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2011年01月22日

すっきりした境内の下野幌八幡神社

 厚別川は名前から厚別区を流れているように思われるが、厚別区と接する白石区を流れる川である。厚別区を流れる川は野津幌川と小野津幌川である。野津幌川の東側はもみじ台で西側が青葉町となる。野津幌川の両岸に沿って緑地が整備されていて、青葉町側の緑地の近くの高台に神社がある。
 創祀は1891(明治24)年頃に遡り、この地への入植者が稲荷神社を建立したのが始まりである。1900(明治33)年に現在地に社殿を建て、八幡神社になっている。現在の社殿は1978(昭和53)年に建てられたもので、祭神は稲荷神である。
 石段を登ると新しそうな鳥居と、その傍に軟石製の社名の石柱がある。登り坂をさらに進むと社殿が現れる。社殿の周囲に造作物はなく、すっきりした境内である。祭神が稲荷神でも稲荷神社の赤色は視界に入らない。

野津幌の 川を見下ろし 稲荷神

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境内に 見るものなくて 八幡社

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2011年01月21日

川下公園に隣接する川下八幡宮

 白石区川下地区に川下公園がある。この公園はライラックの森と呼ばれる樹木園があり、札幌市の木であるライラックが約200種、1700本が植栽されている。園内の施設として、温水プールのあるリラックスプラザやパークゴルフ場、テニスコート、野球場もある。この公園の東側の縁を道路が通っていて、この道路に面して八幡宮の名前の神社がある。
 神社の由来が見あたらないので、インターネットで検索すると、1890(明治23)年創祀で、下厚別八幡宮と呼ばれていたようである。神社の裏手に厚別新川が流れており、この川を境にして東側は厚別区の厚別町山本がある。この山本は開拓者の姓に由来しており、厚別区には山本稲荷がある。稲荷社と同様に山本神社であった記載も見えるけれど、地図には川下八幡宮と記されている。

最小限 社殿と鳥居 神社なり

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 境内は道路脇の広場で、鳥居と社殿が有るだけの殺風景なものである。付属物を除き、ここまで境内を簡素化した神社も珍しい。社殿の正面に掲げられた扁額には、上手とは言い難い書体で、八幡宮の社名が見える。鳥居の向こうには、道路を挟んで川下公園の立木が見えている。ライラックの咲く季節には、この鳥居までライラックの香りが届くのなら、境内の殺風景も救われるのにと思ってしまう。

誰記(しる)す 文字の拙く 八幡宮

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2011年01月20日

肩身の狭そうな中沼神社

 モエレ沼公園を囲むように中野幹線道路と三角点通がつながっている。道路のある地区は東区中沼町である。中野幹線道路沿いに中沼小学校があり、同じ道路沿いに小学校から少し離れて中沼神社がある。神社にも中沼の地区名があるので、昔からこの地区は中沼と呼ばれていたかと思っていると、中沼小学校が地区名の発端になっている。
 もともとモエレ沼の西は「中野」、東は「沼の端」と呼ばれていて、1948(昭和23)年この地区に小学校が新築された時、新校名でこの両地区の住民に意見が対立した。折衷案として中沼小学校に決まった経緯がある。この校名から地区名が中沼となり、中福移も含めてこれらの地区が合併し、中沼町となっている。
 部落の合併に伴い、中野と沼の端にあった神社も一緒になり、中沼神社となっている。1966(昭和41)年に小学校の新築移転に伴って、神社は現在地に社殿を新しく建て、篠路神社の飛地境内神社となった。祭神は天照皇大神と天香山命である。

路地奥に 肩身を狭め 社(やしろ)あり

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 神社は保育園と民家の間に挟まれてあり、道路に面した鳥居を見逃しそうになる。狭い路地奥にあるような神社を見ると、肩身が狭い感じが漂ってくる。地区の名前を折衷案で決めた経緯が、この肩身の狭さになって表れているのかとも考えてしまう。手水舎が有るだけで、石碑の類も見当たらない。神社の鳥居からは中野幹線道路の向こうに広がる畑が、雪を被って広がっているのが見えている。

手水舎も 社殿も被る 綿帽子

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鳥居見る 中沼畑地 雪野原

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2011年01月19日

碑の目立つ藻岩神社

 地図を見てこの神社に行こうとすると、迷いそうになる。神社の裏手にあたるところに幹線道路の中ノ沢南沢通があり、こちらから神社に行こうとすると、坂を下り住宅街を抜けて行く必要がある。神社は東を向いているので、東側からアクセスしようとすると、こちらは迷路のような住宅街を通って神社に辿りつくことになる。神社は裏手の山林に囲まれるようにしてある。
 創祀は1896(明治29)年大山祇神を祀ったことに遡り、山之神社と呼ばれていた。1904(明治37)年社殿を造営し、倉稲魂神と猿田彦神を合祀して本通神社に改称している。1942(昭和17)年に藻岩神社と改称して、1970(昭和45)年に現在地に移っている。
 境内は東側に広場があり、鳥居の下から登りの石段が続いていて、社殿がある。石段の横には石碑が置かれていて、その一つは社殿の近くの上部が三角形創祀の山之神社碑がある。その他にも猿田彦之命碑や安斉幸作翁顕彰碑もあり、碑の目立つ境内という印象である。

石段が 登りを誘い 社(やしろ)有り

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山神碑 山を模してか 三角形

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2011年01月18日

丸千坂のある札幌藤野神社

 藤野と簾舞の地区が隣り合うところで、国道230号と豊平川の間に道路がある。国道が出来る以前の旧道で、簾舞通行屋もこの道路沿いにあった。通行屋は旧黒岩家住宅として保存、展示されている。この道路の藤野側に藤野神社があり、藤が丘高台公園にある藤野神社と区別して、こちらは札幌藤野神社と呼ばれている。
 神社は道路から坂を登ったところにある。この坂には看板があって、坂の名前が○で千の字を囲んだ丸千坂となっていて、その由来が記されている。この屋号を持つ松沢松之助が、1883(明治16)年、この地で開拓に着手した由来からの命名である。

立看に 丸千坂の 由来あり

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 坂を登って行くとまず木の鳥居がある。鳥居の傍の看板にある神社の略記によれば、設立は昭和36(1961)年で、祭神は北海道神宮と同じ4祭神である。神社としては新しいものである。木の鳥居に続いてコンクリート製の鳥居があり、その奥に朱塗りの屋根と扉の社がある。狛犬は居らず、目立ったものの無い境内である。境内の隅に「藤野開基百年記念碑」が設置されている。
 藤野は「藤の沢」と「野々沢」の頭文字を採って新しく命名された地区名で、1944(昭和19)年に地区名に採用されている。かつて、この地で伐採された木材で漁船が造られ、その船が石狩の海での漁に利用された歴史がある。

社(やしろ)屋根 朱塗りが冴えて 藤野の地

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2011年01月17日

フクロウの置物のある札幌御嶽神社

 中央区宮の森と西区小別沢は小別沢トンネルでつながる。このトンネルから小別沢に出て、福井地区に抜ける途中にこの神社がある。御嶽神社は吉野金峯(きんぶ)山寺蔵王権現堂を総本社にしたものと、木曽御嶽神社の分社・末社があり、前者は「みたけじんじゃ」、後者は「おんたけじんじゃ」と呼び方で区別している。札幌御嶽神社は「おんたけ」と発音しているので、木曽御嶽神社の系列につながるのだろう。
 社殿正面に社名と祭神名の看板がある。祭神は、主祭神が御嶽大神(おんたけおおがみ)で、他に大己貴命(おおなむちのみこと)、国常立命(くにのとこたちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)である。これらの看板の下に、狛犬ならぬ、木彫りのフクロウが置かれている。神社を護るための置物か、単なる飾りかははっきりしない。

祭神が 看板にあり 御嶽社

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フクロウは 飾り護りの 役不明

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 社殿から鳥居を見ると、鳥居の彼方に階段状の採石場跡のある五天山が見える。現在はこの山裾の福井側は五天山公園になっている。五天山の右側には手稲山が見えている。神社が小別沢の小高いところにあるので、境内からの眺めが良いのが印象的である。

西見れば 鳥居にかかり 五天山

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2011年01月16日

灯篭の鹿が護る十軒神明宮

 東区と北区の区境を横切る伏籠川は、南東から北西に流れる直線状の川である。この伏籠川に並行して道道273号の花畔札幌線が延びており、道路に沿って北区上篠路の十軒こまどり団地がある。団地の近くで、道路と伏籠川の中間に神社の十軒神社の境内がある。
 社名の石柱には十軒神社とあるけれど、鳥居のところには神明宮の額があり、十軒神明宮が正式の神社名のようである。神社名に「宮」がつくのは、天満宮はときどき目にするけれど、神明宮は珍しい。創祀は1898(明治31)年に遡り、篠路村十軒地区の入植者が篠路神社の祭神の天照大神の分霊を祀ったことにある。1926(大正15)年に社殿を造営し、現社殿は1981(昭和56)年に新築されてものである。
 境内には「十軒開基120年」碑が建立されてある。碑文には、南部藩士の家族十軒が、1871(明治4)年にこの地へ入植したとある。地名の十軒はこの入植者の軒数に由来している。琴似八軒、二十四軒などにも、入植者の軒数が地名として残っている。

神明宮 鳥居に架かり 上篠路

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 境内には札幌市の保存樹木があって、樹齢90~100年のイチョウ、100年以上のキタコブシがある。保存樹の他に目につくものは、鹿の浮き彫りのある軟石製の石灯籠がある。狛犬の代わりに、鹿が神社を護っているようである。神社に隣接して、地区住民の交流センターになっている十軒会館がある。境内の周囲には畑地が広がっている。

狛犬に 変わりて鹿が 社(しゃ)を護り

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2011年01月15日

力石のある福住厳島神社

 地下鉄東豊線の始点駅の福住駅から南方向に福住中央通が延びている。この通りと羊ヶ丘通が交わるところにこの神社がある。鳥居と社殿があり、由緒を書いたプレートが設置されている。それによると、創祀は1884(明治17)年に広島県厳島神社と稲荷神社の二神を祀ったことに始まっており、1903(明治36)年に諸事情で月寒神社になった。本家の厳島神社と名前が一緒にならないように、社名に冠されている福住の地区名は、1944(昭和19)年に生まれている。
 現在の神社は、1992(平成4)年改めて広島県厳島神社、札幌伏見稲荷神社、さらに1996(平成8)年京都北野天満宮より分霊を受け、祭神としている。現存する社殿は1900(明治33)年の建立で、改修部分はあるけれど、福住地区の最古の建物である。境内に隣接して開拓記念館があり、地区の歴史を語る展示物が並べられている。

新しき 造作も見えて 地区最古

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 境内には狛犬も居らず、これはといって目に留まるものはない。そんなところに、「とよひらふるさと再発見」の指定を受けた力石があった。明治時代に作られた各種青年の団体の行事での力比べに使われた石である。石の表面に二十八貫の文字があるので、105 kgの重さである。この重量の石を持ち上げられるものかと思って見ると、力石の台座のところに、肩まで持ち上げに成功した人の名前が刻まれている。力持ちが居たものである。

石一つ 力比べの 娯楽なり

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2011年01月14日

北海道開拓の功労者を祀る開拓神社

 北海道神宮の末社で、社殿は神宮の境内にある。北海道長官の提唱で1938 (昭和13)年に建立され、北海道開拓の功労者が祀られている。祀られている諸神は37柱を数え、日本史上の歴史的人物が名前を連ねている。
 祭神の中には、樺太探検で間宮海峡の名前を留めている間宮林蔵、日本全国の地図を作った伊能忠敬、ロシアと交渉を持った廻船問屋の高田屋嘉兵衛らの名前がある。北海道開拓の立役者としては、初代開拓判官島義勇、開拓長官黒田清隆、初代北海道庁長官岩村通俊、屯田兵の父永山武四郎、家臣団と当別に入植した伊達邦直、十勝開拓功労者依田勉三らの名前がある。例祭日は8月15日で、この日は蝦夷地から北海道と呼び名が変わった日であり、祭神の一人の蝦夷地探検家の松浦武四郎の提案「北加伊道」に由来している。
 社殿は本殿の前に壁の無い、柱と屋根だけの部分があって、普通の神社の作りとは異なっている。雪の季節には、積もった雪が屋根の輪郭を際立たせている。開拓時には難儀の対象であったろう雪を、屋根の雪で象徴させているかのようである。壁の無い屋根の下からは、北海道神宮境内の道行く人を見ることができる。神社の入口を横切り、瞬時に視界から消える人の影の写真を撮ってみる。

象徴は 雪積み屋根で 開拓時

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社殿から 撮る人影の 瞬時像

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2011年01月11日

カップルの神社巡りに出会った札幌鑛霊神社

 北海道神社末社のこの神社は、北海道神宮境内にある。由来を書いた看板を読むと、北海道開拓の先駆をなした鉱業に従事し、その発展に貢献してきた殉職者を祀ってある。札幌鉱山局長らの提唱で鉱霊社が建立され、1943(昭和18)年に第1回目の合祀祭が行われている。北海道神宮の末社として同神宮の境内に移されたのは1949(昭和24)年で、現在の社名になっている。
 神社は北海道拓殖銀行の物故者を祀ってある穂多木神社と並んでいる。穂多木神社とほぼ同じ規模と造りであるけれど、穂多木神社には金属製の狛犬が居るのに、鑛霊神社には狛犬は居ない。小さな社が橙色に塗られた鳥居と柵に囲まれてある。鳥居を赤くしなかったのは稲荷社と間違えられるのを嫌ったせいかな、と思ってみる。
 元日に訪れた時、神社の前に若いカップルが居た。多分、北海道神宮の初詣に来て、境内の末社巡りをしているのだろう。観光の乗りの神社巡りが、若い人にひそかに広まっているとの話を聞いているけれど、案外その手の若者なのかもしれない。

橙色(とうしょく)で 稲荷社避けて 鉱霊社

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カップルの 神社巡りは 流行りなり

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2011年01月05日

開拓使ゆかりの札幌祖霊神社

 西8丁目通は南7条のところで東本願寺の境内で途切れる。この通りに面して、南5条のところに札幌祖霊神社がある。創祀は1871(明治4)年に開拓使の要請で葬齋場に小祠を建て、開拓使長官黒田清隆の要請により1884(明治17)年改築し祖霊神社となっている。
 屯田兵開拓移民の神道への改宗改葬の斎場の役目を持った神社である。1976(昭和51)年には拝殿と霊殿の増改築を行い、1981(昭和56)年鋼製鳥居を新築している。境内にある由緒書きによれば、祭神は天祖参神、天照皇大神、大国大神、産土大神(うぶすなのおおかみ)、天津神、国津神、八百万神で、副祭神は高霊神、各氏祖霊神となっている。これだけ神々が並べば、大方の神が編入されてしまう。第一八百万神となれば全ての神に通じる。

 開拓使ゆかりの神社であることは、飾りつけられている幕や提灯に、開拓使の赤い星マークが描かれていることでわかる。社名の彫られた軟石製の石柱と並んで、境内を囲む軟石の柵がある。大きな柵の一つには「神人無別」とある。神と人は別物として分けて考える存在ではない、といいたいのか、どんな神でもどんな出生の人でも分け隔てなく受け入れる、というのか意味が良くわからない。

五稜星 目につく縁(ゆかり) 開拓使

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入口に 神人無別 しばし考

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 他方の柵には「祭政一致」とある。現代の政教分離からいえば、過去の遺物が顔を出している。元日に訪れて写真を撮ったけれど、境内に参拝者の姿はなかった。

軟石に 祭政一致 時代なり

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2011年01月04日

町内会館の内にある豊平川神社

 豊平区水車町6丁目1番地に、地域住民の集会や活動に利用される旭水会館があり、この建物の中に神社が納まっている。会館の外壁に神社の由来記があり、読んでみる。1887(明治20)年、岩手県からの入植者が豊平川の氾濫防止を祈願して、郷里の水神を祀ったのが神社の始まりである。
 1919(明治43)年、札幌神社(現北海道神宮)の宮司が「豊平川神社」と揮毫してからこの神社名が定着した。1971(昭和46)年、神社用地が札幌市の都市計画で道路用地とされたことから、町内会館とともに現在位置に会館と一緒になって移っている。祭神は水波乃命(みずはのみこと)(清い水の流れをいつまでも続くようにする神様)、御井神(みいのかみ)(天地万物の生物に清い水を与える神様)、鳴雷電命(なるいかずちのみこと)(生物の水が不足しない様に雷電によって雨を降らせる神様)である。

豊平川神社のある旭水会館

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 旭水会館は常時開いているわけでもないので、確実に開いていると思われる元旦に出向いてみる。会館の玄関は開いている。しかし、人影がない。1階の玄関に近い部屋にも人が居らず、2階に上がってみる。しかし、神社らしきものはない。1階に戻り、一番奥の襖を開けると、何と神事の最中である。狭い部屋に氏子が集まって、神主を囲んで元日の催事を行っている。許可を得て写真撮影である。寒い戸外から温かい部屋に入って、カメラのレンズが曇る。何度拭いても曇りがとれず、霧のかかったような写真しか撮れなかった。

元日や 神事を撮りて 霧の中

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豊平川神社の額

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2011年01月02日

高台にある厚別(あしりべつ)神社

 厚別川に並行して道道341号の厚別・滝野公園通が走っている。この通りと厚別橋で厚別川を横切ってきた道路が交差する近くに高台があり、その高台が厚別神社の境内になる。地形から、神社には石の階段を登って行くことになる。階段のところには2基の鳥居がある。この神社の境内の周囲の雰囲気と、厚別の社名から清田区のはずれにでもあるかと思ってしまう。しかし、神社の近くには清田区役所もあり、区の中心部に近い。厚別神社は「あしりべつ」神社と発音されていて、厚別(あつべつ)区にはないことを少しでも示そうとしているのかな、と推測もしてみる。
 創祀はこの地への入植者が明治7年小祠を建てたことに遡る。1885(明治18)年に厚別川東側に神社が建てられ、1917(大正6)年に現在地に移されている。現社殿は1970(昭和45)年に造営されたものである。社殿は神明造の立派なものである。祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)、大山祇神(おおやまつみのかみ)、倉稲魂神(うがのみたまのかみ)である。

石段が 登りを誘い 鳥居坂

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 規模の大きそうな神社なので狛犬を期待したけれど、期待はずれである。高床の社殿の前には絵馬棚があるだけで、境内にはこれといって人目を惹くものもない。境内には忠魂碑や「拓」の一字がある清田開基百年碑の記念碑が目につく。その中で「上相撲記念」の文字が彫られたものが気になったけれど、説明がなく、何を記念した碑なのかわからない。「島千鳥」の文字もあって、この四股名の相撲取りを記念した碑かと推測するけれど、本当のところはわからない。

期待した 狛犬見えず 絵馬の棚

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「上相撲記念」碑

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原っぱの境内の東米里八幡神社

 白石区東米里地区は月寒川、厚別新川、旧豊平川、10号幹道線に囲まれた地域である。地区の中央を東雁来江別線が延びていて、この道路に沿って東米里小・中学校がある。学校に隣接して東興寺があり、さらに東米里八幡神社の境内が並んである。道路脇に大きな石作りの社名標柱が建っている。

原っぱに 社名標柱 威を正し

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 境内は広いものの、境内には鳥居と社殿、手水舎、由緒板、馬頭観世音碑があるだけで、原っぱが目立つ状態である。境内にある由来を読むと、明治26年に創祀で、入植者が富山県宇佐八幡宮からの分霊を受けて祀っている。社名にある八幡の神は応神天皇の神霊で、これに比売神と神功皇后を加えた三神を八幡神社の祭神としている。鎌倉の鶴岡八幡宮のように、八幡宮は武家の守護神である。古神道の特色である巫女信仰から発しているといわれている。
 神社のある辺りは馴染みの薄い場所で、神社の取材でもなければ来る機会のない場所である。しかし、この辺りの開発は進んでいるようで、取材時にも道路の工事などが行われていた。神社の周囲の開発が進めば、原っぱだけの境内の様子も変わっていくのだろう。

