世界に知られる名作を脚本化するのは、通訳や翻訳無しで演劇が楽しめる工夫であると実感した。

 公演終了後は出演者のサイン会というのもあって、劇団員の顔写真が載っているパンフレットを購入してそれにサインしてもらう。写真の左端に居るのは演出を受け持った黄雲基(ホァン・ウンギ)氏、その右隣はスカーレット役の安珉貞(アン・ミンジョン)さん、さらに右隣はスクルジ役の黄雲涌(ファン・ウニョン)氏である。韓国の若い力が同国の演劇を牽引している感じである。

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 今回の劇団DOMOの日本公演は12名の団員で約3週間、日本各地を回る予定とのことである。日本の各公演都市では、この劇団を支援する団体がボランティア活動で公演を支えている。江別では支援者は先に述べた劇団「ドラマシアターども」の関係者であり、旧岡田倉庫活用民間運営協議会である。そこには補助金等に頼らない手弁当で演劇に関わる活動があり、江別の演劇が海外と交流するまで広がりを見せている。

2007年11月11日

「北のレンガぱん」と「煉化もち」

 江別を代表する産物には小麦とレンガがある。そこで、江別産小麦で作るパンをレンガに似せるという発想は、考えてみると江別でこそ生まれるべくして生まれた食品かもしれない。以前このレンガぱんを江別河川防災ステーションの中の売店で購入したことがあり、今回はこのパンの製造元で購入してみようとでかけてみた。

 製造元は(有)M.P Bakeryとなっていて、インターネットで調べた緑町三丁目にあると記されているこのベーカリーに行ってみる。しかし、そこに店舗の建屋だけが残されていた販売店は店を閉じているようである。そこで、いろいろ尋ねてみて、JR江別駅の近くにある“P”と名前のついたパン屋にたどり着く。このPが何を意味するのか店の売り子に聞いてみたけれど答えは得られなかった。

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 この店内にお目当ての「北のレンガぱん」が棚に並んでいた。このパンの表面は北海道産のライ麦を使っていて、中身はこれも江別産の「ハルユタカ」の小麦と黒糖を用いて焼き上がっている。レンガ大の大きさのブロック状のパンの表面が堅く焼き上がっているので、見た感じがレンガを連想させる。ネーミングは「レンガパン」でもよさそうなものなのに、「北のレンガぱん」にしているのは、商標の問題をクリアしているためかな、と思ったりする。

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 このパン屋の店内はパンのコーナーと喫茶店が一緒になっているので、その場でレンガぱんをスライスしてもらって食べることもできる。しかし、札幌から自動車を走らせてここまで買いに来たからには、持ち帰ってからゆっくり味見をしたい。軽くオーブンで焼いてバターをつけて食べると歯ごたえがあり、なかなかの味である。

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 食べ物にレンガをつけたネーミングのものとして「煉化もち」というのがある。こちらの方は一九〇一年創業の山サ煉化餅本舗が作っていてレンガぱんより歴史があり、江別では有名な土産物になっている。レンガではなくて「煉化」の字が当てはめられているのは、煉瓦であれば食べ物とのイメージが合わないため、瓦が変化して食べ物になった、という意味を込めてとのことである。

 山サ煉化餅本舗の売店は野幌の国道12号線沿いにあって、煉瓦の煙突と家屋で目立っている。交通量の多い国道から店舗前の駐車場に少々手間取って車を入れ、広くもない店内で江別の銘菓を買い求めた。こちらも美味しいあん菓子であった。もっとも、菓子であれば何でも美味しいとしか表現できない筆者の感想ではあるけれど。

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2007年11月05日

瑞穂の池

 江別市、札幌市、北広島市にまたがる国有地の野幌森林公園には多くの遊歩道が整備されている。筆者は札幌市の厚別区と江別市の境界線の札幌市側にある札幌市エレクトロニクスセンターにオフィスを構えていることもあって、ときどき札幌市側から江別市側に市境界を越えて野幌森林公園の遊歩道を散策する。特に秋は遊歩道が紅葉や黄葉で彩られ、大都会に居ながら自然を満喫できる場所である。

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 遊歩道が分かれるところにはその道がどこに到るのかの標識がある。その標識に「瑞穂の池」というのが目に付いた。標識に示されたキロ数から、ちょっと遠うそうだったので、歩いてゆくのを最初は躊躇していた。しかし、散策の途中で出会った人から瑞穂の池への道に土アケビが自生している話を聞いて、その後この池まで何度か足を運んでいる。

 この池の正面は草地になっていて東屋がある。池の正面には写真のように瑞穂池の看板があり、その横にはこの池の簡単な説明板がある。それによると、瑞穂の池は一九九一年(昭和三年)にこの地に入植した白石第一土功組合がかんがい用水のため池として築いており、一九七三年(昭和四十八年)からは防火用池として北海道が管理するようになっている。

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 土アケビの実が見られる秋、残雪のある冬の終わり、水芭蕉の咲く春、緑で覆われた夏、と四季折々の姿を見に行っている。秋に見た土アケビの花をみつけようと春から夏にかけて歩いて探したけれど、黄色の土アケビ花の方を見つけることは出来なかった。秋と夏では辺りの様子が変わっていて、何か目印でもつけておくべきだったと思ったけれど、後の祭りのようなところがあった。

 春先に雪のある頃の瑞穂の池はどうなっているかと、野幌森林公園の札幌市側にある「北海道開拓の村」に入って、ここから江別市側にある瑞穂の池まで雪道を辿ったこともある。この時は瑞穂の池は雪に覆われていて、瑞穂の池記念碑の標識の向うの雪原の下に池があるとは、初めて訪れる人には想像もつかないだろと思われる風景だった。

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 桜の咲く頃この池の周囲をパノラマ写真に記録したこともある。近くに桜の木が一本目につき、緑が濃くなってきた草地がひろがり、その向こうに水鳥の遊ぶ池が水をたたえている。訪れる人もほとんどみかけず、遠くもないところに札幌や江別の都会が広がっているとは信じられない空間がそこにはある。

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2007年10月28日

榎本公園

 定山渓を発し、札幌の街を横切り、石狩川と合流する豊平川は、かつては江別の発祥の地対雁(ついしかり)にその石狩川への河口があった。対雁も津石狩から名前が来ているとのことで、この地は水路の要衝であり、鮭が獲れ、その交易で栄えた場所であった。

 しかし、鉄道が出来て石狩川の持つ交通の重要性が失われ、川沿いの集落は鉄道沿線に移ることになり、この地はさびれた。対雁の村落は江別村の元江別となり、その後江別市の対雁地区として組み込まれた。現在は石狩川沿いの工業団地が広がる場所に元江別の名残があり、榎本公園となっている。公園は国道275号線(空知国道)と国道12号線を結ぶ国道337号線(対雁通)の脇にある。公園は豊平川の改修工事で本流から切り離された部分が、世田豊平川としてかろうじて残された水路に沿ってある。