社殿横 由来で知りて 宇佐八幡

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2011年01月01日

牧草地に囲まれた福移神社

 石狩川に並行するように道道128号が走っていて、道道に垂直の線で、東区の中沼町と北区の篠路町福移が接している。その東区と北区の区境に並行して、道道から分かれた道路が石狩川に向かって延びていて、この道路の先に福移小中学校がある。大都会札幌の辺境のような場所にある小中学校の存在が不思議である。後で知ったのだが、この学校は小規模特認校で、自然環境を生かした特色ある教育を行う目的がある。そのためか、立派な校舎の屋上に、望遠鏡用のドームが見える。この辺りでは夜の光が少なく、夜の闇の中での天体観測に適しているのだろう。

観測の ドームが語る 夜の闇

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 この学校の敷地に隣接するように福移神社がある。福岡県からの移住者がこの地の開拓に当たった意味を地名にしている。神社は福移地区ではなく、中沼町にある。中沼町の地名も、かつて篠路村の中野、沼ノ端、中福移の集落が一つの町になるとき、これらの村落の名前から一文字を取る折衷案で決まった経緯がある。
 神社の創祀ははっきりしない。1966(昭和41)年に篠路神社の飛地境内神社として認証され、天照大神を祀っている。広がる牧草地の中に鳥居と社殿が建っている。境内には「開拓五十年碑」の古い石碑と黒御影石の新しい「福移開拓百年碑」が目につくくらいで、狛犬や石灯籠はない。五角柱が一つ建っていて、台座には明治34(1901)年の年号があり、神社の創祀に関係しているのかもしれない。5角柱に記された神々は、天照皇大神、少彦名命、稲倉魂命、埴安媛命、大己貴命で、これは他の場所にある5角柱と同じである。

福移社の 鳥居と社殿 草地中

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五角柱 神名連ねて 地鎮なり

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2010年12月31日

街区神社の苗穂山農本神社

 東苗穂に三角点通と呼ばれる真っすぐな道路が延びている。道路の名前のもとになった一等三角点がどこにあるのか探して歩いたことがあるけれど、結局は見つけることができなかった。この三角点通の東苗穂11条のところに、道路から西側に少し入ったところに東苗穂まゆみ公園という街区公園がある。この公園と住宅に挟まれるようにして苗穂山農本神社がある。街区公園にならって、街区神社とでも表現してよさそうな神社である。

公園と 住宅押して 街社(まちやしろ)

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 創祀は、1883(明治16)年に入植者が金毘羅稲荷を祀ったことにある。1933(昭和8)年に現在地より少し離れた場所に大山祇神、木花咲屋姫を合祀した神社になっている。現在地に遷座して社殿も新しくしたのが1997(平成9)年である。境内といっても、住宅と公園の間の社殿への通路だけといった感じである。新しい社殿の戸の隙間から内部を覗くと、小さな祠がある。この祠を神社の本体とすれば、社殿は大きな鞘堂ともみなせる。

鞘堂か 中に小さき 祠あり

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 神社が窮屈な空間にあるので、手水用石桶があるくらいで、他に神社の付属物は見当たらない。ただ、鳥居の横に「授爵記念」の文字の刻まれた石碑がある。授爵の当人は、北海道大学初代総長の佐藤昌介で、1928(昭和3)年に男爵を授けられている。佐藤昌介は学の人だと思っていたけれど、1890(明治23)年から農場経営にも取り組んでいて、佐藤農場の経営にも当たっている。社名の農本は、佐藤の「農業が人間生活の根本」という考えに基づくもので、神社の近くの集会場も農本会館の名前がついている。

農本に つながる授爵 碑に残り

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2010年12月30日

男女両神が祭神の中ノ沢神社

 南区の砥石山から東方向に三つの川が流れていて、沢の地形に沿って街が形成されている。川は北側から北の沢川、中の沢川、南の沢川である。これらの沢の地域は、一緒にして八垂別と呼ばれていた時代があり、時代が下って中の沢川の地域は五号ノ沢と称されるようになった。五号ノ沢には1892(明治25)年入植が始まり、1895(明治28)年に山の神を祀ったのが神社の始まりである。
 中の沢川沿いに、入植者によって1899(明治32)年に「山の神」碑が建立された。この碑が現社殿の前に置かれていて、少し古い道路地図には神社名として「山之神神社」が記されている。神社は1980(昭和55)年に現在地に移り、2003(平成15)年に新社殿が建てられた。祭神は山の神に加えて、豊受大神、猿田彦命である。

中ノ沢神社の鳥居と社殿

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 社殿の屋根には千木と鰹木が取り付けられており、千木は内削ぎで女神を、鰹木は5本の陽数で男神を祀ってあることを示している。山の神は多分男神だろうと思われるけれど、世俗で山の神と言えば女性でもある。性別がはっきりしているのは女神の豊受大神と男神の猿田彦命で、この二神のため千木と鰹木で異なる性別を表しているのだろう。

祭神は 千木と鰹木 異性神

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 中ノ沢神社は中の沢土地区画整理事業の結果、中ノ沢会館に隣接して境内がある。鳥居の横に整理事業完成の記念碑が建てられている。碑には絵が描かれていて、二つの山から川が流れていて、川は中の川で、山は砥石山と藻岩山だろうか。鳥は札幌市制定の鳥のカッコウだろう。星は開拓使の星マークかもしれない。三日月は何の象徴かわからない。記念碑の銘として「親和」とあり、事業が地域住民の協力の下に行われたことを表しているのだろう。

中の沢土地区画整理事業記念碑

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スリムな神狐の居る大覚寺豊川稲荷

 曹洞宗の大覚寺は狛犬が寺門を護っている。寺なのに神社を護る狛犬が控えているのは珍しい。しかし、この境内には豊川稲荷神社があって、神狐もいる。山門には仁王像があり、五百羅漢堂には500人の羅漢も居るから、何でもありの寺である。
 境内にある稲荷社は朱塗りの鳥居があり、豊川稲荷の額の架かった社殿の両脇に狐が控えている。狛犬を見慣れている目には、狐の身体はスリムに見える。さらにここの狐は面長の貌と長い首が強調されているので、余計にスリムな感じである。一方の狐は玉を加えている。狐の咥える最も一般的な物はこの宝玉である。狛犬でも玉を咥えるものがあるけれど、基本的には阿形の狛犬は口を大きく開けていなければならないので、玉を咥えては阿形にはなりにくい。この点、狐はしっかりと玉を咥えている。

大覚寺境内の豊川稲荷神社

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玉に似ず 咥(くわ)える口の 細長さ

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 他方の狐が咥えているものが判じ物である。この形から直接の連想は難しいところだけれど、これは鍵である。稲荷神は「稲生り」からの転訛と言われていて、元々は農業を司る神である。鍵は米蔵の鍵で、それが財産を蓄える蔵の鍵をも象徴するようになったらしい。鍵の先端の造作が壊れ、柄の部分が残って巻物を咥えた形になったのではないか、という説も読んだことがある。
 それにしてもこれら一対の狐は胴も細く、銅製の肌も滑らかで、稲荷社の狐の中でもモデル級のものではなかろうか。同寺の五百羅漢像が宣伝されて、見学者も羅漢像見学に流れるようであるけれど、羅漢像に優るとも劣らぬ鑑賞の対象である狐の方は忘れ去られているようである。

鍵あれど 開ける錠前 いずこなり

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 狐に目が行かなくとも、否が応でも境内で目につくのが山門の仁王像である。こちらは狛犬同様阿形と吽形の形に造られている。仁王像に紙礫がついているのは、参拝者が自分の身体の悪い部分と同じ仁王の身体の部分に、水を含ませた紙礫を命中させると、悪い部分が治るという言い伝えが広まったためである、と説明を受けたことがある。

2010年12月29日

古い狛犬を見落としそうな豊平神社-続き

 由緒ある神社では、新しい狛犬と以前の古い狛犬が同じ参道に並べて置かれるのが一般的はところ、豊平神社の場合、境内のスペースを確保するためか、古い狛犬は境内の脇に置かれている。気を配っていないと、狛犬は社殿の前に置かれたものだけかと、古い狛犬を見落としてしまうことになる。
 古い狛犬は、新しいものと比べて、味がある。ずんぐりした身体に首のない頭がついていて、阿形犬の貌は、お座敷犬のペットの雰囲気である。尻尾のデザインも見事で、曲線で彫り込まれた毛の渦巻きが、模様の無い胴体との対比で効果的である。新しい狛犬と古いもののどちらを社殿の前に主役として置くかは、好みの問題ではあるけれど、筆者なら古い狛犬を選ぶ。古い狛犬の台座に奉納年が刻まれていて、明治32(1899)年と判読できる。

狛犬の 威厳を出すも 座敷犬

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見せ所 尻尾の巻き毛 石工技

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 境内にはいくつか碑があり、その一つに針供養歌碑がある。使い込んだ縫い針に感謝し、裁縫技術の上達を祈るためのもので、歌碑には「裁ち縫ひにはげむをみなら数々の折れたる針をいとほしみつつ」が刻まれている。歌は、北海道の代表的な歌人であった小田観蛍が詠んでいる。

針供養歌碑

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古い狛犬を見落としそうな豊平神社

 国道36号が米里行啓通と交差する近くで、国道に面して鳥居が建っていて、豊平神社の境内がある。創祀は、1871(明治4)年にこの地へ入植した開拓者の郷里が青森で、青森の猿賀神社の祭神を祀った祠を建てたことにある。社殿は1884(明治17)年に建立されている。祭神は、上毛野田道命(かみつけのたみちのみこと)、大山祇神(おおやまつみのかみ)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)である。

豊平神社の鳥居と社名柱

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 鳥居から真っすぐ歩いて社殿に進むと、社殿の両脇に狛犬が置かれている。御影石による新しいタイプの狛犬の対である。基礎のところに昭和49(1974)年の奉納年が刻まれている。御影石が利用されるようになってから、狛犬はマッチョな筋肉質の身体と、美容院で手入れでもしたかのようなカールを誇示した巻き毛のモデルが一般的になってきたようである。豊平神社と三里塚神社の狛犬を見比べてみると、同じ一族であることが一目了然である。母親の狛犬の爪にも朱が入っていて、まるでマニキュアをしているようである。

豊平神社社殿と狛犬

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ボディビル 鍛えた身体 マッチョなり

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仔に乗せた 爪にマニキュア 母親犬

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2010年12月28日

社名が見当たらない盤渓神社

 西区から中央区、南区と札幌市の山間部を貫くようにして道道82号が走っている。この道道から分かれて、幌見峠を経由して中央区の円山西町に出る道がある。この道路の分岐点の近くに神社がある。山裾に張り付いたようにして鳥居と社殿が建っている。神社の手前に盤渓川があって、架かっている橋を渡って鳥居と社殿に近づいてみる。

とうりゃんせ 盤渓川の 簡易橋

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 神社の周囲に社名標柱がなく、社殿にも社名の額が見当たらない。神社の説明掲示板もないので、神社を目の前にしても神社名がわからない。後で古い道路地図を見ると、盤渓神社になっている。しかし、現地で社名がみつからない様子から、この神社は神社であることを止めてしまったのではなかろうか、と推測してみる。ただし、社殿は廃屋といった感じでもなく、はてどうなっているのだろうか。

社名なく 業務停止か 盤渓社

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 雪の季節に訪れてみると、雪の中に社殿がある。ここから道道を少し西に行くと、ばんけいスキー場がある。神社の雪景色を撮りに行った時は冬休みに入っていて、スキー場は子供たちで賑わっていた。

バス停の 幌見峠も 雪の路

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先端企業群に囲まれた澄丘神社

 札幌市の情報産業基地として、野幌森林公園に隣接する下野幌の丘陵地にテクノパークが造成され、主に地元のIT企業に分譲されたのが1986年である。さらに1988年には最初の第一テクノパークとつなげて、第二テクノパークが拡張され、本州の大企業を主として分譲が行われた。この第二テクノパークに神社が取り残されたように、情報産業の企業群に取り囲まれてあるのは、その対比が面白い。
 創祀は1918(大正7)年に遡り、札幌から赤平の地、さらに札幌へと遷座していて、1977(昭和51)年に現在の場所に社殿を新築している。北海道神宮より祭神を受けて、現在は天照皇大御神、天照皇大御神荒御魂、豊受大神が祀られている。
 境内は小高い丘にあり、二基の鳥居をつなぐ石段を登ると、社殿がある。神明造の社殿の千木は内削ぎになっているので、女神を祀る神社になっている。社殿の他には狛犬や石碑・石像の類の古い神社には付き物の造作物が無く、すっきりした境内で、先端企業の整備された社屋の周囲の雰囲気でもある。デジタル技術の企業にお付き合いしたか、何もない境内に社殿だけがあるのは0と1を象徴しているようにも見えてくる。

二基の鳥居と参道の石段

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デジタルの 境内社殿 0と1

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 境内から見下ろすと、神社周辺のIT企業の建屋が目に入る。デジタルの先端技術を生業にしている企業と、アナログ世界の神社は意外と相性の良いところもある。先端企業といえども、手に負えない事態に遭遇することはいくらでもある。そのような場合の技術者や経営者の気持ちは、神頼みの場合もある。神社から貰ったお札が先端企業の社内に飾られていたりする。立地から、澄丘神社が先端企業の守護の役目を担っている。

俯瞰する 先端企業 氏子なり

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2010年12月27日

女性による霊感が始まりの難得神社

 豊平川の東側に水車町と呼ばれる地区がある。かつて、この辺りの流れを利用した水車があったことに由来した名前である。現在は豊平川の堤防の上に豊平通が通っていて、上流の幌平橋と下流の南大橋の中間辺りで、豊平通に面したところに難得神社がある。鳥居が東側にあり、従って社殿は豊平川を背にした配置となる。
 この神社の創祀は明治末期で、中西みゆきの霊感を体験した人々が「講」を作ったのが神社の始まりだと伝えられている。社名は、豊平区にある日蓮宗の経王寺の日光上人が難得大龍神を授けたことによるとされている。その他の由緒についてはネットで調べてもはっきりしない。
 「難得」の言葉も何を意味しているのだろうか。以前、中国成都市の杜甫草堂で「難得糊塗」の文字の拓本を買い求めたことがある。糊塗(馬鹿のようにふるまうこと)は難得(難しい)といった意味で、一つの熟語である。どういう状況を説明する熟語かは長くなるので割愛するとして、この難得(中国語発音ではナンドゥ)が頭にあるのだが、社名の難得とは関係ないだろう。

難得の 社を囲み 夏木立

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鳥居には 難得とあり 水車町

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 広くはない境内には石灯篭があるだけで、狛犬や石碑はない。かろうじて神社の体裁を保っている感じである。社殿には鍵がかかっておらず、2度ほど行った時には戸を開けて内を覗くことができた。祭壇があり、上に「難得大龍王」の偏額が架けられている。横に飾られている肖像写真は中西みゆきのものだろう。神社ではあるけれど、地域の集会場の雰囲気でもある。戸のところから薄暗い室内の写真を撮っただけで、この神社の取材を終えている。

「難得大龍王」の偏額がある社殿内部

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公有地神社だった有明神社

 札幌には10区があるのだが、区割りが頭の中に入っていない。清田区、厚別区、南区の境目あたりは地図を何度見ても頭に残らない。行政の区分として見るせいで、その区の特徴的なものでも頭になければ、区境は限りなくぼやけてくる。
 これに対して、地形が頭に入っていて、地形と区の関係を覚えていると、区の位置の大体のところが頭に浮かんでくる。清田区有明地区は厚別川に沿った白旗山を含む一帯である。有明はかつては屯田兵の給与地であって、公有地であることと、明るいイメージを持たせるために「有明」の地名がつけられたといわれている。
 厚別川が白旗山の裾野を縫うように流れていて、それに沿って道道341号が走っている。この道道沿いに有明神社がある。近くには札幌市立有明小学校がある。神社は1900(明治33)年産土皇神を祀った祠から始まり、1912(明治45)年現在の場所に公有地神社として社殿が建てられた。1944(昭和19)年には有明神社と改称し、現在の社殿は1994(平成6)年に新築されている。祭神は産土皇神に天照大神、倉稲魂神、大山祇神が加わっている。
 神社の境内は、道路沿いの境界がはっきりしない空き地である。軟石製の鳥居があり、社殿があるだけで、灯篭や狛犬の神社の雰囲気を盛り上げる付属物がない。社殿の横には開拓記念碑と謝恩碑が目につく。謝恩碑には碑文が彫られていて、目を走らせると、この神社の土地を寄付した篤志家に対する謝恩文が記されている。碑文の中の神社名は公有地神社となっている。札幌郡豊平町公有地部民の文字も見え、ここは札幌市となる前は豊平町であった。碑は大正10(1935)年に建てられている。

新社殿 鳥居のみなり 有明社

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公有地 屯田歴史 社の出自

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 神社よりは、近くにある特認校の有明小学校が気になった。特に「特認」の文字がついている学校は何なのか、ネットで調べてみる。その趣旨と目的は、「札幌市の周辺部に位置し、自然環境に恵まれた小規模の小学校や中学校で、心身の健康増進を図り、体力づくりを目指すとともに、自然にふれる中で、豊かな人間性を培いたいという保護者の希望のある場合に、一定の条件のもとに、これを認めるものです」とある。特認校として認められているのは有明小の他に盤渓小学校、駒岡小学校、福移小学校、福移中学校がある。有明小学校の中には入っては見なかった。

特認校有明小学校

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2010年12月26日

上白石神社のキッチュな狛犬

 豊平川は東区と白石区を分けていて、北13条大橋で豊平川を越え白石区に入ると南7条米里通とぶつかる。その交差点近くで、この通りに面して上白石神社がある。境内といっても、鳥居から社殿までの短い道が主な境内で、灯篭と狛犬が置かれているだけの質素な神社である。
 境内にある由緒書きを読むと、明治26(1893)年三嶋大社から大山祇神の分霊を受けて祀ったのが始まりである。社名の標柱には昭和57(1982)年建立の年号があるので、この年に神社を新しく造営したようである。一対の狛犬にも昭和56年の奉納年が刻まれている。

上白石神社の新しい社名柱と鳥居

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 狛犬は新しいもので、同じ形のものが他の神社にも見られる。例えば、清田区の三里塚神社のものとそっくりさんである。信濃神社のものとも似ている。多分同じ石材店かその例列の店でつくられたものなのだろう。この手の新しい狛犬は、石工の技や特徴があまり見られず、見ていて味気ない。テーマパークに置かれたキッチュな獅子の置物にさえ見えてくる。

味気なき 狛犬の居て 新社(しんやしろ)

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狛犬は 新モデル風 キッチュなり

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 石材も御影石で、軟石のように風化も進まないので、いつまでも新しい姿を見せていて、この点も風情に欠ける。狛犬なら、年季が入っているところが風格を添えるのに、いつまでも新しく見える狛犬では、素材に反して、安っぽく見えてくるのは否めない。

機械場神社であった滝野神社

 道道341号で、国営滝野すずらん公園内にあるアシリベツの滝近くにさしかかる所で、道道沿いに神社の境内がある。鳥居があり。石段を登ると参道が社殿まで続いている。道道の傍にあるとはいえ、森の中の神社の雰囲気である。神社の由来を簡単に記した石板がある。読んでみると、神社は明治43(1910)年の創祀で、アシリベツの滝の東北50 m のところに位置して、村民50戸余りが機械場神社として天照大神、倉稲魂神、大山祇神の三大神を祀った。昭和57(1982)年に国営公園の開設に伴い、現在地移転している。
 説明板に記された機械場神社の名前にある機械場とは、札幌本府の建設に必要となった材木を滝野の地で生産するため、水車動力式の製材機械をアメリカから輸入して建設した、厚別水車機械所を指している。