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 公園内には「対雁百年碑」があり、碑文にこの地に対雁神社があったことが記されている。石狩川治水工事のため対雁神社が解体され、そのご神体の天然石がこの碑の中に埋め込まれていることも碑文から知ることができる。

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 この公園が榎本公園と名づけられているのは、明治維新政府と戦った幕臣榎本武揚が後に開拓使からこの辺の土地を払下げてもらい、農場経営を行ったことによっている。騎馬姿の榎本武揚が公園内の石組みの円柱の上に設置されている。北海道を代表する彫刻家佐藤忠良が制作している。

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 榎本武揚の乗っている馬をアップの写真で見ると、ポニーかロバにさえ見える代物である。戦国武将が乗っている馬や、競馬で見るものとはかなり違う。多分道産子なのでこの大きになったのだろうと思われる。しかし、道産子のサイズを知らない人には、人物を大きく見せるため、このサイズにしたとの推測も成り立って、彫刻界の大御所の作にしては人、馬のバランスが悪いと感じるかもしれない。

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 公園の横にある世田豊平川を上から見ると、流れているとは思えない川の水面が草木の間から見える。ここを元の豊平川が流れていた頃は秋の今頃は鮭が遡り、それを捕まえるために集落の人々で賑わっていたとは、人影の見えない残された現在の水路の土手に立っていて想像するのが難しい。

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2007年10月14日

「子供盆おどり唄」歌碑

 子供を集めた盆踊りが廃れていっている、との新聞記事を見た。これは夏休み期間中の朝の風物詩ラジオ体操も同様で、少子化がその原因の大きなものであるらしい。地域の活力の低下、娯楽の多様化、個の生活様式の強まり等々もこの傾向に拍車をかけているのだろう。

 筆者も盆踊りを見に行くことは無くなっている。しかし、お盆の頃には近くの広場から盆踊りの曲が流れてくる。夕闇が迫る頃は「子供盆おどり唄」で、その後は大人の部に変わって「北海盆唄」の勇ましい囃子唄が響いてくる。踊りは見に行かなくても、これらの盆踊り唄を耳にするとああ、お盆なのだ、の季節感が強まる。

 「この子供盆おどり唄」の作詞者が江別で教員をしていた坪松一郎であることを知った。野幌グリーンモールと呼ばれている、国道12号線から湯川公園までの約1kmのレンガの遊歩道があって、これまたレンガ造りの野幌公民館の横を過ぎたところに坪松一郎の歌碑がある。この歌碑には「この子供盆おどり唄」の一番と二番が掘り込まれている。その一番は

そよろそよ風 牧場(まきば)に町に
吹けばちらちら 灯(ひ)がともる
赤くほんのり 灯がともる ほら灯がともる
シャンコシャンコシャンコ
シャシャンがシャン
手拍子そろえて シャシャンがシャン

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 筆者も子供の頃、この盆踊り唄にあわせて片田舎の会場で盆踊りに参加した記憶がある。同じ歌詞とメロディーが繰り返し耳に入ってくるので、今でも歌詞は頭にこびりついている。この唄を思い出すと、盆踊りの会場は中心のやぐらの部分の明るさと周囲の暗さが際立っていた印象が蘇る。

 坪松一郎は1910年(明治43年)茨城県に生まれ、その後渡道、童謡作家で活躍していて北海道教育委員会の依頼で1952年ごろこの盆踊り唄を完成させたといわれている。作曲は山本雅之で全道に、さらには本州にも広まった。坪松は江別第三中学校を始め、道内各地の校歌の作詞も行っている。1969年五十八歳で亡くなった。

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 この歌碑は黒の御影石で出来ていて鏡のようになっていて、写真を撮ると碑面の文字よりは周囲の景色が写り込んでしまう。それはそれで面白い。近くにあるステンドグラスのオブジェのある噴水公園の景色も写っている。夏も過ぎてこの公園の噴水は止まっていて水抜きがされている。この公園で噴水を見ることと、どこかの会場で「子供盆おどり唄」に合わせて子供達が踊っているのを見るのが残された課題となった。

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2007年10月08日

野幌森林公園の土アケビ

 土アケビはラン科ツチアケビ属の多年草である。栄養は自前で作らず、全て腐葉土から吸収する腐生植物である。夏から秋にかけてバナナのような赤褐色の実をつけ、この実がアケビの実に似ているため土アケビの名前が付けられている。この土アケビをひょんなことから見つけることができた。

 昨年(2006年)野幌森林公園内にある瑞穂の池につながる遊歩道を歩いていると、先方が当方を知っている人に出会った。何でもこの辺りを時々散策しているというのである。話が公園内の植物に及んで、土アケビの話が出てきた。珍しい植物で、教えられた辺りを探せば見つかるだろう、とのことを聴いたけれどこの日は見にいくことはなかった。

 日を改めて土アケビ発見を目的にしての探しに出かけた。教えられた辺りで確かに土アケビと確信できる写真の実をつけた植物を見つけた。炭酸同化作用を行わないため、周囲の植物のように緑色がない植物で、緑の草木に混じってかなり変って見える。

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 土アケビは花も咲くということで翌年の春にまた出かけてみるのだけれど、昨年見つけた辺りにはそれらしい花は発見できなかった。土アケビは消えてしまったのだ、と思ってそれ以上探すことはしなかった。
 夏も終わって紅葉は始まっているだろうかと、森林公園の遊歩道を歩いているとまたまた先方が当方を知っている人に出会って、土アケビの話になった。今度は実の成っている場所に連れていってもらった。それはどうも昨年見た土アケビのあった場所のようで、多年草であるので同じ株のものであるようである。しかし、実をつけた土アケビは少なくなっている。今年は土アケビの不作の年なのかも知れない。
 この実は乾かして強壮剤、強精剤として用いられることがある。それを知って土アケビの実を持って行くとは考えられないけれど、このままでは、この場所の土アケビは早晩消えてしまうようにも思えた。野生の珍しい植物はどこかに移して保護しても意味がないだろうから、公園に入り込む散策者のモラルに頼るよりしかない。大方は自然のままにしておこうとは思っているのだろうけれど、心無い者も居るのは世の常で、散策路の脇にある土アケビの存在も危ういものがある。

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2007年10月01日

軽緯度・標高モニュメント

 野幌駅近く、北東に向かう国道12号線と垂直に北西方向に野幌グリーンモールが湯川公園まで伸びている。このグリーンモール沿いにレンガ造りの野幌公民館があり、その傍に標記のモニュメントが置かれている。モニュメントはエジプトの大ピラミッドを144分の1に縮めてものであると碑面に記されているけれど、どのピラミッドかは分からない。多分、ギザにあるクフ王のピラミッドの一番大きいものなのだろう。このモニュメントも江別特産のレンガを積み上げて造られている。

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 北海道測量設計業協会等の測量に関する協会と札幌理工学院専門学校がこのモニュメントの寄贈主である。6月3日は測量の日ということで、1993年6月3日付けでモニュメントが寄贈されている。寄贈のいきさつについては知らないけれど、デザインは異なっても同様な趣旨のモニュメントが同じ協会から寄贈され(寄贈年月日は1994年6月3日)ているものを、以前小樽の毛無峠でみたことがあり、この他にもモニュメントの寄贈が行われているのだろう。

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 モニュメントの碑面に記されたこの場所の位置情報は、緯度B=43°05′38″94432、経度L=141°31′28″03842、標高H=27m045となっている。経度はイギリスのグリニッジ天文台を通過する子午線を基準にしているのはどこかで習っている。ここで子午線の「子」は北、「午」は南を意味していて、南極と北極を地球の表面上で結ぶ円周線である。
 標高は東京湾の海面の平均の高さを基準にして測定される。現在ではGPS衛星を用いてきわめて精度の高いデータが得られる。それを示すために標高はミリ単位まで測定されたものが刻み込まれているけれど、ミリ単位は測定されたとしても実際は誤差の範囲内だろう。

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 モニュメントの前には方向を示す石板が置かれてあり、方角と都市名が示されている。そのうちアメリカのグレシャム市は江別市の姉妹都市、高知の土佐市は友好都市でここに名前が出てくるのだろう。その他の都市がどのように選択されているのは分からないけれど、東京、土佐を除けばアジアの都市が一つもなく、加えてヨーロッパの主要都市も無く、選択が偏り過ぎである。まあ、こんなところで異議を唱えても仕方がないとは思うけれど。

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2007年09月28日

ここ見よと 山芍薬の 実が光り

 野幌森林公園は、広い公園内を遊歩道が伸びている。遊歩道に沿って貴重な植物のあるスポットがあり、愛好家だけがその場所を知っている、という植物や鳥(ふくろう)等の巣がある。たまたま瑞穂の池へのルートを歩いていたら、先方が当方を秘境探検家と認識してくれた方がいて、珍しい植物のスポットを教えてくれた。そのうちの一つは山芍薬である。
 この花は既に実となっていて、どういうものか赤と青の実の部分が光っている。光の当たり具合なのだろうけれど、ここに自分がいるから、とアッピールしているようであった。

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 近づいて写真を撮ってもやはり光っている。発光体とさえ思えるほどである。林の中も探すとこのような植物に会えるとは、この森林公園は奥が深いと感じた。来年には実際に山芍薬が咲いているところを見てみたいものだ。とは思っているけれど、数時間しか咲かない花だとの話もあり、これでは花の咲くのをみることはできないかな、とも思っている。

山にある 芍薬の実は 発光体

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2007年09月23日

四季のみちのホタル

 北電の江別火力発電所が稼動していた時、ここに石炭を運び込む石炭車の引き込み線がJR江別駅と高砂駅の中間ぐらいのところから分岐してあり、スイッチバックで石炭車が引き込み線へと導かれた。この石炭車は公園の中に展示されている。近くには火力発電に利用されたタービンや電気の遮断機なども展示されている。

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 火力発電所が閉鎖されて、この引き込み線も廃止となった。その線路跡が「四季のみち」の公園となっている。引き込み線の跡であるため、この公園は遊歩道の趣の細長く伸びる公園で、春、夏、秋、冬のゾーンに分けられている。前述の石炭車は秋のゾーンに置かれている。

 現在のJRの線路から国道12号線を横切るあたりまでは春のゾーンで、国道を横切り江別市立病院横辺りまでが夏のゾーンである。このゾーンは夏のテーマに合わせてヘイケボタルの繁殖地として整備と保護が行われている。このこともあって、四季のみちの歩道はアスファルト舗装なのに、ホタルの道の区間のみ枕木が敷き詰められている。

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 ホタルの一生の説明板を読むと、産卵は自然の草の根元や苔が選ばれるので、夏の間は道の両側の草は刈らないでおくのだそうである。ホタルの成虫は光を発するのに、成虫も幼虫も他の光は苦手らしく、この辺りは夜間なるべく暗くしている。ホタルの光を見るためとはいえ、暗く草が生い茂ったこの道を暗闇のなかで歩くのはちょっと怖いのではなかろうか。ただし、実際に歩いたことはないので分からない。

 ホタルの幼虫は水の中で生活し冬を越し、蛹になり、成虫となる。成虫になってからは水しか飲まず、2週間ほどの寿命で産卵を行い死んでしまう。ホタルの光を見ることができるのはこの成虫が生きている2週間の間と思うと、その機会を捉えるのはなかなか難しそうである。残念ながら、この夏のゾーンでホタルが光っているのは実際に目にしていない。ホタルが光を発するのを見ないと、この秘境の記述も画龍点睛を欠いていることになる。来年の夏には見られるだろうか、と思いながらのレポートである。

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 夏のゾーンの市立病院横には黒川晃彦の「ワンモア・タイム」の題がついた、サキソホーンを演奏する人物像が椅子に座って置かれていた。なかなかユーモラスな像である。像の横には人工の水辺が造られていて、最初通り過ぎた時には誰も居なかったのに、戻る時には女子生徒が素足になって水辺で語り合っていた。夏も過ぎようとしている土曜日の午前中である。

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2007年09月20日

火薬庫の刻印のあるレンガを探して

 江別市の郷土資料館で耳にした話である。屯田兵部隊の火薬庫が残っていて、使われたレンガを製造した会社の鈴木煉瓦の頭文字Sが刻印されているものがある。そこで火薬庫と刻印のあるレンガを見に行くことにする。国道12号線からJR江別駅の方向に折れて火薬庫の近くの江別小学校付近のスーパーに駐車する。店員に場所を聞くのだが、あまりはっきりしない。

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 地図もあったので、多分このあたりだろうと見当をつけて小学校の横の道を歩いて行くと火薬庫が直ぐに目についた。レンガ作りの4.5坪の小さな四角の小屋で、北海道には珍しく瓦屋根になっている。後で調べてみると、火薬庫の役目を終えてからは、天皇の御真影奉置所や教育勅語を納めておく奉安殿に利用されたそうで、そのために屋根は立派なものにしたのかな、とも推測してみる。

 この火薬庫は江別に屯田兵の大隊本部が置かれた年の1887年(明治20年)に建てられ、屯田兵制度が廃止される1887年(明治39年)まで本来の目的で利用されたそうである。その後は江別尋常高騰小学校敷地に移設され前述の役目の建物として利用され、1957年江別小学校が新築されることに伴って現在地に移されている。