社名から 機械場消え 滝野の地

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 社殿は神明造であるけれど、千木や鰹木がない。狛犬もみあたらず、灯篭が一対あるだけである。参道の横手に石碑や石仏が置かれてある。大きく「開拓紀念碑」の文字が彫られ、横に小さく開拓創始者阿部仁太郎翁ときざまれた記念碑は1913(大正2)年に建立されたものである。 
 波切りの剣を持ち、火炎を背負った不動明王の石仏がある。神社なのに真言宗の護り神が鎮座するのは神仏混淆の流れを汲むのだろうかと考える。不動明王の傍には三面の顔に馬の頭のついた石仏がある。馬の頭があるので、これは馬頭観音だろう。解けた雪が石仏を濡らしていた。

火炎負い 山火事注意 明王像

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雪濡れの 馬頭観音 怒り顔

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2010年12月25日

豊足神社の潮風で荒れた肌の狛犬

 国道5号で札幌から小樽に向かう途中に、御膳水の地名がある。明治天皇の1881(明治14)年の北海道行幸に際して、天皇がこの地の沢水を飲んだということに因んでつけられた名前である。国道脇に井戸の形の碑と「御膳水宮」の文字の刻まれた祠が置かれている。
 ここの交差点からJR銭函駅に行く道が分岐していて、この道を海岸方向に下りて行くと、線路の手前に豊足神社がある。丁度線路を見下ろす位置に境内があり、線路の先に銭函駅、さらにその向こうに銭函の海が広がっている。
 神社の起こりは1780(安永9)年にまで遡るようで、石狩川の鮭漁やその近海の漁が始まると、漁の安全を祈願した神社ができ、それが再建され1876(明治9)年には社名を現在の豊足にしている。現在地には1917(大正6)年に移転している。合祀などの経緯を経て、現在の祭神は豊受姫大神、藤原三吉命、大国主大神である。

豊足神社境内

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 社殿の前に軟石製の一対の狛犬が置かれている。耳を横に伸ばし、大きな口、目にかかるような頭毛、立ち上がった尻尾のこの狛犬は、時々見かける形式のもので、同じ石工やその系列に属する石工が居た石材店が納めたもののようである。銭函の海からの塩分を含む潮風をまともに受けるせいか、歳月による風化が進んでいて、それが狛犬の表面に表れている。肌に模様があったのかどうか、荒れた石肌では判然としないところがある。阿形の牙も一本欠けている。献台のところに「銭函商工会 昭和九年六月」の文字が刻まれており、ここに坐してもう80年近くの歴史を刻んでいる。

80年 口開け続け 牙の削げ

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潮風が 肌を荒らすか 粗目(ざらめ)肌

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 豊足神社には日露戦争の時、ロシア軍が日本海に敷設した機雷がオタネ浜(現在の大浜海岸)に漂流していたものを爆破処理した残骸が奉納されている。錆止めなのか赤く塗られた鉄球の破裂したものが、忠魂碑の横に置かれている。機雷の彼方下方をJRの列車が走っていて、こちらの鉄の箱は平和の時代に活躍している。

平和時の 列車眺める 機雷かな

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2010年12月24日

保存樹林の中の大谷地神社

 道道3号の南郷通が厚別川を越え、道央自動車道の下をくぐる手前の小高いところにこの神社の境内がある。かつて路線のあった国鉄旧千歳線跡がサイクリングロードになっていて、南郷通とサイクリングロードに挟まれるように境内がある。南郷通から石段の参道を登って鳥居をくぐり、社殿に達する。
 境内にある「わたしのあしべつ100」の説明によると、大谷地地区は(明治18)年に入植が始まり、(明治27)年には14戸の集落が形成され、厚別川のほとりに小祠ができたといわれている。この祠を前身として、明治33)年有志17名で大谷地神社が創建されている。大谷地神社と呼ばれるようになったのは昭和21年からで、現在の社殿は昭和49年に造営されている。祭神は神社の入口のところにある看板に大きく記されていて、大国魂大神、大名牟遅大神、少彦名大神で、これは北海道神宮の祭神と重なる。

狛犬の護る大谷地神社社殿

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 神明造の社殿の前に一対の狛犬が参拝者を見据えるように置かれている。阿形は大きな口を開けていて、年月のなせるせいか、上の牙が一本欠けている。口も大きいけれど、鼻もどっしりと顔の中央に座っていて、迫力のある造りである。形通りの口開け阿形に対して、吽形の方は口を閉じているというより、歯を剥き出している。これは「い(伊)~」の発音の口唇である。阿形に対する伊形(いぎょう)の、新しい形式の狛犬の分類に入れるのはどうかな、と思ってみる。

年経れば 牙も欠けたり 阿形犬

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この形 伊形(いぎょう)に見えて 吽形犬

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 これら一対の狛犬は西岡八幡宮のものと良く似ている。両神社の狛犬は同じ石工か石材店が製作したものではないかと思われる。ただ、製作に関する文字が見当たらないので、見た感じでの推測である。
 この境内にはトウヒ、トドマツ、カラマツの林があり、札幌市の保存樹林に指定されている。境内から北側を見下ろすと、南郷通にはひっきりなしに車が往来していて、国道12号、道央自動車道が近接する交通の要衝の地であるのが実感できる。
 南郷通と反対側の南側は、境内の下をサイクリングロードが走っているのを見下ろせ、紅葉の時期には見事な眺めを楽しめる。北星学園大と短大のキャンパスがこのサイクリングロードの南側にあり、さらにその南側に大谷地の森公園がある。

境内横のサイクリングロードの紅葉

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2010年12月23日

観光客仕様の黄金龍神社

 小金湯温泉は、温泉街というには狭い場所に2軒の温泉施設と、愛称サッポロピリカコタンのアイヌ文化交流センターが並んであるだけである。この温泉地のシンボル的な木が、推定樹齢700年のカツラの巨木である。樹高約23 m 、幹周り10 m もあり、木の前に鳥居がある。これは、このカツラの大木の空洞に「桂不動」と呼ばれている不動尊が祀られているためである。木の周囲には地蔵が並んでいる。

桂の根 地表で変る 地蔵かな

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 この鳥居とは別の場所に新しく見える祠がある。祠の上に額があり「黄金龍神社」の社名が見える。この祠は鞘堂のようで、開いた扉の中を覗くと小さな祠が鞘堂のご神体のように納まっている。元々あった祠なのかどうかはっきりしない。定山渓温泉を見つけ、湯守となった美泉定山が、このカツラの大木の下で眠っているとき、霊泉のお告げがあったとの言い伝えにつながる社の話がある。

鞘堂に 黄金龍神 社名あり

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 狛犬は見当たらず、鞘堂の中の両脇に居るのは大黒天と恵比寿である。社名から祭神は龍神ということになるのだろうから、七福神の神様はつけたしで置かれているのだろう。僧侶が持ち歩き鳴らすリンもあって、神社仏閣関係グッズを並べた感じである。黄金龍神の社名といい、七福神の金属製の神様といい、いかにも温泉地の観光用にしつらえた社といった雰囲気である。

社(しゃ)の護り 大黒天と 恵比寿なり

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軟石の里で石碑が並ぶ石山神社

 南区石山はその名前が示唆するように、かつて札幌軟石の産地であった。その石切り場跡が公園に変身で、石山緑地となっている。緑地内には、石切り場跡の切り立つ岩の壁を背景に、札幌軟石で野外劇場のように造られ、ネガティブマウンドと名付けられた一画もある。この緑地横を通る道路から豊平川に並行に延びる平岸通に出て、少し西の方に行くと道路の南側に石山神社の境内がある。
 札幌軟石の採石のため道外からやって来た職人達が、1885(明治18)年作業の安全を祈願して大山祇神を祀ったのがこの神社の創祀とされる。1910(明治43)年には現在地に移っており、近隣で祀られていた天照大御神、豊受大神、豊受姫神、八幡大神、春日大神等が合祀されるようになった。1927(昭和2)年現社殿が完成し、1969(昭和44)年天照大神のみを本殿で祀る祭神としている。他の祭神は石碑で祀られ、境内の一画に置かれている。札幌軟石製と思われる鳥居の向こうから、午前中の冬の陽が差してくる。

採石の 記憶を残す 鳥居かな

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 社殿の前に一対の狛犬が置かれている。首回りの巻き毛や尾のデザインが意匠的で、力強い造形である。尻尾はきれいな渦巻き状になっていて、アンモナイトを連想させる。阿形犬の前脚の二の足部分にある模様は、巻き毛より牡丹の花をデザインしたように見え、これも意匠的である。毛阿形も吽形も天を向いていて、かなり高い台の上にあるため、貌を見上げる格好になる。したがって、表情が見えない点が惜しい。台座の部分に奉納年の明治33年の年号が見える。

連想は アンモナイトで 尻尾なり

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天を向く 阿形前足 牡丹見え

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 鳥居の横手に多数の石碑が並んでいる。一番大きな石碑には「山乃神」の文字が見える。石山神社の起源となるご神体と言われている。台座のところに「山乃神石山組中」の文字が刻まれている。この大きな碑の台座のところに、小さな狛犬の置物がある。この土竜(もぐら)ぐらいの大きさの焼き物の狛犬で、大きな軟石製のご神体の碑を護っている図となる。

山乃神 護る狛犬 土竜(もぐら)大

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 「山乃神」碑の前に四角柱の碑があり、正面真ん中に天照皇大神、右に八幡大神、左に春日大明神の祭神の名前が刻まれている。この碑の右には三角の山形の「山の神」碑、左側には「稲荷大神」碑がある。いずれもこの神社の祭神となる。神様の碑の他に、忠魂碑や招魂碑があって、石碑の多い境内である。

2010年12月22日

開拓者名のついた山本稲荷神社

 函館本線厚別駅の西側に、南北に走る道には山本通の名前がついている。この通りに面して、やはり山本のついた稲荷神社がある。この山本は、この地に入植した開拓者とその子孫の姓である。開拓当初この辺りは「本田」と呼ばれていたものが、開拓の祖山本久右衛門の子孫の山本厚三氏の姓をとって、1934(昭和9)年山本地区に改称されている。
 稲荷社は1909(明治42)年の山本農場開拓当初に祀られた小祠が始まりで、現在の社殿は大正9)年に再建されたものである。神社の始まりの小祠は境内の一画に保存されていて、小さな鳥居と賽銭箱の後ろに配置されている。
 稲荷は稲生や稲成に通じ、稲の神様である。稲荷神社のシンボルは朱塗りの鳥居と神獣に格上げされた狐である。定石通り神社の鳥居は朱塗りである。社名が刻まれた軟石の柱が鳥居の傍にあり、鳥居だけなら新しそうに見える神社の、古さの証明書を表に出しているかのようである。朱塗りの鳥居に合わせたのか、社殿の屋根も鮮やかな赤である。

山本稲荷神社社名柱と鳥居

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 稲荷神社なので境内には狛犬ではなく、狐の像が置かれている。稲荷像の台座部分に昭和7(1932)年と彫り込まれているので、この年に作られ奉納されたものであろう。社殿前に置かれた一対の狐は、それぞれ口に物を咥えている。一方は稲穂の束で、他方は稲作に使う道具のようである。この道具を農作業でどのようにして使うのかは想像しても適当な答えがみつからない。稲荷像には稲穂が一束添えて置かれていた。

信心は 稲荷に添えた 稲穂束

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稲荷像 咥えた道具 判じ物

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 狛犬のような架空の動物に比べ、狐は実物が存在するため、造形の多様性の幅が狛犬に比べて狭い。この点、狛犬は職人や流派で様々なものが見られ、変わった狛犬に遭遇する面白さがある。
 境内には「謝恩碑」がある。これは前述の山本氏がこの地の開拓を進め、1944(昭和19)年には低廉な価格で農地を小作人に開放し、山本用水組合を設立してこの地を美田に変えた。札幌市の都市化に従って、土地区画整理事業にも貢献している。これらのことから、同氏に対する感謝を表す「謝恩碑」が境内に建立されている。

2010年12月20日

ドーレ君がご神体のコンサドーレ神社

 神社と名前がついているけれど、一番神社らしくない神社もどきである。北5条手稲通(旧国道5号)が札樽自動車道の下を通る付近に、チョコレート菓子をテーマにした白い恋人パークの商業施設がある。白い恋人パークに隣接して、Jリーグ所属のフットボールチームのコンサドーレ札幌の宮の沢白い恋人サッカー練習場がある。練習場にはコンサドーレ札幌コレクションハウスと呼ばれる同チームの記録やグッズを集めた展示場があり、その内にこの神社もどきがある。
 ご神体として納まるのはマスコットキャラクターのドーレ君である。ドーレ君は北海道を代表する野鳥のシマフクロウをモデルにしている。ドーレはもちろんコンサドーレからの命名で、コンサドーレは“道産子(どさんこ)”を逆さ読みして、掛け声の“オーレ”を重ねた造語である。一般募集で採用された経緯がある。

ドーレ君 神社もどきの ご神体

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 コレクションハウスは無料で入館でき、応援グッズの販売を行っているショップ、歴代のコンサドーレグッズや世界のサッカーのスーパースターの写真などの展示がある。サッカーファンなら、足を止めて見る品々であろう。

コレクションハウスの展示

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 コンサドーレ神社の外には、冬季閉鎖中のピッチと無人の観戦スタンドがあった。雪を頂く手稲山が彼方に見えている。コンサドーレ札幌は1次リーグのメンバーだったこともあるのだが、現在は2次リーグに降格で、上昇機運にめぐまれない。ここはひとつコンサドーレ神社で、1次リーグへの昇格の神頼みをするしかない。

手稲山 眺めるピッチ 冬休み

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ドーレ君 いかめしき顔 エンブレム

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2010年12月19日

紅桜公園内の開拓神社

 南区を南北に流れる精進川の西側が真駒内、東側が澄川地区となっている。地下鉄南北線の始発駅の真駒内駅の裏手に健康保安林が広がり、その中の遊歩道を通って精進川に達して、ここから雑木林を越えると紅桜公園になる。地図上では地下鉄真駒内駅から紅桜公園までの直線距離は500 m ほどなのだが、精進川から雑木林を抜ける道がない。結局遠回りで石山西岡線から澄川通に抜けるルートの途中から公園に入ることになる。
 私設の公園で、結婚式場やレストラン、寿光庵と呼ばれる茶室、茅葺の蝦夷数寄屋造りと称される木乃実茶屋などがある。最初紅桜の名前から桜の木が多いところかと思っていたら、紅桜とは紅葉のことを指しているようで、紅葉の季節の景観はすばらしい。この公園内に私設の神社がある。
 坂の途中に社名柱があり、そこから少し行くと鳥居がある。鳥居の傍に由来の看板があるので読んでみる。昭和59(1984)年、油沢とも呼ばれていたこの地の開拓70周年を記念して、紅桜公園内に地域の開発功労者14名を祭神として祀った神社を創建し、開拓神社としている。昭和62(1987)年、澄川389番地に建立されていた造林・採石の安全祈願碑である石切場山の神碑を移設し、開拓神社に合祀している。昭和60年には社務所と開拓資料館も建てられている。

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 一対の狛犬が鳥居の脇に置かれている。奉納年が平成12年となっているので新しい狛犬である。谷口石材の納品業者の名前も彫り込まれている。狛犬の形は古典的なものであるけれど、普通の形とは違った点もある。狛犬の足元にある置物は、通常は玉か狛犬の仔であるのに、阿形の足元の物が何であるかはっきりしない。渦巻き状の物体で、玉でも花でも仔犬でもないようである。狛犬の巻き毛を彫った勢いで、この造形になったようであるけれど、玉や仔犬を彫る手間を省いた作りにも見える。

足元に 渦巻き彫りて 手抜きかな

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 吽形は鼻から口の辺りにかけて、動物というよりは人の顔に見えてくる。この顔に似た人も居そうで、いっそのこと関係者の顔を、狛犬に重ねて作るなんていう茶目っ気のある石工なんかが居たら面白かろうに、と余計なことを考えてしまう。

この貌の 人の居そうで 開拓社

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 狛犬から石段の坂が延びていて、片側に御影石製の灯篭が並んでいる。坂を登ると軟石製の「山乃神」碑があり、傍らに油沢開拓記念碑保存会によるこの地の開拓の歴史を紹介した黒御影石の碑も配置されている。別の黒御影石の碑があり、この碑の由来についての碑文が記されている。この碑と並んで「御大禮記念」碑があり、これは大正天皇の即位を記念した碑である。

灯篭の 並ぶ坂下 社口(やしろぐち)

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2010年12月18日

奇妙だと思いませんか

 下の2枚の写真は市電の通りに面した西8丁目にある三吉神社に置かれている金属製の一対の狛犬である。この二体の阿吽の狛犬を比べて、どこか変だと思いませんか。ブログ子、その奇妙なところを見つけてしまった。ブログ子にとって、これは都市秘境の大発見である(ちょっと大袈裟だけれど)。さて、あなたはその奇妙なところがわかりますか。

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湯の里を見下ろす小金湯天満宮

 国道230号で小金湯地区に入ると、小金湯から小金湯温泉へ下って行く道の分岐点がある。ここから少し国道に沿って西に行ったところに、国道の北側の空き地に神社が見えてくる。近くに小金湯会館がある。
 1890(明治23)年、この地に熊本県から開拓者が入植し、1924(大正13)年に郷里の太宰府天満宮の分霊を祀ったのが神社の創祀になっている。訪れた時は雪のちらついた日で、雪景色の中に鳥居と社が黒ずんだ姿を晒していた。社の裏側は小高い丘になっていて、碑が一つ置かれている。碑に彫られている字を判読しようと思うのだが、書道に疎く、崩した文字の「南」しか読めない。

小金湯の 金色もなく 天満宮

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見下ろせば 湯の里ありて 雪降り日

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 この丘の下の方に小金湯の温泉施設の建屋が見える。実のところ、この施設でこの天満宮の所在を尋ねたのだが、従業員が集まっても誰もこの神社の場所を知らなかった。わずかばかりの民家がある場所では、神社の存在は大きいのではなかろうかと思われるのだが、忘れ去られているようである。温泉施設の前には黄金龍神社という、観光用に造られたような神社があり、こちらの方を紹介されるばかりである。湯の里には、愛称ピリカコタンノ札幌市アイヌ文化センターもあり、小金湯天満宮の碑のある丘から俯瞰できる。
 境内には3面の明王の像があり、頭部に馬の頭があり、馬車の車と思われるものを手にしているので、馬魂碑の意味を込めて建立されたのだろう。訪れる人も居ない境内にぽつんと置かれてある。

明王に 馬の貌あり 馬魂の碑

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2010年12月17日

テレビ父さん、母さんが稲荷役のテレビ父さん神社

 神社庁に登録されているとは思えないけれど、2010年に札幌テレビ塔に新しく神社が創建された。テレビ父さん神社である。名前から、ご神体はテレビ塔の「ゆるキャラ」のテレビ父さんかと思うけれど、テレビ父さんの方は狛犬役で神社の前に居るので、ご神体にはならないか。稲荷社では、狐の姿に変身する稲荷を祀っていて、稲荷像の狐が、同時に神社を護るように置かれている。この稲荷社において、稲荷をテレビ父さんに置き換えると、テレビ塔の神社になる。
 神社はテレビ塔の展望台にあるので、大人700円の入場料を支払わねば神社まで辿りつかない。見るために料金が必要な神社は、北海道開拓の村の旧信濃神社とこの神社の二つである。札幌市内で一番高いところにある神社の売り文句が書かれていたけれど、札幌市内、いや全道でも一番高い所にある神社は、手稲神社の奥の宮で、こちらは手稲山の頂上にあるから、テレビ塔の売り文句は正確ではない。
 そもそもテレビ塔の出自は電波塔で、放送電波がより遠くに届くようにと建設された。それが、手稲山のアンテナ群にその役目を奪われて、観光だけの塔になってしまった。その観光用の神社の売りの文句、札幌で一番高い所に有る神社の売りも、手稲山に又々奪われてしまうのか。歴史は繰り返すのである。