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 さて刻印のあるレンガ探しである。それほど広い壁でもないので、一枚一枚といった感じで探してみるのだが、刻印の入ったレンガを見つけることは出来なかった。近くの説明板にもS字の刻印のことは書かれているので、わざわざここまで見に来る人が見つけ易いように、刻印されたレンガの部分に何か記しでもつけておくとよいのに、と思った。

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 刻印されたレンガを見つけることは出来なかったけれど、火薬庫の近くに二宮金次郎像があるのを見つけた。近づいてみるとコンクリート製のようで、無残にも顔や手が欠けている。古いもので取り壊すのが憚れ、この姿で残っているのだろう。しかし、これではあまりにもみっともない姿を晒している。関係する地元の組織なり人なりでどうにかできないものだろうか。刻印のレンガを見つけることが出来なかった上に、この惨めな金次郎像を見て、今回の秘境探検はすっきりしない気持ちであった。

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2007年09月18日

天徳寺の屯田兵木像

 この浄土宗のお寺は江別市のJR野幌駅を降りてすぐのところにある。境内には地蔵が並んでいて太子堂もある。お寺の内に誰か居るかと探すのだけれど誰も見つからない。事前に見学の電話をかけておいたこともあるので、そのまま本堂に行き、お目当ての屯田兵の木像とご対面である。

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 本堂の左側の仏間に仏さんを中心にして左右に16体ずつ計32体の木像が安置されている。これらの木像は江別・野幌の屯田兵村から日露戦争に出征して戦死した32名の屯田兵を供養するためのものである。当時の天徳寺の住職や村の有志が、名古屋のからくり人形師玉屋庄兵衛に依頼して作り、1907年(明治40年)にこの場所に安置された。

 木像は制服・制帽を着用して、銃を下げて整列している。立像の台の部分に軍人としての階級と氏名が書かれていて、木像が似ていても、戦死したそれぞれの屯田兵に対応している。中に一体水兵姿のものがあり、他の像には陸軍と書かれているところ、この軍人は海軍となっている。屯田兵の時代に既に陸軍、海軍の組織分けが出来ていたようである。これらの屯田兵の中で階級が一番上だったのは陸軍歩兵中尉のようである。

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 屯田兵は北海道の守りと開拓を行う半軍人、半農民で、北海道に留まっていると思っていたら、海外まで行って戦争に加わったとは知らなかった。確かに国家が給料に相当したものを与えている将兵であれば、外国との戦争となれば海外の戦場に駆り出されても不思議ではない。

 境内にあった太子堂は文字通り聖徳太子をお奉りしている。聖徳太子は職人の神様でもあるらしく、江別や野幌でレンガ産業に携わって来た職人の守り神としてこの境内に堂がある。浄土宗の寺の境内に太子堂とはちょっと違和感があるけれど、聖徳太子は仏教を広めていて、日本では神仏は敵味方という訳でもないので、特に変でもないのかも知れない。

 むしろ気になったのは境内にあった地蔵の方で、大きな地蔵2体をのぞけば32体が並んでいる。これは屯田兵の木像の32と同数なので、あるいは屯田兵の地蔵なのかも知れない。しかし、寺には誰も居なかったのでこの点を確かめる術はなかった。

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2007年09月17日

円形校舎

 通りすがりに円形(円柱)校舎を目にしました。円形とは珍しい。このような形の建物の使い勝手はどんなものであるか聞いてみると話も面白くなるのでしょうが、そこまでする余裕はありませんでした。この学校は江別市立第3小学校でした。

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 この学校には校舎に大きな壁画がありました。焼物で出来ているようで、陶芸の里ー江別をアッピールするためのものであるようですが、これも写真を撮っただけで本当の「ところは分かりません。

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2007年09月13日

屯田兵屋の様式

 屯田兵とは北海道開拓時代に国防と開墾の二役を担った開拓者達であった。政府の指定する土地と兵屋が与えられ、訓練と開墾作業を行いながら、最初は兵隊の給料に相当するものをもらい、一定の年限で与えられた土地を開墾し、以後給料無しで開墾した土地からの収穫で生活していく方式である。

 屯田兵の兵屋がまとまって屯田村を形成していた。ここで兵屋は政府の規格品であり、兵屋の様式をどのようなものにするかの試行錯誤が行われたらしい。江別市の屯田資料館には各様式の兵屋の模型が展示されている。

 この資料館自体は屯田兵の中隊本部の建物であって、米国式の建築様式が採用されている。明治11年(1978年)の第一次江別屯田では米国式の兵屋が十戸建設されている。正方形に近い建物内は4等分されて、中央に暖炉があり、部屋の一つが土間になっている。屋根は切妻柾葺きで、バルーンフレーム構造で特徴のある屋根裏部屋がある。この様式の兵屋は建築費用がかかるため、後に建築されることはなかった。

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 開拓使長官黒田清隆がロシア沿海州の兵舎を視察し建てたのが篠津型兵屋で、これは丸太を積み上げて造るので、いわばログハウスである。これも暖炉を部屋の中央に置き、内部を「田」の字形に四等分して部屋を設けている。元々寒冷地仕様の建物であったけれど、ログハウスの建築に日本の大工が慣れておらず、丸太の間に隙間が出来たりして不評で本格的な採用にはいたらなかった。

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 洋式の兵屋に代わって建てられたのが日本式の兵屋で、長方形の建物の入口から土間が続き、土間から板の間の部屋になり、ここにいろりがある。台所は土間につながっている。板敷きの部屋に畳みの和室が接している構造である。この様式は札幌西区の琴似に国の指定史跡となっている兵屋として残されていて、内に入って見ることができる。

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 当時の兵屋の写真を見る限りでは日本式兵屋は掘っ立て小屋の印象を受ける。日本式の兵屋では煙突が無いので、天井に煙抜きの構造がないと煙は部屋に充満することになる。窓を開けて煙を外に逃がすと寒気が入ってくる。現在の北海道の勝れた断熱式の住宅に住んでいる世代には、この時代の兵屋の住み心地は想像を絶するだろう。

 ただ、戦後の下見板に柾葺き屋根、室内に薪ストーブの家屋に住み、冬の朝には台所にある汲み置き式水がめに氷が張っているのを経験している筆者には、この兵屋での冬の生活の厳しさには少しは思いを馳せることができる。

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2007年09月04日

屯田資料館の五稜星

 江別市野幌代々木町錦山緑地内にこの資料館があり、隣り合わせに錦山天満宮の神社がある。資料館の開館日は土、日と祝日なので、9月に入っての最初の土曜日に訪れてみる。

 この建物は屯田兵の中隊本部を移築、補修したものである。鉄製の門があり、五稜星のマークがデザインされて門格子に取り付けられている。この門は新しく造られたものであろう。この五稜星は開拓使のマークとして採用されたもので、北辰星(北極星)を想定してデザインされたものである。開拓使の関係する建物には今でもこの五稜星のマークを見ることができる。

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 このマークの制定時に開拓使長官であった黒田清隆は、五稜星から七稜星へのデザインの変更を申し出たけれど、それは却下されている。しかし、現在の北海道旗のデザインは七稜星を使っていて、黒田提案と直接は関係ないけれど、結果的には黒田提案を取り入れた形になっている。

 資料館の屋根の飾りの下の部分に目をやると五稜星が目に入る。屋根の飾りの部分にも五稜星がデザインされているのだが、下からははっきり見えない。改修時にこの飾りの古いものが残されていて、それを資料館の二階で確認することができた。

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 一般の見学者には資料館の一階部分が開放されていて、屯田兵に関する展示やこの建物の室内を見学できる。入館料は100円である。館内には見学客は誰も居なかったせいもあって、受付兼説明役の人が丁寧に説明してくれる。探検隊が興味を示したためと来館者が居なくて説明員の手持ち無沙汰が重なって、二階まで案内してくれる。急勾配の狭い階段を登ると天井の梁のない屋根裏部屋のような空間がある。

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 この建物はバルーンフレーム方式というそうである。我が家のツーバイフォー方式とそっくりで、現在ツーバイフォーと呼んでいる建築方式のルーツなのだろう。この部屋に元の屋根飾りが置かれてあり、それは五稜星と雲形がデザインされていた。ふと傍を見ると、ベニヤ板に書かれたこの建物の設計図があり、横はひらがな、縦は漢数字で柱の位置が分かるようにした図面である。他の設計図もベニヤ板に描かれている。建築の専門家は興味を示すそうだけれど、当方にはその古文書(板?)的価値については見当がつかなかった。 

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2007年09月03日

ガラス工芸館の作品たち

 野幌代々木町を突き抜ける国道12号線と並行で、兵村2番通りとも呼ばれる通りに面してこのガラス工芸館がある。公園の縁に建つレンガ造りの建物は瀟洒で、外観からこの内にガラス工房の作業場があるとは思えない。

 この建物は元々故・石田惣喜知氏の個人の家であったものを江別市が買い上げ、推定重量540トンの建物を40メートルほど移動して現在地に移して改修工事を行ったとパンフレットに書かれている。総工費は9千万にもなるそうである。新しく建てた方が安上がりだと思うけれど、古いものを生かそうとするとお金がかかる。

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 中に入ると一階はガラスの作品の売り場と地階から吹き抜けになっている作業場があり、ガラスを吹く作業を上から見下ろすことができるようになっている。作品作りの作業は午後に行われることが多いそうで、この時は作業の様子を見ることができなかった、二階はガラス作品の展示室となっている。現在、この施設全体をガラス工芸家の柿崎均氏がレンタルしていて、同氏の作品が展示されている。

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 同氏の作品は木工とガラスのコンビネーションに特徴があるようで、胴体は木、顔や手がガラスといった作品が並ぶ。現在札幌の近代美術館で行われているダリの絵画をガラスで表現したような作品もある。狭い空間ながら、壁のレンガ、窓の外の緑が手伝って作品群を引き立たせている。無料で、前述のお金のかかっている施設であることも加えて、来館者が少ないのであればもったいないことである。

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 ガラス製のりんごが窓際に置かれてあって、窓越しに見える外の景色との取り合わせは写真の題材にもなる。筆者が写真家なら芸術的写真を撮るためここで粘るだろうな、と思った。その他小物の作品や実用品が並んでいて、品定めするのは面白い。

 そのうち作品の作り主の柿崎氏が現れる。ガラス工芸には知識がないので、展示している作品は売れるか、などいった俗っぽい質問をしてみる。この場所ではほとんど売れないと返答に合わせた訳でもないけれど、ガラス製のペーパーウェイトを一個購入した。入館無料でも取材費とカウントされる出費はあるものだと思って工芸館を後にした。

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2007年09月02日

江別式土器

 札幌には札幌の接頭(接尾)語がつく言葉で全国に通用するものがある。「サッポロビール」、「札幌ラーメン」、最近なら「コンサドーレ札幌」などとある。これに類するもので江別の付く言葉で全国に認められるものはないかと探していて、「江別式土器」というのを見つけた。

 石狩川左岸の対雁(ついしかり)にある坊主山と呼ばれる砂丘に、北電の火力発電所が建設されることになり、建設予定地の発掘調査が行われた。その時、縄文時代から擦文時代にわたる多数の遺物が出土し、なかでも多数の完形土器が発見されている。これらの土器は「江別式土器」と命名され、この言葉は考古学の世界で認められている。さらに、江別式土器は文様から古い順番にA,B,C、Dと分類されている。特殊な世界ではあるけれど全国に通用する江別の接頭辞のつく言葉となっている。

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 江別式土器のコレクションは江別市の郷土資料館内でみることができる。資料館の二階に上ると夥しい数の土器が展示棚の上に置かれている。江別式土器を生み出した人々が東北地方まで勢力を伸ばし、北日本に一つの文化圏を形成し、これを「江別文化」と呼ぶそうであるけれど、こちらの文化の名称は初めて知った。さて、これが考古学界その他で広く認知されている用語なのかどうかは専門家でないので分からない。

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 江別式土器の表面にある幾何学文様がアイヌの文様のルーツになったという説は、実際出土された土器群をみていると説得力がある。土器のなかには彩色が残っているのものあり、他の文様のはっきりした土器とともに見応えのあるものである。

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 展示室とは別の一室に縄文式土器が並んでいる。これは現代の縄文土器造り愛好家(専門家?)が、縄文時代と同様にして粘土をこね、文様をつけて、薪を焚いて土器造りをしたものだそうである。本物と比べても遜色にない土器が棚に並んでいた。一部は焼物市の売り物となっているそうで、確かに土器には値段がついていた。江別式土器を参考にして、現代製の縄文式土器をブランド品に高めることができれば、江別式土器の名前はさらに認知度が高まると思われる。 

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2007年08月21日

まちむら農場

 インターネットで検索するとHPにこの農場の歴史が出てくる。創業者の顔写真があるのだが、創業者の名前がない。後に農場で手にしたパンフレットも農場のHPと同じ内容で、創業者の顔写真が載っていて農場創設の経緯が書かれているのに肝心の氏名がない。ちょっと変な感じがする。

 町村農場の創業者は町村敬貴で、町村金弥の長男である。金弥は札幌農学校二期生で、日本で「酪農の父」と呼ばれたエドウィン・ダンの指導を受け、北海道における酪農の基礎を築いた。敬貴は札幌農学校卒業後、アメリカ合衆国ウィスコンシン州で酪農の実際を学んで帰国し、一九一七年石狩町樽川村にあった父金弥の所有地に牧場を開いた。しかし、土地の条件等が悪く、江別の現在の旧町村牧場のあるところに一九二八年に新しく農場を開設することになる。
 