ゆるキャラの 夫婦が護り テレビ塔

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 展望台内に小さな鳥居があって、ご神体に「テレビ父さん神社」のお札がみえる。テレビ父さんを狛犬役に見立てると、対になる狛犬役が必要となる。このため、「ゆるキャラ」としてテレビ母さんが新たに加わっている。父さんは口を開けているので、阿形とすると、テレビ母さんは吽形になるから、口を閉じていなければならない。しかし、こちらも口を開けている。やはり、テレビ父さん、母さんは狛犬より稲荷像と見た方がよいようである。

稲荷像 テレビ父さん 控えたり

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 入場料は神社の参拝のためではなく、展望台からの大通公園を眺めるためのものである。ちょうど第30回目になる師走恒例のサッポロホワイトイルミネーションが行われていて、電飾で飾られた大通を見下ろして、札幌の冬の風物詩を写真に撮って、入場料の元を取る努力をした。

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2010年12月16日

ラベンダーも祭神に加わる札幌南沢神社

 硬石山の北側を南の沢川が流れていて、その上流が南の沢、下流が川沿地区となる。南の沢川に沿って中ノ沢南沢通が延びていて、川沿地区で国道230号と合流する。南の沢は山鼻村八垂別(はったりべつ)と呼ばれた屯田兵への給与地であった。山鼻村と円山村が合併して藻岩村八垂別、円山町八垂別と名前を変え、昭和16年円山町と札幌市の合併で南沢、川沿と名前を変更している。
 神社の境内は中ノ沢南沢通が直角に折れる近くの、道路沿いにある。境内の由緒書きを読むと、1897(明治30)年札幌三吉神社の分霊を受け創祀、1913(大正2)年、現在の境内の場所に移っている。現在の社殿は1975(昭和50)年に造営されたものである。祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神、藤原三吉神、天満宮である。
 社殿は小高い場所に建っていて、社殿の他には狛犬や手水舎が見当たらないすっきりしたものである。ただ、境内の道路に面した斜面に神社とは関係のない、「ラベンダー発祥の地」碑がある。南フランスからラベンダーの種子を持ち込んで、栽培の適地としてこの南沢を選んで、1940(昭和15)年に栽培を開始した歴史を記念している。

住宅地 境内すっきり 南沢

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 このラベンダー栽培の歴史を生かして、南の沢ではラベンダーによる地区興しのプロジェクトを推進させている。その一環で、神社の境内にもラベンダーの木が植えられている。まるでラベンダーが祭神の一員に加わったみたいである。南の沢にある東海大学札幌キャンパスでも、ラベンダーキャンパスと銘打って、構内にラベンダー畑を整備して、花の季節には市民に開放している。

境内で 神の一員 ラベンダー

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2010年12月15日

道路脇の住宅然とした大天満神社

 東区の環状通と並行して丘珠空港通が延びている。この道路が東苗穂から東雁来に入るところに、道路沿いに神社がある。周囲の住宅に鳥居がついたような感じである。大天満神社とはなっているけれど、ごく小さな神社である。神社の説明もないので、祭神はわからない。天満神社となっているので、天満宮の流れで菅原道真を祀ってあるか、それとも天津神(あまつかみ)が祭神なのだろう。

大の字が 小さき社殿に 架かりおり

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 千木は内削ぎで、地面に水平に削られ、玄関部分の屋根の鰹木は2本で、これだけなら祭神は女性である。女性とすれば菅原道真ということはなく、女性の神だろうともいわれている天津神が祭神の神社かな、と思われる。しかし屋根の上の鰹木は5本に見えて、こうなると男神で、菅原道真でもよいようにも思えてくる。
 神様の性別はおくとして、住宅然とした神社の前を自動車がひっきりなしに通過していた。

内削ぎの 千木の推測 女神なり

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2010年12月14日

小高い丘が境内の藤野神社

 地図にはこの神社の場所が記されていない。ただ、藤が丘高台公園に接してあるとのことで、国道230号で藤野に入ってから、国道から逸れて公園の近くに駐車する。あいにくの雪空で、鉛色の空から、雪が小雨に変わって降ってくる。公園の入口から雪で埋まった階段を登り、公園の横から遊歩道に出て神社の鳥居に到達である。
 社殿はなく、天照皇大御神が彫り込まれた碑があり、これがご神体となる。1910(明治43)年、この祭神を祀ったのが神社の始まりである。ご神体と並んで石碑があり、こちらには「我樹木を愛す 自然は宝なり 佐藤義男翁」の文字が碑面に刻まれている。

社殿無く ご神体見え 雪の丘

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ご神体 雪を被りて 藤野の地

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 境内や藤が丘高台公園は小高いところにあり、藤野の街が見下ろせる。山の斜面を利用してリュージュの練習コースが設けられている、札幌市藤野野外スポーツ交流施設のある豊栄山(562 m)が雪空の下に突き出しているのが見える。豊平山、豊見山と合わせて藤野山豊山と呼ばれる山である。

雪煙り なびく頂上 豊栄山

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湯の里の社殿の無い定山渓農地神社

 国道230号で定山渓の温泉街を通過し、中山峠方向に向かうと、豊平峡温泉にゆく分岐路が現れる。この分岐路を少し行くと定鉄バスの豊橋停留所があり、近くに札幌市定山渓7区会館の建物がある。会館の前は「やまびこ公園」となっていて、公園に接した林一帯が定山渓農地神社の境内である。

社殿なく 鳥居に架かる 陽の祭神

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 この神社の創祀は1911(明治44)年で、天照皇大神、大国主神、倉稲魂神、猿田彦神、大山祇神が祀られた。その後1917(大正6)年に現在地に移転している。社殿はなく、松の木に囲まれて御影石の五角柱が置かれていて、これがご神体となる。この五角柱は5祭神に合わせて作られたのか、それとも五角柱の拘りが最初にあって、それに合わせて祭神を決めたのか、そこら辺のところは不明である。

祭神名 ご神体なり 五角柱

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 鳥居の横に馬頭観世音碑があり、これは1924(大正13)年に建立されている。この碑とならんで「露天風呂」の看板があって、いかにも湯の里豊平峡温泉の神社である。この神社の横の道をさらに奥に行くと、豊平峡ダムにつながる道となる。

湯の里の 社の前に 風呂看板

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2010年12月13日

祠と神社の中間規模の北ノ沢神社

 西区福井から中央区盤渓を抜け、南区北の沢に出る西野真駒内清田線(道道82号)がある。道路の途中小林峠があり、この近くの藻岩山の裾に北の沢川の水源がある。この川に沿って、道路を下っていくと、道路脇に見落としそうな小さな北ノ沢神社がある。
 境内は鉄製の鳥居から小さな社殿までの参道だけという体裁である。祠というには大きくて、神社というには小さい中途半端な社である。創祀は(明治40)年に遡り、山形の八幡神社からの分霊を祀っていて、祭神は八幡大神であるとのことである。しかし、祭神の名前を確かめるものはどこにも見当たらない。

境内は 参道のみで 北の沢

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神様は 施錠扉で 内こもり

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五天山神社跡に取り残された狛犬

 西区の福井と平和の両地区に挟まれるように五天山がある。標高303 mの低山である。五天山はかつて採石が行われていて、採石後の無残な山肌を晒していた。この山肌に緑を取り戻そうと、札幌市西区唯一の総合公園造成計画のもとで採石跡に植林が行われ、芝生や水場が造られ、2009年には福井側に五天山公園が全面開園している。
 これと対象的に、平和側の山の半分は私有地で、山の入口のところに関係者以外立入禁止の看板が出ている。狛犬調査の関係者だと屁理屈をつけて、山道に入っていく。途中「五天山登山口」の石柱があり、かつては良く利用された登山道があったようである。この登山口から少し登ると、神社の境内が現れる。木の柱に「五天山神社」の社名がはっきり書かれている。木の鳥居があっても、社殿の方は板張りで塞がれていて、神社としては廃社ということらしい。

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 この神社の創祀は1936(昭和11)年で、大国主命のお告げがあったという話から、神社建立までに事は発展している。五天山とはインドの山からの命名という説を読んだけれど、はっきりしたことはわからない。神社は山の中腹にあって、地蔵も並んでいて、寺の境内の雰囲気でもある。神社の奥の院ということで山頂に祠があり、こちらに狛犬がいる。
 以前、夏にこの山頂の狛犬を見に行ったことがあり、山頂に至る道は歩いて支障を来すものではなかった。しかし、師走に入った今回は、この登山道はあちらこちら倒木で塞がれ、登山道も落ち葉で隠れ、荒山という感じである。家も道も、人手が加わらなければ荒れるものである。頂上に着くと、ビニールシートで覆われた祠の両脇に狛犬がいる。
 狛犬は小ぶりではあるけれど、気性の荒らそうな貌付きをしている。特に阿形のほうは、歯をむき出して今にもとびかかってきそうである。山頂に捨てられたせいで、野犬になってしまったようである。祠のビニールのシートが除かれことはないようで、以前訪れた時と同じ状態である。

山頂に 取り残されて 野犬なり

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狛犬は 見えぬ祠を 護りおり

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 せっかくここまで来たので、シートの隙間から中を覗くと、軟石造りの祠である。ご神体のようなものは無く、祠の中はがらんどうである。神社のマークなのだろう、天の文字を五つの勾玉が囲んだデザインである。このマークは他に見たことはなく、この祠にしか残っていないとすれば、神社が無くなると自動的に消えてしまう運命である。なかなか凝ったデザインのマークなので、どこかに残せると、歴史の引っかき傷ぐらいにはなるだろう。

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2010年12月12日

公園の一画に居候する菊水神社

 一条大橋で豊平川を東側に渡るとそこは菊水地区である。一条大橋につながる道路は札幌夕張線の一部で、地下には地下鉄東西線が走っている。地下鉄菊水駅の近くで札幌夕張線と直行して、国道36号と南郷通の間を結んで大きな通りがある。これがかつて大門通と呼ばれた通りである。名前のとおり、通りの端には大きな大門があり、通りに沿って白石遊郭と呼ばれていた札幌の遊郭が形成されていた。
 神社の建物は、かつての大門通に面して菊水公園の一画に居候のようにしてある。この神社は当初白石稲荷神社であり、1920(大正9)年に現在のすすきのから遊郭がこの地に移された時、街の氏神として翌年の1921年に移されている。1970(昭和45)年には、稲荷神社から菊水神社に変更し、祭神も北海道神宮から伊勢の外宮の神を受けて祀っている。祭神は宇賀之霊之神、太田之神、御子之神、広瀬之命、大宮売之命とあまり耳にしたことのない神々である。

高床の 遊具の家か 公園内

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 神社としては高床の社殿だけがあり、社殿の周囲には灯篭や狛犬の姿はない。公園の遊具と一緒では、遊具の一つとして造られた神社風の家かとも思えるほどである。注意してみると、社殿の鴨居の両端の部分に、口を開けた動物の彫り物が付いている。狛犬のようにも見えるけれど、阿吽の形になっていないので、これは獅子のようである。巻き毛と渦巻き雲を重ねてデザインしているように見える。その見方で鴨居の中央部分の立ち昇るデザインの瑞雲を見ると、二匹の狛犬あるいは獅子が向かい合わせになったように見えてくる。

見つけたり 鴨居隠れた 獅子の貌

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瑞雲に 乗りたる如き 獅子の居て

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 菊水公園の入口のところに白石歴しるべの看板が立っていて、札幌遊郭(通称白石遊郭)跡の説明が出ている。1948(昭和23)年に米軍が撮影した大門通の航空写真も表示されている。東門から西門までの大門通の両側に、軒を並べた遊女館名が記されている。航空写真から想像される当時の賑わいは大したものであったろう。
 現在この通には大病院や企業のオフィスが並び、大きな通りに当時の面影を残している建物や史跡は無い。

種畜場の記憶が残る真駒内神社

 真駒内通と中の島通が合流するところから、この国道453号を少し南に行ったところに真駒内第一公園がある。この公園に入るところに鳥居があり、さらに公園内に鳥居と社殿がある。境内と公園が別区画であるのではなく、社殿と鳥居が公園内に居候している。
 神社の方は馬魂を祀ったのが創祀で、1899(明治32)年頃に遡る。真駒内の地はエドウィン・ダンが北海道の酪農業事始めを行っていて、種畜場があった。1934(昭和9)年にこの種畜場が伊勢神宮から天照大神の分神を受け、真駒内神社が建立されている。1945(昭和20)年、進駐した米軍により社殿の撤去命令が出されてところ、氏子代表がスイング司令官に存続要請を行い、食物を司る稲倉魂神(うがのみたまのかみ)を祀ることで、存続が許可されている。1979(昭和54)年には京都天満宮から菅原道真の分霊を受け合祀している。

地域史の 神社に残り 真駒内

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 神社は市の公園の中にあり、政教分離の建前上公園の一部を神社の境内にするわけにもゆかないのは、菊水公園内にある菊水神社と事情は同じである。しかし、ここには歴史的な碑、例えば、1881(明治14)年の明治天皇の行幸を記念した碑などが建っていて、真駒内地区の歴史を垣間見ることのできる場所でもある。公園の一画には「真駒内種畜場之跡」と銘のある台座があり、その上に仔羊と遊ぶ少年のブロンズ像が置かれている。彫刻の制作者は、札幌ゆかりの彫刻家佐藤忠良である。

明治天皇行幸記念碑

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跳ね遊ぶ 像の記憶は 種畜場

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2010年12月11日

円山登山道の稲荷社

 円山の西側の裾野を円山川が北に向かって流れている。この川に沿って木道が設置されていて、良い散歩道になっている。川が円山の北の端で東側に向きを変えるところに大師堂がある。この大師堂が登山口となる円山登山道があり、八十八か所霊場を真似て、1番から88番までの地蔵が登山道に沿って置かれている。地蔵の数は、実際は88個以上ある。地蔵に交じって、如来や明王の像もある。兵隊の石造さえあり、平成と時代が変わっても、昭和の時代の軍服姿で立ち続けている。

登山道 軍服姿 歩哨かな

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 この登山道の登り口から少し登ったところに稲荷社がある。社名は不明である。赤い鳥居と祠があって、鳥居の横に稲荷像が置かれている。稲荷像にはエプロンをつけているけれど、どうしてエプロンなのか不明である。狐を可愛く見せるためかと思うけれど、この二匹の狐は恐ろしげな貌をしている。

歩む背に 稲荷の気配 登山道

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 一匹は口を閉じ、目は開けている。上目使いのような目つきで、これではいくらエプロンで愛らしく見せようとしても無理である。狛犬の陽に対して稲荷狐は陰で、取材の気分を高める対象ではない。もう一匹の狐は、口に巻物のようなものを加えて、目を閉じている。これから何かに化けようとしている仕草のようにも見えてくる。狛犬の阿吽の形は、稲荷狐では目の開閉に対応させているのかと思ってみるけれど、これはこの稲荷社の狐だけのものだけだろう。

エプロンは 強面(こわもて)隠す 術(すべ)ならず

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目を閉じて 何に化けるか 鳥居横

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 稲荷社の横に山神の文字の彫られた屋根のある石柱が置かれている。かつて円山は石材を取り出す場所であったことがあり、石工達が身の安全を祈願するため、山神を祀った石碑が山頂に置かれていたことがあった。円山の石材採取は取り止められ、この山神碑は埋もれてしまっていたのが、1941(昭和16)年に掘り出された。この山神碑は基礎工事が行われ、円山の山頂に置かれている。稲荷社の横にある山神の石柱は、円山の石切り時代と関係があるのか、さらに、山頂にある山神碑と関係があるのか無いのか、まったくわからない。
 高さ225 mの円山は市民の人気の山で、四季を通して登山者がいる。山頂からは大都会札幌を足元に臨むことができ、人気の理由の一つである。


消えた銀行の構内神社が残る円山西町神社

 円山動物園の縁を藻岩山麓通が通っている。この通りが南から北へ流れる円山川を横切る辺りで、この通から別の道路が分岐し、円山川に沿って延びている。この分岐した坂の道路を南方向に登って行くと、道路に面して鳥居があり、社殿の見えない境内がある。
 境内に神社の由緒書きがあり、読んでみると、神社は1895(明治28)年この地に入植した人が滝の沢部落に大山祇神(おおやまつみのかみ)を祀ったのが始まりである。この神様は山を司る神様である。1923(大正12)年には現在地に神社を移設しており、滝ノ沢神社となっている。1951(昭和26)年に、札幌神社から旧拓殖銀行本店の屋上にあったといわれる同行の守護神社の社殿を譲り受け社殿とした。この社殿が塩ビ板とステンレス屋根の小屋の内に収まっている。社殿と一緒に札幌神社の祭神も合わせて祀るようになり、祭神は前述の大山祇神に加えて、大国魂神、大穴牟遅神、少彦名神である。1973(昭和48)年、町名変更により現在の神社名になっている。社名が書かれていたと思われる境内の木柱の文字は消えている。
 境内には祭神の大山祇神碑、馬頭大神、神社建立に貢献した上田氏の顕彰碑があるくらいで、狛犬は見当たらない。円山西町を囲むようにしてある原始林が境内に迫っていて、紅葉の季節の境内は、樹上も地面も紅黄葉で覆われる景観を呈している。

社名柱 文字の薄れて 紅葉映え

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2010年12月10日

藻岩発電所敷地内の無名社

 大都会の市街地に接して水力発電所があるのは珍しい。国道230号で中央区から南区に入るとすぐに、道路の横に北海道電力(北電)の藻岩発電所の施設が見える。発電のための大きな導水管が3本、藻岩山の山腹に這うように敷設されている。豊平川の上流にある藻岩ダムから用水を地下のパイプを通して流し、この水を用いて最大出力12600kwの発電を行っている。
 発電所の周囲は整備され、ふれあい広場と名のついた小さな公園のようになっている。ここに神社があるけれど、この神社には神社名がない。地域の氏子が支えている神社にも見えず、設置場所からして北電の構内神社のようである。社名が無いのは、神社を廃止したためかと思うけれど、周囲の手入れは行き届いている。政教分離が公共的企業にも影を落としているせいで、公共企業の北電が神社名をはずしているのかな、とも考えてみる。

広場には 神社もありて 発電所

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導水管 背負いて社(やしろ) 無名なり

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 発電に用いられた水の一部は、発電所の前を流れる山鼻川に放水される。この川と河川敷は、親水ゾーンとして整備されている。山鼻川は北に流れて豊平川に注いでいる。

国道横に残された小社女夫龍神

 国道230号沿いで南署の近くを通ると、国道の西側に地蔵が並び、社殿というよりは祠の表現が合う建物と周囲にわずかばかりの空間のある一画がある。建物の上には額が架かっていて「女夫龍神」の文字が読み取れる。名前の由来は、病気の夫の快癒を祈った妻の願いがかなった、という言い伝えのある社との説明を読んだ。そのことが「女夫」の文字につながるのだろうが、この文字を当てはめたところは意味不明のところもある。龍神とあるからには龍神を祀った社であろう。
 豊平川が藻岩山の裾から平野部に流れを変えていくところの、豊平川と藻岩山の間は山鼻地区となる。1876(明治9)年に、屯田兵制度によりこの地区に山鼻兵村が開かれている。社のある辺りは、山鼻地区への入植者の墓地のあったところである。しかし、札幌の発展に従って、墓所は1965(昭和40)年に平岸霊園に移されている。その時の区画整理で、墓地にあった小祠や地蔵が集められてここに置かれているようである。国道を見るように地蔵がおかれていて、供え物がある。信心深い住民が居るのだろう。
 以前、この祠と並んで「油かけ大黒天」の社もあったのだが、改めで出向いてみるとこの社は無くなっている。社跡は、何かの新築工事が行われていた。国道に面していれば、小さな社などどんどん撤去される運命が待っているようである。女夫龍神もその運命の線上にあるのかもしれない。

国道の 横に残され 社(やしろ)かな

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見上げれば 女夫龍神の 社名有り

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 南署の横には「山鼻屯田兵の像」のブロンズ像が立っている。制作者は彫刻家の山内壮夫である。軍服に身をかためて、鍬を手にした屯田兵が、ひっきりなしに国道を行き来する車を見つめている。農業従事者の高齢化、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)で自由貿易が行われると北海道の農業は壊滅的打撃をうけるとかの議論の喧しい現代、国際化戦争に対処した新しい屯田兵制度で、農業に志願する平成の屯田兵を募る時代に入っているのかもしれない。

鍬を手に 軍服姿 屯田兵

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2010年12月09日

小型の狛犬が護る上山鼻神社

 国道230号で藻岩山の縁を走ると、山側に小さな神社があるのが認められる。上山鼻神社である。藻岩山が、急に平地に落ちるようなこの辺りの地形は、軍艦の舳先に似ていることから、かつて軍艦岬と呼ばれていたが、住宅街が広がり、高い建物も建つようになり、軍艦の舳先を確認するのは困難になっている。
 上山鼻神社は創祀が異なるものの集合体のようである。創祀に関連した石碑が三つ、鳥居近くに集合して置かれている。馬霊奇神社碑、馬頭観音碑、猿田彦大神碑である。一番大きな石碑の馬霊奇神社は1891(明治24)年、当時は労働の中心に居て、家族同様な扱いを受けていた馬匹(ばひつ)の無事を願う神社であった。一番小さな石碑の馬頭観音は馬匹を祀っている。
 猿田彦大神は渡道した開拓民が「猿田彦大神」の掛け軸を持参して、これを参拝する人が居たため、石碑を建立して祀った由来がある。1910(明治43)年に神社の改築が行われ、(昭和17)年には植安姫命を合祀し、(昭和24)年に藻岩下公園に接した少し小高いところに社殿を移している。

碑(いしぶみ)の 寄り合い所帯 軟石製

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 並んだ石碑は軟石を用いており、近くにある社名の標柱と鳥居もまた軟石製である。境内はさながら神社の建材の展示場の観がある。石段が藻岩に向かって上の方に続いているけれど、これも又軟石を並べている。石段を登ると小さな社殿があり、狛犬が社殿前方に控えている。
 並んだ石碑は軟石を用いており、近くにある社名の標柱と鳥居もまた軟石製である。境内はさながら神社の建材の展示場の観がある。石段が藻岩に向かって上の方に続いているけれど、これも又軟石を並べている。石段を登ると小さな社殿があり、狛犬が社殿前方に控えている。

軟石の 神社建材 展示場

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 並んだ石碑は軟石を用いており、近くにある社名の標柱と鳥居もまた軟石製である。境内はさながら神社の建材の展示場の観がある。石段が藻岩に向かって上の方に続いているけれど、これも又軟石を並べている。石段を登ると小さな社殿があり、狛犬が社殿前方に控えている。
 狛犬は新しいもののようで、こちらは軟石製ではない。山の裾の斜面に境内を確保したため、境内のスペースを確保できず、狛犬は小ぶりのものが選ばれたようである。古い軟石の台の上に置かれていて、この軟石の台の上に狛犬が居たのかどうかわからないけれど、台が大きい分狛犬が小さく見える。小さいながらも、身体の半分はあろうかと思われる頭部の狛犬の貌はいかめしい。

小柄でも この睨み貌 様になり

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 境内の下には山鼻川が流れていて、少し上流に北海道電力の藻岩発電所があり、川と河川敷は整備され、親水ゾーンになっている。この川に架かり境内と国道を結ぶ山鼻川一号橋の欄干には蝶がデザインされている。国蝶のオオムラサキである。この辺りにあるエノキがこの蝶の卵のふ化に適していて、蝶が橋の欄干に飛んでいる。蝶好きには見逃せないスポットであろう。

国蝶が 山鼻川の 橋に飛び

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稲荷像の無い札幌伏見稲荷神社

 稲荷神社では札幌で一番よく知られている。境内は伏見地区の藻岩山麓通に面してある。この稲荷社の売りは、参道に並ぶ赤い鳥居で、鳥居の下を通りながらその数を数えたことがあった。全部で26基あった。
 創祀は1884(明治17)年である。官幣大社であった札幌神社(現北海道神宮)から、やはり官幣大社の京都伏見の稲荷神社(現伏見稲荷大社)に札幌分祀の願いが出され、その結果分神が祀られたことが神社の始まりである。最初は、札幌区南5条東1丁目、1898(明治31)年には琴似村十二軒、さらに1907(明治40)年に現在地に移されている。祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、大山祇命(おおやまつみのみこと)、大国主命、事代主命(ことしろぬしのみこと)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)である。札幌の伏見地区の名前は、この神社に由来して、京都伏見の地名を受け継いでいる。
 稲荷神社なので稲荷像があるかと、鳥居の重なる長い坂道の参道を登って社殿に着いて周囲を見ても、狐の像はない。もちろん狛犬も居ない。これは拍子抜けである。この神社は鳥居一筋のようである。緑の濃い時期でも、枯葉と雪の季節でも、周囲のその時々の風景景の中で鳥居は風景の引き立て役である。社殿の横に末社があり、荒魂社の社名の額が掛っているけれど、何を祀る神社かはわからない。
 毎月の初日には社務所で骨董品の市が立つ。並べられた古い品々を前に雑談や商談の話が続いてゆく。

稲荷社は 狐見えずに 人の居て

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燃える赤 静めて緑 伏見の地

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稲荷社の 赤鳥居映え 雪景色

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2010年12月08日

種々の狛犬がいる湯の里の定山渓神社-続き

 社殿は神明造りの立派なものである。正面の部分は障子のデザインで、拝殿部分の天井も格子状になっていて、北海道の神社ではあまり目にしないデザインのように思える。大屋根で、降雪期にはどのくらいの雪が屋根に貯まるものかと、自宅の三角屋根を引き合いに出して考えてしまう。屋根の積雪の重みを考えると、かなりの荷重に耐える構造に設計されていなければならないだろう。屋根の上に見える千木が傾いているのが気になる。

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 社殿の横に末社があり、鳥居と小さな社殿がある。祭神は「山の神」であること以上のことはわからない。ここにも一対の狛犬が控えている。これら一対の狛犬の、他の狛犬と比べての特徴として、鼻の表現がある。鼻の穴が彫られていない。鼻腔が無くて吽形の狛犬はうまく呼吸ができるのかな、と石工には想定外であろう疑問である。奉納年は昭和12(1937)年となっている。

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鼻腔なく 呼吸困難 懸念事

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牙の無き 大口威嚇 威力減

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 この小社の横に馬頭観世音の文字のある石柱と馬魂碑が並んで置かれている。それぞれ大正7(1918)年と大正11(1922)年に建立されている。馬が家族のように扱われた時代の証として残っている。

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種々の狛犬がいる湯の里の定山渓神社

 国道230号で定山渓温泉に入り、国道から見て山側の小高いところにこの神社の境内がある。温泉街に行くには、国道から豊平川の方向に向かって降りていくことになる。山裾にある境内は広く、1140坪(3770平方メートル)弱もある。国道に面して大きな鳥居があり、社名の標石も建っていて、ここから境内が始まっている。

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 創祀は1905(明治38)年、天照大神を祀ったこととされ、1918(大正7)年社殿を新築して、大己貴神(おおむなちのかみ)、少彦名神(すくなひこのかみ)、大山祇神(おおやまつみのかみ)、罔象女命(みつはのめのみこと)、金山彦神(かなやまひこのかみ)を合祀した。定山渓神社としては1934(昭和9)年の建立で、1950(昭和25)年美泉定山(びせんじょうざん)が合祀され、1953(昭和28)年に社殿が造られている。美泉定山は岡山の人で、1886(安政3)年に渡道して、1868(明治元)年定山渓の地で地元民の案内で温泉を発見した。1871(明治4)年には開拓使から湯守を命じられている。定山渓はこの美泉定山の名前から命名されている。
 鳥居をくぐり、坂になった参道を進むと最初の狛犬と対面である。阿形が左、吽形が右に配置され、いずれも上を向いていて、境内に入る人には注意を払っていないような感じである。阿形は口を開けて威嚇しているというより、大笑いでもしているかのように見える。

上を向き 呵々大笑の 大型犬

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 阿形も吽形も顎鬚は渦巻き毛で、首筋から背中にかけて羽根のような浮き彫りの模様がある。この模様は他の狛犬ではあまりお目にかからないもので、たてがみの一部を表しているようにもみえる。小鼻の付け根のところにも巻き毛があるけれど、これも貌の造形として珍しい。台座に刻まれた奉納年は昭和3(1928)年となっている。

小鼻にも 巻き毛を添えて 多毛犬

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 参道を登って行くと、次に現れる狛犬は、最初の出会った狛犬と比べると小ぶりである。彫りも簡素化されたもので、身体の表面の模様もない。鑿の跡が身体の表面に見えるほどである。身体の作りも大雑把で、その太い脚では駆けても人にも追い付けないのではなかろうか。この一対の狛犬は、向かって右が阿形、左が吽形で、最初のものと位置関係が逆になっている。奉納年は昭和9(1934)年になっている。

模様なき 身体(からだ)に走る 鑿の跡

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この脚で 駆けても人に 遅れとり

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2010年12月07日

神社もどきの本陣狸大明神社

 札幌で一番歴史のある商店街の狸小路に神社もどきがある。狸小路設立100周年を記念して、1973年設置されている。当初は4丁目にあったものが、5丁目のJRA場外馬券売り場横に移転し、現在に至っている。神社なら像にして置かれる動物は狛犬、場合によっては獅子、狐であるけれど、狸小路なので狸の像が置かれている。祭神は社名の本陣狸大明神ということになる。
 狸小路の名がついたのは、明治初期狸小路の場所で商いが行われた頃、実際に狸が出没したためという説、私娼等が現れ客を騙したから、という説などがある。商店街に狸の名前がつけば、商店街に置かれた神社も祭りも狸が冠せられたものになる。夏には「狸まつり」が行われ、祭りを盛り上げるため、アーケード街の通路の上に大きな狸のバルーンが上げられる。

飛ぶ狸 祭りの主役 夏商戦

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 狸神社もどきの方には狸の形をした「狸水かけ狸地蔵」が置かれていて、地蔵の背後に「狸地蔵八徳」の立て札がある。頭、目と鼻、肩と胸、腹、(狸の持つ)通帳、杖、金(玉)、尻尾に触れると、それぞれ御利益があると説明が書かれている。神社同様おみくじもあって、1回20円で引くことができる。近年は外国人観光客が多いせいか、英語、中国語(簡体字と繁体字)でおみくじの説明もある。おみくじ代が「請求」となって表示されているのを見ると、商店街の神社もどきの本領発揮である。

水掛けて 得る御利益の 狸像

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お参りの 人立ち寄りて 師走なり

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ハルニレの大木が御神木の中の島神社

 環状通が豊平川を跨ぐところに南19条大橋がある。この橋を、中央区から豊平区に向かって渡ってすぐに、中の島通との交差点のところに神社があるのが車の中からも良く見える。中の島神社である。境内の境目がはっきりしていなくて、街の中の狭い緑地に取り残されたように神社がある、といった趣である。
 創祀は1877(明治10)年頃で、現在もあるカエデの大木のところに祠を祀ったのが始まりである。この時の祭神は境内にある説明板にも書かれていて、大国主命-土地の幸せを護る神様、稲倉魂命(いなくらたまのみこと)-食物と商売繁盛の神様、水波能亮命(みずはのめのみこと)-水の神様である。1935(昭和10)年社殿を新しく造り、戦後に政教分離により道立水産孵化場の祭神弁天宮命(べんてんぐうのみこと)-水の神様を移し合祀している。
 社殿は簡素な造りで、それを補強して、ここが神社の境内であることを強調するかのように一対の狛犬が置かれている。吽形はもう終わりに近い黄葉を背に、すました貌に見える。犬というより猿の貌に近い印象である。貌の彫りには力が入っている割には、身体の部分は技巧が見られない。頭部につけたしの身体の感じである。

紅葉を 背にしてすます 猿似貌

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 阿形の方も立派な造りの貌に対して、身体の造形が貌に伴わない。左足で玉を抑えているのだが、脚の関節表現に手こずった感じである。大きく開いた口にある歯の一部が白くなっていて、欠けたものを補強したためか、何かの原因で軟石に白色が着いたようである。何か、虫歯の治療をしたように見えてくる。

阿形犬 治療の跡か 白歯見え

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 こちらは歯ではなく、葉をすっかり落としたハルニレの大木が二本境内にある。御神木であり、その説明板が設置されている。樹齢200年以上で、「地の神」が宿っていると伝えられ、触れると足腰の疲れ、肩こり等の健康回復、頭の切り替えにも良いと言われていた、という御神木の効能書きがあった。

ハルニレは 葉落ちの枝で 御神木

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 境内の東隣は中の島中学校で、小さな「中の島かわら公園」があり、傍を精進川が流れている。精進川に沿って“けもの道”のような小道が続いていて、北の方に歩いてゆくと中の島小学校の横に出る。精進川は自然の小川に回帰のための工事が行われた川で、児童の室外授業が行われているのに出会ったりすることがある。
 精進川は中の島小学校の横を流れ、桜並木の名所で知られる開発土木研究所の構内を横切ってから、豊平川に注いで終わる。

2010年12月06日

北海道神宮頓宮の狛犬の雌雄-続き

 境内の鳥居の近くに、平成6(1994)年奉納の現代的狛犬が参拝客を出迎えている。狛犬のデザインもここまで進化したかと思われる一対である。古い狛犬で行った雌雄の判別を、この新狛犬で行ってみようとすると、これが難しい。狛犬本体の付属物がないので、座り立ち姿勢の二頭の狛犬の違いは阿吽の口で、これから雌雄は決められない。口を開けているのは喋っている姿で、人間では寡黙な男性と饒舌な女性の類推で、阿形が雌、吽形が雄という説もありうるかもしれない。しかし、動物なら、口を開け吠えている方が雄というのも説得力がある。
 口の他に二匹の狛犬の特徴的な差はそのたてがみである。阿形は巻き毛で吽形は直毛に近い。さて、この差で雌雄の区別ができるのか。またまた人間を持ち出すと、地毛は直毛でも美容院でカールのかかった髪型にするのは女性なので、その例に倣えば、ここでも阿形が雌ということになるか。でも、動物の世界では外見の派手なものが雄と通り相場であるので、人間世界とは逆で、巻き毛のある方が雄ともいえそうである。

雄阿形 巻き毛の表す 獅子姿

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 もう一つ見落としてしまいそうなのが角の勇無である。現代では一対の狛犬は阿形でも吽形でも狛犬であるけれど、平安時代に遡ると、宮中や寺院に置かれたものは獅子と狛犬で、狛犬の頭部には角があった。そのうち口を開けた獅子と角があり口を閉じた狛犬が対で置かれるようになり、両方とも狛犬となり、阿吽の狛犬と称されるようになっている。阿吽の狛犬の置き方にも規則があって、神社の入口に向かって右側が阿形の狛犬(獅子)左が吽形の狛犬(角有り)となる。頓宮の古い狛犬の置かれ方はこの規則とは逆で、吽形の狛犬には角は無い。
 これに対して、モダンなデザインの狛犬は、意外にも大昔の規則に則っているのである。左側に置かれた吽形の狛犬には角がデザインされている。右側の阿形のものには角がなく、これは獅子なのである。したがって、一対の狛犬として雌雄を決めるのは、両方とも狛犬とする前提が崩れて意味がないのだけれど、それでも雌雄を決めたくなる。角のある吽形は雌である。女性には角があるという、人間の特性のからの類推である。

角ありて これは雌なり 吽形犬

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 札幌では、6月中旬の北海道神宮の例大祭を春から夏への季節の境目にしている。例大祭では神輿の渡御があり、北海道神宮の4祭神である大国魂神、大那牟遅神、少彦名神、明治天皇の神輿が行列を作って札幌の街を進む。神輿は昼には頓宮に到着してここで遥拝の儀式となる。この時には境内の狛犬も儀式に参加することになり、巫女の神楽の舞いを見つめる役を負っている。

頓宮は お休み処 神輿渡御

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北海道神宮頓宮の狛犬の雌雄

 再開発で流れを取り戻した創成川を南1条通で越えるところに、軟石造りの創成橋があり、それを渡りさらに東に行くと北海道神宮頓宮の境内に着く。東5丁目通に面して鳥居が立っていて、社名の石碑には「北海道神宮屯宮」の文字が見える。屯宮は頓宮のことであり、仮の宮、神社でいえば仮に設けた遥拝所の意味がある。

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 北海道神宮は元は札幌神社であり、その遥拝所として1878(明治11)年にこの頓宮が建立されている。境内には2対の狛犬が置かれている。社殿に近い方にある軟石造りの古い狛犬は、1890(明治23)年が奉納年であるので、この頃に頓宮の整備が進んだことを証している。この狛犬が北海道で最古の狛犬とされている。
 狛犬は、例の少ない構えの姿勢で、頭部を低くして腰を上げ、尻尾を立てている。狛犬は想像上の動物なので、その身体の作りに言及しても意味はないのだけれど、狛犬の尻尾は普通の動物の尻尾とは似ていない。構えの姿勢ではこの尻尾が頭部ほどの大きさで、それを立てると、相手を威嚇する道具のようになっている。狛犬の尻尾は威嚇の目的で進化したのか、などと考えを広げてみる。
 阿形の狛犬は玉を咥えて、子供の狛犬がまとわりついている。そうするとこれは雌の狛犬となるのだろう。咥えた玉を雄のシンボルとみなせば、雄をがっちりと咥えて、子供をあやしているのは、実在の動物でも人間でも雌の雄に対する立場を象徴的に表しているのかな、と思ってみるけれど、玉の例えは深読みかもしれない。なお、献台文字に刻まれた「奉献」の文字は浮かし彫りになっていて、これは手が込んでいる。石工の腕の見せ所はこんなところにも及んでいる。

雌なれば 仔あやす口 玉咥え

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 阿形が雌であれば、対する吽形は雄となる。こちらは牡丹の花のある枝を咥えている。百花の王の牡丹を咥えることで、狛犬が百獣の王であることを象徴させているのだろう。しかし、現代風の解釈では、人間の世界で男性が女性に花を贈って恋心を伝える仕草を狛犬にも投影させている、といった見方もできる。この類の勝手な解釈は、この境内にある新しい一対の狛犬に対しても行うことができる。

雄なれば 百獣王も 花贈り

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2010年12月05日

雑木林に囲まれて稲荷像のある球徳稲荷

 手稲区富岡で、手稲山の山裾を走る札樽自動車道の傍に富岡南公園がある。この公園の横を通り、札樽自動車道の下をくぐると、赤い鳥居が見える。球徳神社の鳥居である。この近くにかつて光風館という温泉旅館があり、手稲山の登山口があったところである。球徳稲荷社はその当時からあったのかどうか、稲荷社の由来の説明が掲示されておらず、インターネットを調べてみても判然としない。
 道路脇にある最初の鳥居をくぐって坂を登ってゆく。坂が折れるところに2番目の鳥居が現れ、鳥居の向こうに鞘堂が見える。お堂の横に「球徳稲荷大明神」の旗が立っているので、これがこの稲荷社の祭神なのであろう。球徳は何を意味し、何を司る神様なのか不明である。