 一九九二年に同農場は江別市篠津に移転して現在に至っている。この農場には石狩川を跨ぐ新石狩大橋を渡って国道275号線からわき道に折れて行くのだが、この片側一車線は交通量が多くて、右折が困難である。右折で対向車の列が続くのでこちらが止まってしまうと、後続の車を止めてしまい渋滞の原因となる。

 まちむら農場は株式会社町村農場の一部で、訪問者に開放されていている。パーキング場や芝生の広場があって家族連れが休めるように造られている。乳製品の販売も行われていて、見学前にまずソフトクリームを賞味してみる。味は良い。

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 農場は酪農を主体にしているので、乳牛が飼われていて牛舎の近くまで行って牛を見ることができる。生まれて2,3日した牛が牛舎の外の囲いの中に入っているのをみることができる。これは訪れた客に対するサービスのためのようにも見える。

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 成牛も牛舎の中に居るのを外から見ることができる。成牛のいる牛舎は干草が敷かれているものがある一方で、床が泥や一部糞と思われるものもあり、きれいなものではない。臭いもきつい。

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 酪農は常に環境問題が背後に控えている。都市近郊での酪農業ではそれが目立ってくる。近代の酪農業ではコンピュータによる個体管理などが行われ、効率化のための設備投資が大きくなってくる。これに対して、設備投資を最小限にとどめ、牛を放し飼いにして、糞尿の管理さえも行わず自然に任せる蹄耕法と呼ばれる酪農法もある。この方法は環境問題もあり、都市の近郊では成り立たないだろう。

 牛の糞尿管理から、乳製品を作る時の排水管理、臭いの問題等々酪農業を都会に接した場所で行う場合の問題は色々あるのではなかろうか。これらの問題については関係者に聞いてみたことがないので、秘境の領域になっている。

2007年08月19日

江別河川防災ステーション

 石狩川と千歳川の合流点付近で、国道12号線が千歳川を跨ぐ新江別橋を越えて岩見沢方向に行くとすぐにこの建物が目に入る。広いパーキング場に、取材者だけの車が一台止まった状態で車を降りる。午前十時が開館時間で開館時間を少し過ぎてから、開いているのかと疑念を持ちながらの入館である。
 この三階建ての豪華な建物の役割はあまりはっきりしないのだが、備え付けのパンフレットには「水防資器材の備蓄、水防活動の拠点基地や災害時の避難場所として活用」とある。要は機材置き場と事務所と避難場所である。それならこんな立派な建屋でなくてもよいことになる。立派な建物になったのは「平常時においても、防災研修の場や河川情報の提供、川を題材とした歴史」その他の展示や「市民の憩いの場」の提供もあると説明は続く。

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 防災ステーションの名前があっても、一階は江別市の観光展示場といったところで、江別の焼き物やレンガの展示のショーケースが並んでいる。隅には土産物店があって、町村農場の乳製品なんかが並んでいる。店員に聞くと、江別市の観光協会が出している店だそうで、防災ステーションの活用を図るためで、ここでビジネスが成り立っている訳ではなさそうである。

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 二階に上がると石狩川の歴史に関する展示がある。現在でも近くに王子製紙江別工場があるけれど、これは紙の原木を雪解け水で水量を増した石狩川を利用して運び、江別工場のあたりで引き上げた歴史があって、引き上げ場所を「網場(あば)」と呼んだといった網場の模型についた説明を読む。その他、今でも行われている石狩川でのやつめうなぎ漁に使われる漁具「どう」の展示などもある。

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 二階にはかつて石狩川で活躍した外輪船の「上川丸」が展示されている。見るだけで内に入ることはできないけれど、北海道の陸路が整備されていなかった時代に石狩川が内陸部をつなぐ交通の動脈であって、このような外輪船が行き交っていたかと見応えのあるものである。しかし、この外輪船がこのステーションに展示されていることを知る人はほとんどいないだろう。

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 屋上に登ると現在の交通の大動脈国道12号線を通過する車の流れが目に入る。遠方には石狩川に架かる美原大橋が見える。防災ステーションのパーキング場には依然として取材者の車が一台止まっているだけである。

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 この防災センターは千歳川に接して建てられている。支笏湖に源を発する千歳川が、ここ石狩川の合流点で洪水の危険性を増す原因となるので、新しく水路を作って太平洋側に放水しようという「千歳川放水路」プロジェクトが、その環境破壊の問題点を指摘され中止に追い込まれた経緯がある。地図でみても、自然の清流美々川を破壊しそうなこのプロジェクトの筋の悪さが見えてくる。このプロジェクトの勧進元の北海道開発局の施設が千歳川の終点に建てられていて、同プロジェクトの秘境部分が頭を過ぎる。

2007年08月02日

自然ふれあい交流館

 国道5号線の大麻駅近くで文京通に折れて、この通りの突き当たりまで進むと野幌森林公園の大沢口に着く。かなりのスペースの駐車場があり、ここに車を止めて森林公園内の遊歩道に入って行くができる。この大沢口に交流館がある。ここにこのような施設があるとは知らなかった。 

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 外観はカーブのゆるやかな楕円形状の屋根の建物である。内に入って気がついたことであるけれど、これは木の葉の形をデザインしたものらしい。天井を見上げると葉の葉脈が木の柱で組まれた格好になっている。展示スペースがあり、本棚には自然関係の本が並んでいる。机もあって、ノートに記録するのには便利である。

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 野鳥の観察用の望遠鏡もある。パソコンもあったけれど、このような施設ではあまり利用されないだろう。事実、パソコンの前に座っている来館者は居なかった。休息のため椅子に座っている年配者を見かけただけである。

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 ここは無料で入館できる施設である。ご他聞に漏れずこの施設も本年度(2007年度)から指定管理者制度に移行して、従来まで道の直轄の管理だったものから(財)北海道開拓の村に管理運営を委託されている。道から交付されるお金を有効に使って、来館者を増やし、満足度を上げて、施設の存在価値を高めなければならない。ここが秘境化しては税金で賄われている館の存続は望めない。

 そんな事情があるので、一回の訪問で軽々にここが秘境かどうかなどとは言えない。年間4万人は来館するとの話であったけれど、入館者をカウントしている様子もないので、毎日の入館者のおおよその目検討と夏休み期間中に団体で訪れるらしい生徒達を大雑把にまとめての数字かと推測する。300日開館しているとして、平均100人以上は来館者が居なければならない。その数字とはかなりかけ離れている感じはした。

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 野幌森林公園はアウトドア派には人気の場所で、駐車場は車でほぼいっぱいになっていた。ここから遊歩道を楽しむハイカー達の車と見受けられた。常連のハイカーが交流館に立ち寄ることはないようである。この種の施設にリピータを期待すれば、展示内容を更新しながら、新しいサービスを提供していかなければならず、予算が縮小されていく傾向にあってそれを実現するのは難しかろうと感じた。