正午の陽 稲荷横照(おうしゃ)の 初冬かな

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 石段の両脇に稲荷像が雑木林に囲まれようにして、滅多に来ないであろう参拝客を迎えている。一対の稲荷像は両方とも耳が割れたか、角なのか、判別のつかない突起が見られる。一方の稲荷像は口を閉じ、何も咥えていないのに対して、他方の稲荷は何か咥えているのはわかるのだが、口にあるものが何であるかは同定できない。稲荷像の台座部分に、奉納年が昭和33(1958)年と彫られているので、半世紀を経ていることになる。

咥え物 何かと見るも 不明なり

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 鳥居の下方に、葉を落とした立木の間から札樽自動車道が見え、ひっきりなしに自動車が行き来している。ここから自動車は見えても、逆に走っている自動車の中からはここに鳥居があるのは見えないだろう。高速道路が無かった時には静かだった稲荷社も、この交通量では、静かな場所とはいえなくなっている。

車行音 届く近さに 赤鳥居

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2010年12月04日

白川神社の青目の狛犬

 白川地区の大きな施設は、国立病院機構札幌南病院、札幌市の白川(しらいかわ)浄水場、札幌市北方自然教育園がある。このうち、札幌南病院は国立病院機構札幌西病院との統合で2010年3月閉鎖されているので、過去にあった大きな施設になってしまった。浄水場は豊平ダムを水源として、札幌市の水道水の約80%を供給する市の最大の浄水場である。地区名が「しらかわ」の発音なのに、浄水場は「しらいかわ」と発音している経緯はわからない。
 北方自然教育園は札幌市教育センター所管の、「市民の教育及び文化の向上に資するための野外教育施設」である。野外教育施設といっても、施設の中心的建物は立派なもので、初めて見ると野外教育施設の施設とは思えない。この建物の横から北の砥石山方向に道が延びていて、その先に白川神社がある。

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 神社は、1919(大正8)年この地への入植者が祭神を稲荷神として創建している。1986(昭和61)年現在の社殿に改築されている。鳥居から石段が続き、これを登ると一対の狛犬が護る社殿が現れる。狛犬は頭でっかちの、造形の腕は落ちるものである。見習い石工が一生懸命に製作したといった感じがする。

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習作か 身体(からだ)虚弱の 貌命

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 吽形の狛犬は大作りの貌に黒々とした丸い瞳孔に、周囲に青みがかった彩色が残って印象的である。青い目の外国人を狛犬にしたようで、これは渡来の狛犬とでもなろうか。それにしても、目をはっきり描き入れると愛嬌があって、狛犬は番犬よりは愛玩犬の印象に近づく。

見開く目 渡来の犬か 青目なり

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 鳥居の横に石碑が並んでいて、その一つに1908(明治41)年に建立された碑文のものがある。碑文にはこの地の開拓に功のあった小村亀十郎を讃えるもので、碑文の最後には、碑文をしたためた札幌神社宮司額賀大道による次の短歌が記されていて、「美那もとの きよさを見ればしら川は 千代も濁らぬ 名にこそありけれ」とある。

札幌農学校第4農場開墾記念碑のある花岡神社

 創祀は1882(明治15)年で、八幡神社として建立された。当時、この地で通行屋を経営していた黒岩清五郎が郷里の福岡県からの分霊を祀ったのが神社の始まりだろうといわれている。祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)、応神天皇、大山祇神(おおやまつみのかみ)である。現在の社殿は、1968(昭和43)年に改築されたものである。
 狛犬の目は一般的には円(球)であるのに対して、ここの狛犬の目の経常は楕円形である。吽形の方は鼻がつぶれていて、貌の感じが平面的で、動物の貌というより人間の顔に似て見えてくる。吽形では閉じた口から牙が出ているのに対して、阿形では牙と歯の区別が見られない。尖った牙の先が折れてしまったのかもしれない。

緑失せ 赤さが目立ち 花岡社

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犬よりは 人面に見え 平ら貌

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 境内には各種の石碑があり、その一つに「嘉禾是豊 成墾紀念碑」の文字が見える。ここで嘉禾(かか)は縁起の良い植物で、それが豊かに実るまで開墾が進んだ、といった意味だろう。境内の近くを簾舞川が流れていて、川の西側は札幌農学校の第4農場となっていて、その開墾記念碑であり、1909(明治42)年に建立されている。「山の神」と刻字された石も置かれていて、こちらは空沢の山中で見つかったものが、境内の運び込まれたものである。

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2010年12月03日

北海道開拓の村の旧信濃神社の狛犬

 北海道開拓の村は、明治から昭和にかけての北海道の各地の建造物を移築したり復元したりして、野外展示しているテーマパークである。ここには旧信濃神社と境内が移築復元されていて、一対の狛犬を見ることができる。
 狛犬を見るために出向いたのは師走に入った初日の午前中で、入場料680円を支払って、旧札幌停車場の入口から入場である。今回は、狛犬を見るためにお金を支払ったの唯一の例となる。広い野外博物館には昔の建物が見世物然として生活の匂いを消して並んでいる。入館者は著者の他に見当たらず、人通りのない園内の道を旧信濃神社のある農村群のエレアに向かって直進である。
 旧信濃神社は現在信濃神社がある厚別区4条3丁目から移築している。社殿は1897(明治30)年に建てられたもので、2本の柱を一間の間隔をおいて並べて社殿の正面を構成している「一間社流れ造り」である。鳥居と社殿の復元された参道の両脇に狛犬が置かれている。
 阿吽の狛犬のいずれも貌の造形がすばらしい。細部にはあまりこだわらず、目、鼻、口歯を強調して表現している。目は大きなギョロ目で、印象的である。鼻も貌の中心で存在感があり、鼻の穴も大きい。牙と歯は脅しをかけているというより、立派なものだから見てほしい、といった感じである。顎鬚は太い彫り込みで表現した長いもので、目の上の巻き毛も目立ち、吽形の狛犬は動物の貌というより、仙人の顔を彷彿とさせる。
 首筋、脇の付け根、くるぶし、尻の部分に飾りのように彫り込まれた、火炎条の巻き毛が目立ち、のっぺらとした身体のアクセントとして生きている。芸術的センスのある石工の作品であるけれど、石工の名前は刻まれていない。

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大口に 大目大鼻 大作り

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仙人の 顔にも見えて 長き鬚

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由緒ある篠路神社の大口狛犬

 JR学園都市線の篠路駅は木造の古い駅舎で、札沼線の名前の方が通りのよかった時代を思い起こさせる。駅舎は線路の西側にあり、駅前には札幌軟石の倉庫群があり、現役で利用されている。この倉庫群に接するように神社の境内があり、花畔札幌線の道路に面して鳥居が建っている。
 この神社の由来は、1885(安政2)年の若宮八満の創祀まで遡る。1887(安政4)年には篠路八幡社の社殿の造営が成り、1877(明治10)年には本殿が建立されている。1956(昭和31)年百年祭を行い、社殿改修や社務所改築を行っている。祭神は天照大御神、品陀別大神(ほんだわけのおおかみ)、保食神(うけもちのかみ)、菅原道真公、大物主神(おおものぬしのかみ)、崇徳天皇(すとくてんのう)、天香山命(あめのかぐやまのみこと)と並ぶ。
 社歴は古くとも、大社というほどでもなく、鳥居、手水場、灯篭、狛犬を配置して社殿がある、典型的神社の構成である。狛犬は1927(昭和2)年の奉納年が刻まれていて、年季物である。石工の名前もあり、札幌市・北八東一、小林孫一となっている。
 阿形の狛犬は石の塊に大きな空洞ができたような大口を開けている。最初牙や歯が彫られていたものが、欠けて無くなり、その分空洞のようになったのではないかと思われる。それにしても大きな口である。
 阿形犬の後ろに大きなシダレヤナギの木がある。札幌市の保存樹で、説明の看板を読むと、樹齢は120年以上、樹高15 m、幹周3 m、篠路神社の前身の棒杭神社がつくられた1885年の時からこの地にあったと伝えられている古木である。初冬を迎えても、緑の葉が垂れた枝に見え、シダレヤナギの方は、狛犬とは違って葉(歯)がしっかりとついている。シダレヤナギの幹にある瘤が、狛犬の身体の巻き毛に似た感じがして、お互い近くに居ると似てくるものか、とも思ってみる。

柳葉は 歯欠け大口 際立たせ

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 吽形の方は造りに欠けたところはなく、力の入った作品である。貌にかかる巻き毛の表現が見事で、現代のヘアスタイルに取り入れてもよさそうである。この狛犬の髪型をモデルにして、狛犬スタイルとかいったネーミングの女性のヘアスタイルが流行ったら、狛犬の人気も出てくるのではなかろうか、などと考えている。

現代に 通じる髪型 巻き毛なり

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 境内には馬魂碑と馬の石像が置かれている。これはこの地に郷里徳島の藍を持ち込んで生産を行った滝元五郎が、1882(明治15)年に興産社を興し、大農式農業経営のために馬の導入を行ったことに由来している。その後1926(大正15)年にはフランスからベルシュロンの種牝馬のアニー号が輸入されている。馬魂碑はこのアニー号や他の馬を祀るものである。石像の馬がアニー号なのかどうかはわからない。

狛犬と 並んで名馬 残りおり

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2010年12月02日

小野幌神社の壁掛け獅子

 国道12号がもみじ台通と交差する辺りの国道沿いに小高い場所があり、ここが小野幌神社の境内になる。境内にある由来を読むと、創祀の確かな記録はなく、小さな祠が建てられ、1905(明治38)年新しい社殿を建立して、誉田別尊を祀るようになった。地域の中心が国道付近になり、これを機に1934(昭和9)年現在地に社殿を新築して移転している。1949(昭和24)年には下野幌地区大沢神社と合併し、倉稲魂命を合祀している。現在の拝殿と社務所は1988(昭和63)年に新築されている。
 国道12号に沿う歩道から石段を登ると鳥居があり、鳥居をくぐって境内に入る。境内には「小野幌百年之碑」があるけれど、社殿を除けば、これといって目立つ神社の建造物はない。狛犬も見当たらない。明神造りの神社の入口のところに近寄って、社名の書かれた額を見上げると、社殿正面の妻壁のところに阿吽の獅子の面が掛けられている。

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 獅子と狛犬は同義の場合があり、この壁掛け獅子は壁掛け狛犬でもある。立体の狛犬を平面に近づけた作りにしている。これなら場所を取らずに、狭い境内ではイベント時のスペースが取れるのでよいかもしれない。壁掛けも絵にしてしまえばさらに狛犬の簡素化につながる。それでは物淋しいなら、ホログラムにして、立体的に見える2次元パネルという手もある。ホログラムの狛犬は日本広しといえどもないだろうから、第一番目に制作して社殿の壁に取り付けたら話題性があり、見物客がやって来ること請け合いである。

妻壁に 獅子面ありて 社殿なり

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獅子面が 狛犬役で 睨みおり

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 高い境内から国道を見下ろすと、ひっきりなしに自動車が行き来して、札幌と道央を結ぶ幹線道路であることがわかる。この辺りでは国道とJR函館本線が並行して走っており、神社の北側方向には小野津幌川を越してからJR森林公園駅がある。そこはもう札幌市と江別市の市境になっている。

小野幌神社の壁掛け獅子

 国道12号がもみじ台通と交差する辺りの国道沿いに小高い場所があり、ここが小野幌神社の境内になる。境内にある由来を読むと、創祀の確かな記録はなく、小さな祠が建てられ、1905(明治38)年新しい社殿を建立して、誉田別尊を祀るようになった。地域の中心が国道付近になり、これを機に1934(昭和9)年現在地に社殿を新築して移転している。1949(昭和24)年には下野幌地区大沢神社と合併し、倉稲魂命を合祀している。現在の拝殿と社務所は1988(昭和63)年に新築されている。
 国道12号に沿う歩道から石段を登ると鳥居があり、鳥居をくぐって境内に入る。境内には「小野幌百年之碑」があるけれど、社殿を除けば、これといって目立つ神社の建造物はない。狛犬も見当たらない。明神造りの神社の入口のところに近寄って、社名の書かれた額を見上げると、社殿正面の妻壁のところに阿吽の獅子の面が掛けられている。

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 獅子と狛犬は同義の場合があり、この壁掛け獅子は壁掛け狛犬でもある。立体の狛犬を平面に近づけた作りにしている。これなら場所を取らずに、狭い境内ではイベント時のスペースが取れるのでよいかもしれない。壁掛けも絵にしてしまえばさらに狛犬の簡素化につながる。それでは物淋しいなら、ホログラムにして、立体的に見える2次元パネルという手もある。ホログラムの狛犬は日本広しといえどもないだろうから、第一番目に制作して社殿の壁に取り付けたら話題性があり、見物客がやって来ること請け合いである。

妻壁に 獅子面ありて 社殿なり

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獅子面が 狛犬役で 睨みおり

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 高い境内から国道を見下ろすと、ひっきりなしに自動車が行き来して、札幌と道央を結ぶ幹線道路であることがわかる。この辺りでは国道とJR函館本線が並行して走っており、神社の北側方向には小野津幌川を越してからJR森林公園駅がある。そこはもう札幌市と江別市の市境になっている。

社歴のはっきりしない日照神社の手水(ちょうず)場の狛犬

 西野の地は琴似発寒川の扇状地であり、地区名としては琴似発寒川の北側が西野、南側が平和となる。琴似発寒川の支流の左股川に沿った地区が福井となる。西野地区は扇状地の奥から西野14条が始まり、扇状地を下るに従って条数が若くなってゆき、住宅地が広がっている。西野11条の住宅地の中に神社の境内がある。
 11月の終わり、札幌にかなりの雪が降った日にこの神社を訪れてみる。ある程度の規模の神社になると、社歴の看板がでていたり、記念碑などから神社の由来がわかるのだが、この神社にはそれがない。後でインターネットで調べてみても、社歴らしいものが出てこない。ただ、対馬市厳原町阿連(あれ)には太陽の神「オヒデリ様」を祀る御日照神社があり、高田市にも日照神社があるので、その辺りにつながっている神社なのかもしれない。

雪の日は 社名の日照 地に薄く

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 境内は社殿前の道路が少し広くなった広場で、広場の横に手水場があって、そこに飾り物のように狛犬が置かれてあった。こういう配置の狛犬は初めて見るものである。両方とも口を開けているので阿形の狛犬である。新しいこの手の狛犬は、造形の基本パターンがあって、それに変化を加えながら機械を使って彫っているようである。石工の特徴や技といったものが感じられない、似たような狛犬が並んでいる。

手水場に 阿形が並び 日照社

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狛犬は 手水作法の 教師なり

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 本殿の横に白い鳥居が見えるので、雪で埋まった石段を登ってみると、社の森の雰囲気である。小規模な社殿、末社、お堂が雪に埋もれて並んでいる。こちらの方にも説明の看板のようなものがなく、祭神が何で、どんな位置づけの神社なのかわからない。この小高い場所を囲んである住宅街が目に入ってくる。


2010年12月01日

花畔神社参道の狛犬通り-続き

 3番目の狛犬は構えの狛犬で、出雲型とも呼ばれる形式の姿勢を取っている。小型ながら作りはしっかりとしている。頭を低く構えているため、尻が高い配置になっていて、さらに尻尾が立っている。頭部より臀部と尻尾を見てくれ、といわぬばかりの姿勢である。吽形は上から映すと貌の上の頭部の毛が貌のように見え、貌が二つあるようで面白い。これらの一対の狛犬のみ奉納年が1904(明治37)年と刻まれている。
 社殿に一番近いところにある一対は、古典的な形式を踏襲している。頭から顎にかけての毛は渦巻き状で表現し、尻尾の毛は太い溝の彫りで造形している。体毛は風車模様を刻んで表し、この様式は一つの流派の様式のように思える。阿形の狛犬はその大きく開けた口で、犬よりは獅子の雰囲気である。傾きかけて来た初冬の陽が吽形犬を照らし、やがて来る雪の季節に心構えをするかのような狛犬の貌に見えてくる。

見どころは 下半身なり 立つ尻尾

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出雲犬 貌が二つで 構えおり

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大口は 犬より獅子の 演技なり

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低き陽が 尻尾に差して 初冬かな

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花畔神社参道の狛犬通り

 境内は、茨戸川と国道337号の中間で、南北に植栽された防風林の中にある。石狩市役所からさほど遠くないところにあり、周囲には花川ニュータウンが広がっている。創祀は(明治5)年に建立された花畔村金刀比羅神社で、(明治27)年に花畔神社と改称している。(昭和46)年石狩湾新港開発が進められる過程で、現在地に移転し、相馬妙見太田神社、花畔瑞穂神社を合併し祭神を合祀している。
 神社の合併の歴史から祭神は金刀比羅之大神(ことひらのおおかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、大国魂神(おおくにたまのかみ)と並んでいる。境内には各神社から移されたのか、鳥居と狛犬が並び、参道は狛犬通りと表現できそうである。
 最初の鳥居をくぐると、大型の狛犬がこちらを向いている。この狛犬は顎鬚に特徴があり、鬚が大きく二つに割れている。鬚の手入れで、この形を保っているのかと、お洒落の感じがする。しかし、阿形犬の方は、顎鬚よりは咆哮する口に注意がゆき、お洒落というより威嚇の感じで迫ってくる。

手入れして 顎鬚分けたり お洒落犬

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咆哮の 聞こえそうなり 花畔

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 鳥居から数えて、2番目に控えている狛犬は小ぶりなものである。そのうち阿形犬は悪魔貌である。一般に、口を開けて威嚇の狛犬でも、力み過ぎでおかしさがあったり、どこかしら間の抜けたところがあるのだが、この狛犬にはそれがない。釣り目に瞳がなくて、それが禍々しさの表情を作っているようである。これに対して吽形は、狛犬にしては風采の上がらぬもので、狛犬作品としては稚拙の部類に入るだろう。

オカルトの 映画に似合う 悪魔貌

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風采の 上がらぬ犬が 対でおり

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2010年11月30日

表情の見えない札幌水天宮の狛犬

 創祀は1884(明治17)年に久留米水天宮から分霊を受けたことによっており、1888(明治21)年に現在地に社殿を建てており、1952(昭和27)年宗教法人となっている。祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、安徳天皇、高倉平中宮、平二位時で、高倉平中宮は平徳子(建礼門院)、平二位時は平時子(二位の尼)である。この他に大國魂命、大己貴命、少彦名命が合祀されている。
 神社の説明板を読むと、御神徳として、安産、子供の守護、商売繁盛、水難火難除災招福、交通安全と祈念のカテゴリーが並ぶ。札幌の繁華街すすきのを考えると、水商売繁盛の祈念が多そうである。
 狛犬は一対あり、古そうであるけれど、作製年代は刻まれていない。阿吽の両狛犬は左右対称の同じポーズで、玉を抱えている。狛犬の尻尾は立っているデザインが多いなか、尻尾は身体に被さった感じで、その分下半身が大きくみえる。狛犬は貌を強調することもあって、頭でっかちなものが多いところ、水天宮の狛犬は頭部は比較的小さく見える。
 狛犬はかなり高い基礎と献台の上に置かれていて、見上げる角度で写真を撮ることになり、貌の表情を撮るのが難しい。阿形の狛犬は天に向かって吠えているようにも思える。狛犬をあまり高いところに設置するのは、狛犬を見たり写真を撮ったりすることには不都合である。