2007年08月01日

千古園

 江別RNTパークの付近あたりで道道江別恵庭線(道道46号線)に出ようとすると、道路の向こう側にある碑が目に入る。江別恵庭線を横断してこの碑の近くで駐車して、大木の生い茂る場所に入ってみる。

 千古園の石碑が建っていて、近くに説明板があり、この場所が江別市指定文化財第一号の史跡であることを知る。この場所は、新潟県で一八八六年(明治十九年)に結成され、江別市の発展に貢献した民間の開拓団体「北越殖民社」の二代目社長関矢孫左衛門の屋敷の一部であった。最初十七戸の入植であったものが、一八九〇年(明治二十三年)になると四百名を超える入植者がこの野幌の地で本格的な開拓を行うようになっている。

 野幌郡に入植した開拓民の苦労を伝えるため、「留魂碑」や茶室「道庵」が建てられ、公園として整備されて現在に至っている。千古園の名前は前記の関矢翁が碑の建立に際して、「千古空留一片石」と口吟したことに由来しているらしい。

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 この庭園の見所は、園内にあるキタコブシやブナの大木であろう。百年を越す樹齢の巨木が葉を茂らせ、公園内は薄暗い。推定樹齢百八十年というキタコブシは江別市内でも最も古木で大木である説明があるけれど、雷か大風のせいか樹の上部が無くなっている。

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 樹高二十五mもあるブナの大木は、百二十年の推定樹齢で、豊かな枝葉を茂らせている。天然のブナ林の北限は黒松内低地帯の「天然記念物歌才ブナ林」があり、さらに北の蘭越町にも通称「ツバメの沢ブナ保護林」がある。しかし、江別には天然ブナは開拓時代以前にはなかったろうと推測されるので、千古園のブナは入植者が植えたものだろう。樹齢からしてそれを裏付ける。

 開拓民が故郷新潟から持ってきたと思われるブナの種子をこの地に埋めた頃は、辺りは原始林だったろう。原始林が消えて、後に芽を出したブナが大木になり、開墾した畑地を突き抜けるようにアスファルトの道路が延びて、自動車がひっきりなしに走り、その先には江別の市街地が広がることになろうとは、人間の営みが自然を変えていく激しさを感じることができる。

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 園内には小さな石の地蔵が並んでいる。新しいのや古いのが混ざっているようである。地蔵にはそれぞれ番号がついていて、園内で地蔵巡りをするように置かれたのかな、と思っている。

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2007年07月31日

北海道立図書館内模型

 JR大麻駅近くで、国道12号線から野幌森林公園方向に伸びる文京通に折れて少し行くと道立図書館が見えてくる。図書館の入り口近くにあるパーキング場に車を止めて写真を撮る。写真に写っている図書館入り口の表示の向こうにある建物は「とわの森三愛高校」である。この高校は「酪農学園大学付属高等学校」と「とわの森三愛高等学校」が統合した経緯があり、キリスト教に基づく教育理念と酪農の実技が組み合わさっている高校となっているようである。

 道立図書館の入り口のところに三角錐状のオブジェがあり、その向こうに「とわの森三愛高等学校」の三角形の建築物が見え、この辺りは何か三角形がモチーフになる謂れでもあるのかと思ってみるけれど、単なる偶然なのだろう。写真に写っているようにカラスが沢山電線に留まっていて、五線譜(三線ではあるけれど)に記された音符のようにも見える。

 道立図書館が江別市のこの地に移転してきたのは一九六七年(昭和四十二年)で、もうこの地に移転してきてから五十年が経過している。そのせいもあって、建物、施設は古い感じである。以前の道立図書館は北海道庁舎の近くにあった。県庁(道庁)所在地の市に県立(道立)図書館が無いのは珍しく、北海道はその少ない例となっている。蔵書数は七十六万冊強の数字をネットで見つけることができた。

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 道立図書館そのものは人の出入りのあるところで、秘境という範疇には入らない。ただ、あることに焦点を合わせて秘境に組み込んでみたくなった。それはこの図書館の階段の踊り場に置かれたあったかっての道立図書館の写真の模型である。模型になった実際の建物は写真のように今も健在で、道の文書(もんじょ)館別館となっている。別館入り口のところに看板があって、注意するとここが文書館であることが分かる。ただし、この文書館には一般の人は出入りできない。

 図書館を訪れる人は本を見に来るのであって、この模型は来館者の誰の注意も惹かない存在であろう。たまたま自称大都会秘境探検家の筆者の目に留まって、この模型が置かれている道立図書館が秘境の候補となっている。

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2007年07月30日

リサーチ・トライアングル・ノース

二十年も昔、今は無き北海道拓殖銀行が音頭をとって「米国先端産業集積地域調査団」が組織され、アメリカ各地での視察が行われたことがある。その頃、札幌市はベンチャーランドの呼称で、江別市はリサーチ・トライアングル・ノース(RTN)を標榜し、マイクロコンピュータに代表される新しいコンピュータ技術で情報産業の集積を図ろうとしていた。

 このような事情があったため、この調査団には行政、企業、研究者と色々な分野のキーパーソンが加わっていた。当時の江別市長も団員の一人であった。北海道に気候や産業構造が似ているノースカロライナ州のリサーチ・トライアングル・パーク(RTP)も視察の対象の一つであった。ここでノースカロライナ州のRTPを構成する三拠点は、州都ローリーにあるノースカロライナ州立大学、ダーラムにあるデューク大学、チャペルヒルにあるノースカロライナ大学である。

 江別市のRTNはこのアメリカのRTPにならったネーミングだろうと思われるのだが、三角形の頂点を構成する研究拠点がどこであるのか著者は理解していない。江別のRTNは野幌森林公園の北東側に接していて、札幌のテクノパークは南西側にあり、野幌森林後援を挟んで似たようなコンセプトの研究開発企業団地が造成されることになった。

 このRTNを訪れてみた。著者のオフィスのあるテクノパークから、森林公園の南側の縁の道を通り、途中立命館慶祥高校を過ぎて江別恵庭線に出てこれを北上する。第一期分の造成が九十九haの広いRTN内で車を止める。写真にはRTN1号公園の表示が写っている。公園の近くには空き地が広がり、RTNは当初想定していたようには企業の集積が進まなかったように見える。公園の向こうに変わったデザインの建物があったので、近寄ってみる。

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 この社屋は日本ディジタル研究所の社屋である。正面玄関前には巨大な本が重なったオブジェがあり、本の背表紙にはJapan Digital Laboratoryの文字が彫られている。この会社は、主に会計ソフトの開発とそれによるサービスを主力にしている。中を見学していないので確かではないけれど、江別にあるこの建物はこの会社の研究開発センターのようである。

 RTNには北海道情報大学も組み込まれている。江別恵庭線から道道1005線に入って道路脇のRTNパークの看板辺りで大学のキャンパスの方に折れて進む。この大学を経営している企業グループが大学と隣り合わせに設立したRTN研究所もあって、その外観を写真に撮って来た。建物の屋上に衛星通信用のパラボラアンテナが見える。著者は衛星通信研究にも関わっていた時があって、札幌の手稲区にある北海道工業大学と衛星通信の共同研究を行っていた頃、このRTNでの衛星通信も視野に入って来て、そこら辺の相互関係も秘境的ではあるのだけれど、今は昔の話である。

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2007年07月24日

大麻新町公園の長い滑り台

 大麻新町公園は高速道路の道央自動車道と東雁来(ひがしかりき)が立体的に交差するところにあり、新町公園とつながっている。道路を隔てて大麻第一緑地と大麻第二緑地にもつながり、この辺りは広い緑地帯となっている。

 石に彫り込まれた公園名の文字に塗られたペンキが黒々としていて、新しい公園かあるいは改装直後の公園の感じである。段差のある地形で、冬にはちょっとしたスキー場になるらしい。この段差は滑り台にも利用されている。

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 滑り台に近づいてみると、滑る部分がコロになっていて、コロが回転するのでその上の体が下方に向かって移動していく仕組みである。滑り台というよりコロ台といった方がよいかも知れない。公園の案内の看板にはローラースライダーと書かれていたので、これがこの遊具の正式名称なのだろう。 

 この滑り台はその長さが売りである。長さは33mあるというから確かに長い。ものは試しと脚を揃えて滑ってみる。滑り台感じとはやはり異なり、体重が重いとコロの部分が尻に当たってスピードがつくと痛いかもしれない。

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 傾斜が緩くなると普通の滑り台は人が止まってしまうので、かなりの傾斜が必要である。するとよほどの段差がなければ長い滑り台を設置するのは無理である。その点、コロ台は傾斜が緩くても乗っている人を曲がりなりにも運んでくれる。長い滑り台の途中で止まってしまって、そこから歩くといった心配は、この滑り台にはなく、終点まで滑ってゆける。

 滑ってみて面白いかと問われると、大人にとっては面白いとは言い難いだろう。しかし、子供には面白い遊具だろう。その肝心の子供達は、平日の午後のせいか、ここで遊んでいる姿は無かった。 ただ、園内のテニスコートからは歓声があがっていたから、大人達はテニスを楽しんでいた。

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 滑り台のところから目に付いた園内のトイレは、レンガでサイロを模して造られていて洒落ている。この形のトイレは旧町村牧場でも目にしていて、江別では公園や観光スポットに積極的にこのトイレを設置しているようである。

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2007年07月23日

セラミックアートセンター

 江別市はレンガややきもので売り出そうとしている。その啓蒙・宣伝を行う中核施設が野幌森林公園近くにあるセラミックアートセンターである。市の期待を背負った施設であるので、秘境に組み込むのは適切ではないかも知れない。しかし、たまたま土曜日の午前中に出向いてみたところ、来館者もほとんど見当たらず、広い駐車場には車が二,三台しか留まって居らず、雰囲気的には秘境的であった。

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 この施設は一九九四年(平成6年)十一月に開所した。二階建てで一階にはれんが資料展示室、北のやきもの展示室がある。これらの展示室は有料である。有料であるのでこの資料館の見学はパスする。一階にはその他にレンタル工房、窯室、教室工房があり、市民に開放されている。レンタル工房でろくろを回して、陶作に精を出している人が一人居た。

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 二階には図書室や教室があり、講習会などで利用されるのだろう。教室前にはラウンジもあって寄ってみる。食器棚があって、コーヒーカップの作品が並んでいる。売り物かと思っていると、好きなカップを選んでコーヒーが飲めるようになっている。それではと選んだカップが写真のものである。

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 そもそも江別とやきもののつながりは江別式土器の続縄文時代に遡る。れんが産業の歴史も北海道では古く百余年を数えている。釉薬の第一人者の小森忍が晩年を過ごした地でもある。ここで小森は大阪高等工業学校窯業科で学び、その後京都の陶磁器試験場に就職し、中国古陶磁器の研究を行っている。満州にも渡り、終戦で新しい活動の場を求めて江別に移り、この地で亡くなっている。このような経緯から江別市が陶芸の里を目指していて、セラミックアートセンター開設の背景となっている。

 窯業の未来を切り拓こうという目的のための技術開発を行う施設として、道立工業試験場野幌分場が市内にある。小森が陶磁器試験場で研究を行っていた例を引き合いに出すまでもなく、他のジャンルの芸術よりは陶芸の方が研究や技術開発との結びつきが強く、この点からもこの試験場が持つ陶芸の里での役割は大きい。

2007年07月22日

森林の家

 野幌森林公園を突き抜ける狭い道を自動車で走っていると、「森林の家 ご自由にご覧下さい」という石狩森林管理局の看板が目に入る。傍に登満別園地のパーキング場があるので車を止めて覗いてみることにする。

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 二階建てのロッジ風の建物で、自由に内に入れるようになっている。入館者は我々の他にはいない。一階は広い空間に野幌森林公園を紹介するためのパソコンや航空写真を立体視する器具などがあり、壁には各種の木の紹介パネルが立てかけられている。

 樹齢三百五十年のアカエゾマツの幹の輪切りの標本やその他の木の輪切り標本も並んで置かれている。北海道森林管理局の石狩森林管理署の看板が建物入口にあったので、木の標本や木に関する説明が館内にあっても不思議ではない。この施設は一九七九年(昭和五十四年)開館しており、その後にこの新しい建物が建ったとのことである。事務所も館内の一角にあって、管理人とおぼしき人が詰めていた。

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二階に上がってみると壁を使った写真展が行われていた。見る人もいないところに写真が飾られていて、多分この場所まで来る人はほとんどいないだろうから、来場者の居ない展覧会で、展覧会場の秘境という表現が当てはまりそうである。

 展覧会ではないけれど、動物や鳥のカービング作品が飾ってある。二階の窓際に望遠鏡が置かれてあって、バードウオッチングが楽しめるようである。覗いてみたけれど鳥らしきものをみることができなかった。

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 野幌森林公園には色々な散策コースが作られていて、この森林の家の横からはカラマツコースが伸びている。そこを少し歩いて、カラマツの林まで行ったのだが、人工林のカラマツの林は日光が地面まで届かず、薄暗く下草も生えていない林が広がっている。歩いて楽しむような雰囲気ではないので早々に引き返した。同じ樹種で人工的で作られた林や森は本来の意味での秘境空間を造り出しているようである。

 森林の家から東に車で少し走ると森林公園を抜けて、森林公園に並行に走る道道江別恵庭線に出る。この通を北上すると江別の市街地に達する。江別は思っていたより森林の豊かな市である。