貌つきは 高き所で 不明なり

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狛犬は 天に吠えたて 水天宮

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阿形の狛犬が二匹居る西岡八幡宮

 創祀は1890(明治23)年に溯り、兵庫県からの開拓者が郷土の八幡神社からの分霊を祀り、1906(明治39)年に最初の社殿が建てられている。祭神は応神天皇、神功皇后(じんぐうこうごう)、比売大神(ひめおおかみ)の三神である。
 整備された境内には各種の石碑があり、社殿前に狛犬が控えている。狛犬の献台には昭和2(1927)年の年号が記されていて、古い部類の狛犬である。社殿に向かって右側が阿形の狛犬で、口を開けている。すると左側が吽形の狛犬ということになるのだろうが、この狛犬は口を半開きにして丈夫そうな歯を剥き出した造形で、吽形と言い難く、中途半端な阿形に見える。歯の彫りにこだわった石工の技の顕示かもしれない。阿形の狛犬が二匹で護る神社とも言えそうである。

見上げれば 歯並び丈夫 阿形犬

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歯を見せて 阿形が揃う 八幡宮

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2010年11月29日

飼犬の雰囲気の瑞穂神社の狛犬

 創祀は1878(明治11)年に遡り、この地の開拓者により、札幌三吉神社の分霊を祀る祠が建てられた。この祠から、1894(明治27)年雁来神社が創建され、1959(昭和34)年に瑞穂神社に改名して宗教法人となっている。現在地に移ったのは1970(昭和45)年である。大己貴神(おおなむちのかみ)と少彦名神(すくなひこなのかみ)が祭神として祀られている。
 南郷通が豊平川を跨ぐところに水穂大橋がある。こちらの水穂は川の両側の白石区菊水の「水」と東区の苗穂の「穂」を組み合わせている。これに対して、社名の瑞穂は稲の育つ瑞々しい情景を表す言葉で、この地の水田の豊穣を願っての命名だろう。
 広くはない境内に狛犬が一対置かれている。昭和58(1983)年の奉納年の刻まれた狛犬は飼犬の雰囲気の表情をしている。貌の部分の毛の表現も、派手なものではなく、狛犬にしては抑えられたものである。丸い黒目の瞳が描かれているのも、狛犬を獅子より犬に近付けている。漫画かアニメに出てくる犬に似ていると思うにだが、正確な記憶ではない。
 頭と身体の比率は三頭身ぐらいで、成犬の一歩手前の犬の体形の感じもするけれど、神社に置かれる狛犬なら、成犬であろう。白っぽい石で造形され、目がパッチリとしていれば、狛犬とは無関係な童謡「花嫁人形」の歌詞の一節「目はパッチリと色白で」を口ずさみそうになる。

睨んでも 三頭身で ご愛嬌

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口ずさむ 目はパッチリと 色白で

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対照的な歯の豊滝神社の狛犬

 豊滝地区は東西に延びる国道の南北にあり、注意していないと国道から豊滝地区への入口を見過ごしてしまう。豊滝神社は豊滝小学校の近くで、国道の北側にある。旧称滝の澤神社で、創祀は1908(明治41)年で、簾舞にある花岡神社を分社している。国道230号の切り替え工事のため、1996(平成8)年に盤の沢橋側から現在地に神社を移し、豊滝神社と改称している。祭神は天照皇大神、大山祇命である。境内に山の神碑があり、山の神に天照大神を加えて祭神ともしている。
 狛犬は神社の移転の平成8(1996)年に奉納されているので、新しいものである。この一対の阿吽の狛犬は、よく見ると連想が色々出てくる。吽形狛犬は口を閉じるというより、その見事な歯を見せびらかしているようである。背景の八剣山が鋭い牙を天に向かって突き出しているのに見習って、並んだ歯を見せている連想も湧いてくる。
 これに対して、阿形狛犬は上下4本の牙はあるものの、歯無しである。石工が歯を彫るのを忘れたわけでもあるまい。手抜きかな、いや年寄りの狛犬で歯が抜けてしまったのを制作したつもりか、それなら入歯を作ってやらねば、等々と突っ込みをいれたくなる阿形犬である。

歯並びは 尾根の連想 八剣山

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歯の彫りを 石工(いしく)手抜きで 阿形犬

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2010年11月28日

探し当てた界川神社

 大都会には道路地図にも載っていない小さな神社がひっそりとある。これを見つけるのが事である。界川神社もそのような神社の一つである。ネットの情報から、双子山1丁目と見当をつけて探してみる。住宅街のはずれにある神社をみつける。予想したように狛犬は居なかった。手水所なのか、石製の水桶らしきものに雨水がたまり、イチョウの落ち葉が沈んでいる。イチョウの葉ごと氷になって、その上に雪が覆うのも間もなくだろう。

探し当て 小祠の社名 界川

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イチョウ葉は 凍る雨水(うすい)と 手水桶

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笑い狛犬の居る茨戸天満宮

 天満宮なので祭神は菅原道真である。北海道開拓期に、同じ郷里の開拓者が入植した地域では、創祀に際して郷里に神社からの分霊を受けたり、郷里の祖先を祭神にしたりする例が一般的である。これに対して、郷里の違う開拓者の入植地での創祀の場合、異なる祭神がかち合うので、妥協策として学問の神様の道真公を祭神に選ぶ場合がある。茨戸天満宮はその典型例のようである。
 境内は境界がはっきりしない広場で、鳥居、燈籠、狛犬で境内の体裁を整えている。特に見応えのあるものが置かれているのでもなく、ありふれた境内である。しかし、狛犬の方はユニークな貌つきである。阿形の狛犬は大きな口を開け、つぶれたような鼻が貌の中央に収まっていて、まるで笑っているかのようである。
 吽形も心持含み笑いをしているようである。後で丸い瞳を描き入れたようで、この目の玉が、吽形の狛犬の雰囲気を大きく変えてしまっている。前髪、あごひげ、たてがみを円や円弧で表現していて、お洒落な感じもする。献台に狛犬寄贈年が彫りこまれていて、1931(昭和6)年と読み取れる。

大口で 笑い貌(かお)なり 阿形犬

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愛嬌は 描き添え片目 吽形犬

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2010年11月27日

稲荷神社が発祥の豊畑神社

 地図には神社と記されているけれど、出向いてみると朱塗りの鳥居に、狛犬ならぬ稲荷像があったので、これは稲荷神社が発祥であるらしい。大正時代の入植者が稲荷大神を祀り、1927(昭和2)年、現在地に社殿を造営し、伏見稲荷の分霊を祀っているので、稲荷社に由来している。
 境内は社名の書かれた石柱に鳥居と社殿の神社としての最低限のものがあるだけで、木の葉の落ちたこの時期、殺風景といえばいえる。鳥居と社殿の赤い屋根が、周囲の乏しい色を補っている。稲荷社には赤色はつきもので、この屋根の赤色は、神社の出自が稲荷社である歴史を補強しているように見えてくる。
 稲荷像には狛犬のような阿吽の形がはっきりしていないようである。大抵両方か一方の狐は何かを咥えている。咥えているものが願いを込めている対象物で、豊作を祈願する稲荷神社であれば、狐は稲穂や農業に関する道具などである。玉を咥えている狐が多いのは、玉で財宝をあらわして、富を祈念したためかな、と推測してみるけれど確かなことは調べていない。

稲荷社の 歴史補強か 赤き屋根

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玉咥え 小銭置かれて 富稲荷

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農地に囲まれた生振神社の狛犬

 生振神社は1873(明治6)年宮城県からの入植者により小祠が建てられたのが始まりで、1903(明治36)年に神社として認められ、現在地には1908(明治41)年に移っている。祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大物主命(おおものぬしのみこと)である。
 狛犬は2対あって、鳥居近くのものは古い狛犬の典型的なものである。体毛の表現は風車模様で、阿形犬は玉を口の内に含んでいる。玉を咥える作りというより、開いた口の中に石の玉を入れたか彫り出したようである。鼻の造作が大きい分、彫りの深い貌になって見える。制作年や石工の名前は無い。
 社殿近くの狛犬は、貌の造形が古典的なものをかなりデフォルメした感じである。漫画的な狛犬の貌と表現してもよいくらいである。黒目が生きていて、凄味の表現に成功しているけれど、何かしらユーモラスの感じがする。この一対の狛犬の方には石工の名前は無いものの、昭和10(1935)年9月の奉納の日付が見える。
 境内には石碑が並んでいる。そのうちの一つは「愛知県団体開拓百年記念事業の概要」のタイトルがあって、1894(明治27)年愛知県団体の入植とその後の経緯が記されている。愛知県団体とは抽象的団体名であるけれど、この地の開拓に前述の宮城県の入植者に愛知県の入植者も加わったのであろう。

口の内 舐める飴玉 玉の見え

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目の生きて 凄味はあれど 漫画貌

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2010年11月26日

親子の狛犬が並ぶ樽川神社

 鳥居を前に林を後ろにして、入り口のシャッターの下りた小屋のような社殿がある。神社紹介の説明板を読むと、1887(明治20)年に樽川村への入植者が小祠を建立したのが神社の始まりで、1906(明治39)年には神社と認められている。祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)と豊受大神(とようけのおおかみ)である。石狩市の企業団地造成は石狩湾新港の開発と連動しており、その開発過程でこの神社も1972(昭和47)年に現在地に移っている。
 社殿の前に2対の狛犬が置かれている。親の一対の狛犬の横に、一対の子供の狛犬がそれぞれ親に寄り添うように置かれていて、阿形と吽形が親子のペアになっている。親子の狛犬は向きが逆で、子供の狛犬は頭を180°回転させた格好になっている。この貌と尻を同じ方向にむけるデザインは意表を突く珍しいもので、この狛犬を作った石工や関係者のユーモアが感じられる。

親犬が 口を開けば 子も阿形

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初冬の陽 貌尻(かおしり)陰で 子犬なり

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開かずの寺門を護る大覚寺の狛犬

 曹洞宗の大覚寺の開基は(明治37)年で、現在地に移ったのが(明治40)年である。禅宗の寺の典型的な造りで、寺門、山門、本堂が直線上に配置されている。この直線は東西に沿っていて、寺門は西を向いている。禅宗の寺では寺門は開かずの門で、ここからの人の出入りはない。この門が開くのは、新住職が初めて寺に入る時と、住職が亡くなった時に遺体が寺から出る時のみ、と聞いたことがある。
 この開かずの寺門を護るかのように、一対の狛犬が置かれている。神社に狛犬が居ても不思議ではないけれど、寺の狛犬は例が少なく、それも寺門のところに堂々と居座っているのは珍しい。神仏混淆が影響して寺に狛犬なのかな、と思ってみるけれど、この状況になった正確なところはわからない。
 狛犬は軟石造りで、彫りは簡素でその分力強さが表現されている。立っている尻尾がソフトクリームの形を連想させる。石工の名前や制作年に関した刻字は台座の部分に見当たらない。神社に奉納された狛犬であれば、献台の部分に奉納者の名前などが彫られてあるのが普通であれけれど、この一対の狛犬にはそれがない。氏子が神社に奉納した狛犬ではなく、最初から寺に納めるために制作されたためかもしれない。

開かず門 狛犬護りて 大覚寺

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連想は ソフトクリーム 尻尾なり

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2010年11月25日

金属製の狛犬が護る三吉(みよし)神社

 神社の住所が中央区南1条西8丁目で、札幌市のダウンタウンの中心が、一般的に南1条西4丁目と考えられているので、都心部に一番近い神社といえそうである。神社の前に由来略記があるので読んでみると、1878(明治11)年、蝦夷の平定を行った坂上田村麿が創建した秋田太平山三吉神社からの分霊を祀ったのが創祀である。現在地に神社を移したのは翌年の1879年である。現在の祭神は、大巳貴神(おおなむちのかみ)、小彦名神(すくなひこなのかみ)、藤原三吉神(ふじわらみよしのかみ)、金刀比羅宮(ことひらぐう)に天満宮である。
 南1条通に面して鳥居が建っていて、鳥居の前の両横に狛犬が控えている。この一対の狛犬は金属製で、金属製の狛犬は穂多木神社のものがあるけれど、狛犬としては珍しい。金属製ということもあってか、身体の造形が滑らかで、石製に見られる鑿(のみ)の跡の躍動感が薄くなっている。金属製にした意図についてはわからない。

獅子舞の 口あけ獅子が 神社前

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 境内に石柱があって、その表面に文字が彫りこまれている。この文字が何を意味するかわからない。社務所に出向いて聞いてみると、赤字のものは「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」と教えられた。確かにこの漢字を当てはめると、そのような文字に見えてくる。意味は天地には果てがない、といったところである。しかし、他の石柱の文字らしきものについては、対応してくれた人はわからないとの答えである。

境内に 天壌無窮 文字のあり

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2010年11月23日

獅子と牡丹の組み合わせの丘珠神社狛犬

 丘珠飛行場の近くの、苗穂丘珠通に面して境内がある。1882(明治15)年に作られた小祠が神社の始まりで、祭神は天照大神である。銅板引きの鳥居、狛犬、次に石造りの鳥居が並ぶ。阿形の狛犬の口元にむき出しの鋭い歯がリアルで、肉食恐竜のイメージである。献台の部分に花の絵が彫られている。狛犬を百獣の王獅子とすれば、対応する花は百花の王牡丹となる。獅子舞にも牡丹を探す獅子の演目があり、丘珠神社でも獅子舞が奉納される。

境内の 空横切りて 航空機

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恐竜の 歯並ぶ獅子に 牡丹かな

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金属製の狛犬の居る穂多木神社

 社名が謎かけのような神社がある。穂多木と聞いて、最初は何からきた名前か思いもよらなかったけれど、今は無き、北海道拓殖銀行の行名から、「ほ=穂」、「た=多」、「ぎ(き)=木」の字を組み合わせている。したがって、祀ってあるのは同行の物故者である。北海道神宮の末社として、同境内に会社の神社を建てることができたほど、同行の影響力は強かった。銀行ということもあってか、狛犬は金属製で、経済力の誇示を感じるものである。

穂多木とは 行名秘めて 謎かけ名

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銀行が 出自の狛犬 金属製

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2010年11月21日

玉を咥えた狛犬の居る苗穂神社

 苗穂の地名は、アイヌ語の「小さな沢」に由来する。神社の創建は1897(明治30)年で、札幌神社(現北海道神宮)から少彦名神の分霊を受けて祭神としている。境内は住宅街にあり、近くを環状通が走っている。鳥居が2基あり、その中間に狛犬が置かれている。典型的な狛犬姿には、玉を足で押える「玉取り」ポーズがある。これがまれに口で玉を咥えた形になったものがある。人間に遊んでもらって、投げたボールを咥えた格好に見えてくる。

苗穂の地 探し当てたり 千木(ちぎ)建屋

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投げられた ボール咥(くわ)えて 得意なり

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狛犬の少ない北海道神宮

 起源は1869(明治2)年の明治天皇の詔(みことのり)で、翌年札幌神社として創祀された。祭神は大国魂神、大那牟遅神、少彦名神の開拓三神である。北海道神宮の名前になったのは1964(昭和39)年で、明治天皇も合祀している。北海道随一の大社であるにもかかわらず、神宮の狛犬は一対のみである。杉林で囲まれた表参道から外れたところにあり、札幌硬石製の白っぽい狛犬である。参詣者が広い境内で、この狛犬を目にすることはまずない。

七五三 杉の林で 宮参り

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硬石犬 威厳の貌(かお)で 大社なり

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2010年11月20日

発寒神社の漫画の主人公のような白狛犬

 発寒神社は、JR発寒中央駅の横から北に延びる道路を挟んで、発寒小学校の向かいにあり、大きな鳥居が道路に面して建っている。この鳥居は本殿の正面に向いていないので、鳥居側は正面ではないのだろうけれど、道路の関係でこちらが境内の正面の雰囲気である。鳥居の横に狛犬が置かれている。制作年が平成17(2005)年の真新しいものである。白い花崗岩製で、手塚治虫の漫画「ジャングル大帝」の主人公の白ライオン・レオのようである。

神社横 鳥居が決めて 社の正面

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漫画抜け 主人公居て 白ライオン

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石工名が刻まれた発寒神社の狛犬

 幕命で北海道開拓を命じられた移住者が、1856(安政3)年稲荷社を建立したのがこの神社の始まりで、祭神は豊受大神である。境内は函館本線の発寒中央駅の北側にある。社殿の正面は南向きで、函館本線に向いていて鳥居がある。この参道を挟んで、大耳を伸ばした特徴的な狛犬が鎮座している。狛犬の制作者の名前も刻印され、「札幌豊平町石工山崎岩吉」と読める。制作年は昭和3(1928)年である。狛犬の肌の線画の風車模様が印象的である。

正面が 裏参道の 気配なり

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風車(かざぐるま) 体に躍り 巻き毛なり

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2010年11月19日

石匠作の狛犬が護る札幌護国神社

 中島公園内を流れる鴨々川の傍に境内が広がる。祭神は護国の神霊で、これまでの戦争の戦没者を祀ってある。1877(明治10)年の西南の役では、北海道から屯田兵が出兵しており、その戦病死者を祀ったのが神社の創祀で、以後日清、日露、太平洋戦争で斃れた兵士の霊が祭神となっている。社殿の前の門の両脇に置かれた狛犬は力強い造りで、阿形には「阿部獨海刻」が、吽形には「石匠中村」の文字が刻まれていて、石工達の名前なのだろう。

幾秋ぞ 斃れ護国の 神で居り

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護国では 石工も匠 刻字あり

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二名の石工の名前のある弥彦(伊夜日子)神社の狛犬

 新潟県からの入植者により、1912(明治45)年に新潟県の弥彦神社からの天之香具山命(あめのかぐやまのみこと)の分霊で創祀され、後に大宰府の天満宮からも菅原道真公の分霊を受け、祭神として祀るようになった。狛犬の盤台には大正13(1924)年の建立年と二名の石工、山崎鶴吉、武石新平の名前が刻まれている。この眼窩がくぼみ、耳を立てた貌の狛犬が札幌産狛犬の一つの流れを作っており、二人の石工はその源流に位置しているようである。

紅黄葉 朱塗りの鳥居 妍(けん)競い

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力作に 石工(いしく)の二人 名を刻み

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2010年11月18日

開拓期の空間が残る新琴似神社

 新琴似の地には1897(明治30)年屯田兵の第3中隊が入植し、これが同社の創祀につながっている。この第3中隊の中隊本部の建物は、境内に隣接して保存され、見学できる。中隊本部の周囲は、ほぼ開拓期の空間がそのまま残されていて、変貌する大都会札幌では珍しい。西5丁目樽川通に面して鳥居があり、鳥居から社殿まで長い参道が続く。社殿前の狛犬は、札幌で他にも目にするデザインのもので、耳と思われる部分を大きく強調している。

開拓期 有りし空間 今残り

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大耳(おおみみ)を 伸ばす相貌 同種あり

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菜洗神社の透かし彫りの名品

 菜洗神社は鳥居と社殿はあるものの、催事が行われている神社には見えない。「菜洗」は神社と共に千葉県からやって来ている。神社に隣接して、オンコの大木と巨石を集めた八紘学園の創始者栗林元二郎ゆかりの庭園がある。神社がここにあるのも、八紘学園との関係の線上にある。狭い境内に置かれた狛犬は、強調した巻き毛に透かし彫りの玉を配して見応えのあるものである。玉の内にさらに玉がある手の込んだもので、狛犬の名品である。

菜洗は 人に知られず 渡道名

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名品は 巻き毛に玉の 透かし彫り

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新川皇大神社の猫がモデルのような狛犬

 西区と北区の境を流れる新川は、琴似川と琴似発寒川が合流した流れである。その合流点近くで川を跨ぐ西陵橋があり、橋の近くに神社がある。住宅街の一画にある境内は、緑がなく、催事を行う施設のみといった感じである。狛犬は奉納年が平成7(1995)年と記されていて、新しいものである。デザインは現代風なのか、身体の各部分の毛が簡略化されていて、牙は飛び出していても、犬(獅子)よりは猫をモデルにしているように見えてくる。

緑なく 住宅街に 催事場

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牙あれど 猫がモデルか 現代犬

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2010年11月17日

祥龍寺に同居する狛犬と仁王

 寺の境内で狛犬を見ることはないけれど、例外的にお寺の狛犬がいる。手稲区にある曹洞宗の古刹の祥龍寺には、狛犬が境内にいる。どうして狛犬がここにいるのかは聞いていないのでわからない。軟石に彫られた狛犬は、稚拙ともいえるけれど、反面味がある。献台に奉納年として大正6(1917)年7月と記されていて、御歳90歳を超している。同寺には立派な山門があり、木彫りの仁王像が安置され、狛犬に比べるとプロの手によるものである。

禅寺で 面(おもて)に出るは 弱気貌

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山門の 仁王すごんで 怒り顔

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鎮守の森の面影の残る琴似神社

 開拓のための屯田兵村は、屯田兵の居住地と、パブリックな場所としての中隊本部(役場)、子弟の学校、神社が組み合わさっている。琴似神社の辺りは、そのパブリック空間が現在にもつながっていて、西区役所、琴似小学校がある。神社の周囲の鎮守の森の名残が境内にあり、木々が手入れされている。秋には紅黄葉が境内を飾っている。立派な社殿の近くに置かれた狛犬は、鳥居近くの一対と同じ系統の造りのようで、力強さが表現されている。

屯田の 偉業を伝え 大社なり

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狛犬が 見つめ続けて 紅黄葉

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屯田の歴史の記憶が残る琴似神社

 JR琴似駅から国道5号までの通りには「開拓の歴史のみち」の名前が付けられ、この道路に面して西区役所の向かいに琴似神社がある。この地に入った屯田兵は亘理(わたり)伊達家の藩士達で、1875(明治8)年、藩祖臥牛(がぎゅう)城主伊達籐五郎成実を祭った武早(たけはや)神社から始まっている。大きな神社で、鳥居の近くに一対の花崗岩製の狛犬が置かれていて、太い曲線を主体に構成した身体造形で、力強さの表現を試みている。

開拓の 歴史の道に 鳥居立ち

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太き線 力表現 体曲線

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2010年11月16日

本格派の狛犬が護る手稲神社

 手稲神社の社殿は東向きにあり、朱塗りの鳥居が東側の参道の入口にあるので、ここが神社の正面になるのだろう。参道の入口の所に社務所があり、ご神木の福松(福待つ)の名の黒松がある。参道を登って行くと、せのび(世のび)石の身長を計る石板や、新しい狛犬がある。社殿の両脇には本格派の狛犬が置かれている。神明造りの社殿は立派で、内部の両脇の柱は龍が巻き付いた派手な装飾で、天井全面に種々の花の絵が描かれている。

社殿脇 護る狛犬 本格派

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外に獅子 花と龍あり 社殿内

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首のない狛犬の居る手稲神社

 神社の境内はJR手稲駅と国道5号の中間にある。最初、札幌神社の遥拝所として創建され、1899(明治32)年手稲神社となっている。祭神は札幌神社、後の北海道神宮と同じ3神に、他の神を合祀している。鳥居が南側と東側にあり、南側の鳥居をくぐると、ずんぐりとした狛犬と顔を合わせる。狛犬は首が無く、貌が胴体に直接ついている。目はギョロ目で、大口を開け参詣者を脅かそうとしているのだろうが、その体型、風貌でおかしみがある。

遥拝所 この社の創祀 手稲の地

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胴体に 首なき貌の 面白さ

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2010年11月15日

軟石利用が目立つ南線(みなみせん)神社

 神社自体は小規模ながら、社名が軟石に大きく彫込まれていて、由緒ありそうな神社である。鳥居の傍に石碑があり、「町村農場発祥之地」の文字が見える。札幌農学校二期生の町村金弥がこの地に牧場を開き、やはり札幌農学校を卒業した長男の敬貴が牧場を発展させ、その後江別に移っている。狛犬は比較的小ぶりで、社殿の両脇に控えている。狛犬も軟石作りで、阿犬は玉を取り、吽犬は子供を足元であやしている、典型的な相貌のものである。

軟石の 社名つながる 酪農史

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小兵でも 風格ありて 軟石犬

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蜂須賀公が祭られる雨竜神社

雨竜町の町史は、1891(明治22)年に公爵三条実美、侯爵蜂須賀茂韶、侯爵菊亭修季らが道庁より雨竜原野1億5千万坪の貸与で始められた華族農場に端を発している。この開拓の経緯で、雨竜神社の祭神には蜂須賀家政が加えられている。国道横の鳥居から入ると、長く続く参道を通って、手入れの行き届いた社殿に達する。二対の狛犬のうち、黒ずんだ石の一対の方の阿形の狛犬は、牙と歯がしっかりと彫り込まれていて、力の入った作である。

祭神に 華族農場 史を残し

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歯も揃い 元気な貌の 雨竜犬

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「龍」の字が残る雨竜神社

 国道275号で雨竜町に入り、少し走ると道路脇に朱塗りの鮮やかな鳥居が見える。車を停めて石碑の社名を読むと雨龍神社である。地図では雨竜神社で、神社も町名も「竜」の字を当てている。この神社の参道は長く、鳥居の彼方にまた鳥居が見える。明治期の華族農場設立で、雨竜町には蜂須賀農場が創立された経緯があり、1898(明治29)年に設立された神社の境内は広いのかもしれない。狛犬は二対あって、二対とも力作の部類に入るだろう。

朱の鳥居 つられて認む 「龍」の文字

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シンプルな 造形生みて 力作なり

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2010年11月14日

屯田兵が制作した江部乙神社の狛犬

 江部乙神社は、JR江部乙駅の横を通過し、ほぼ東西に走る道道564号沿いにある。訪れた時、氏子達であろうか、境内清掃を行っている。この神社が名前を知られているのは、境内のユニークな狛犬によっている。神社の境内にあるから狛犬と確認されるけれど、他の場所では、動物をモチーフにして想像を逞しくして創作された彫刻と思われるだろう。狛犬に「佐々原一夫」の作者名があり、この地に入植した屯田兵で、子孫は石材店を営んでいる。

氏子らの 清掃歴史 引き継がれ

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制作は モダン感覚 屯田兵

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珍しい社名の烈々布(れつれっぷ)神社

 社名にある、烈々布の地名には諸説があるようだ。アイヌ語で「プ」は川を意味するので、「レツレッ・プ」で川に関するアイヌ語が語源だろう、という解説を読んだ。この地名は現在ほとんど無くなって、神社名か丘珠川に架かる烈々布橋ぐらいにしか見ることはない。神社は丘珠空港通に面して、隣が栄小学校である。神社の始まりは1889(明治22)年に遡る。狛犬は彫りの深い貌で、あご鬚も豊かで、人でいえば外国人といった感じがする。

珍しき 名に桜見て 烈々布

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彫深き 貌(かお)の連想 外国人

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稲荷像が鎮座する「豊川稲荷」札幌別院

 稲荷は神社に祭られているけれど、仏教にも関係する。東海地方豊川の地の曹洞宗円福山妙厳寺に祀られる守護神に従う神獣は白狐の稲荷である。同山開祖の寒厳禅師が宋から帰国する海上で、稲荷に乗った神に助けられたと伝えられている。札幌別院の石段を登った2階は社殿になっていて、内を覗くと稲荷像がある。阿吽の狛犬に似て、一方の狐は口を開け玉を咥え、片方は口を閉じている。社殿の1階部分は曹洞宗玉宝禅寺の祖院である。

社殿内 着飾る神獣 白狐

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玉咥(くわ)え 阿の声出すか 稲荷像

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2010年11月13日

ドングリ目の狛犬が控える新栄寺大師堂

 狛犬は神社の付属物かと思っていると、寺にも狛犬が置かれていたりする。成田山札幌別院新栄寺は北海道三十三観音霊場九番札所に指定されている大師堂があり、堂の前に狛犬が控えている。大師堂でお大師さんのブロンズの立像があり、狛犬はお大師さんを先導しているかのようである。狛犬は大きな目鼻と口で顔の造作が単純化されている。むき出した目で強面に作ろうとしたのに、ドングリ目になってしまい、厳めしさが消えたようである。

明王も 狛犬も居て 大師堂

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ドングリ目 大師と同行(どうぎょう) 新栄寺

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新品然とした三里塚神社と狛犬

 美しが丘地区を貫く国道36号に面して大きな鳥居があるけれど、境内と社殿は国道からかなり入ったところにある。鳥居が国道脇の市有地にあるため、厳密には公共の土地を宗教施設が使用していることになり、問題点が指摘された新聞記事を読んだことがある。1896(明治28)年に旧地名三里塚に創建されたものが、現在の場所に移されていて、社殿も狛犬も新品然としている。狛犬は開いた口や目鼻の朱塗りが鮮やかで、化粧直後の感じである。

旧地名 社名に残り 三里塚

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狛犬の 口内化粧 朱の目立ち

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2010年11月12日

新栄寺の愛染明王を守る狛犬

 ススキノのはずれにある成田山札幌別院新栄寺の境内に愛染明王の像が安置されていて、狛犬が明王像を守るように両脇に控えている。この石像の傍らに、札幌染洗工業組合による愛染明王の説明板がある。真言密教において、愛欲を司る仏身で、特に水商売に関わる人たちの信仰を集めるとのことである。歓楽街ススキノに置かれている理由も十分である。名前の響きから染物関係者の信仰も集めていることから、染洗工業組合の名前が出てくる。

愛欲を 司る仏身 憤怒顔

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身を伸ばし イチョウの大木(おおき)に 並びたり

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紅黄葉の見事な西野神社

 境内が西区平和の手稲右股通に面してあり、近くを琴似発寒川が流れている。氏子は平和、福井、西野の各地区にまたがっていて、大きな神社である。神社は1885(明治18)年の小祠が始まりで、豊玉姫命を主祭神として他に2神を祭ってある。境内は整備が行き届いていて、大木があり、紅葉が見事である。狛犬の方は年季物で、石肌の模様が消えたり、傷が入っていたりしている。吽型の狛犬にいたっては、鼻がそげ落ちている。参拝客の人影のない境内で、あちらこちらと撮ってみた。

人の無き 社殿を飾り 紅黄葉

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吽犬(うんけん)の 鼻のそげ落ち 年季物

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2010年11月11日

草地に囲まれた山口神社

 手稲山口の地名は、開拓期に山口県からの入植者があったことによっている。神社は道央新道に沿ってあり、道路に面した朱塗りの鳥居からかなり奥まったところに社殿がある。境内といっても草地が広がるだけで、大木とか、古い石碑のようなものはない。狛犬が置かれていて、境内の体裁をかろうじて保っているといった感じである。神社は1885(明治18)年の遥拝所に始まっていて、天照大神と豊受大神を祭ってある。狛犬は、社格が昇格した記念に1943(昭和18)年に奉納されている。

狛犬が 建屋社殿と 教えたり

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守備範囲 見通しの効く 平地なり

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2010年11月10日

五角柱のある江南神社

 北区屯田地区の東15丁目屯田通に面して、屯田開拓顕彰広場がある。腕を空に向かって挙げている屯田兵や馬の銅像がある。この広場に接して、江南神社の境内がある。この地に入植した屯田兵とその家族が氏子になった神社である。境内には珍しい5角柱があり、5祭神の名前が刻まれている。狛犬は造形が稚拙な感じの反面、親しみの持てる風貌である。吽像は鼻が一部欠けていて、痛みのせいか、口をへの字に閉じているように見える。

狛犬と 同じ素材か 五角柱

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鼻欠けて 痛さ堪(こら)えて への字口

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狛犬が一番前で見張る札幌村神社

 歴史の車の回りかたでは、現在の札幌市の中心部になっていたかもしれないかつての札幌村に1899(明治32)年に創立された神社である。村の名前を採って、札幌神社の社名を申請したところ、北海道神宮の前身の札幌神社と同名になることから許可されず、社名に「村」の一字を加えている。祭神は、明治天皇を除けば、北海道神宮のものと同じである。狛犬は鳥居の前に控えていて、境内の一番前で見張りをしている番犬のようにも見える。

狛犬は 神社番犬 道路脇

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口ひげに カールの見えて お洒落犬

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稲荷の代わりに狛犬の居る星野稲荷神社

 小樽市と札幌市の市境界の小樽市星野町にある神社で、国道5号から少し南に入ったところの小高いところに境内がある。神社の始まりは1897(明治30)年で、祭神は豊受稲荷大神であるので稲荷神社である。稲荷神社でも稲荷(狐)像はなく、狛犬が置かれている。境内面積は1400坪と広く、鳥居は立派なのだが、神社は小屋のような鞘堂の中にある。狛犬の方は1938(昭和13)年に奉納されていて年季物のようで、石の表面の粗さが目立つ。参道や境内は落葉で埋め尽くされていた。

鞘堂が 銅張り鳥居 彼方見え

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年を経て 稲荷狛犬 肌の荒れ

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2010年11月09日

見晴らし抜群の星置神社

 国道5号から星置通が分かれる交差点の南側の小高いところに、星置神社の境内がある。かなり急な石段を登って鳥居のある場所に出る。ここから真っすぐ北に延びる星置通と星置の市街地を見下ろすことができ、見晴らしは抜群である。星置の地は、最初広島県佐伯郡、後に山口県、富山県、青森県からの入植者により開拓が進められ、神社の始まりは1887(明治20)年である。本殿は小さいけれど、両脇に控える狛犬は大きい。吽型の雌狛犬の子供の狛犬も母親と同じく口を閉じている。

星置の 街が広がり 鳥居下

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親子とも 口を閉じたり 吽型犬

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2010年11月08日

新旧の狛犬が並ぶ上手稲神社

 神社は西野屯田通に面して、小高いところにあり、背後に宮丘公園が広がっている。1876(明治9)年に創建され、祭神は最初須佐之男命、後に天照大神を合祀している。神明造の社殿の両脇に古い狛犬が鎮座している。社殿の前庭には、西区の大手製菓会社寄贈の新しい狛犬が配置されている。新旧の狛犬を比べると、阿吽の像で雌雄が逆になっている。古いものは阿型が子犬をあやしている雌であるのに対して、新しいものは吽型の足元に子犬が居る。対の狛犬の足元には玉がある。

新旧の 狛犬並び 上手稲

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雌阿犬(めすあけん) 子犬をあやし 威嚇顔

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2010年11月07日

謎の社殿の平岸天満宮

 神社は天神山緑地に接していて、平岸通に面して参道がある。参道の坂の入口のところに平岸天満宮と三吉神社の碑が左右にあり、祭神がそれぞれ三吉霊神と菅原道真である。天満宮の方が先に創建されていて、1903(明治36)年に始まっている。本殿から飛び出でた入口部分は、前につんのめったような傾斜の屋根になっていて、どうしてこの角度なのか謎である。阿型の狛犬の方は、これ以上は開かないだろうと思われる大口で、口に顔の他の造作がついている感じの造りである。

社殿口 屋根の傾き 不思議なり

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大口に 目鼻がついて 道真犬

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2010年11月06日

社殿の新しい相馬神社

 相馬神社は天神山緑地の一番高いところにある。天神山と山の呼び名があるけれど、標高85mの小高い丘である。神社は岩手県水沢伊達家からの入植者によって、札幌神宮の遥拝所として創建されている。社殿は2007年に、創建100周年記念事業として改修されて新しくなっている。新しい社殿を年季の入った狛犬が見守っている。阿型の狛犬は、歯が抜けているわけではないけれど、歯の無い口を開けているようで、カールしたような鬣(たてがみ)と相まって厳めしさからほど遠い。

新しき 社殿の色は 秋の色

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年を経て 厳めしさ消え 相馬犬

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2010年11月02日

晩秋の上野幌神社

 雪印種苗園芸センターからJR上野幌駅に向かうため、国道274号と並行の道を歩いていると、小高いところに鳥居が見える。上野幌神社である。石段を登り境内に入ってみると、初雪の上に晩秋の木々の落ち葉が一面にある。境内の碑文を読むと、上野幌の地に開拓民が入ったのは1885(明治18)年で、この地の開拓の歴史につながる神社である。大きな玉を抱いていて、頭でっかちなせいか、境内の狛犬は人懐こそうな座敷犬のように見えてくる。

石段を 登り初雪 落ち葉なり

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大玉に 大きな頭 座敷犬

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2010年02月14日

空知神社の狛犬

 空知は雪の多い地方である。美唄市は南空知に位置し、やはり雪が多い。美唄市の市役所近くに空知神社があり、訪れた時、周囲は雪に埋もれていた。この神社の創祀は1891(明治24)年に遡る。1901(明治34)年には、美唄神社から空知神社に改称している。古そうな狛犬が控えているのだが、半分以上雪で埋まっていて、貌形がはっきりしない。かろうじて口の辺りが見え、狛犬である。狛犬の方は豪雪に沈んだように見え、朱塗りの鳥居の方は鮮やかで、雪の上に浮かんで見える。

雪茸(きのこ) これは狛犬 口の見え

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豪雪に 沈む狛犬 浮く鳥居

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2010年01月30日

札幌諏訪神社の狛犬

 この神社は平地にあるのに、本殿の前には勾配にきつい石段がある。これは、神社の前を流れている創成川の氾濫に対処して、高床式にしたためといわれている。神社の起源は、1878(明治11)年、この地に信濃出身の上島正他30名が入植し、1882(明治15)に本社の諏訪大社から分霊を勧請して、創建している。年季の入った狛犬が耳を伏せて控えていて、千木が狛犬に代わって耳を立てているかのようである。狛犬の鬣(たてがみ)に雪が乗り、鬣が二重になっていた。

狛犬に 代わりて千木が 耳を立て

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鬣(たてがみ)は 石と雪とで 二重なり

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2009年05月19日

小樽・住吉神社の狛犬

 人が集まるところを場所と呼称していた時代があった。小樽ではオタルナイ、タカシマ場所があり、両場所の総鎮守の役目を負った神社としてこの住吉神社が創建された歴史がある。JR南小樽駅から山の方へ伸びる道路を進むと、この神社の境内に行き当たる。広い境内の石段を登っていくと格式の高そうな本殿が現れ、両脇に狛犬が控えている。丁度八重桜が開花している季節で、桜花を見た狛犬が笑っているかのようである。参拝者が一人やって来て、本殿の前に立ち尽くしていた。

狛犬が 桜を愛でる 総鎮守

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狛犬も 笑がごとく 八重桜

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2009年01月17日

篠路神社の狛犬

 篠路神社は学園都市線の篠路駅のすぐ傍にある。1857年(安政4年)箱館奉行石狩調役荒井金助により造営されたとあるから、由緒ある神社である。境内には「馬魂の碑」と「力士小松山の碑」が並んであり、「平和顕彰碑」も目についた。この神社の前の道がウォーキングのルートに設定されていて歩いたので、その時寄り道をする。前日にかなり雪が降ったので、軟石の年季の入った狛犬に雪が積もっている。阿吽の両狛犬は何か愛嬌のある顔で、それに合わせての爪句となる。

この齢で 歯も無くなりて 阿(あ)ははの歯

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齢重ね 吽(うん)たてがみも 白くなり

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2008年12月24日

菜洗神社の狛犬

 菜洗神社は小さな社であるけれど、狛犬は小社に似合わぬ立派さである。本殿の祠の方は、元々江戸時代に菜洗(現在の千葉県市川市)と言われた場所にあったものが八紘学園に引き取られて、学園所有の庭園に隣接して境内がある。狛犬は札幌軟石製で、手の込んだ造りである。狛犬の足元にある玉は透かし彫りで、玉となる石の外側からノミを入れて掘り込んでいる。狛犬の毛は見事な巻き毛になっていて、その貌の厳しさに反して、お洒落である。降り出した雪が狛犬を覆っていた。

小社前 大社の格の この造り

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厳貌(いかつかお) 毛はカールして お洒落なり

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